浴室灯のだいだい色の光に、水に濡れた少年の裸が照っている。  
 若駒のようなみずみずしい肢体を反らし、あおむけた顔に熱い湯を受けていた。  
 
 少年――鏡音レン――男性型ボーカロイド――同期開発された鏡音リンとともにもうじき公式デビューを予定――は、狭いバスルームでシャワーを浴びている。  
 人心地ついて快さにため息を洩らす。  
 
 お湯にリラックスしながらも、かれは少し気が重かった。  
 酔いつぶれる寸前の人に関わった結果、こうしてその部屋まで上がってシャワーを借りている。  
 
(おかしなことになっちゃったなあ)  
 
 最初は、住んでいるというアパートまで送ったらさっさと引き返すつもりだったのだが、頭から泥水をかぶったのがまずかった。  
 同じく冷水を浴びてしゃっきりしたらしい女性は、彼女よりひどい濡れねずみになったレンを見ておろおろした。  
 だが彼女は、決断を下すと意外に行動が早かった。  
「服を乾かすから、うちでシャワーを浴びていきなさい」と、レンを部屋に引っ張って連れてきたのである。  
 
 夜も遅いしお邪魔はちょっと、と辞退に努めたのだが、「濡れた服で雪のなかを帰って、肺炎になったらどうするつもりなの」と涙を浮かべて怒られた。立場が逆転していた。  
 レン自身が彼女に「健康は大切に」的な説諭を垂れた直後だけに、そう言われると突っ張りづらいものがあり、押し切られたのだった。  
 
(弱音ハク……さんか)  
 
 頭を洗いながら考える。陰のある、幸薄い感じの人だ。  
 ちょっと変な人でもある。  
 雪の夜で人通りが絶えていたとはいえ、天下の往来で這って吐いて泣いて、弱音を垂れ流してと、行動が見事なほどに酔っぱらいだった。  
 理性を取り戻したらしき本人の懸命な言い訳いわく、「ここまでひどく酔ったのは久々で」ということだが。  
 
(よく見れば綺麗な人だったのにな。ああもだらしなくなるまで飲まなくても……  
 ううん、やっぱりそれだけ苦しいんだろうな)  
 
 バスルームに入る前に見た四畳の室内を起こす。  
 一心に打ちこんで、それでも決して浮きあがることのないアーティストの、生々しい妄執が染みついている部屋だった。  
 
 デスクトップ周辺はスピーカーや音源モジュール、シンセサイザーなどDTMのための機材で埋められており、壁際の本棚には種々雑多な音楽の資料が並んでいた。  
 ポップス、クラシック、ジャズ、フォークソング。ラックに収まりきらない大量のCD。作詞の参考のためか、古今の詩集をはじめ多くの書物。  
 印刷された楽譜。ノートの切れ端に書き付けられた歌詞のアイディア。大量の紙片の一部は床にまで散らばっていて、ハクは慌ててそれを片端から拾い上げていた。  
 
 けれどそれだけの光景なら、心に焼き付きはしなかったろう。  
 レンの目が止まったのは、見苦しい散らかりようを謝りながらあたふたと片づけている彼女の後ろだった。  
 部屋の隅に林立するおびただしい数の酒瓶。  
 その大量の空のガラスが、荒廃した寂しい印象をかもしだしていたのだった。  
 
(何か、してあげられないかな)  
 
 同情の念を重ねて抱きながら、レンは淡々とシャンプーの泡を流した。  
 と、背後の脱衣所のほうで扉の開く音が聞こえ、すりガラスの戸ごしにハクの声が響いた。  
 
「タオル、持ってきたから……」  
 
「あ、うん。ありがとうございます」  
 
「お風呂、私も入るね」  
 
「うん――――えぇ!?」  
 
 信じがたい言葉に、仰天して振り向く。  
 ほんとうにガラス戸が開き、バスタオル一枚を体に巻きつけたハクがするっと入ってきた。レンは慌てふためいて手で前を隠そうとする。  
 
「ちょ、ちょ、ちょっと、おねーさん何してるの!」  
 
「私も濡れてるから服抜いだら、寒くて」  
 
 そのとろんとした目と声に、レンは悟った。  
 このひとの酔いが醒めたと思ったのは間違いだったらしい。  
 
「で、出るから、僕っ」  
 
 レンはわたわた焦りながらハクの横をすり抜けようとした。その前に、白い腕が伸びて、少年の首筋にふわりと投げかけられた。  
 すがるように抱きしめられていた。  
 バスタオル越しに女の柔らかさが密着してくる。服を着ていたときスレンダーに見えた体は、胸や腰に、平均以上に豊かな柔味を隠していた。  
 
 硬直しているレンの濡れた髪に頬をすりよせて、ハクがささやいてきた。  
 
「ねえ……キスしてもいいかな、きみに」  
 
 嫋々として沈みゆくような、色香が匂うかすれ声。レンの心臓がはねる。  
 レンは吸い寄せられるように顔をあげ、正面、間近から彼女の顔をまともに見あげた。  
 
 さらさらで銀糸のように光沢がある白い長髪と、蠱惑的な赤目というアルビノの相。  
 透きとおるような雪白の小顔、すっきり通った鼻梁、花弁のような唇。  
 魔性の目を持つ銀狐の妖しさ――暗いかげりのある美貌が、静かに瞳を据えてかれを見つめていた。  
 その、ぞっとするほどの凄艶さに、レンは狼狽の鼓動がおさまらない。  
 
(さ、さっきまで外で小さな子みたいにわんわん泣いてたくせに……)  
 
 女は化生というけれど、これは雰囲気が変わりすぎだろうと感じる。  
 アルビノに生まれた人の赤目は、魔女狩りの時代には魔女や悪魔の持つ邪眼とされたというが、一対の赤い瞳に見つめられているレンにはその理由がよくわかった。  
 血の色に不安になり、心がざわめかされるのだ。金縛りにあったように、体が動かない。  
 
 と、その赤目がぱちりと閉じる。ハクが唇を重ねようと、ん……と美貌を近づけてきた。  
 それで幸いにして赤目の金縛りが解けた――レンはとっさに顔をそむけて制止の声をあげた。  
 
「おねーさん、おねーさん酔ってるってば」  
 
 実際のところ、少年は赤い瞳に魅入られそうになりながらも、性的興奮からはほど遠い状態にあった。股間のものは小さく縮こまったままである。  
 妖しい魅力というのは度をすぎれば萎縮の対象になるのだ。  
 大人の女性に慣れてない年齢ということもあって、魔女に誘惑されているような気分だったのである。  
 
 けれど、ハクの腕をふりほどこうとしたとき、彼女の「あ」という不安そうな声が聞こえた。  
 それでレンはもういちど彼女を見た。ハクは自信のなさげな、拒絶されることを怯える表情になっていた。  
 
「キスしちゃ駄目?」  
 
「…………」  
 
 困惑し、黙っているレンに、ハクは眉を下げた泣きそうな顔で必死に説いた。  
 
「だいじょうぶ、汚くないよ。さっきちゃんと歯をみがいて、お茶で何回もお口ゆすいだから」  
 
「そういうことじゃ……あの、なんでいきなり、こんな」  
 
「だって、寒い……」  
 
 ふたたびそう答えられて、唐突にレンは気づいた――誘う妖しい響きと聞いた声は、よくよく耳をすませれば、震えを帯びた弱々しい声だった。  
 もうそれは、魔女の誘いには聞こえなかった。凍えるような暗がりをずっと歩き続けてきた犬が、寂しげに鼻を鳴らす音だった。  
 
「寒い。もうずっと寒いよ。お酒飲むときだけ少しあたたかいの。  
 そばにいて。今夜はもう飲むなっていうなら、かわりに温めて」  
 
 本音を口にして肌をすりよせるだけの、誘惑とも言えないような不器用なアプローチ。  
 すがるように、ではなく、ハクは本当にすがっていた。  
 声だけでなく女の体も、緊張に震えている。そうと知って、いまだ動揺しながらも、レンは体の力を抜いていた。  
 
 直感がおぼろげに感じとったのである。  
 自分がしたのはおそらく、暗がりに踏み込み、歩き疲れてうずくまっていた犬を撫でたのと同じだったのだと。  
 手の温もり恋しさに、弱っていた犬がとぼとぼと後をついてきた。今の状況はたぶんそういうことだった。  
 
 二度目に顔を寄せられたときは、拒めなかった。  
 
¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥  
 
 一夜明けて、雪もやんでいた。  
 
「ううううう」  
 
 裸に適当にYシャツ一枚を羽織り、布団の上でひざをかかえたハクの顔は青い。  
 
「私の馬鹿」  
 
 その顔色の悪さはむろん二日酔いのせいばかりではない。  
 
「未成年……未成年に手を出しちゃった」  
 
 睡眠を経て完全なしらふに立ち返るや、戻った分別にせっつかれ、恐る恐るレンに年齢を聞いた。14歳だった。アウト。法律的には完全に、人としてもたぶんアウト。  
 
 そういうわけで、カーテンが開けられて朝の光が室内に差し込んでいるというのに、ハクの周囲だけ雲と暗黒がたちこめていた。  
「連れ込んで迫るって……」「しかも子供に……引くよね……」「どぶに落ちて人知れず溺死か凍死しとけばよかったかも……」などなど、へこたれた台詞を連綿と吐いている。  
 
 その背後のキッチン周りでは、乾かした服を着たレンが、リスのようにちょこちょこと動き回っていた。クルミよろしく、味噌の入った壺を手にして声をかけてくる。  
 
「おねーさん、味噌と昆布は見つかったけど鰹節どこ? それと味噌汁に入れる具なにかある?」  
 
「え……あ、鰹節はいま切らしてるから……  
 出汁用の魚ならそこの収納庫にアゴが……具は冷蔵庫に玉ねぎと豆腐が」  
 
「へえ? アゴって何それ、聞いたことがないよ――ほ、ほんとになにこれ?」  
 
 床下の乾物収納庫から見慣れない魚のミイラを引っ張り出したレンが仰天している。「それ。アゴ」とハクはうなずいた。トビウオの干物である。  
 
「出汁用には砕いた粉を使うんだけど……粉末にして袋に入れたのがもう少し奥にあるよ。出汁用の紙パックもそこに。  
 って、待って、朝ごはんくらい私が作――あいたたた」  
 
 立場を思い出し、あわてて立ち上がりかけたところで割れそうな頭痛。  
 がんがんする両のこめかみを押さえて突っ伏したところで、レンの呆れ声がかけられた。  
 
「いいから任せときなよ。二日酔い覚ましの味噌汁くらい作れるから。  
 じゃ、エプロン借りるよ、すこし待ってて。それとそろそろちゃんと服きてほしいんだけど」  
 
 顔をそむけたレンの、目のやり場に困るといった表情で、ハクは自分のしどけない格好にようやく意識を向けた。  
 
「あ、う、う」  
 
 失笑なことに小娘じみた羞恥心がわき起こり、ハクはとっさに毛布で半裸の体をくるんだ。顔だけ毛布の外に出したまま涙目で文句を言う。  
 
「は、早く言ってくれればいいのに」  
 
「あのさ……いまさら常識人ぶっても無駄だからね。ゆうべはおねーさん、すごかったんだから」  
 
 頬をリンゴのように染めて、エプロンをつけたレンがジト目で見てきた。  
 言われてハクの脳内にも、昨夜の諸々のあれやそれが、鮮明に再生された。  
 レンと同じく、面に夕くれないの色を帯び、しどろもどろに言い訳する。  
 
「えーとね、いやあれはその、飲みすぎてたからで、つまりお酒の…………そうだ、今後は限度越えて飲みすぎないようにしないと」  
 
「『すべてはお酒のせい』ですか。大人って汚いよね、ホント」  
 
「ううう……君だって最後はあんな……あ、あんな……なんだか、そのー、危険な人になってたじゃない……」  
 
「…………」  
 
 この話やめよう。  
 双方がアイコンタクトで合意に達した。続けても、お互いの恥ずかしい記憶を際限なく掘り起こすだけだと気づいたからである。  
 赤面しきった顔をそむけて、レンはキッチンに戻っていった。  
 
 ハクは衣装だんすから探し出した下着と服を手に、レンの後ろをこそこそ通って脱衣所に入った。  
 たばねた髪を解くと、流麗な銀光がふわっと広がる。Yシャツを肩からすべり落とすと、気弱な性格とは不釣合いに妖美な裸身が、肌を白くおぼろめかせた。  
 バスルームのシャワーのノズルを回す。  
 雨滴の下に、官能味をたたえた部位を揺らして大人の肢体がたたずむ。  
 
 そうしながら、昨夜のことにあらためて思いを馳せていた。  
 あれは、この場所で始まったのだった。  
 
(法律違反だから駄目だけど……でも、すごかったな……  
 なんだろ、あれ……私、怖いくらい感じてた)  
 
 肌の相性というものなのだろうか。  
 燃えあがった火の色があまりに濃すぎて、記憶の細部がぼんやりしている。  
 一抹の不安がある。あんなものを知った前と後では、体が変わってしまっているような気がした。  
 昨夜一晩で、神経のすみずみに、愛艶の楽の音が浸透したような感がある。  
 
(なんだか、カラダの奥に染み付いちゃったみたい……忘れられるのかな、これ……)  
 
 情交の汗をシャワーで流しながら、瞳の色を蕩かして、けぶるような甘い吐息をつく。まろやかな腰の曲線が、知らず、ひくんと震えていた。  
 と、バスルームの鏡に、陶然としたみずからの表情が映っているのに気づいた。  
 それで、より紅潮を強めた顔を覆い、ハクは水煙のなかにへたへたとしゃがむ。朝から考えることではなかった。  
 
(いままで気にしなかったけど、欲求けっこう強いのかな、私……)  
 
…………………………………………  
 
 座布団とちゃぶ台。  
 味噌汁と、皿に乗ったおにぎりと沢庵だけの簡素な朝食が用意されている。  
 
(美味しい)  
 
 作ってもらった味噌汁の椀に口をつけて、ハクはしんみり感動していた。  
 実家を出て以来の「人の作ってくれた味噌汁の味」に、舌鼓を売っているのである。  
 
 レンは、汁物の椀と箸がひとり分しかなかったので、ハクの茶碗とスプーンで味噌汁を飲んでいる。  
 と、黙然となにごとか考えるふうだったレンが切り出した。  
 
「あの……ハクおねーさん」  
 
 そう呼びかけられて、ハクはむせそうになる。  
 
「急になに……レン君」  
 
「なに驚いてんの」  
 
「だって、いきなり名前を呼ばれたら……」  
 
「何言ってるのさ。そっちは僕のことをいつのまにかずっと名前呼びしてるじゃないか」  
 
 言われて、そのことにやっとハクは気づいた。  
 どの時点からとかは克明に思い出したくない。また赤面するので。  
 そんな微妙な含羞をハクから感じとったのか、レンがからかい混じりの笑みを浮かべた。  
 
「このさいだし、いっそもっとフランクにハクねぇとか呼んでいい?」  
 
「な、何か言うことがあったんじゃないの?」  
 
 少年バージョン小悪魔のいたずらっぽい笑顔にどぎまぎしながら、ハクはなんとか平静をたもって流した。  
 子供とはいえ、男とのこういう会話には慣れていない。  
 レンはうなずいて、言った。  
 
「僕、これ片付けたら帰るよ。ハクおねーさんが寝てるうちに電話したけど、家のほうでは心配してたみたいだし」  
 
「あっ……」  
 
 相手が子供である以上、一夜家に戻らなければその家族は心配して当然だ。その社会常識にハクはようやく思い至った。  
 
「ごめん! ……ごめんなさい……」  
 
 消え入りそうな声で謝り、ハクは頭をうなだれさせた。  
 レンが昨夜寄り道したのはハクのせいだし、ここに一晩中引き止めたのもハクだ。酔っていたことや落ち込んでいたことなど言い訳にはならない。  
 
「あ、あの、引き止めちゃったことについて、ご両親には私から説明を」  
 
「……どう説明するの? それは別にいいよ。  
 それに僕、両親はいないから」  
 
 レンが何気なく言ったその言葉に、正座していたハクは目を見開き、座布団の上で背をぴんと伸ばした。  
「?」とけげんな顔つきになっているレンの前で、赤い瞳が急にじわっと潤んだ。  
 
「ごめんね」  
 
 涙ぐまれて、今度はレンがうろたえる。  
 
「な、何? いったい」  
 
「そんな大変な事情を抱えていても、レン君はこんな良い子なのに……  
 私なんて社会人のくせに、みっともなく酔いつぶれて、弱音を吐いてレン君に甘えて迷惑かけて……」  
 
「ええと、誤解が」  
 
「比べれば比べるほど私って、どうしようもない大人……」  
 
「違うってば、もー。先走ってひとりでずんずんブルーになんないでよ、難儀な人だなあ。  
 両親云々はひとまず置いてて。とにかくハクおねーさんは気にしなくていいの。一夜家を空けたくらいなんともない環境だから」  
 
 でも今日予定してる調音をすっぽかしたらリンやMEIKOさんに殺されかねないかも、とつぶやいたのち、レンは時計を見て難しい顔になった。  
 
「……うーん、ちょっとゆっくりしてられないや。僕そろそろ片付けて行くね」  
 
「あ……」  
 
 味噌汁を一息に飲みほしてレンが立ち、シンクに食器を運んで洗いはじめた。  
 ハクは立ち上がったかれについ声をかけようとして、結局「……うん」とうなずいていた。引き止めることなどできるはずがない。  
 
(そうか……もう、いなくなっちゃうんだ)  
 
 寂しい。顔が暗く伏せてしまう。  
 思えば昨日は、ここ数年来の沈んだ日々のなかでも最低の一日になるはずだった。  
 そんなときに、レンが道で声をかけてくれたおかげで、ハクは癒されたのである。  
 だれかがそばにいて鬱屈と孤愁を埋めてくれた希有な時間だった。  
 
 それもこれで終わり、またいつもの日々に戻る。そう思えば、別れに心が沈まざるをえない。  
 ないけれど――  
 心を奮い立たせてハクは無理やり顔をあげる。  
 
 ぱちんと、両頬を自分で叩いた。  
 ひりひりした痛みとともに噛み締めた。  
 
(甘えるのは、いいかげんにしなきゃ)  
 
 しょせん一夜の縁だし、それも強引に引っ張り込んだのはハクである。あっさりさよならを言われたからといって、気落ちするような資格はない。  
 せめて、名残惜しく感じていても、しんみりした顔は見せまいと思う。  
 そう腹を決めたところへ、声が横槍を入れた。  
 
「ハクおねーさん」  
 
「あ、う、うん、何?」  
 
 食器を洗い終わるやいきなり戻ってきたレンは、エプロンを脱いでハクの対面に座り、口を開いた。  
 
「あのさ……僕も音楽、好きなんだ。  
 そんでね、そこの本棚の本、帰る前に一冊か二冊借りていってもいい? ポップスの歴史とかちょっと面白そうだし」  
 
「え」  
 
 その申し出に、ハクはきょとんとした。  
 レンがなぜか少々ぎこちない早口でさらに言う。  
 
「もちろん、ちゃんと返しに来るから」  
 
「えーと……いいけど」  
 
「よかった。それじゃ、メアドと携帯番号、僕のと交換しよ。返しに行く前にはちゃんと連絡とりたいし。  
 ちょっとケータイ貸して」  
 
「え、うん」  
 
 急にどんどん言われて思考はすぐにはついていけなかったが、手のひらを出されて、つい体が動く。ハクは数年買い換えていない安物の携帯電話を取り出し、レンの手にのせた。  
 ハクの携帯には赤外線通信機能がない。受け取ったレンが直接アドレスを打ちこみはじめる。  
 
「こっちのケータイにメール送信……登録っと……よし終わり。  
 はい、ども」  
 
「あ、うん」  
 
 ハクはずっと、鳩が豆鉄砲を食らったような表情である。  
 徐々に話がのみこめてくるほど、何を言えばいいのかわからなくなっていった。  
 
 向い合って正座しつづけたまま、なんとなく顔を見つめ合って黙る――といっても重苦しい沈黙ではなかった。  
 春の日向にいるような微妙にふわふわした空気が、間にはさまっていた。  
 
 やがて、レンが腰を上げて、ハンガーにかけられているジャケットを取った。  
 
「それじゃ、これで。昨日みたいに外で無茶飲みしちゃ駄目だよ。  
 辛いことあったら、僕でよければいつでも聞くから」  
 
 キッチンを通りながらレンは、冷蔵庫の上に移されている幾多の酒の空き瓶にちらりと目をやった。  
 ハクは知る由もないが、このときレンは内心で、どうも本気でほっとけなくなっちゃった、とつぶやいている。  
 少年は、玄関で靴を履き、見送りに出てきたハクに言った。  
 
「その気があるなら、そのうちに引き合わせるから、賑やかなのと色々知りあってみない?  
 長ネギを手放さない変態はじめ、変な連中だけど、根が底抜けにいい奴らだから。時間あるときみんなで遊びに行こ」  
 
 戸口を開けたところで最後に振り向き、ふわりとほほ笑んだ。  
 
「また来るね」  
 
…………………………………………  
……………………  
……  
 
 レンが帰っていった後の部屋で、ハクはぼうっと宙を見ながら、少年の言葉をつらつら反すうしていた。  
 
 また来る――  
 
 心臓が甘酸っぱい熱をもち、だんだんと鼓動が高まる。  
 胸が浮き立つ。音楽では何をしても評価されない状況は、今日以降も続いていくだろうけれど、それさえ以前ほどには辛く感じない。  
 どうやら、ひとりきりではなくなったようだからだ。  
 また、来てくれる。  
 
「うふふ」  
 
 浮ついた幸福感に、口元をゆるませ、ハクは染まった両頬を押さえた。  
 胸がほこほこと温かかった。こんな幸せな笑み、何年ぶりだろう。  
 人生、そう捨てたものじゃない。  
 
(なんだか、やっと運が向いてきたような気がする)  
 
 そうだ。何をしても評価されないなんてネガティブな思考はやめよう。  
 アーティストとしても、これからは少しは売れていくかもしれない。  
 
 前にもまして技術を磨き、努力しよう。  
 決して贅沢は言わない。この道で成功しようなんて夢はもう見まい。大好きな道をちょぼちょぼ歩みながら胸を張れる程度に、昔みたいに平均的な数字を出せたらそれでいい。  
 現在のような「駄目なアーティスト」ではなく「平凡なアーティスト」に戻れたらそれでいい。  
 
 少しずつやろう。路上パフォーマンスでは、誰か一人二人くらいが足を止めて聞いてくれるだけで笑顔で唄える。  
 CDが一度でもオリコンチャート圏内に入ったら、それで胸いっぱいになれる。  
 ついでに、ニコニコに歌を流すときは、ツマンネ以外のコメントを十個もらうことを目標にしよう。  
 
 そうだ、そのくらいならきっと私でも、頑張れば達成出来る。  
 
 
 ――と、このときは性懲りも無く思っていた。  
 
 

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