日曜日、桜並木で有名な都内のとある公園。
「女の影?」
「レン君に?」
花びらの降る宴席で、MEIKOと初音ミクは問い返した。
ふたりとも露骨に、面白いことを聞いたという顔になっている。
他のボーカロイドたちと花見を楽しみに来て、手酌(ミクはネギジュース)でいい気分になっていたときだった。そそくさと寄ってきたリンに一風変わった相談を持ちかけられたのである。
「ええ、確かめたんです」
鏡音リン――少女型ボーカロイド――鏡音レンの相方――は、ビニールシートに正座したまま、ふてくされた表情を崩さない。
「冬あたりから、暇をみつけてはちょくちょく家の外に出て行ってたんです、レン。
最初は気にとめなかったんですけど、あんまり頻繁なので、あるときレンが出かける前に、最近はよく外で遊ぶのねってなんの気なしに言ってみました。
そしたらあからさまにどぎまぎした様子で、口を濁すんです。
それで、誰と会ってるのか急に不安になってきたんです。悪い友達が出来たんじゃないかって。思い切ってその日、後をつけてみました。
そしたら繁華街とは逆の方向へ行って、ある町でスーパーに入って食材の買い物したんです。それで、食料の入った袋持って、安アパートの一室に入っていったんですよ。
ごはん作ってあげたりしてたんです、あいつ。帰ってきたところを捕まえて問いただしたら、相手が女の人だってことを認めました。
そのうち紹介するから、だそうです。
聞き出したんですけど、相手のひとの年齢、いくつだったと思います? 2×歳ですよ、2×歳!」
憤懣を一息にぶちまけたリンに、ふたりはちょっと呆れた表情を浮かべた。
「はー……ありがちな話のようだけど、実際に尾行しようとは普通しないわね」
「行動派だよね、リンちゃんってけっこう」
「茶化さないでくれませんか。わたしすっごく真剣なんだから」
リンの目が抜き身の刃のごとくぎらりと底光りした。
「そ、そう……」と、のけぞり気味になったミクは若干引いているようである。
MEIKOは酒に染まった頬をぽりぽりとかいて、口にした。
「といったってねえ。んー、デキちゃったんならしょうがないんじゃない? 周りがとやかくいう筋合いじゃないわ。
レン君、将来イイ男になるのが確実な可愛い顔してるし。まして名が売れてきたころだし、女のひとりやふたりくらい、作ろうと思えば簡単にできるでしょうね。
ブラコンのあなたには辛いでしょうけど、諦めたら?」
そうそう、こういう日っていつかかならず来るしねー、と気をとりなおしたミクが横でうなずく。
赤面したリンが息巻いた。
「ブ、ブラコンじゃないっ……わたしが諦めるとかそんなんじゃないです。これは社会常識の問題です!
まだ十四歳なんですよ、レンは」
非難めいたリンの愚痴を聞いて、MEIKOは口を開けてあはははと笑い飛ばした。
ほろ酔い機嫌でKAITOのノリが移っている。
「女の処女膜と同じよそんなもの。
もてなければ三十四でも童貞ってのはざらにいるけれど、もてる男なら十四でもよろしくやってるって」
「下品なこと言うのはやめてください。レンはまだ子供なんだから、年齢相応のお付き合いをしてなきゃだめなんです。
歳といえば、レンもレンですけど、だいたいなんなんですか、その女」
その女呼ばわりだった。
「大人なのに子供に通わせてごはん作ってもらったりしてるって、自堕落にもほどがあるじゃないですか?
ぜったいたぶらかされてるんですよ、レンは。狡猾な牝ギツネに引っかかってるに違いないんです!」
「うーん。それはあるかも。
男の子の十四歳なんて、辞書のエロい単語にチェック入れてるようなお年ごろだもんねー。年上の女に誘惑されたら、ハマって抜け出せなくなるのも無理は……」
うっかり調子にのって品のない言い方を重ねてしまい、さすがにあわててMEIKOは口をつぐんだ。
ミクですら困り気味にあさっての方向を向いており、リンとなるともはや目を三角にしている。
面白半分につついたらこっちの指先が火傷しそうなくらい、リンはヒートアップしているらしい。
(ま、リンにとってレン君は分身みたいなものだもんねえ)
きゃんきゃんうるさいリンを適当にいなしながら、MEIKOは横目でちらりと当のレンを見やった。
そのリンの弟も、先ほどからKAITOと膝つきあわせて、熱心に何かを話しこんでいる。
(レン君もレン君で、なにか相談かしら? やっぱり噂の人についての話かしらね。
カイトのやつが変なことをレン君に吹き込んでいませんように)
気になるところだが、あいにく周囲の喧騒がひどくて聞き取れない。
隣のシートの会社員たちなど、野外カラオケセットを持ち出して、仲間内でやんやの喝采を混じえながら唄っている。
そんな花見のどんちゃん騒ぎは言うまでもなく、加えて屋台の呼び込みやら、歩き売りバイトのはりあげる宣伝の声やらで、公園は音の坩堝と化していた。
びああああああああああああああああああああああん。
……それらの雑音全てをかき消すけたたましさで、幼児の泣き声が、すぐそばから響きわたった。
その合間に、懸命になだめる声がさしはさまれている。
「よしよし泣くな、あんまり泣いたら目が溶けちゃうよ。
えっと、あれ、こっちはさっき来たほうだっけ……なんでこんなに広いんだろ、この公園……」
そう言ってなだめているのは、クーラーボックスをベルトで首から下げた、キツネの着ぐるみだった。
クーラーボックスに加え、ぴいぴい泣く五歳ほどの女の子を背負って、重そうにふらつきながらシートの間をうろうろしている。
リンがあっけにとられた顔でそちらを見、口をつぐんだ。幼児の泣き声に気を呑まれたようである。
「……あの、メイコさん」
代わってミクが、MEIKOの袖をひっぱった。
「あの子供連れた着ぐるみさん、けっこう前からうろついてないですか?
わたし、お手洗いに立ったとき、市民トイレの前であの人達をちらっと見かけた気がしますけど」
「ん? ああ、言われてみれば……」
そういえばMEIKOも、二十分そこら前に屋台で焼き鳥を買った時、見ていたように思う。たしかにキツネの着ぐるみが、ぐすぐす泣く幼児の手を引いて歩いていた。
リンが小首をかしげた。
「するとあの人、ずっと小さな子を連れ回しているんですか」
まさか誘拐? と三人が想像をやや飛躍させて眉をひそめたとき、着ぐるみの声が続いて届いてきた。
「心配ないからね、ちょっと広くてわかんなくなっただけだから。……あっ泣かないで、ちゃんとママのところ連れて行くから!
ううう、そんなに泣いちゃだめだって……
……ほ、ほら、アイスあげるから泣き止んで」
キツネの着ぐるみは幼児を背から下ろすと、クーラーボックスから安物臭ただようソフトクリームを取り出した。
現金なもので、泣き声がやむ。幼児は泣き顔のままながら、アイスにかぶりつきはじめた。
キツネはしゃがみこんで立ち上がらず、幼児の足元の地面を見つめている。親を見つけられず、途方にくれている感がありありと出ていた。
MEIKOとリンとミクは、得心の目配せをかわしあった。
「……どう見てもただの迷子ですね」
「着ぐるみの人は、アイスの売り子さんでしょうね。バイト中に迷子を見つけてしょいこんじゃったというところね」
「そういえば、こんな沢山の人出なのに、ここ、迷子アナウンスのコーナーみたいなものは設置されてないみたい」
「行政の怠慢ねえ。
よし。ここはひとつ、助け合いということで私たちも何かしましょう。そうだ、ミク、こういうのはどうかしら?」
ミクの耳に口を寄せてMEIKOは指示した。
聞き終えたミクが「了解ですっ」と笑顔を浮かべる。はねるようにシートから立ち上がって、彼女は隣のシートへと軽快にすっ飛んでいった。
「あっちはミクにまかせましょ。さ、私たちは着ぐるみさんのところに行くわよ」
「はい!」
こちらも元気よく答え、もうブーツに足をつっこんだリンが軽やかに着ぐるみに駆け寄っていく。
「若々しいわねえ」と苦笑しながら、MEIKOは悠揚せまらぬ落ち着いた態度でシュミーズを履き始めた。
¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥
君の想いを 確かめたくて
空を見上げる 瞳を見てた
鏡音レンは、KAITOと並んで立ち上がり、ミクが唄う様を見つめていた。
立たないと見えないのだ。花見場の全ての人々がミクを注視し、なかでも一部の者たちは、マイクを手にして桜吹雪の下に立ったミクの周りにつめかけている。
桜の空に 舞い上がる花
並んで歩く肩触れ合って
あたたかなぬくもりを感じる
(※引用・ニコニコ動画初音ミク、作詞作曲ひろ☆りん「桜咲く君との出会い」)
「うむ。ノリノリだなあ、ミク」
あごをなでて、KAITOが評した。レンは受けて笑う。
「これで三曲目だもんね」
会社員に頼みこんで、彼らのシートからカラオケを借りてきたミクが、声を響かせるや、公園の空気が変わった。
歌声が届くにつれて、人々の喧騒は徐々に静まってゆき、誰もが歌う少女をふりむいたのである。
「ノリすぎよ。この歌終わったらちょっとミクに釘をさしてくるわ。
四度目のアンコールを求められて唄いだす前に、迷子についてアナウンスすることを思い出せってね」
迷子と手をつないで待機しながら、MEIKOが呆れている。
ボーカロイドの歌で場の注目をあつめたところで、迷子の親に向けて呼びかける――というのが、彼女がミクにささやいた指示ということだった。
いまのところうまくいっている。熱唱のあまりミクが本来の任務を忘れていることを除けば。
といってもボーカロイドなんだから無理ないよ、とレンは思う。
聴衆はすっかり魅入られて静まり返り、ミクが一曲唄い終わるたびに興奮して賛辞と拍手、それにアンコールの声を沸き立たせる。
場の熱狂が唄い手に送り返されて、ミクもまた路上ライブ中のように生き生きとしている。
そうだ、他のことを忘れても無理もないのだ。
全身で唄い、人々の心を揺らす。これこそが、ボーカロイドの最も幸福な瞬間なのだから。
「……凄い、な」
ミクの歌が終わった時、どこかで、誰かが噛み締めるようにつぶやいていた。
どっと沸いた聴衆の喝采のなか、レンの耳は、なぜかそのかすかな声を聞き止めていた。
あれ、と思って振り返る。
立ちつくし、ミクを無言で見ていたキツネの着ぐるみ――レンが振り向いたとたん、動揺したように顔をそらした。
そのまま着ぐるみは、さりげなくすり足で遠ざかり、人ごみに消えようとする。
けげんに思い、レンは身を返して着ぐるみとの距離をつめようとした。
が、それに先立ってリンがすばやく近寄り、着ぐるみの手をつかんでいた。
「待ってください。あのう、キツネさん」
「はっ、はい、なんでしょう」と着ぐるみが裏返った声で答える。
恋に落ちたようなうっとりした目で、リンが着ぐるみを見つめて言った。
「ぶしつけなお願いなんですけど……
ちょっと触らせてもらってもいいでしょうか?」
「は……はい?」
返事を待ちもせずリンは着ぐるみに抱きついた。
巨大ぬいぐるみといった感じのラブリーな着ぐるみに、いたく心惹かれていたらしい。
「やーん、フカフカ。これ、すっごく可愛い」と、満悦の表情で、すりすりと胸のあたりになついている。
ぎゅーっとリンに抱きしめられ、着ぐるみは逃げることもならず困惑しているようだった。おどおどした様子でレンのほうをうかがっている。
ある予感が確信となって固まりつつあった。レンは、ため息をついてリンを制止した。
「やめなよ、リン」
「だいじょうぶよレン。このひと女の人だもの。だから、ちょっとくらい抱きついたって」
「女の人だってのはわかってるよ」
二人にすたすた歩みより、キツネの頭の部分に手をかけてかぽっと持ち上げた。
よく見知った白い髪に赤い瞳が現れる。なぜかかぶりものを取った下には、ネコ耳――ではなく、縞のはいった虎耳が装着されていた。
穴から引き離されたモグラのような、うろたえて心細げな表情。
「なにしてんのさ、ハク姉」
レンはジト目でにらんだ。顔を見るなり逃げられかけたことを思って、少々気分を害していた。
ハクが微妙に泣きそうな顔になる。
「な、なにっていうか、本日の日雇いアルバイトの場所がここだったので……」
「あれ、顔見知りなの、レン?」
リンひとりが、ハクの胴に手を回したままきょとんとしていた。
…………………………………………
…………………………
…………
「弱音ハクさん、ですか。レンがお世話になっているそうで」
折り目正しくKAITOが挨拶した。
「は、は、はい、あの、お世話なんてとんでも、どちらかといえば私が」
着ぐるみ姿で向い合って正座し、ハクはぎこちなく応じた。
彼女はかしこまっているというより、がちがちになっている。頭の虎耳を取るのも忘れていた。
ふっとKAITOがほがらかな微笑を浮かべ、どこからともなく大盃と一升瓶を取り出した。
「まあまあ、そう堅くならずに。
無礼講の席ですから、まずは一杯どうぞ」
「あ、これはどうも」
どれだけ緊張していても酒飲みの本能は反応する。ハクは着ぐるみの両手で盃をささげ持った。
KAITOの酌で、とぷとぷと注がれる。椀ほどもある大きな盃だったが、くぴっと傾けて彼女は一息で飲み干した。
五臓にしみわたるほどに美味い酒だった。KAITOが大真面目な顔で感嘆する。
「おや、いける口ですか。ささ、もっと緊張をほぐしましょう。もう一献」
「はい、いただきます」
迷いなくお代わりをついでもらう。
とぷとぷ。くぴ。また一息である。
「気持ちの良い飲みっぷりですね。胸襟をひらいて打ち解けるためにもこのさいもう一献」
「はい、いただきます」
とぷとぷ。
そこで、たまらずといった形でレンが横からハクの袖を引いた。
「ハク姉ー!」
「うっ、そ、そうだった、節制中……」
レンは首を振り、ハクにこしょこしょと耳打ちしてきた。
「ううん、こういう席だから飲むのはしかたないけど。
しょっぱなからペース飛ばしすぎ。その盃じゃコップ一気飲みと変わんないじゃないか」
「わ、わかった、うん」
…………………………………………
少し離れたところでは、一連の掛け合いを見ていたミクが、リンに囁いている。
「ねえ、悪い人には見えないね? レン君をたぶらかしてたりはしなさそうだよ」
「……それは……そうですね……」
複雑そうながら、リンは素直に首肯した。
認めざるをえないのが悔しいのか、「でも大人にしちゃ頼りないし、どちらかというと、『悪いことできそうには見えない人』っていうか……」とぶちぶち言うリンだった。
…………………………………………
一升瓶を置いたKAITOが、あらためて、わりと遠慮のない視線をハクにそそいできた。
「ところで弱音さん、その着ぐるみなんですが……」
「あっ、す、すみません、こんなふざけた格好でほんとすいません」
「おっと、いえいえ、そうではありません。愛くるしくて非常によろしいですよ。
その虎耳も実にキュートで似合っておられますね。ふわふわして柔らかそうで、リンでなくとも触ってモキュモキュしてみたくなってくる。猫の肉球並の魅力です」
「は、はあ」
首をかしげたハクの後ろから、刃物のごとき視線が二組、KAITOに突き刺さった。
たわけたことをだべってるんじゃない、口説きはじめたりしたら舌ぶっこ抜くぞ――と、レンとMEIKOの顔色が語っている。
閻魔さながらの二人の気色にさすがに怖れをなしてか、KAITOはおののきの表情で勧告した。
「いえね、つまり弱音さん、もふもふの布地は可愛らしいですが、ちょっと暑そうですから、ひとまずそれ脱がれてはいかがかと」
「えっと……それは」
ハクはどうしようと迷った。指摘はもっともである。
汗を浮かべたハクの頬が火照っているのは、酒のせいでもあるが、着ぐるみの分厚い布地が主な原因だった。
だが、わけがあって、脱ぐのはちょっと困る。
「その、あのう、たしかに今日は暖かいなあと思いますが、背中のチャックが歪んでて開け閉めしにくいので、脱ぎたいとは……」
脱ぎたくない理由をストレートに言えず、ハクは愚かにも迂遠なことを言って断ろうとした。
それは直後に、みごとに裏目にでた。そばのレンが「ひとりじゃ脱ぎにくいの?」と反応したのである。
「それなら着脱、手伝ってあげるから」
暑いのに無理したらまた目まい起こすよ、と心配を抱いたらしく、レンは着ぐるみの背中のチャックをまさぐってくる。
ハクが制止する間もなく、少年はたちまちジッパーをさぐり当て、ちーっと音をたてて引き下ろしてしまった。ハクの上半身があらわになる。
「あれ? なんだ、普通に開くじゃな……い……」
桜の下に痛々しい沈黙が流れた。
虎耳と同じく、白地の虎柄生地。面積が極端に少ない布が、ハクの肌を申し訳ていどに包んでいる。
ビキニの水着と同じ型の、アニマルコスチュームだった。
キツネの皮を脱げば泣きそうなトラ――威厳は微塵もないが露出度と破壊力はとりあえず高い。
…………………………………………
「やっぱり許しがたいかも……」
リンが自分の平坦な胸を撫でながら淡々と言う。彼女は、ぽろんと衆目のまえにこぼれ出たハクの大きな胸に、冷えた視線を当てている。
自分の胸を撫で下ろしているのはミクも同じで、「……うん、なんていうか呪わしくなってくるよね」と、これまた感情の消えた目を虎柄ブラの胸に向けている。
…………………………………………
時の停止した世界から抜け出したのち、レンがわなわな震えだした。
「な、なんだよ、これ!?」
ハクは慙愧と観念のいりまじった悲痛な声をしぼり出した。
「……店長が……お昼すぎには暑くなってくるはずだから、そうなったら着ぐるみ脱いでこのカッコでアイス売れと」
実際、周囲を見わたせば、ハク以外のアルバイト女性は、ことごとく似たような半裸コスプレ姿で売っている。
いままで着ぐるみを脱がなかったのはハクぐらいのようだった。他は途中で恥ずかしさより暑さが耐えがたくなったようである。彼女らは一様にやけくそ気味の笑顔。
「駄目! こ、こういうバイトは駄目っ……閉めるよハク姉!
あれ、閉まらな……ほんとにチャックが歪んでる!? くそっ、脱ぐときは問題なかったのに!」
真っ赤な顔で、レンが着ぐるみのチャックと悪戦苦闘しはじめた。
ハクはこそばゆくなってきた。どうも水着姿より、満座のなかで世話を焼かれるほうが恥ずかしい。
ただ、いつしか緊張はほぐれていた。興味深そうにしているKAITOと目があって、ハクは苦笑いした。
「こんなふうに、いつも面倒をかけちゃってまして……」
「そうですか。いろいろお節介されて、うざったくなったりはしてません?」
何気ない様子でKAITOが爆弾を破裂させた。
場の雰囲気が凍りつく。ことにレンは、ハクの背後でぴたりと全ての動きを止めた。
「な、何を空気読まない発言してんのこのバカ!」とMEIKOがKAITOの頭を肘でぐりぐりしはじめる。
ハクは慌てて首を振った。
「いえっ、そんなことは全く!」
「本当に? 全く迷惑じゃないと?」
ぐりぐりと仕置かれながらも、KAITOがふたたび確かめてくる。
それまでのふざけた態度から一転して、かれの問いには、真剣に答えざるをえないような何かがあった。
酒で湿したばかりなのに、もう喉が渇いてひりつくような感覚。先ほどとは別種の緊張をハクは覚えていた。
自分の心を確かめながら、ゆっくり口に出す。
「…………おかあさんみたいだなって思うこともありますけど、あの……
……それもけっして、不快ではなくて……感謝してるくらいです。だって、こんなふうに誰かに気にかけてもらえることって、ずっとなかったから」
着ぐるみを半分脱いでいるのに、ぜんぜん涼しくならない。
KAITOやレンをはじめ、ミク、リン、MEIKO――周囲から見られているのを感じる。
オーブンで熱されている焼きリンゴのように、顔が尋常でなく熱くなってゆく。
「レン君は優しくて、すてきな子だし……いっしょにいてくれると落ち着きますし……」
私なんでこんなことしゃべってるんだろ、と思わないでもない。それも、空の星を仰ぐように見上げてきた「MEIKO」や「初音ミク」の前で。
それでも、ひたいの汗を腕でぬぐい、かぼそくなってゆく声で言い切った。
「だから、迷惑なんて思ってないです……レン君といる時間が楽しいです」
「それならよかった。
やんちゃ坊主が迷惑をかけていないなら、これからもよろしくしてやってください」
あっさりと言われて、顔を上げる。
ひょうひょうとしたKAITOの笑顔を、ハクは見つめた。
以前に危惧したとおり、業界での自分の悪名をこの青年は知っていたのだろう。そんな気がした。
けれど、一貫してレンのガールフレンドとして扱われているためだろうか。
思ったほど息苦しくはならなかった。
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花見の三日後の夕方、ハクの部屋だった。
「もともとあの日、カイト兄には相談に乗ってもらってたんだ。ハク姉とのこと」
食後の後片付けを終えたばかりだった。
椅子に逆向きに座り、キッチンに立ったハクの背中を見ながら、レンは語った。
こちらに背を向けて二人分のコーヒーを淹れているハクは、なにも言わない。
「行きすぎてるって怒られたよ。お酒禁止とか、いろいろ……
相手が大人なら自分で考える、おまえの正義感で押しつけることじゃないって」
さほど厳しく言われたわけではない。親切と余計な干渉をとりちがえたら女には嫌われるぞ、といましめられたのである。
それでも、レンはほろ苦い気分で奥歯を噛み締めた。
ハクのことを見ていると、放っておけなくなる。だからいろいろ世話を焼いてしまう。
けれど、良かれと思ってやってきたことは、独りよがりな善意の押しつけだったかもしれない。相手を不快にさせていただけかもしれない。
自分は、そういうことに自分で気づけなかった、青臭いだけの子供だ。
「……すごく不安になってさ。もしかして僕のそういうとこ、ハク姉に嫌がられてなかったかなと。
そうカイト兄にもつぶやいちゃった。そしたら、もし話す機会があればさりげなくあっちの真意をさぐっておいてやるよ、だって。
いい考えかもって思った。ハク姉のことだから、僕が面と向かって聞いたら正直に言わないかも知れないじゃない? へんに遠慮してさ」
しばし言葉を切ったのち、レンは「でもカイト兄、ぜんぜんさりげなくなかったね。僕の前でハク姉に聞いたら意味ないじゃないか」と冗談っぽく付け加えた。
ハクが振りかえった。
彼女は笑わず、ただ真摯な声だけを返してきた。
「私、正直に言ったよ」
静かな、大人びた態度だった。
「あのとき言ったことは、嘘じゃないよ。レン君のこと、なにひとつ迷惑だなんて思ってない。
……コーヒー入ったよ、はい」
手わたされたカップのなかに、波紋が起こる。深みのある黒い液体が、静かに揺れている。レンの心にも、静かな波があった。
ふだんは入れる砂糖もミルクも、入れる気にならなかった。思い切ってカップを傾け、ぐっと飲み干す。たちまち熱とこくのある苦さが、舌とのどを焼いた。
少年は熱さに「う」と口を押さえる。
驚いて見ていたハクが、「だ、大丈夫? いきなり何してるの」と自分のカップを置いてレンに身を寄せてくる。
その腕をレンはつかんだ。椅子から下りて立ち、ひたむきな目で彼女を見上げた。
「干渉しすぎたら嫌われると言われた」
うわずるのを押さえ込んだ声で、続ける。
「……ハク姉に嫌われるのはいやだなあ、って思う」
意味をこめた一言で、境界線をレンは越えていた。自分たちのあいだに、どちらからともなく引いていた、あやふやな線を。
それはハクにもわかったはずだった。つかんだ腕から、彼女の体がこわばるのが伝わってきた。
レンはたたみかける。
「どこまでなら踏みこんでもいいの?」
「それは……」
「嫌われたくないけど、踏みこみたいんだ。
少なくとも、今よりはもっと踏みこむけど、いい?」
出会った夜からもう何ヶ月かたっている。
そして、いままであの夜のようなことは何もなかった。いつのまにか互いに、男女間の友情ですませようとしていたのかもしれない。
レンは、今はもうそれでいいとは思えない。あやふやな関係ではなく、どうせならもっと先の――
(カイト兄、踏ん切りつけさせてくれたのかな)
レンがこういう決心を固めることまでKAITOは見越して、わざとかれの前でハクにあんなことを言わせたのかもしれない。
だとしたらちょっと悔しいが、もう起こしてもらった波に乗るしかないだろう。
年上のひとの両手を包むようににぎる。その人はびくっとのけぞった。
「ま、待ちなさい、き、君、未成年でしょ。私が法律およびモラルに反しちゃうじゃないか」
「そっ……それこそ、今さらじゃないか。
じゃあこうしよ、『こういうこと』のときは僕からする」
レンはハクの肩に手をおいて背伸びし、唇に軽くキスした。互いにコーヒー味の、苦いキス。
未知のものに触れられた子うさぎのようにハクは固まっている。
が、レンが彼女の腰に手を回してエプロンの紐をほどくと、「待てってばこらぁ」と情けない悲鳴が上がった。
往生際の悪い大人の顔を、レンはのぞきこむ。
「ううん。嫌でもする。押さえつけてでもする。僕から無理やりってことなら、法律やモラルがどうあれハク姉に非はないでしょ」
「そ、そんな無茶な……」
「でも、どうしても僕が嫌ならそう言って。
そこでやめるから。それで、もうここには来ない」
その言葉に、一瞬泣きそうに歪んだハクの顔を、どこか意地の悪い快感をもってレンは見ていた。
怒ったようにハクが顔をそらす。
「卑怯な言い方だ……そんなの。極端だよ。
私は、いままでどおりでよかったのに。……せめてもう少しくらいは」
「ごめん。せっかちで」
少年はまた背伸びして、柔らかい頬に口づけた。
脚の力が抜けたように、よろめいてハクが床に座りこむ。
レンはひざまずいて、彼女の顔を両手ではさみ、今度は長いキスをした。
唇を離したときには、互いの瞳がとろんとし始めていた。
気だるげな色香が、ハクの肌をめぐるようにただよい出している。
レンが息をつめて彼女のベルトの留め具に手をかけたとき、その手をハクが不意に押さえた。
「――どこまで踏みこまれたって、本当には嫌じゃあないよ。
でも、ひとつだけ……
こうなるなら……これからは、私の音楽のことだけは触れないで。ぜったいに」
レンは静止した。そのハクの苦悩が、雪の夜に二人が出会ったきっかけだった。
彼女の歌は、どうなったのだろう。これまで、そればかりは軽々しく尋ねられなかったが、これで二度と尋ねられなくなったことになる。……禁止されたことで、予想はつくが。
「……うん」
レンはうなずいた。ほかにどうしようもなかった。そこだけは踏みこまないでと、釘を刺されたのである。
幸福なはずなのになぜだか、一抹の暗い影が心に忍び入ってきた気がした。