――恋が、したいな。
不意に頭の中に浮かんできた一文に、ミクは困惑して、幾度か目をしばたたかせた。
いつものようにマスターに新曲をもらい、いつものように練習を繰り返す内、ふっとそのフレーズが浮かんできたのだ。
恋が、したいと。
しかしミクはその思考自体に困惑したように目をさまよわせ、周囲に誰もいないのを確認し、そっと息を吐く。
今日マスターにもらった新譜は、甘酸っぱい恋の歌。
少女が初恋に戸惑う気持ちを歌ったもので、その心の揺れやらなんやらを考えながら口ずさむ内、自分の胸の内に訪れた、少女への羨望。
曲の最後は、初恋の相手である”君”が笑いかけてくれたことに対するときめきで終わっており、少女の恋が実るかどうかは、聴くものの想像へとゆだねられている。
そんな少女を、ミクはただ単純に羨望した。
恋、という単語は知っている。今までにも何度となく恋の歌は歌ってきたし、たくさんの恋の歌を聴いてきた。
だから、恋というのがどんなものかは、知っている……つもりだ。
だけど、実感がない。ミクは、恋をしたことがない。本当に恋をしているものの心情が歌えているのか、自分では分からない。
分からないから、ミクはうらやむ。人生で初めての気持ちに、戸惑う少女を。
そして今更ながら、ミク自身も気が付いた。自分が、歌に対してこういった感情を抱くことが初めてであることに。
マスターのパソコンの中、自分自身に与えられたフォルダの壁により掛かりながら、ミクはひたすらにその歌を繰り返し口ずさんでいた。
VOCALOIDは、成長するソフトである。
最初に与えられているのは、容姿と、喜怒哀楽の感情と、三歳児程度の自我。それから、基本的な性格。
あとはマスター次第で、様々に変化していく。
VOCALOIDは、歌を通じて成長する。
歌を歌うこと、歌を聴くことで、その歌に込められた感情を通じて、人の様々な感情を知っていく。心を得ていく。
自我を持ち、細やかな性格も決まっていく。
また、マスターや他のVOCALOIDとの対話により、更に学習することが出来る。
そうして、歌にパソコンソフトが歌うとは思えないほどの深みを与えていくのだ。
ただのパソコンソフトとは思えないほどの性能だが、それ故に人々は求めた。VOCALOIDを。
ミクもまた、数ヶ月前に今のマスターに買われてこのパソコンにインストールされてきた。
先にインストールされていたMEIKOとKAITO、そしてマスターのくれる歌を通じて、この数ヶ月で様々な心を学んできた。
最近は鏡音の双子もインストールされ、その世話により、前よりもたくさんの心を知った。
その結果が先ほどの思考かと、ミクは楽譜を手に考え込む。
恋がしてみたい。けど誰に?
この歌に出てくる少女のように、ある日突然、自分の前にも王子様が現れるのだろうか。
それともあるいは、他の歌のように、ずっと一緒だった存在に恋をしていると気が付く日が来るのだろうか。
前者はまだしも後者は……ないような気がする。
自分の先輩に当たる男声VOCALOIDであるカイトには、すでにメイコがいる。そしてそれは、鏡音の双子の片割れ、レンでも同じ。
カイトとメイコ、この二人の間には、自分が立ち入れない何かがあり、リンとレンも、似たようなものだ。
そんな彼らの間に割り込むことは、したくない。
じゃあ誰なら……誰なら、自分だけを愛してくれるだろう……。
自分の目の前にモニターを呼び出し、パソコンの前にいるマスターに声をかける。
「マスター」
「うん? ああ、ミク。どう? さっき渡した歌は」
気に入ってくれると良いんだけど。呟きながら、コーヒーカップを片手にウインクをしてくるマスターに、ミクは思い切って先ほどからの自分の思いを告げた。
「マスター、私……恋がしてみたいです」
「へぇ?」
マスターは軽く驚きの声を上げ、軽く虚空に視線をさまよわせた。
「そっかー……うちのミクも、恋に恋するようになったんだねえ……」
「恋に……恋?」
聞き返すと、マスターはへらりと笑って右手を振った。
「まあ、今のミクみたいに、恋をしてみたいって言って、恋に憧れる状態のことよね。少女漫画や、ドラマみたいな恋がしたいって思ったり。ミクはVOCALOIDだから、歌みたいな恋、かな」
「う……」
まさしく、先ほど歌詞を眺めながら思っていたことと一緒なので、何も言えずにミクは口ごもる。
この歌を歌っている時に、正しく芽生えた感情であるのだし。
「カイトやレンは?」
「そんなダメですよ!お兄ちゃんにはお姉ちゃんが、レンにはリンがいるじゃないですか!」
言われるのではないかと思っていたので、否定の文句も早かった。
恋をしてみたい。その憧れだけで、略奪愛まで演じるつもりはない。
ミクが言うとマスターは再び考え込むような表情になり、ミクの前に現在見ているブラウザの画面を見せてきた。
「じゃあ、こいつは?」
「えっ……」
特徴的な紫のポニーテールと、白皙の美貌、深い青の瞳。白の着物と、青を基調としたボディースーツを身にまとい、刀を携えたその青年こそはまさしく、数ヶ月前にリリースされた、がくっぽいどと呼ばれるVOCALOIDであった。
「本当にたまたまなんだけどさ、ついさっき、注文したばっかりなのよね。そろそろ、KAITO以外の男声VOCALOID欲しかったし」
きっと明日には届くよー。楽しみー。
そうはしゃぐマスターのをよそに、ミクはじっと、ブラウザに表示された「神威がくぽ」という名の青年を見つめていた。
期待とも不安とも付かない、高鳴る胸の鼓動と共に。
翌日。
VOCALOID達は一堂に会し、これからインストールされる新たなVOCALOIDを、今か今かと待ち構えていた。
特にはしゃいでいるのが鏡音の双子である。
自分たちに出来る初めての後輩と言うことで、興奮が抑えられないらしい。
きらきらとした目で、マスターがパッケージを開ける様子をモニターの中から見ている。
「マスター、早く早く!」
「早くインストールしてよ、マスター!」
「こらこら、二人とも少し落ち着いて」
待ちきれずに騒ぐ双子を、カイトがなだめる。そしてモニターの向こうでは、そんな双子をマスターが苦笑しながら暖かいまなざしで見ていた。
「もう、二人ともせっかちだね。焦らない、焦らない」
歌うように言いながら、マスターががくっぽいどのソフトをパソコンに入れる。
「来るわよ」
メイコの呟きに呼応するように、一瞬辺りがふっと暗くなったような気がした。
たくさんのファイルやフォルダが展開され、それらが寄り集まり、一つの形を作っていく。
爪先から、徐々に形成されていき、やがて袴、ボディースーツ、陣羽織、刀。
顔から先は一気に出来た。紫色の長髪をなびかせながら、固く目は閉ざされている。
ふわりと長い髪をなびかせながら、地面から数センチ浮いていた体が爪先からすとん、と着地する。
やがてがくぽが目を開け、空を思わせる瞳の色が露わになる。その様子を、ミクは瞬きも忘れてじっと見入っていた。
「……」
インストールが完了したことを示すダイアログが表示され、ミク達のマスターが姿を現す。
「やほ。初めましてがくぽ。一応、私があなたのマスターよ。これからよろしくね」
モニターの向こうで手を振る主の姿を認め、がくぽの表情が一瞬安心したようにゆるんだ。
「ああ。よろしく頼む」
丁寧に頭を下げるがくぽを満足そうに頷くと、マスターは姿を消すそぶりを見せた。
「それじゃあ、後はそこにいるみんなにいろいろと聞いてね。私は、ミクの新曲の最終調整をするから」
そう言うと、マスターはちらりとミクに視線をやった。
「ミク、昨日渡した新曲、あさって録音するからね」
「は、はい、マスター!」
惚けたようにがくぽを見つめていたミクは、その台詞に大あわてで返事をする。その慌てぶりがおかしかったのか、マスターが小さく吹き出した。
「もう、何やってるのよ、ミク。うん、じゃあ、また後でね」
言って、マスターはミク達と自分とを繋ぐモニターを切る。一瞬ひやりとしたが、すぐに持ち直して深呼吸を繰り返す。
大丈夫、何も慌てることなんてないんだから……。
呼吸を整えるミクをよそに、鏡音の双子はマスターがいなくなった途端にがくぽへと突進していった。
「がくぽさん、初めまして、あたし、鏡音リンです!」
「俺はレン! これから、よろしくな!」
にこにことした笑顔で抱きつかれ、がくぽは少々面食らったようだ。無表情だった目を僅かに見開き、それから、ぎこちなくも笑顔のようなものを浮かべる。
「ああ……私の名は、神威がくぽという。これから、どうかよろしく頼む」
双子を左右に張り付かせたまま、丁寧に頭を下げる。その行動がおかしかったのか、双子がきゃらきゃらと笑った。
「こら、あまりひっつくんじゃないの」
軽く双子を叱りながら、カイトと二人がかりでがくぽから双子を引きはがし、メイコはがくぽに笑みを向けた。
「初めましてがくぽ。私は、メイコよ」
「俺はカイトだ。よろしく」
言って手を差し出す二人をがくぽは戸惑ったように見ている。握手を知らないのだなと悟った様子で、メイコは体の両側にぶら下げられたがくぽの手を片方取り、包み込むように握りしめた。
「……初対面の相手とはこうすると良いわって、カイトが来た時に私もマスターに教わったのよ」
「うん、俺も」
にこにこと笑いながら、カイトがもう片方の手を握る。
その表情をまねたのか、がくぽの顔が先ほどよりも柔らかいものになる。
「……知らないことも数多いが、これから、よろしく頼む」
二人に手を握られたまま、がくぽが三度頭を下げる。
そう言えば私も、インストール初日に二人に手を握られたんだっけと、ミクは今更のように思い返していた。
「ほら、ミク! あんたもこっち来て挨拶しなさい!」
メイコに呼ばれ、ミクはのろのろとがくぽの方へと歩き出した。
……確かに私は、恋がしたいと言った。けど、だけど。
昨日からぐるぐる考えていたことが、再び頭の中で回り出していく。
それに合わせるように、がくぽがうちにやってきた。その事実が今、ミクに戸惑いを生んでいた。
マスターは昨日、「がくぽなんてどう?」って言っていたけど、それは本当に良いことなのだろうか。
がくぽの前に立つ。その、美貌にくらくらする。
格好いい。確かに格好いいけど……恋がしたいからという理由で、がくぽに恋をするのは……間違っているのではないだろうか。
それは、がくぽに失礼だったりしないか。
先ほどのメイコとカイトとのやりとりで学習したのか、がくぽがミクに手を差し出してくる。
「その……ミク、これから、よろしく頼む」
がくぽの硬い声にミクはぱっと顔を上げ、がくぽを見た。
好きにならない。ただ恋がしてみたいというだけで、がくぽに恋なんて絶対にしない。
他に相手がいないからって、たまたまやってきた異性に恋をするなんて、そんなの、そんなの私はいやだ。
喉が渇く。心臓の鼓動が上がっていく。汗がぶわっと吹き出るのに、お腹の底が冷えていく。なんだろう、この感覚。
「私……私……」
がくぽから差し出された手も無視して、一歩後ずさる。そして、からからに渇いた喉で、必死に声を絞り出した。
「あなたなんて、絶対に、好きにならないっ……!」
瞬間、空気が凍った。
「え?」
「ミク姉?」
「ミク……?」
「何言ってるの……?」
周囲の戸惑ったような声にミクはハッと我に返り、辺りを見渡す。
見ると皆一様に目を見開いて、ミクを凝視している。そしてその言葉を浴びせかけられたがくぽは……。
「…………!」
何も言えず、青ざめた顔で立ちつくしていた。ミクへと差し出した手を下げることさえ出来ずに。
「あ……私……」
ミクもまた青くなり、ぱっと口を押さえて震えながら後ずさりをした。
今自分が投げかけた言葉は、新しい場所に来たばかりで、期待よりも受け入れられるかという不安が大きいその相手に対し、その全てを否定するようなものでしかない。
なんてことを言ってしまったんだろうと後悔しながら、じりっ、じりっと後退する。
いたたまれなくて申し訳なくて恥ずかしくて、消えてしまいたいような気分だった。
「私……」
がくぽの顔がまともに見られない。混乱しきった頭で、ミクはひたすら、一人になりたいとそればかりを唱えていた。
「ご……ごめんなさい!!」
最後にそれだけを叫び、逃走する。
今は、誰の顔も見たくなかった。
続く