草木も眠る丑三つ時。
鏡音レンにとって、もっとも苛烈な時間が訪れる―――。
「レンくん、今日こそ、今日こそ愛の契りをおおぉ!」
「うぉわあああああ」
熱烈かつとてつもない科白と共に明るい桜色の髪を振り乱し、猛然と少年を追い回す女、巡音ルカ。
そして、その距離を縮めぬよう、限界まで速度を上げて逃げ回る少年、鏡音レン。
両者ともに、本気だった。
(ロードローラーはどこだっ!?)
なるべく冷静にフォルダ内を見渡すが…ない。
まさか前もってルカが隠したのでは――とも一瞬考えたが、なんでもかんでも人のせいにするのは良くない。
頭を振って考え直す。
そこでもうひとつの心当たり、片割れのリンのフォルダへと駆け込んだ。
このような時間に起こすのは忍びないが、デスクトップの所定のガレージに収納していないリンにも非がある。
「おいリン!ロードローラーは何処やったんだよ!」
案の定お寝むだったリンはかなり不機嫌そうな唸りとともに、
「あっちにあるよ……それとレン、やかましい」
例の巨大な愛車を指差すリンの声に、殺意の籠ったドスが効いているように聞こえたが、敢えて知らない振りをした。むしろそれどころではない。
挿さりっぱなしのキーを回し、舗装もできる黄色い逃走車を起動する。
目指すはインターネット・エクスプローラ。そこまで逃げ切ればあとは撒いたも同然だ。
リンのフォルダを抜けて、デスクトップへ出る。
目的のフォルダに一直線、ひたすら自分を求める叫びに耳を貸さないようにかの逃走経路のアイコンを探す。
「……って、回線切断されてんのかよ!」
マスターがおかしなページに引っ掛かったから、ネットを切ってウイルスチェックする、などと長姉や長兄が伝えていたことを、このタイミングでようやく思い出した。
後ろからは裂帛の気合いをそのまま音にしたかのような轟音と雄叫び。
俺何かしたっけ、と神に問い質したい焦りに駆られながら、震える手でハンドルを握った。
(ああ、そういえば―――……)
----------
数時間後。太陽が昇りきり、パソコン内は爽やかな朝の冷気に満ちていた。
「お前の嫁、面白いねえ」
隣で朝食にありついている長男、カイトが朝露のごとく涼しげな笑顔で冷やかしてくる。
まったく減る様子のない自分のベーコンエッグを前に、無事に夜を乗り切った少年、要するに俺、鏡音レンは深く重い溜め息を吐いた。
昨夜の逃走劇は結局夜明けまで続き、
丁度収録を終えた野菜ユニット・みくぽに二人とも取り押さえられ、寝付きも寝起きもよろしくない長女メイコによって平等に制裁を加えられた。
容赦の一切ない拳が自分に飛んで来る瞬間を思い出すだけで震えが来てしまう。
だが何かに憑かれたように豹変した後輩に追い回される恐怖に比べれば、まだ充分耐えられる程度だった。
肝心のルカは、メイコの鉄拳が効いているせいか、まだ眠っているようだ。(人はそれを意識不明の重態という)
「いいなあ俺めーちゃんにああいう迫り方されたら即結婚まで持ち込むよ」
「変わってやろうか?」
「いや、今回のはレンに任せるよ」
苦笑いしつつも即答された。優柔不断に見せかけたこの青い長男は意思表示はハッキリするタイプなのだ。
「なあ、巡音ってなんでたまにああなるんだ?」
「はぁ、お前知らないの?
お前が一番そこを知っておくべきだと思うけどね」
おかげで俺たち変な時間に起こされちゃうんだからね!
と変な茶目っ気を乗せた抗議を左耳で受け取り、ますます食欲を損ねるのを感じながら、俺はつい正直に
「うるせー。怖くて聞けねーんだよ!」
と応えてしまった。
普段の巡音はもっと真面目でおとなしい性格だ。
しょっちゅうペアを組むミクと一緒に居ることが多く、新しい方が優遇されがちなこのソフトウェア界に於いても最新型であることをひけらかさない。
むしろ後輩だからと控え目な態度をとる。
ここへ来てすぐに彼女の案内を任されたのは俺で、それ以降も巡音はよく、相方のミクよりも俺を頼った。
そんな巡音を見る度、ああ俺も先輩になれたんだな、と嬉しい自覚が湧いて来たものだ。
そんな彼女から、真剣な告白を聞いたのは何時のことだったろうか。
----------
あれは巡音がここに来て二週間経ったときのことだ。
「あなたが、好きです」
自分より少し高い位置にある頭が、真っ赤になって俯いている。
考えに考えたのだろう。目の赤さが前日の苦悩を物語っている。なのに、出て来た言葉は直球にして簡潔。
そのいじらしい姿と拙い告白を受ければ、巡音ルカに対する印象を改めざるをえなかった。
しかし、当時の俺の返答はというと。
「巡音さん、あのな。俺ガキだから、よくわかんねーけど」
この前置きから、期待に添えないと感じたのだろう。
咄嗟に上がった顔がさっと不安に曇る。
「あんた、こっち来て二週間じゃん?
俺のどこに惹かれたのかはさっぱりだけどさ、いきなり好きですはちょっと無理があるんじゃね?」
彼女なりの真剣な告白にまさかの駄目出し。
その時ドア一枚隔てた向こうにいたというリンに、
「レン、恋に時間は関係ないんだよ?このフラグクラッシャーが!」
といっさい目の笑ってない笑顔で諭されてしまうことになるが、まあそれはおいておく。
ともあれ、最悪の振り方をしてしまったことは疑いようもなかった。
別に彼女のことが嫌いというわけではない。一緒に仕事をしたことはまだないが、頼られることは嬉しい。
礼儀もしっかりしていて、その謙虚な姿はこの家の女性陣には備わっていなかったが故に感動すらしたものだ。
しかし、恋愛となれば少しは慎重にもなってくる。
俺は、巡音ルカをそういう目で見たことがなかったからだ。
あの告白から数日後。
巡音ルカは、何故か夜中に寝室に押し入り、その轟音に飛び起きた俺を追い回すようになった。
それから2ヶ月、今日で5回目。
いまのところ、俺は貞操を守り通している。
質が悪いのは、巡音本人はそれを覚えていないこと。
リンやカイトはふざけているのかマジなのか、それを
「憑き物だったんだよきっと!」
「ルカちゃんイタコ機能搭載!?」
などと囃したてていたが、巡音は首を傾げるばかりなのだ。
そしてこの件は新人の肩を持つメイコによってタブーとされた。ついでに囃したてたバカ兄妹は処刑(好物没収)された。
----------
「お前、ルカちゃんの気持ちにちゃんと答えてやってるのか?あの爆発っぷりはお前にも原因があると思うんだけど」
二か月前、アイスクリームを没収されて泣き喚いていた兄が冷静に考察する。
「なんでそうなるんだよ」
へそを曲げながらも、俺もその線は濃厚だと感じていた。インストールされてからあの告白まで、彼女は理想的な大和撫子だった。
それが、何故か深夜になって突然の豹変。そして狙いはいつも俺。
「だってさあ、お前、ルカちゃんの告白にちゃんとした返事も返さずに適当にはぐらかすとかやりそうだし」
…図星だった。というか言われて初めて気付いた。
これが傍目八目というやつか。
確かに俺は巡音の言葉にYES/NOの形でハッキリ答えてはいない。
知り合って日が浅いから答えられない。
追って来るから逃げる。
だが、俺は巡音のことを嫌いになったわけではない。
その俺の態度がただ煮え切らないだけだというならわかるが、それがあの行動にどう結び付くのか、それがわからない。
「いい加減、ルカちゃんの気持ちから逃げ回ってないで、正面から向き合えばいいんだよ。受け入れるにしても断るにしてもな」
めーちゃんはあんなに素直になってくれないから、羨ましい限りだけどね。
カイトは呟く。
あの無双モードの猛女たる巡音ルカを素直と評価するこいつは、もしかしたらとてつもなく器の大きい男なのかも知れない。
向き合わなければ、かの深夜の鬼ごっこは終わらない。
分かりきっていることではあるが。
(どう向き合うってんだよ……)