俺はその日、唖然としていた。  
 さながらアゴが外れて、地面についてしまいそうなほどに、だ。  
 
 ……というのも昨日買ったばかりの初音ミクのことである。彼女は巷で大人気の、歌って踊  
れるアンドロイド(ガイノイド)だ。  
 可愛らしい顔立ちにぴったり合うコロコロした声色に対して、旧時代のシンセサイザーをモ  
チーフにした硬質イメージのノースリーブにミニスカート、というギャップの激しいいでたちは、  
返って可憐さを引き出し、世のもてない男共の目を釘付けにした。  
 
 結果、決して安い商品でないはずのミクは、メーカーの予想を大きく上回ってヒットし、その  
挙句は街中どこを歩いてもミクがいる、という現象が起こってしまった。  
 あまりにも数が多いものだから、そのうち本物の女に、男がなびかなくなってしまうのでは  
ないか、という危惧さえ生まれ、国連などでは初音ミク禁止条約、通称「ミク禁」が出されそ  
うな勢いだ。  
 まさしく機械の小悪魔である。  
 かくいう俺も例に漏れず、ミクを大枚はたいて購入した一人だったが……なにぶん、貧乏な  
もので中古にしか手が出なかった。  
 
 だが中古というのは、なにがしかのトラブルを抱えていることが多いものだ。それは、PCな  
り車なり、はたまた家なりの中古品を買った事のある人には、容易に想像がつくだろう。  
 ついでに人間も歳を経ると中古と呼ばれるようになるが、やはりトラブルを抱えている。主  
に精神と金銭面でのトラブルだ。  
 ……話がそれた。  
 
 さて、ここまで話せばもうお気づきだろう。  
 そう。  
 俺の買ったミクは、とんでもないトラブルを抱えていたのである。それがどんなものかは…  
…まあ、直接彼女と会話すれば解るか。  
 
「なあ、ミク」  
 
 俺はバーのカウンター横で、電子タバコの蒸気疑似煙をくゆらせる彼女をみつめていった。  
と、彼女は反応して、ふっ、と大きくを電子タバコを吸い込む。  
 先端に配置されたLEDがこうこうと赤らんだ。  
 そして、傍らに置かれたロックグラスを黄金色に染めるホッピーを、ゆるやかに口へ運び、  
 
「ほええ……」  
 
 飲めずに吐き出した。  
 きたない。  
 人間に限りなく近い存在であるアンドロイドだが、基本として飲食はできない。のに、なぜ  
かこのミクは飲み食いしたがる。  
 それもハードボイルド調に決めたがるから、余計と始末におえなかった。  
 しかもニコチンやら強烈なアルコールに触れると、デリケートな生体部品が痛んでしまうの  
で、なにやら可愛らしいものでしか、飲むふりも呑むフリもできない。  
 その困ったミクが、精一杯に妖艶な笑みを浮かべると俺に首をふりむけて、いった。  
 
「なんでしょう、先生」  
「いや、だから俺は先生じゃなくて君のマスターだ……」  
「私にとってマスターが先生ですわ。ねえ先生、いつになったら依頼を受けるんです?」  
「依頼って、何の」  
「やだ、どうしちゃったんですか。先生は探偵でしょう」  
「ただのサラリーマンだよ」  
「またそうやって、私に意地悪するんですね。もう」  
 
 なにがどうなっているのか、彼女は俺を私立探偵だと信じて疑わない。  
 そして自分は、その助手だと思っているのだ。  
 だが俺は探偵ではないし、はたまた刑事でもない。  
 とある大企業に、無理難題を押しつけられながらも、黙々と部品を納めつづけなければなら  
ない宿命の零細下請けメーカーの社員だ。  
 ゆえに薄給である。  
 薄給だから、中古のミクしか買えなかった。  
 ミクは中古だったから、どこかがおかしい。  
 などと三段論法が頭をかけめぐったが、その思考は横からしな垂れかかってきたミクに打ち  
消される。  
 
「ねぇ先生、わたし酔っちゃいました……」  
「飲んでないだろう」  
「先生はまたカミュですか? お強いんですね」  
 
 聞いちゃいない。  
 あと俺はブランデーは飲めない。だいたいカミュなんて高級酒、とても手が出ない……が、  
なぜか飲んでいることになっているらしい。  
 いったい、彼女の視界にはどういう風景が映っているんだ?  
 
 その疑念は、バーを出てからも続いた。  
 ちなみに、本当は仕事があがったらとっとと帰宅したかったのだが、会社から出たらそこで  
ミクが待ち受けていて、バーに連れて行かされたのだ。  
 
「聞き込みをするんですよね」  
 
 と。  
 畜生。なにを聞き込めってんだ。店の売り上げ高か? 余計なお世話だ。  
 俺はやりきれない思いで、街灯の照らす夜道をクタクタになって歩くと、やっと家にたどり  
つく。  
 が、そこでもまだハードボイルドごっこを続けようとするミクは、眠るそぶりも見せずにい  
るからたまらない。  
 結局、その晩は遊び盛りの猫を相手にするかのごとく明かさざるを得なかった。  
 
 ……その翌日。  
 運良く休みであったために、俺はたまりかねてミクの修理を依頼しに、アンドロイドを取り  
扱うショップに足を運ぼうとしたのだが、そこでまた一騒動起こった。  
 
「嫌! わたし、あそこには戻りたくありません」  
「返品するってわけじゃない。ちょっと診てもらうだけだ」  
「あの冷たい世界に居るのは、もうイヤなんです……!」  
 
 何を言っても、まるでシャンプーを拒否する犬のごとく耳を貸さない。  
 こうなってはしかたないので、一芝居うつことにした。彼女がハードボイルドワールドにと  
らわれているとするのなら、解決策はたぶん、こうだ。  
 俺はミクを背中から抱きすくめると、その小ぶりな耳に唄うようにささやいた。  
 
「俺は君を信じている……頼む。君にしかできないことなんだ」  
「先生……」  
 
 効果は抜群だったようだ。  
 ミクは白い頬をぽっと照らさせると、俺からゆっくり離れて、決意したような表情をつくる。 
そのミクを差し置いて、俺はショップの店員に彼女が中古商品保証期間内であることを証明  
し、修理の手続きを進めるのだった。  
 これによって、彼女はしばらくメーカーに送られて修理を受けることになる。  
 しばらくはミクといられなくなるが、仕方があるまい。  
 
(やれやれ……これでやっと、歌姫に来てもらえるかな)  
 
 その想いと共に、一週間待った。  
 そして七日目の夕方頃に修理先の、なぜか修理担当の本人から連絡が入ったのだが、またし  
ても困ったことが起きた。  
 その内容だが、ここから先は会話で記したい。  
 
「お預かりした初音ミクですが、ちょっと伺いたいことがありまして」  
「はい?」  
「じつはですね、思考ユニット部に、とんでもないものが埋め込まれてるんです」  
「えっ、どういうことで……」  
「カセットです。旧世紀の、ファミコンカセットが埋め込まれているんですよ! いったいぜ  
んたい、どうしてこんなことになってるのか、なにか解りませんか?」  
「いやまったく……」  
「そうですか……しかし、こんなもので思考ユニットに変化が起きるなんて、考えられない…  
…お客様。申し訳ありませんが、この個体は引き取らせていただけませんか? 調査したいの  
です。これは中古品ですが、特別に新品で代替いたしますので」  
 
 俺はその言葉にYESという意味の単語を返そうとしたが、次の瞬間、  
 
「先生! 私を捨てるんですか!? ひどい!」  
「起動した!? うそだろ、電源は落としてあンのにっ!!」  
 
 という二つの悲鳴が受話器ごしに聞こえた。  
 どうも色々な意味で予測し得ない事態がおこったようで、俺は慌てて受話器を持ち直すと修  
理担当の人に叫ぶ。  
 そうしないと、さらにやばいことが起きそうだったからだ。  
 
「ミク、捨てないから心配するな! す、すいませんが、とりあえず修理せずにこっちに送り  
返してくれませんか!! 詳しいことはまたお話させていただくってことで!」  
「わ、わかりました……」  
「ところで、ファミコンのカセットって、何が埋め込まれてたんですか? マリオとか?」  
「いえ。外装ごと埋めるっていうのも妙なんですが、タイトルは「探偵神宮寺三郎」でした」  
 
 探偵神宮寺三郎。  
 それは知る人ぞ知る、ハードボイルドな世界観が売りの推理アドベンチャーゲームである。  
 ミクは、そのゲームカセットの影響を受けて、あの奇天烈な言動を起こした……?  
 そんなことがあり得るだろうか。  
 たかが基盤ごときに……。  
 なににせよ、俺は彼女を自宅に送り返してもらわねばなるまい、という念にとらわれた。そ  
れを理論的に説明することは、むずかしい。  
 この場合、俺の中のもう一人の俺がそうするように強要した、としか言えまい。  
 
 ……そんなやりとりがあった翌日に、さっそくミクは返送されてきた。  
 彼女は家に戻ってくるやいなや、俺が約束を破ったと目をつりあがらせた挙句、泣き出して  
しまったから俺は途方にくれた。  
 これでは、まるで本当の人間ではないか。  
 アンドロイドはあくまでアンドロイドであって、その分際を超えることはないように設計さ  
れているはずなのに。  
 俺は、いったい何を買ってしまったのか?  
 その疑問を晴らすためには、いましばらく、このミクとの生活を続けねばならないだろう。  
ハードボイルドごっこをしながら……。  
 
 
終  
 

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