「あ」
僕がリビングのドアを開け放したのと、紅の引かれた唇がそれにかぶりつくのはほぼ同時のことだった。
今日は朝から夕方までマスターと電子世界にへばりついて、ああでもないこうでもないと試行錯誤していた。
どうやらマスターは今日の晩から旅行へ出掛けるとかで、その前にどうしてもサンプル曲を作っておきたいとのことだった。
時間はないと言う割に丁寧に音を作り込むマスターの緻密な作業を横で見ているのは好きで、
その期待に応えたいと思うのは当然と言ってもいいと思う。
その軟禁状態から解放されたオレンジの夕方、へろへろになった僕を待ち受けていたのは、
いくつか空いた黄金色の缶ビールと、枠が余ったらしい半端な時間特有の人気ドラマの再放送。
それから、ソファにだらしなく四肢を投げ出しためーちゃんと、そしてそれから。
「僕のアイス…」
「おっかえり〜」
夏の青空より爽快感に満ちた声と相反して、僕の声はより情けないものに聞こえた。
いや、そんな、初めに言っておくけど。僕は、別に。
冷凍庫に入れておいて、丁寧に名前まで書いて、
今日の自分用ご褒美と決めたとっておきのアイスを食べられたことぐらいで、怒ったりなんかしないけどさ。
うん、本当本当。
「あぁぁあ…僕のプレミアムバニラ…」
「うわっ、何っ?ごめんね?いつまでも食べないからいらないのかと思ってさ…」
「めーちゃん、それはね大事に残しておいたって言うの…
めーちゃんだってプレミアムモルツ勝手に空けられてたら怒るでしょ…?」
「うっ…!それは…」
百面相をするめーちゃんを見て、これはプレミアムモルツをこっそり飲むのはやめた方がいいみたいだと判断する。
よっぽど僕は恨めしそうな顔や声をしていたんだろうか、めーちゃんの眉尻がみるみる下がっていく。
だらしなく寝転がった姿はどこへやら、膝をぴたり合わせて肩を竦めて縮こまるような恰好で僕を見上げる。
「ご、ごめんね…?」
僕と言えば、めーちゃんの気落ちと反比例するように子供じみた気持ちがむくむくと沸き上がっていた。
ちょっとだけ、虐めてみたい。
眉尻を下げたすまなそうなその姿は僕のどこかを激しく抉って仕方ない。
しゅんとしおらしく僕を見上げるめーちゃん。
いつも強気で、明るくて、面倒見がよくて。姉さん姉さんってミク達に慕われているめーちゃん。
普段とは違う一面が垣間見えただけで、僕の血が非日常をもっとみたい、と騒ぎ出す。
アイスの代わりに、これくらいの悪戯、いいよね?
普段なら絶対に有り得るはずのないシチュエーションに、僕は溺れた。
「じゃあさ、許さないっていうのは?」
「え?」
合皮のソファにめーちゃんの肩を沈める。
リビングに置かれた黒いそれは存在感がありすぎて弟妹達には不評だけど、
今の僕には彼女の背中を痛めないためのクッションとして充分すぎた。
ソファがぎしっと軋む音がして、大きな瞳を零れそうなほど見開いた相手とゆっくり視線が合う。
ごくり、と喉を鳴らしてしまうのはしょうがないだろ?だってどうして、こんなに可愛い。
「ちょ、ちょっと何っ?」
「べっつに〜」
起きあがろうとする肩を押さえようと手を伸ばしたら、危険を察知したのか、かかと落としの要領で脚が飛んできた。
めーちゃんは凶暴かもしれないけれど馬鹿力ではない。
綺麗な踵が頭に届く前に、その膝裏に手を入れて胸元まで持ち上げると、
めーちゃんはふにゃっ、とか変な声を上げてソファに再度突っ伏した。自然とすらりと伸びた足の付け根に目がいく。
「あ、黒だ」
「きゃっ!?ばばばばかいとっ、さっきから、何なのよっ…」
「えー…お仕置き、とか?駄目?」
スカートの裾ばかりを気にする手は無視して。
めーちゃんの柔らかな身体を半分に折り曲げて、逃げられないように僕の上半身で体重をかける。
ニコニコ笑いながら、大きな胸を歪ませてる膝頭をぺろり、と舐めると、上がり調子だった茶色い眉がまた下がり始める。
ああもう、そんな表情されたらたまらないの、分かってないのかな。
「カイト、や…っ、」
「めーちゃん、アイスちゃんと持っててね。落としたら僕怒るかも」
「ごめんってば…」
許しを請うような声を無視する。アドバンテージはまだ僕にあるみたいだった。
ぽたり、と甘い汁を垂らし始める僕のスイッチの原因。それを持つ、めーちゃんの手が震えている。
ベランダに向かう窓が鏡だったら、きっと、色欲に飢えた顔をしている僕がいる。
それが、めーちゃんの目にどう映っているかはわからないけど。