ホイコーロー♪ ホイコーロー♪
キッチンから、中華鍋の中身をかきまぜる音と、調理している鏡音レンの鼻歌が流れてくる。
通っている中学も春休みというので、レンが最近毎日のようにハクの部屋に来るのだった。
炊飯器をキッチンから運んできたハクは、部屋のちゃぶ台にそれを置くや、エプロンを解きもせずそそくさと室内を横切った。
押し入れの下段に隠していた一升瓶をすばやく取り出す。
ふたを開けて、コップにちょろちょろと注ぐ。
間髪をいれず、コップに口をつけてぐーっと傾けた。
甘く冷たい、口当たり爽やかな――ミネラルウォーターの味だった。
「やっぱり……最後の隠し場所まで見つけられた……」
両手とひざをついて床にくずおれる。
ちょうどそのときレンが、料理を盛りつけた大皿を持って部屋に入ってきた。
「あ、またこっそり飲もうとしたんだ。だめだよハク姉。一週間分の量は守って飲まないと」
「だ、だからって、ふつう人んちの酒瓶の中身を残らず水に入れ替える!?」
「捨てたわけじゃないよ、ちゃんと保管してるから大丈夫。
週末にはまた日本酒一本持ってきてあげるから。ワインやウイスキーのほうがいいならそう言ってね。
わかってると思うけど、外で飲んできちゃだめだよ」
「うう、一日一合ちょっとのお酒なんて飲んだうちに入らないよう……
なんで私、レン君にアルコール摂取量を管理されているの……?」
「それはハク姉が慢性アルコール中毒寸前だったからです。『酒切らすと手が震えるようになる前に飲酒量を見直せ』と、お医者さんに言われたでしょ」
「ううう……」
このまえ、徹夜で作曲した翌朝、訪問してきたレンを出迎えたときに目まいがして、廊下で派手にぶったおれたのがまずかった。
泡を食ったレンがタクシーを呼び、ハクは最寄りの病院に連れて行かれた。
そこで検査された結果、倒れた原因自体は単なる貧血と判明したものの、「不摂生な生活をどうにかしないと何度でも倒れるようになるよ」と医師には怒られた。
付き添ってそばで聞いていたレンが、以来、やたら健康にうるさくなっている。
「それより、お昼ごはん熱いうちに食べようよ」
「はい……」
諦めておとなしくちゃぶ台に皿を並べ、炊飯器から炊き込みご飯をよそう。ふたりで座っていただきますと手を合わせた。
レンが作ったのは野菜たっぷりホイコーローと、春掘りアサリの赤だし味噌汁。
ハク手製の料理は、旬のタケノコの炊き込みご飯と、同じく旬のアスパラ白味噌和えである。
これお酒に合うのに、とか未練がましく考えながら、ハクはもそもそ食べる。
カーテンを開けた窓からは、うららかな昼の陽光が差し込んでいる。
まったりした空気の中、レンが話題をふってきた。
「すっかり暖かくなって、もう完璧に春だよね」
「うん……ぽかぽかして、バイトしててもお客さん来ないとつい日中から眠っちゃいそう」
「あー、わかる。午後の眠気はヤバいよね。教師の声が、教壇から流される音響催眠波になってる」
「……大人としてはたしなめるべきかもだけど、よくわかる……」
己の学生時代を思い出してハクは遠い目になった。
箸をにぎりしめたレンが、身振り手振りをまじえ、憤然とした様子で力説する。
「わかるでしょ!? 年取ってる歴史の先生なんか、ネクロマンサー並の使い手だよ。
『せぇん よん、ひゃく にー、じゅうぅ はぁち、ねん しょー、ちょー、のぉ どいっきぃ』って、経文読み上げるみたいな低音でゆっくりリズムとって話すんだもの。
もはや睡眠呪文だよ。あれ卑怯だよ。生徒の意識を刈りにきておいて、後日に授業開始三十分目あたりのとこを容赦なくテストに出すんだから!」
「くっ」
食事中に噴きかけて、ハクはあわててうつむいてこらえた。
楽しそうに肩を震わせるハクを見て、レンが「脱線しちゃった」と恥ずかしそうに話題を戻した。
「暖かくなっただけあって、来るとき見たら公園の桜並木が三分咲きだったよ。お花見シーズンが近いね」
「あ……もうそんな時期なんだ」
「だからハク姉、みんなでお花見行かない?」
「え」
肉をろくに噛まずにごくんと丸のみしてしまう。ハクは目を点にしてレンを見つめた。
レンはうなずいて朗らかに続ける。
「来週の日曜だけど、仕事場の仲間とお花見行くんだよ」
「えっと……それって、レン君がよく話に出しているひとたちと……?」
初音ミク。
鏡音リン。
綺羅星のごとく現れるや、わずか数カ月にしてミュージック界を席巻しつつある、絢爛たる新人たち。
彼女らをプロデュースする会社は、MEIKOやKAITOなどの、当代に君臨するアーティストたちが名を連ねている業界の大御所だ。
それを、
「そう。僕の姉や先輩や、同僚。友達になったら楽しい連中だよ。
きちんと紹介するから、予定がないならハク姉、いっしょに行こうよ」
レンはあっさり言ってのける。少年は善意にあふれる笑顔だった。
「私……その……」
ハクは窮する。どう答えればいいかわからない。
誘ってくれたこと自体は嬉しい。けれど気乗りがしなかった。
その“楽しい連中”と友達になってみないかと言われても、気が進まない。はっきり言えば会いたくない。それが本心だ。
何を話せばいいのかわからないとか、それ以前の問題なのだ。
(一緒にいたら絶対、いたたまれなくなる……)
せめて無関係の業種だったならともかく、まがりなりにもハクはアーティストだ。
……ド底辺の。
底辺といっても、そんじょそこらの「売れていないアーティスト」程度ならまだいいのだ。底を突き破った二番底に落ち込んでいるのがハクなのである。
ハクの歌の売れなさときたら、「音楽家としてのあの人とはいっさい関わりたくない。ツキが落ちる」と周囲の業界人から軒並み忌避されるほどのひどさだ。
新人ですらないだけに、肩身の狭い思いは並大抵のものではない。
そんな業界の恥である自分が、業界のトップを突っ走る人たちとお花見?
無茶を言わないでほしい。胃に穴が開く。
もしも自分のことを知られていたりしたら――悪い意味で名が広まっているのでありえなくはない――もう面も上げられなくなりそうだ。
レンをどんよりと見る。
かれはにこにこして返事を待っていた。この屈折した暗い心情を、かれにどうやって伝えたものだろう。
太陽に向いたひまわりを思わせる無邪気な笑みが、心に痛い。
ひがんだ気分が、むくりと胸のうちで頭をもたげた。こういう時、それとなく察してくれたらいいのにと。
(……こういう機微、最初から売れっ子のレン君にはわからないんだろうな)
かれもアーティストだと、今ではむろんハクも知っていた。
鏡音リンの弟であり舞台上の相方。若干十四歳の天才双子ボーカリストの一人。現在、初音ミク以来の大物ルーキーとして快進撃を続けているところだ。
栄誉の光と賛辞の声しか知らない、挫折したことがまだない歌い手。ハクとは対称の存在だ。
だからたぶん、ハクのような負け犬が抱く、黒い泥のような劣等感はなかなか想像できないのだろう――
我に返った。
(ばかっ!)
強い後悔とともに、ほぞを噛んだ。
かれだけはそういう醜い目で見まいとハクは心がけていた。自分の劣等感も嫉妬も、寂しさをぬぐってくれるこの子にだけは向けたくない。
そうだ。うじうじせず、きちんと向きあわなくては。顔を上げる。
「ごめんなさい。その日はバイトが」
…………正面から向きあうやいなや、ザリガニよろしく後ろにはねて逃走。
それはそれ、これはこれである。せめて新人だったころの売り上げ成績を取り戻すまでは、あの初音ミクに会う勇気などないのだった。
「ええとね、お花見シーズンはかきいれ時って店長が……私、生活費稼がなきゃなんないし」
けんめいに言い訳をつむぐ。ついでに自分の心にも言い聞かせる。
(ギリギリ嘘じゃない、嘘じゃない……よね?
まだ確定してなかったけど、バイトには出ようと思ってたんだもの!)
本当は、酒をあまり買わなくなった分、生活上の出費は少し減っている。だが、貯金を使い果たした今、余裕が無いのもたしかだ。
今日の人並みの食卓は、レンが来るたび買ってきてくれる(なお、かれのアーティストとしての印税収入はハクよりはるかに多い)食材を足して整えたものである。
残念そうな表情になったレンが「バイトかあ。しょうがないね」と、しぶしぶ納得してくれた。
ハクは罪悪感で胸をちくちく刺されながらも、安堵の息をついた。そのはずみで、不用意に言っていた。
「それに私、ほんとのところ、レン君だけいてくれれば満足だもの」
誰もいなければ寂しいけど、あまり沢山の友達はいなくても大丈夫――
と、そう続けるつもりで、なんの気無しに口にした言葉だった。
だが、アサリの汁をすすりかけていた向かいのレンが、ごほんとむせこんだ。
もろに気管に入ったらしく、かれは椀を置いて横を向き、口元を隠してげほげほやりはじめる。
その横顔がみるみる赤くなったのを見て、ハクは自分の言葉が意味を誤解されかねないものだったことに気づき、うろたえた。
待って、そういう意味ではなくて――訂正しようとして、
「いや、そのっ、今にょは……」
焦って舌を噛んだ。目に涙を浮かべて痛みに呻吟する2×歳。
両者、口を押さえてしばし苦悶。
とっさに訂正するタイミングを逃してしまうと、後からきっちり否定するのも失礼な気がしてきて、けっきょくなにも言えなくなる。
互いに頬を染め、黙々と料理を口に運ぶだけになった。
箸を使いながら、ハクは考えざるをえない。
(どんな関係なんだろう、私たちって……)
レンの知人と話すとしたら、まずそこの説明に困る。
凍死しそうな雪の夜、酔って道で泣いていたところに話しかけられ、最終的にこちらから部屋にひっぱりこんで一夜床を共にした。身もふたも良識もないなれそめ話である。
それがきっかけで、現在は、一週間のうち二度くらいはこうしていっしょに料理し、食べながら会話を交わすようになった。
レンからの呼ばれ方も「ハクおねーさん」から「ハク姉」に変わり、相当に慣れ親しんでいるといえる。
(遊びに来てくれる年下の友達――で、いいのかな)
それが無難な気がする。
少なくとも、「恋人」ではない。どちらからも、明確に好きだとか好きでないとか言った覚えはない。
好意があるかと聞かれれば、ハクの側にはある。レンにはちょっと親切の度が過ぎるところはあるが、それも含めてこの優しい男の子が嫌いではない。
最近はいつも、心が疲れたときには、少年がつぎに来る日のことを考えている。
が、それが恋情とはハクは思っていない。
いわば親愛の情であり、可愛い弟が出来たようなものだと、レンが知れば憮然としそうなことを考えていた。
(それにあれから、何かしたりはしてないし)
肌を重ねたのは、酔ったはずみの最初の一夜だけだ。
ちらと思い浮かべただけで赤面を強めそうになり、細かい記憶は忘却の泉にもういちど放りこむ。
とにかくそれ以来、いっしょの部屋にいてもセックスどころかキスもなく、手すら触れ合っていない。
(……当たり前だ。中学生相手に何を真剣に考えているんだろ、私)
らちもないと内心で自嘲しながらも、ハクはちらりと少年を見やった。
(いつまで……)
ふたりで交わす話の内容は、とりとめもなく日常をぽつぽつ語る程度のものである。
だが、不思議と安らぐし、会話が途切れても気詰まりを感じることもない。少なくとも、ハクの側では。
(いつまで、この子は来てくれるつもりなんだろ)
不安があるとしたらそこだった。
ままごと遊びじみた関係。穏やかな時間。
できれば、このまま続いてほしいけれど……