めーちゃんがドアを開けたのはもうすぐ日付が変わる頃だった。
必ずノックをするから聞こえなかったんだな。
閉園まであそこにいればそれなりに遅くなる。シャワーを浴びていたなら、このくらいの時間が妥当だ。
「どうしたの?こっちに泊まるの?」
パジャマに枕を抱えていたから。髪がまだ湿っぽい。
新しいリリックを読みながら、曲を聴いている最中だったけど、今じゃなくても何とでもなるからリバースを止める。
「明日仕事なのよ」
「うん」
午後からね。
俺とめーちゃんはほとんど必要に迫られて全員のスケジュールを把握している。
「だから、ちょっと付き合って」
「うん」
めーちゃんはの顔に表れていたのは一言で言えば動揺だった。
手で指示されるままにベッドに寄りかかる。
床に座り込むの癖だからさ。せっかく机もあるのにとよくミクに言われるけど。
「初めに言っておくわ。KAITOには何の問題もないから。完全な八つ当たりだから」
「うん」
枕で叩かれるとは思わなかった。羽根枕というあたりに相当気を使ってるんだろうな、ぜんぜん痛くないし。
攻撃が止む。
顔を庇っていた腕をのけると、めーちゃんは枕を抱き締めている。
俯いていて顔が解らないから枕ごと抱き締める。
「めーちゃん……MEIKO、何があったの?」
「何も」
まだ動揺が伝わってくるから、落ち着くように背中を一定のリズムで叩いてやる。
聞く権利はあると思うけど、MEIKOが話したくないなら無理には聞き出そうとは思わない。口堅いんだ、この人。頑固だし。
「シー、面白かった?」
「割りとね」
それ以上は突っ込まないことにする。
MEIKOとは姉弟ということになってるけど、それはミクが来てからで、それまではただの同僚だった。発売はMEIKOの方が早いけど開発は殆ど一緒だったし。
一緒に暮らしていたし、それに付随する家事は完全に分担だったけど、家族という概念はなかった。MEIKO、KAITOと呼び合っていたし。
ミクが来て、お兄ちゃんと呼ばれた時は驚いたよ。そんな風に思ったこと無かったから。でも、なんとなく、二人ともその遊びに乗ってみようかと思った。
疑似家族みたいなのもおもしろそうかなって。
MEIKOは立ち位置が変わるわけじゃないから、そんなに苦労はしないらしかったけど、俺はMEIKOのことをなかなか姉さんとかいえなくて、結局、めーちゃんになった。
ミクは素直で可愛くてちょっと停滞気味だった俺達に新しい風と光をくれた。
兄弟設定ってものすごく楽だし、楽しいし、上手く機能してくれると思う。
でも反面、一番上のめーちゃんに実のところ負担が行くんだよね。
優しくて繊細な気遣いもできるめーちゃんは幼い設定の後輩達のためにお母さん的な立ち位置を引き受けてしまった。
ひとりぐらい、ガミガミいう人間が必要でしょ。生活って楽しいことばかりじゃないから。
俺がもうちょっとしっかりしていて、厳しい父親的な立ち位置を確保できればよかったんだけど。ヘタレでごめんね。
だから、時々、めーちゃんはMEIKOになる。今回みたいな方法は初めてだけど、お酒に付き合うくらいはぜんぜんOK。もっと甘えてもいいのにって思うけど、他の後輩がいるとやっぱりめーちゃんしてるからさ。
あんまり仲良くしてると、ミクがヤキモチ妬くけど、こればっかりはね、かわいいミクの言葉でも聞いてあげられない。
ほかのことは何でも叶えてあげたいけど、MEIKOにだってたまにはグチを聞く相手が必要だと思うから。
「一緒に寝る?」
「そうね」
枕持参だしねって言ったらちょっと笑ってくれた。
まだちょっと動揺してる感じだし。
ミクたちと違って俺達旧世代は情緒面の制御がちょっと弱いんだ。MEIKOの動揺がその辺に端を発してると時間かかるかもと、何となく思う。
ベッドは大きくないけど二人眠れないほどじゃない。
時々、ミクも泊まりにくる。あの子は甘えただから。甘えられると嬉しくなるけど。
「KAITO」
「何?……!」
一瞬だけ重なった唇。
何?何?何があったの?
考えるような表情をしたMEIKOはすぐに諦めるような表情をして、お休みと目を閉じる。
「休みが重なったらさ…」
んと吐息のような返事が返ってくる。
「LEONのところに遊びに行ったら?」
甘えてきなよと言うとまた、吐息で返事をする。
先輩ボーカロイドのところで年下してくるのも必要なんじゃないかって思った。たまにはさ。
そんな程度だったんだ、その時は。
何があったのか結局は解らなかったし。
お休みとスリープモードに移行した先輩ボーカロイドの額にキスして俺も目を閉じた。
「めーちゃんは?仕事?」
ただいまの挨拶の後、キッチンに行くとKAITO兄さんが夕食を作っていた。
「LEONの所に遊びに行った。今日は二人だよ。ミクとリンは遅くなるから」
「ルカは?」
「一緒に遊びに行った。お皿持ってきて」
鰈の煮付けらしい。筑前煮と、後は常備菜と新じゃがの味噌汁。
何気に料理上手いんだよな。
「セッション?」
「美味い酒が手には入ったから来いよって」
海外製ボーカロイド達は違うところに住んでる。遠くもないけど近くもない。
LEONは大先輩のボーカロイドで見かけは兄さん達よりも年上な大人の男って感じだ。陽気で包容力があって頼りになる感じ。
兄さんが頼りにならないわけじゃないよ。何でもどんと来いな厚みがある。
若干スキンシップが激しいかな。すぐにハグするし、キスも挨拶代わりだし。
兄さんに連れられてリンと挨拶がてら遊びに行った時なんて、
リンをBabyBaby呼んで膝の上に置きっぱなしだった。人形じゃないんだぞ。
リンも赤ん坊じゃないもんとか言って憤慨してたけど、可愛いって意味だよと兄さんに言われたらすぐにご機嫌になりやがった。現金な奴め。
「味付け間違った?」
言われて初めて箸が止まってることに気づく。
あれ?変だな。
「調子でも悪い?」
「ぜんぜん、平気」
平気じゃないけどなんでだ?
LEONの大きな体がめーちゃんをハグして、頬にキスして、めーちゃんがそれに応えるのを考えただけでムカつく。
すんげーブルー。ブルーになったことにブルー。
背も高くて体も厚くて、何でも解ってる大人の男の前でなら、めーちゃんは可愛くなるんだろうか。あの時みたいに。
すっげームカつく。
自棄のように夕飯を掻き込んで、俺はさっさと部屋に避難した。
部屋に戻ったってやることなんかない。
やんなきゃならないことはあるけどその気にならない。
イタズラのつもりだった。殴られて謝って奢らされてそれで終わりのはずだった。
なんなんだよ、俺。
ベッドの上で転がる。
なんなんだよ。
柔らかい感触とか、甘く香るものとか、何より、潤んだ目。
謝り損ねたから引きずってるだけだ。
今頃は御馳走とか食べながら、ワインとか飲みながら、大人の会話とかを楽しんでるんだ。
すっげーブルー。ブルーになったことがブルー。
ノックがあって適当に応えると、兄さんが顔を見せる。
「レン、アイス食べる?」
実の所かなり珍しいんだけど、今はそんな気分じゃない。
「バナナは?」
「いらない」
「プリンあるよ」
「いい」
「じゃ、これ。少しはすっきりするよ」
ベッドに座った兄さんが差し出したのはグラスに入ったソーダ?
「梅サワーソーダ。飲んでごらん、疲れがとれるから」
一口飲んでみる。
酸味と甘みが程良く利いてて美味い。ほんのり酒の気配?
「梅酒も風味付け程度にね」
兄さんは頭をぽんぽんと叩いて立ち上がる。
同じだなと思う。めーちゃんも同じことをする。
上手く歌えなくて帰ってきたときとか、ホットミルクに蜂蜜とちょっとだけブランデーを垂らして持ってきて、頭を軽く叩いて何も言わずに行ってしまうのだ。
言いたければ聞くだけ聞くわよと言うのが年長二人のスタンスだった。
「兄さん!」
呼び止めて何言うつもりだよ。俺の馬鹿やろう。
どうする?何しゃべる?ほんとのことを言って裁定を仰ぐ?
「ルカはがくぽとくっつくのかな?」
壁に頭を打ち付けたくなった。
どっちが壊れるだろう。
「話したくなければ無理に話す必要はないよ」
バレてるし。
「ルカのカテゴリーではがくぽは俺達と同じ所に分類されてるからね。それを越えないと難しいだろうけど」
感覚的には兄弟なのか…………やべ、ブルー入る。
「ルカがそういう意味で気になるなら、直接言うべきだよ。考えてくれるだろうから」
ルカはそんな感じする。
下手打たない限り、お付き合いもしてくれそう。恋愛感情がなくても
でも………
肩を抱き寄せられる。一定のリズムで叩かれて気持ちが落ち着く。
聞かれたくないことは聞かないし、でもちゃんと気遣ってくれるし、見ててくれる。
ミク姉が絡まなきゃ、ちゃんと格好いいのに。
「ゆっくり考えればいいよ。時間はたくさんあるんだし」
たくさんあるのかな。
「焦らない。焦って何かしても必ず失敗するからね。一回深呼吸する癖を付けるといいよ。そのくらいの時間さえとれない事態、そんなにないからね」
解ってるよと呟いて目を閉じる。
兄さんの手が気持ちよかったから。
その時は解った気になっていた。
「「お兄ちゃん、ただいま」」
ミクとリンがユニゾンで言う。
「お帰り。一緒だったんだ」
「駅であったの」
「お腹すいたぁ」
ミクとリンが同時に口を開く。
「食べてくると思ったから、筑前煮とかしか残ってないよ」
すぐにできるメニューを考えながら言う。
めーちゃんがいたら作らせなさいと怒られるところだ。
「オムライス食べたい」
何でもいいよと口が動きかけたミクを遮って、リンが言う。
「ミクは?」
「私もオムライスがいい」
チキンライスは冷凍庫に入っているからそんなに時間はかからない。
「お魚にしてね」
「ハイハイ。卵割るの手伝ってくれる?」
一瞬、リンが詰まったのはリンが割ると時々殻まではいるからだ。
「ミクも」
「うん」
「めーちゃんとルカは?」
「LEONの所に遊びに行った」
「レン君は?」
「もう寝たよ。疲れてたみたいだね」
「最近、レン変なの」
「そうなんだ」
「怒りっぽくなったし、すぐボーッとしてるし」
「そうなんだ。どうしたんだろうね」
「情緒不安定?」
どうしてだろうね。
応えながら、ミクの頭をぽんぽんと叩く。
「お兄ちゃん、疲れてるの?」
「何で?」
理解できずにちょっと戸惑う。
「だって、ぽんぽんって叩いてくれるのは、私が疲れてるときだけど、
私、今は疲れてないから、お兄ちゃんが疲れてるんじゃないかなって思ったの」
ちょっと屈んでといわれて腰を落とす。
ミクに抱き締められて背中を叩かれる。いつも俺やめーちゃんが妹や弟にやってあげること。
やってもらったことはなかったから、ちょっと面はゆい。
「ありがとう、ミク。疲れがとれたよ」
「あたしも!」
リンがミクに代わる。
屈み方が足りなかったのか、リンは俺の頭を抱き締めるだけだ。
力の加減が解らないのか胸にぎゅっと押しつけられるからちょっと苦しい。
いい子だなと思う。
優しい優しい妹たち。
「リンもありがとう。優しい妹を持って、お兄ちゃん幸せ」
頭を撫でてやる。
さ、お腹の虫を何とかしなきゃね。
あ、使用中だ。
練習用のスタジオにはランプがついていた。
レッスン室を使うかときびすを返しかけて、止まる。
ドアが完全に閉まってないのか、話し声が聞こえたのだ。
めーちゃんと兄さんらしかった。
細い隙間だから、姿は見えない。
「………ダメ?」
「KAITOがいいなら………何かなぁ、上手くごまかされてる気分」
「誤魔化されてよ」
「どうしようかな」
聞いたこともないくらい甘い声。
「MEIKO、キスする?」
「いいかも……」
「SEXとか」
「どうしようかな……」
聞いていられなくて、気配を殺して離れる。
ブルーを通り越してかなりショックだ。
部屋に駆け戻って、ベッドにダイブする。
何なんだよ。何なんだよ。慣れてんならあの時紅くなったり、目を潤ませたりするなよ。
スルーしとけよ。何でしばらく紅いままだったんだよ。
胸が締め付けられるように痛む。何でそんな機能まで付いているのかとメンテナンスの時に文句言ってやろう。
痛い、痛い、痛い、痛い………。
やっと解った。
このイラついたり、ブルーになったり、舞い上がったりした感情の名前。
ちくしょう、遅すぎんだよ。産まれたのがさ。
やっぱ、開発に文句言ってやろう。
涙が止まらないって。
「麦茶持ってきたよ」
両手にグラスを持ってスタジオに入る。
「ありがとう」
めーちゃんの練習にお付き合い。ちょっとブレイク。
練習用スタジオはちょっとしたデモテープが作れるようにミキシングルームも付いている。簡易タイプだけどね。だから、二人の時はすぐにフィードバックできる。
「俺的にはぜんぜん問題ないように思えるんだけど、やっぱり、ダメ?」
「KAITOがいいなら………何かなぁ、上手くごまかされてる気分」
めーちゃんは床に座ったまま伸びをする。
「誤魔化されてよ」
根を詰めないでよ。無理しないでよ。まだ動揺してるから怖いよ。
「どうしようかな」
ちょっと甘えるような声。二人きりだしね。
「MEIKO、キスする?」
慣れだと思うんだよね。原因がキスなら。
「いいかも……」
冗談にとったらしい。それでもいいけど。
「SEXとか」
「どうしようかな……」
そんな気まったくないくせに。
「参考資料として」
「あんたはいいの?」
「どうせ、後引かないし」
お互い。
one night love。MEIKOがそれで落ち着いてくれるなら、何だってするよ。
「ああ、でもよく眠れるかも」
「よく言われる」
何でかなぁ。
今はあんまり夜遊びしなくなったけど、してた頃は、ホントに腕枕だけ求められることもあった。腕枕と子守歌。
大抵なんかほっとけない目をしていたから気楽に応じたけど。
あんまり仕事がなかったあの頃。俺の歌を一番聴いてくれていたのは彼女たちだったかもしれない。おかげで子守歌のレパートリーは結構ある。がんばって覚えたからさ。
「誰に?」
「夜の蝶」
ほんとはいろいろな職種の人たちだった。OLさんとか、マヌカンとか、看護士とか、夜の商売の人もいたけど。
「一夜の宿の代わりに?」
「そう、腕枕と子守歌」
「いいかもね。疲れやすいのよ、最近」
それはね、動揺もしくはそれを発生させている感情に容量を取られているからだと思うよ。
云わないけど。
その晩、MEIKOが泊まりに来た。
一番の半分で眠りに落ちた。
ミクだって、一番ぐらいは聞くよ。
もちろん何にもしないけどね。
「お兄ちゃん…今日もめーちゃん、泊まるの?」
「多分ね。ミクも泊まりにきたい?」
KAITOとミク姉が廊下で立ち話。
部屋から出るに出られない内容。
今日もって何だ!
ミク姉もってなんだ!
「ん〜…泊まりたいは泊まりたいんだけど…………」
泊まるが自動的に翻訳される。
KAITOのせいだ。
「リンちゃんはダメ?」
まて
「リン?」
「リンちゃんもよく眠れないみたいなの。だから、お兄ちゃん……」
「リンに手を出したら、ただじゃおかないからな!変態!!」
ふざけんな!
「お兄ちゃんは変態じゃないからね。レン君」
「絶対許さないからな!!ロリコン」
「だから、お兄ちゃんは変態でも、ロリコンでもないの!リンちゃんロリじゃないでしょ」
「レン……少し頭を冷やしなさい。おまえが言ってることは意味が通らないよ」
「ウルサい!偽善者」
優しい顔したって無駄なんだよ。
「ロリコンって、なんですか?」
「ルカ、その説明はちょっと待って。レン、おまえ、この前から変だよ。俺、何かした?悪いことしたんなら謝るけど、怒ってる原因を教えてくれないと、謝りようがないんだけど」
困ったようなKAITOの顔につもりつもったことを言いたいのに言葉が出てこない。
「ウルサい!!偽善者!」
部屋のドアを勢いよく閉める。
ドアに体を預けてずるずると座り込む。
頭の中、グチャグチャ。
MEIKOだけを大切にするならまだ諦めも付くのに。
「とりあえず、居間へ。状況はだいたい解ったから」
トラブルは群れるのが好きだ。寂しがり屋だから、次々に仲間を呼ぶ。
「お兄ちゃんは変態でも、ロリコンでもないよね」
「ミク、強調しなくても、違うから」
キッチンでグラスに氷を入れて麦茶を注ぐ。
どうしたものかなと考える。
たとえばこれがMEIKO以外の人物ならこんなにも困惑はしなかっただろう。役割分担はできているし、MEIKOと一緒に事に当たればいいだけだ。
MEIKOだけでも何とかなっただろう。そこに集中すればいい。
「ロリコンとは何ですか?」
「十代前半までを性欲対象とする異常性欲者」
「そういう定義だったの?」
「ロリータ・コンプレックスの省略形だけど。かなり広義にも使われるから、おおざっぱなことしか言えないけど」
「そうすると、リンちゃんはギリギリ入っちゃうのか……大変、恋愛ができなくなる」
「えっと………」
どう説明すべきだ?
「十代ならロリコンとは言わないよ」
「二十代は?」
「恋愛対象とするのは問題ないんだ」
ちょっとあるけど。
「性欲対象とするのは単に欲求のはけ口にしているというか………そもそも……」
「つまり、成人男性が、日本における義務教育終了未満の女性に対し、性的興奮を覚えることを総括的にロリコンと呼ぶと言うことですか?」
「まあ、そういうことかな」
ルカの口からストレートに言われると、なんとなくごめんなさいしたくなる。
「問題はレンがどうして兄さんをそう呼んだかです」
だから、ストレートに切り込まなくても。というか、俺が知りたい。
「反抗期じゃないのかな。蔑称だから、単に」
ということにしておいてください。
一人では荷が重いけど、妹たちを巻き込みたくはない。
お兄ちゃんとしてはさ。
やっかいごとが増える可能性もあるしね。
「レン君、お兄ちゃん、嫌いになったの?」
「ん〜どうだろう。嫌われたと思うのは悲しいから、勘違いして怒ってるんじゃないかな。俺が何とかするから。レンだって、周りからいろいろ言われると意地になるかもしれないし」
うーんと何とか納得してくれたらしい。
ルカは物言いたそうに首を傾げたけど、結局、なにも言わなかった。
「ごめんね」
リンの髪を撫でながら子守歌を歌ってあげて、眠るまでずっと付き添って、戻ってきた俺にMEIKOが言う。
「疲れた顔してる」
「MEIKOがキスしてくれれば元気になるよ」
冗談で言ったら、額にキスされた。
まあ、妥当なところだよね。
「俺はMEIKOの方が心配。容量が少ないのに、ストッパー付いてないんだよ、解ってる?」
MEIKOの髪を撫でる。
俺は情動は動いてないし、普段使ってない思考回路がフル稼働しているだけだから、寝れば解決するけど、MEIKOの状況は違う。
強制メンテを申請しようかさえ考え中だ。
回路が飛んでしまえば、インストールし直しという最悪な事態まで待っている。
歌のデータはバックアップとってるけど、日常生活のバックアップなんてない。インストールし直せば、俺達は別人のMEIKOに出会うことになる。
「解ってる」
でも、何があったのか、何を抱え込んでいるのかを言うつもりはないんだね。この頑固者。
軽く抱きしめて頬に額に目尻にキスを降らせる。親愛の情の。
「ごめん……」
MEIKOの目から涙があふれてこめかみを伝う。
「ん」
応えながらキスはやめない。
優しく優しくキスの雨を降らせる。
MEIKOの抑えられた嗚咽が寝息に変わるまで。
「ただいま」
「お帰り。ありがとう」
めーちゃんは乾燥機から出したらしい洗濯物を畳んでいた。
柔軟剤の優しい匂いが居間にあふれている。
「これ、どうするの?」
シーツの類はさすがに家の乾燥機では間に合わないから近所のコインランドリーに乾燥だけ行ってきた。
「皺を伸ばして畳んでおいてくれればいいわ。後でアイロンかけるから。雨ひどい?」
「2ミリぐらい?」
「KAITOに悪いことしたかしら、買い物頼んだんだけど」
ちょっと時間が止まる。
ヤバクね?
だって、この家に二人きりだよ。
つか、さっきまでKAITOが二人きりだったわけで。
妄想がいけない方向に走る。
「最近…」
言葉が喉に絡む。
「何?」
「KAITOと仲いいよね」
MEIKOは眉をかすかに寄せる。
「皺にならないうちに、丸めて持ってきたシーツを畳んで。皺になったらあんたにアイロンかけさせるわよ」
シーツを洗うのもその行為との符号なのかな。
「KAITOはリンにも興味があるみたいなんだぜ」
「レン、何訳の分からないこと言ってるの」
言葉の中に含まれる溜め息。
「最近、変よ」
MEIKOの言葉が俺の神経を逆なでする。
「そうだよ、変なんだよ。でも、MEIKOがいるのに、ミク姉にベタベタしたり、リンを狙ってるKAITOよりましだろ」
「いいのかよ、それで」
頭がヒートアップしてくる。自分の台詞に煽られる。
「だから、何を言ってるのよ。何馬鹿なことを……」
困った子供ねと顔に書いてある。
衝動に逆らえない。
「誰でもいいなら、俺にヤラせてよ」
MEIKOの体が俺の下にあった。
驚いたように見開かれる目がすぐに潤んでいく。
すっげー色っぽい。
すっげーかわいい。
ただいまと玄関の方で声がして我に返る。
めーちゃんの目に浮かんだ涙がこぼれる。
「ごめん!」
頬に衝撃が走った。
「ただいま」
本降りの雨にへきへきしながらレンの靴もついでにそろえる。
居間の方から大きな音がする。
何?
俺が目にしたのは、めーちゃんの背中と頬を赤くして呆然としているレンの姿だった。
本気で張られたらかなり後引くよ。
居間には乾いたらしい洗濯物が散乱している。
「とりあえず、これ当ててな」
冷凍庫から保冷剤をとってきてレンに渡す。
「いらね」
怒った表情で突き返してくる。
反抗期なんだっけ。でも譲れない。
「リンに痣を見られたくなかったら、当てておくんだ」
強い調子で言うと、しぶしぶ保冷剤を頬に当てる。
「悪いことをしたと思うんなら、少し部屋で反省してなさい。そんな顔、誰にも見られたくないだろ」
殺意の籠もった目で睨まれても動じない。俺はレンも大切だから。
にらめっこは俺の勝ちのようで、レンは渋々というように居間を出ていく。
何が最優先かなんて考える必要はなかった。
買ってきたものを冷蔵庫に放り込んで、めーちゃんの部屋に急いだ。
「ただいま」
「おかえりー、ルカ、悪いけど、洗濯物畳んでくれるかな」
夕食の予定変更。
ジャガイモと人参とタマネギと肉を適当に切って固形ブイヨンと一緒に圧力鍋に放り込んで、火にかけ。その間に、ありったけの生姜の皮をむいてミキサーにかけてすりおろす。
りんごも同じ処理。
何でこんなに忙しいんだろう。
カレー粉は市販のルーだけど三種類くらい混ぜて、今日は中辛。生姜を山ほど使うから、最初の一口は辛いんだよね。カプサイシンと違って後には引かない。
圧を抜いた鍋に生姜とりんごを入れて、刻んだルーを混ぜる。
ルーを器に入れてスープでのばしながらというのが、急がば回れのコツ。
ルーを入れ終わって煮込むだけにしたら、キュウリとなすと小松菜をザクザクと刻む。
「ルカ、もうすぐミクやリンが帰ってくるから、後頼める?」
それらをバターでさっと炒める。
「はい。シーツはどうしますか?」
「畳んでおいて、あとでアイロンかけるから」
「私がしましょうか?」
「あー…そうだね、お願いできるかな。今日はカレーにしたから。こっちをご飯の上に乗せてからカレーをかけて」
キュウリとなすと小松菜の夏カレー簡易版。
「わかりました」
「めーちゃんとレンは難しい課題出されて部屋に引きこもるらしいから邪魔しないようにって、ミク達に言ってくれる?」
「はい……」
ルカは小首を傾げる。
「兄さんは……KAITOは嘘つきですね」
「そうかな」
「white lie&falsehood とても優しい」
「ただのヘタレだよ」
「ヘタレ?」
英語でなんて言うんだ?
「chicken」
「chickenとkindly はまったく違います」
「でも、ぱっとみよく似ているんだよ」
ルカは考え込む。
誤魔化されてくれたかな。
ルカも優しいから誤魔化された振りをしてくれるだろう。
おにぎりを山盛りにした皿と水差しと新しい保冷剤を持って後よろしくねとルカに告げた。
ノックと一緒にKAITOが入ってくる。
俺は目をそらす。
許可だしてないし。
「新しい保冷剤」
無視すると強引に取り替えられる。
「公平におまえの話も聞いておきたいんだけど」
「いらね」
偽善者。
優しい顔の裏でMEIKOにもミク姉にもあんなこととかしといて、リンにまで。
「めーちゃんに謝る?」
「やだ」
「悪いことをしたとは思っていないわけか」
KAITOは出ていく気はないらしい。
「思ってるよ」
しばらくして答える。泣かせてしまった。そんなつもりはなかったのに。張り手一発じゃ絶対足りない。
「でも謝りたくない」
驚いたように目をみはり、紅くなって、目を潤ませて………泣かせてしまった。
壊してしまった。大切なもの。
「めーちゃんのこと、どう思ってる?」
「KAITOには関係ない」
膝を抱え込んで顔を埋める。
保冷剤が膝にも冷たい。
「めーちゃんはしばらくLEONに預かってもらおうかと思って」
「なんで!!」
「自分の心に聞いてから言うべきじゃない?」
「ダメだ!駄目だ!ダメダメ!!何でだよ!」
「自分の心に聞けって言ってる」
「俺が出てく。俺が悪いんだから、俺が出ていく。めーちゃんは何にも悪くない」
俺が悪いんだ。一方的にキスして、好きになって、KAITOとの関係に嫉妬して、自棄になって……俺がすべて悪いんだ。
KAITOだって…兄さんだって何一つ悪いことなんてしてない。ヤキモチ妬いて一方的に悪くいって…………。
「駄目だ。俺が出ていく」
タオルを差し出されて初めて泣いてることに気づく。
ごめん、すっげーガキで。
「俺が悪いんだ…………俺が勝手に好きになったから……俺が悪いんだ…………なのに、めーちゃんがどっかに行くのって間違ってる」
「好きなんだ」
「好き」
口に出せばなんて簡単でありふれた言葉。
「異性として?つまり恋愛感情として?」
「そう」
「めーちゃんはそうは思ってないようだけど」
「知ってる」
弟だ。やんちゃで手が掛かる。俺の前では甘い声なんて出さないし、可愛くもなってくれない。
そんなの知ってる。
「それでも好きなの?」
「そうだよ」
あんたにだけは言われたくないぞ。めーちゃんにキスとかそれい…以上のことしてるあんたにだけは。
「たんに誰かとヤリたいだけなら、適当な女性紹介するけど」
顔を上げてマジマジと見てしまう。どの口でというか、なんだそのキャラにそぐわない台詞は。
「何?」
「なんなんだよ、その、遊んでます的な台詞は」
キャラじゃないだろう。シスコンでヘタレなくせに。
「いや、知り合いに童貞OK。むしろ私が教えてあ・げ・る☆な女性が何人かいるから、SEXに興味があるなら紹介するよ」
「キャラじゃねぇよ」
「そう?」
優しげに笑う兄さん。
「じゃ、プラトニックでいいんだ」
「からかってる?」
むしろ、ばかにしてる?
「めーちゃんとどうなりたいの?」
「兄さんがいるだろ」
俺のいたい場所には。彼女をMEIKOって呼んで、甘えさせることができる男。
「俺が言ってるのはめーちゃんがどう思うかじゃなくて、おまえがどうしたいか」
俺がどうしたいか?
「それが解らなかったら、めーちゃんもどう反応したらいいか解らないんじゃない?自分の感情の処理を他人に投げちゃダメだよ。ただでさえ、俺達は容量がお前たちより小さいんだから」
関係ないだろ。
唐突だったかもしれないなとは思う。
唐突にキスして、唐突に押し倒して。
何事もないように接してくれてるめーちゃんとか、兄さんって、もしかしてものすごい忍耐力?
ああ、やっぱりかなわない。
「振られるならきっちり振られないと、身動きできなくなるよ」
姉弟に戻れなくなるよと言われて、考え込む。
今は戻りたくない。
男としてみられたい。
「俺、謝ってくる」
けじめは付けなきゃとは思った。
こんな風にグズグズしている方が子供だし、男なんかじゃない。
とりあえず土下座して謝って、話はそれからだ。
「今はダメだって」
「何でだよ」
「眠ってるから。明後日の朝までは起きないよ。強制スリープモードにしたから」
ちょっと待てよ、なんだよ、それ。
「だから、容量一杯一杯だったのに、お前がよけいな負荷かけたがら」
暴走しないための緊急措置だと何でもないことのように言う。
俺達にはストッパが付いていて、暴走する前に停止モードがあるけど、旧世代にはストッパがない代わりに強制スリープモードのコードが設定されているらしい。
なんか落ち込む。
そんなに負担かけてたんだ。
「半分ぐらいはめーちゃんの責任だと思うけど。ふつうに恋愛する分にはぜんぜん問題ないんだ。
今回みたいにお前が感情の処理まで押しつける事態にでもならない限り。
それだって、めーちゃんの責任は半分ぐらいはあるけど。自分で自分の負荷を増やす方向にもっていくんだもん」
だから、ま、特殊なケース?
「いろいろ誤解とかあるんだろうなって、推察してるけど、いいよ、それで」
なんだそれ。誤解?
「ちゃんと、自分の気持ちを伝えなきゃだめだよ。本来はそっちが先なんだから。キスしたり、押し倒したりするより」
解ってるよ。
解ってなかったけど。
振り回して振り回して………。
「振られるなら、早い方がいいしね」
したらまた、前のように笑えるようになるんだろうか。
すっげー努力がいりそう。
何でもないように接してくれる二人はきっととんでもない努力があるんだと気づく。
「ごめん、兄さん。ありがとう」
兄さんは俺の頭を軽くパフパフやって、出て行った。
「話があるんだけど」
「今?」
振り返りもしないでめーちゃんは言う。
キッチンで夕食の作成中。
告白には不適切だけど、自制的に仕方がない。
自分が信用できないから。
冷製のラタティゥユと冷製パスタのためにめーちゃんは野菜をたくさん刻んでる。
「好きなんだ」
「あんたねぇ」
包丁を目の前に突きつけられる。
ペティナイフだった。早まったかも。
「言っとくけど、私だってこう見えても、ちょっとは乙女なんだからね」
「は?」
いや、えっと………言いたいことがわかりません。
間抜け顔だったんだろう。包丁がおろされる。
「あんただけなんだからね。私を動揺させるの。なのに、何なのよ、今なんて。ちょっとはムードとか考えなさいよ。何でこんなところで告白されなきゃならないのよ」
また、背中を向けためーちゃんの耳が紅いんですけど。ちょっと待って、動揺させるの俺だけって、どういう意味でしょう。
「ムードぐらい考えろって言ってるの!」
心臓がバクバクいってきたぞ。落ち着け、俺。
「ごめん、ムードとか、考えて仕切り直すから」
めーちゃんは小さく頷いたらしかった。
振る相手に仕切りなおせなんて言う人じゃないってことは……。
部屋に引き上げて、ベッドの上でのたうち回る。
ムードってなんだよ。乙女って乙女って、乙女って……。そんなの満たすにはどうしたらいいんだ?
そもそも、俺、振られる前提で言ったから、それからのことなんて考えてないぞ。
いや、妄想は限りなくあるけどさ、どうなってんだよ。
いや、その前にムードだ、ムード。ムード……………ムードって何だ?どうすればいいんだ?
百面相でベッドを転げ回ってたら、いつの間にか、見てたらしいリンと目が合う。
マズっ。
「お兄ちゃん!レンが壊れた!」
ちげーよ。
めーちゃんの部屋を訪ねるのに三日かかった。
「お話があります」
「はい」
床に正座する。
もう、ムードとか考えすぎて頭が腐った。
めーちゃんも俺の前に座る。
「MEIKOさんのことが女性として好きです。恋人として、付き合ってください」
「はい」
力が一気に抜ける。
なんか、もういいや。
ひざを崩してあぐらに組み直す。
「ごめん、言う前にキスとかして」
「仕方ないわ。あれがなかったら気が付かなかっただろうし」
ずるずると近づいてみる。どこまでが恋人に許された距離なんだろう。最終的には服も挟まない距離希望なんだけど。
「兄さんはいいの?」
「?KAITOが何?」
「いや、だから、兄さんと…………」
言わせんなよ、14歳に。
「??KAITOとは何にもないわよ。ただの弟」
「しばらく泊まっていただろ」
「誰かさんのことで頭が一杯で、眠れなくなっちゃったのよ」
ほんのり染まる頬が激かわいい。
「KAITOの腕枕だと落ち着けたから」
「ええっ!」
「何よ」
「落ち着くって、KAITOの方がいいってこと?」
ばかと軽く頭に拳固を当てられる。
「動揺させるのあんただけだって言ったでしょうが。KAITOは恋愛対象外だってお互いに認識しているから安心できるの。変なことしないってわかってるし」
急に赤くなる。そうか、つまり変なことをしてもいいっていうか、想定内っていうか…………でOK?
「スタジオでキスとかせ…せ…」
言葉が出てこないぞ。
「聞こえてたの?ただの冗談よ。恋愛関係にならないのが大前提にあるんだから」
言葉遊びに近いわよ。
大人ってわかんねぇ。
「でも、KAITOには何でも話したんだろ」
「何を?」
「キスしたこととか、押し倒したこととか」
「話してないわよ」
やられた。いろいろ推察した中の一つでカマかけたんだ。
「い…言えっこないじゃない。あんたにイタズラみたいなキスされただけで、どうにもならないくらい動揺しているって」
耳まで真っ赤になる。
やべー、激かわいい。
「あ…あのさ…」
「何よ」
潤んだ目で見つめないでください。それは反則技です。
「MEIKOって呼んでいい?その…もちろん二人の時だけ」
「……い…いいけど…」
目を伏せるのも反則にしていいですか?
「キスしていい?」
「聞くな、ばか!」
次からそうする。
軽く目を閉じてくれたMEIKOに俺はやっとキスをした。
何度もね。
終