スタジオでのレコーディングが終わり、スタッフたちがぞろぞろと帰り始めたとき
メイコは「メイコ、話があるから残ってて。」とカイトに言われた。
元々根が素直なメイコはスタジオから出ることなくカイトを待っていて、
背後からの気配に振り向こうとした瞬間、柔らかな手に側頭部を包み込まれた。
有無を言わさず攫われた頭、彼女の唇を包み込むように唇が重なる。
「ん、ん……ッ!?」
気が付けば冷たい壁に身体が押し付けられていて、男の身体が密着していて、動けない。
男の胸に置いた手をつっぱねて何とか距離を取ろうと足掻こうとしても、
腕から身体からどんどん力が抜ける。
膝の力まで抜け始めてまともに立つことさえできなくなる。
――いつしか潤みきった彼女の瞳を、酷薄な碧がただじっと至近距離で見下ろしている。
「……っ、……ぁん、んん……ぁ、……ぁ、」
何度も何度も押し付けられる唇、深く浅くくり返される口付け。激しく乱暴な、けれど脳髄が溶けるように優しいキス。
たったそれだけで、頭の中がふわふわして警戒がほどけて意識が薄れて心臓がどきどきいって、
身体中力が入らなくて胸についていた腕はいつの間にか彼の胸元、
マフラーの布地を握りしめていてそこだけが力が入っていて。
壁に背を預けても立っているだけでひどくつらくて――身体の奥の欲望が呼び醒まされて。
「……む……う、……っは、ぁふ、……ん、」
カイトが右膝を壁について、そのふとももに身を預けるような形になってしまったメイコは。
自身の身体の芯が熱を帯びてほころびかけている、
そんなはしたない自分が知られてしまわないかと、まとまらない思考の中ただそんなことに怯えていた。
暗い熱と冷酷さを帯びた碧がそんな彼女を映している。どんどん掻き乱されるメイコに対して、
掻き乱しているカイトはまるでいつも通り――いつもより何倍も冷静に見えて。
恥ずかしい。たかがキスだけですべての虚勢を剥ぎ取られていく女に還元されていく、
それはとても恥ずかしい。男を知らないわけではないのに、
身も心もほぐされていくようなこんなキスははじめてで、それに酔ってしまっている自分が恥ずかしい。
恥ずかしい、のに。
身体に力が入らなくて、逃げることができない。
出会った時からずっと、飽きもせずに彼女を口説いてきたカイト。
最初はその言葉の軽さに冗談だとしか思えなくて冷たくあしらって、
軽い言葉の奥に本気を感じ取ってからは不器用なりに真剣に、
けれどやはり受け流してきた。そうして口説かれることは嫌ではない、
それどころか女として嬉しいと少し思ったくらいなのに。
仲間になってもうずいぶん経っていて。それでも今は仕事が第一だと、
受け入れることはできないときっぱりと断ったのはつい先日のこと。
「――そっか、けど望みはあるってことだよね?俺は諦めないよメイコ。」
と、笑い、断ったことに後ろめたさを感じさせない明るい声をもらったのに。
長い長いキスに酸欠になった頭が、ふいに新鮮な酸素を取り入れて少しだけクリアになった。
「……?」
何がなんだか分からない。分からないけれど、唇を離れた熱い感触が顎を伝って首筋に移って、
「……や、め…ぇ…っ」
散々嬲られた舌がなんだか麻痺していて呂律が回らない。
激しい呼吸の合間に漏れた言葉は、単なるあえぎ声にしか聞こえない。拒絶の意思が、自分にさえ感じ取れない。
「な……んでよ、」
引き下がってくれたのではないのか。もっと時間をかけて口説いてみる、と笑っていたではないか。
こんな――力に任せて身体だけ手にして、それをあんたが求めているわけじゃ、ないでしょう。
「やめ、……てよ、……かいと……っ」
力が入らない、けれど今度はなんとかまともに近い声になった。
しなやかな首の後ろに回った手、彼女の首筋をなでていた指の動きが、少しだけ鈍る。
「なんで、いきなり……カイト、あのとき、」
「…」
「あのとき、……わかってくれたんじゃ、なかったの……?」
メイコの目尻にこぼれそうな雫が浮かぶ。
「涙」を武器にするなんて、本当はぜったいしたくないのに。
けれど他のどの手段もこの男には無意味なことを、長い付き合いの中で知っているから。
――違うわ。
頭の中で声がする。
――普段の私がどうであれ、この男の前では女でいたいのよ。
拒絶しなければと思う心は本物で、けれど呼び醒まされた欲望は男を欲しがっている。どちらも真実本心からで、
この先事態がどう転んでも心の一部はそれを歓迎する。心の一部はそれを嫌悪する。
全部全部メイコには分かっている。全部全部カイトに見透かされている。
拭われない頬の涙が示す意味を、互いが互いに分かっていて、
「――メイコが悪いんだよ。」
冷たい声色に矛盾して優しく頬を包むてのひら。反対側の頬を濡らしているしずくを優しく舐め取られて、
そこに触れる熱い舌の感触だけが妙にリアルで、
「俺はメイコのこと、死ぬほど好きなのに、」
「っ、……ぅ、?」
いったん息を吸って言葉を区切るカイト。
「俺だけ見てて。どんなこと考えてても良いから、どんな感情からでもいいから、他の人なんか見ないで俺だけを、」
「――、っ…!」
一気にそう言って、頬から――耳に熱い息が触れて軽く歯を立てられて、じんとした甘い感覚に小さな悲鳴が漏れる。
びくんと弓なりになった身体をなだめるように腕が回って、
逆の頬の涙も舐め取られて、近すぎる距離が怖くて――そのくせ遠すぎてもの足りない。
「な、んの……ことよ……っ、」
「――マスター」
「んあっ!」
服の脇からもぞりとてのひらが入り込んで、その感覚に大きく跳ね上がる。それとも、その名前に反応したのかもしれない。
ざわりと肌が粟立って、ぞくぞくとした感覚が続く。
どうしようもないくらい、疼く。
「マスターの事ばっか、気にしてるメイコが…悪いんだ。今日だってメイコはマスターばっかり見てたじゃないか。」
「なっ、!」
ボーカロイドにとってマスターは歌う理由、存在する理由。
それはカイト自身にもわかっている。
しかしメイコにとってマスターとは「理由」以上の意味を持っていた。
そうして常にマスターに意識を向けていることが、そんなメイコが、この男には気に食わない、らしい。
メイコは新しい涙の浮いた目を見開いた。
「……こ、の、ばか……っ、ばかいとっ、」
「知ってる。ただの嫉妬だよメイコ、そんなこと分かってる。」
「……ぁ……っ」
胸元に手がかかり、ぐっと胸元がひろげられて、そこにこもった熱が外に逃げて外気が冷たいと―
―思う前に肌に触れた、ねっとりとした感覚。
「ふぁ……っ」
胸の谷間に生まれた熱くぬめる感覚。
見た目よりもやわらかな髪が中途半端に露出させられた肌に触れて、それがくすぐったい。
力の抜けた自分の手がいつの間にかカイトの頭に回っていて髪を抱いて、
彼を止めようとしているのかただ悶えているだけなのか、
自分のことなのにそれが分からない。身体の疼きは続いている。
体の芯がほころんであふれそうになっていることなど、この男にはとうにお見通しなのだと思う。
疼きが欲望が、爆発的に膨らんでいく中で、
「……だ、め……っ」
理性とつまらない意地が、最後の一線にからみ付いていてメイコはそれから自由になれない。
「――やだ……カイトっ…」
「…メイコ…」
甘いささやき、ぴくんとひとつはねたことでぱらりと散った涙の珠。
胸元の動きが不意に鈍くなったことにこわごわ目を開ければ、
どこまでも静謐なくせに――芯にどろどろした熱を孕んだ碧が、――愉快そうに妖しく、細くなって、
「――そう、だね、メイコ……こんなとこでってのもなんだよね」
その口元がにやりと意地悪く緩んで、
拍子抜けするほど呆気なく身体が離れて、もはや完全にもたれかかっていた脚を抜き取られて、
背後の壁に頼ることでメイコは何とか自力で立っていようとする。のに、
「続きは今夜メイコがベッドに入る時に、」
「っ」
――覚えてて。
耳元でささやかれた掠れた低い声はメイコの膝を折るには十分すぎるほどだった。
そのままなにごともなかったかのように空色のマフラーの裾が開いたドアの向こうに吸い込まれる。
冷たい床にへたり込んだメイコはそれを呆然と見送って、身体を苛む疼きにぎゅっと自分の肩を抱く。
「……ばか……っ」
ぽろぽろと彼女の頬を伝ってこぼれていくしずく。
安堵よりも寂寥感が強い。火照った身体に変な風に乱された服が気持ち悪くて、
床に直接つけた脚がとても冷たくて淋しくて。
ぽろぽろとこぼれる涙が止まらない。疼く。気が狂いそうなほどの飢餓感に、涙が止まってくれない。
「ばか……っ!」
こんな疼きを抱えて、どうしたらあの男のことを忘れられるだろう。カイト以外のことを考えられるだろう。
「ばかぁ……っ!!」
疼いて切なくて淋しくて。カイトの策略に絡め取られた自分が悔しくて――
早く夜にならないかと、思ってしまった自分が情けなくて。ぽろぽろと雫がメイコの頬を伝う。
「かいとぉ…っ」
この体と心、どうしてくれるのよ。
どうしようもない思いを、誰もいない部屋でそっと呟いた。
END