今日も、空が茜色にそまってゆく。  
 昼間に住まう人々がもたらした、喧騒をも吸い込んで、やわらかな涼しさが、ビルディング  
という名の墓標たちをあたためる。  
 その中の一角に、レトロポリスと称される区画があった。  
 現代の、激流たる物者の進化に疲れた人の心を癒すため、メガロポリスの発展しきったサイ  
バーな街の中の一部に、大昔のロンドンを彷彿とさせる、古めかしいガス灯のともる石畳の路  
などを敷いて、夕暮れともなれば、一晩の「楽」を謳歌しにくる人々で賑わうところだった。  
 そんな中を、彼女は行く。  
 名は初音ミク。  
 
 機械の歌姫となるべく造られたアンドロイドであり(少女の姿を模しているので、正しくは  
ガイノイドであるが、便宜上アンドロイドと記す)淺葱色のツインテールを、美髭公よろしく  
地面にも届こうかというほどに長く揺らせて、あちこちが錆びたラビットスクーターをバタバ  
タと走らせる。  
 ちなみに、このラビットスクーターというのは、戦後まもない頃の日本で、それまで一式戦  
「隼」など戦闘機をはじめとする航空機をつくっていた、中島飛行機の改名した富士産業(の  
ちの富士重工である)が製造したスクーターのご先祖様だ。  
 
 当時としては可愛らしかったのだが、今の目で見ると、大柄で、鉄も多用されたボディが、  
たとえば、このあいだ引退した丸目の0系新幹線のような、愛らしいながらもどことない無骨  
さを覚えさせるのだった。  
 しかし、夕暮れの陽にてらされる、このレトロポリスにはよく映えた。  
 それでもって向かう先は、一軒のカフェである。  
 
 それは、なぜか夕暮れから店が開き、暁をまたずに閉店してしまうことで、この界隈では有  
名だが、儲けはからっきし、という変なカフェだった。  
 別に風俗的な営業をしているわけでもないし、むかしのことばでいえば、純喫茶である。  
 しかも拍車をかけているのは、マスターがカイトという、ミクと同じアンドロイドの歌手で  
あることだった。  
 姿は二〇代中頃の男性をモチーフにしているが、見た目通りの年齢であるミクよりも、だい  
ぶ旧く、じっさいの年齢はもう五〇も近くになるらしかった。  
 その生きた半世紀のなか、どこかで彼は歌うことを止めてしまい、道楽のような飲食店経営  
を、このレトロポリスで始めたらしかった。  
 ミクは、そこの常連だ。  
 
 マスターのいれてくれるコーヒーはうまい。  
 ただ、こだわりが激しく、モカの専門で、そのなかでも高価とされる豆、モカ・マタリNo.9  
を指定した農場から輸入する以外、一切つかわなかったため、一杯を飲むにも目が飛び出るほ  
ど金が要った。  
 しかも、普段はストレートコーヒーしか淹れてくれない。  
 そのかわり、ホンモノのモカ・マタリが持つ、豊かな酸っぱさと、ヘタな酒やドラッグなど  
置き去りにするほど中毒性の高い香りに、一度あじわったら忘れられないコクを楽しめたが、  
よほどのモカ好きでなければ、誰も相手にしてはくれまい。  
 
 しかも、それほどの手合いであれば、自分で輸入して淹れた方がおそらく安くあがったから、  
余計に商売はうまくいかなかった。  
 いや、もう商売というより、単なる自己満足であろう。  
 彼が唄を歌わなくなったことの背景には、そんな性格がきっと存在していたに違いない。  
 それでもミクは常連だった。  
 あまり金は無いが、彼女はここのコーヒーが大好きだったし、なにより……  
 
「マスター、こんばんワ」  
「……ああいらっしゃい」  
 
 店先にスクーターを止めて、からん、と押し開いた扉の向こう、カウンターに待機するマスターは、  
 
「いつもので、いいかな」  
「はい」  
 
 といって、ミク一番の好物である、カフェモカ(エスプレッソにココアを足して、上にホイ  
ップクリームなどをのせた飲み物)を特別に出してくれるのだ。  
 ストレートしか出さない、というこだわりから考えてみると、大サービスである。  
 もちろん、そこまでいくには、嫌というほどミクが店に顔をだした経緯もあったのだが、そ  
の特別扱いは彼女にとって、質実ともに甘美なものだった。  
 それがゆえ、通うのをやめられない。  
 カウンターの高椅子にすわって、香るコーヒーを楽しみに、足をぶらぶらさせていると、やがて、  
 
「どうぞ」  
 
 と、特別の一杯が差し出される。  
 
「いただきまーす」  
 
 それを満面の笑顔で受け取り、小ぶりな唇の中へひとくち流すと、  
 
「は、ふ、ぅ……」  
 
 機械の身体も溶けてしまいそうな濃いめの味わいが、いっぱいに広がる。  
 これが、至福の時間だった。  
 ミクは目をつむって、ゆるゆるとカフェモカを胃に収めて、やがて、コトリと置かれたカッ  
プと共に、酔っぱらいのごとくカウンターに突っ伏す。  
 
「ごちそうさま」  
「どういたしまして」  
「……ねぇ、ますたー」  
「うん?」  
「他にお客さん、いないね」  
「ふ、ふ。まあな」  
「いつものコト?」  
「そう。いつものことさ。よく知っているだろ」  
「いくらなんでも、商売へたすぎだよ」  
「なにを。たまには通が来たりもするんだぞ」  
「二ヶ月に一度ぐらいね」  
「十分だ」  
「もう」  
 
 もはや貸し切り状態の店内で、ミクはカウンターに突っ伏し、カップを手の内で弄びながら、  
静かな声色でマスターとの会話を交していく。  
 どうせ他に客はこないので、いろいろなことを遠慮なしに言い合えるのも、また彼女にとって  
は楽しみであった。  
 だが……ふと気がつけば、茜色の空もとっぷりと闇に染まって、外の風景はいよいよ逢魔が  
時となっていく。  
 これで、もうすぐ閉店となってしまう。  
 そんなだから誰も客がこないのだが、マスターはいっこうに気にしない様子だった。  
 
「さて、ミクちゃん。もう閉店の時間だ、帰って明日に備えな」  
「うーん……」  
 
 こういう時、ミクはだいたいごねる。  
 できればこの時間に長々と浸っていたいのだが、マスターはそれを許してくれず、ごねない  
とさっさと追い出されてしまうからだ。  
 
「えーっと、さ。私のラビット、ガス欠なんだ」  
「じゃあスタンドから取り寄せよう」  
「プラグもかぶって動かないの」  
「外して磨けばいいじゃないか」  
「工具がないの」  
「貸してあげるよ」  
「手に馴染まない工具は使いたくないよ」  
「……粘るな」  
「粘るもん」  
 
 などと、席から張り付いて離れない姿に、マスターはため息をひとつ漏らすと、黙ってカウ  
ンターから出てミクに掌を差し出す。  
 これが「OK」の合図だ。  
 ミクはカウンターに突っ伏したまま、にまにまと笑うと、ポケットからラビットのキーを取  
り出し、差し出された掌へとのせる。  
 ゴネ得である。  
 そんなミクを背に、外に出たマスターはラビットのエンジンをかけて、店の傍らに併設され  
ているバイクぐらいしか入らない、小さなガレージに収めると、シャッターを閉めて、さらに  
入り口のかけふだを裏返し、漢字の「閉店」を店に張り付けてから、店内へ戻った。  
 と、待ち受けていたミクがカップを片手に「おかわり」と甘えてくる。  
 マスターはそれをグイと突き放して、  
 
「あとはストレートだよ」  
 
 と、カップだけ受け取って、カウンターに戻っていくのだった。  
 
「はい」  
 
 ミクもその背を追って、再び席につくと、また足をぶらぶらさせはじめる。甘ったるいカフ  
ェモカを楽しんだあとは、ストレートのパンチの効いた苦さを楽しむ。  
 そして、それを喫したあとは、夜景の木漏れ光を眺めながら、一晩をゆっくりと過ごすのだ。  
 
(これが、私以外の、誰も味わえない一杯……)  
 
 レトロポリスの夜はふけていく。   
 
 
了  
 

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