――盛夏。
「……あ」
からんからんとマイクが転がる。
スイッチが入っていたので、転がる音はかなり大きくスタジオに響いた。
パイプ椅子に座ってスケジュールの打ち合わせをしていたKAITOおよびMEIKOが、音のしたほうをふりむいた。
鏡音レンはあわてて、床からそれを拾い上げた。
MEIKOがけげんそうに片眉をあげた。
「どうしたの、レン君ったら」
「えっ、いや」
レンは手を振った。「別になんでも」と申し添える。しかし大人ふたりは、意味深に目くばせを交わし合った。
KAITOが口火を切る。
「そうはいってもレン、このごろ気鬱そうじゃないか。やっぱり何かあったか?」
「な、なにもないってば」
「わかりやすい嘘はよせ、お前は動揺が透けて見えるタイプだ」
「嘘なんかじゃ……」
嘘だった。
つかみかけたところで手をすべらせたとはいえ、マイクを取り落とすような失態である。心ここにあらずの状態でなければ、こんなことにはならなかった。
かれを見つめて黙っていたKAITOが、肩をすくめた。
「……ま、いいさ。
だが忘れるなよ、今週末はステージライブ、その次はアルバムの収録があるんだぞ。調子はなるべくベストで臨んでもらわなきゃ困るからな」
「わ、わかってるよ」
………………………………………………
…………………………
……
きまり悪そうにレンが背を向けて歩み去ったあと、MEIKOがKAITOの袖をひいてきた。
「レン君の悩みだけど、弱音さん関連だと思う?」
弱音ハク。レンと親しい、シンガーソングライターの名を彼女はあげた。
「伝え聞くかぎり、ほかに考えつかないな」とKAITOは首肯し、眉根を寄せて重い声を出した。
「……少し心配だな」
レンの青春の悩みと、一笑に付して片付けられるほど軽い話ではなかった。
不安があるのはレンに対してではなく、あの白髪赤瞳の女性に対してである。ハクの近況を、うっすらとかれは聞いていた。
それはMEIKOも同様で、沈鬱な面もちとなっている。
「ねえ……このまま見ているだけでいいのかしら? 弱音さんとは面識もあるし……」
「そうだなあ……あまり首をつっこむのは考えものだが……」
大人ふたりはやがて、打ち合わせのときより顔を近づけて囁きかわしはじめた。
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馬鹿な女と、部屋の四隅の暗がりから声がする。
とうとうレンと出会う前の、出口のない暗黒に戻ってきてしまった。
ヘッドホンを耳に当てて、弱音ハクはひざをかかえ、畳の上にうずくまっていた。
部屋は暗く、蒸し暑い。カーテンをずっと閉めきっているからだ。
着替える気にもならず、ショーツをはいてワイシャツ一枚を羽織っただけである。
くりかえしくりかえし、歌を聞いていた。
何白回も。何千回も。ときたま歌をストップさせて手元の譜面を食いいるように見つめ、思考に沈む。顔をおおい、また再生ボタンを押す。
落ちこぼれる自分の歌と、上手くやっているほかのアーティストの歌。どこに決定的な差があるのか、その違いを見つけるために。
「なにが悪いのかな……」
光の失せた目を畳に落とし、すっかり一人のときの口癖になった言葉をもらす。
ほんとうになにが違うのだろう。技術? 声調? にじみ出る心?
自分の歌の致命的な欠点――いまだにわからない。見つからない。
もちろん、最上級のアーティスト達と比べると、届かないと思わされる部分は多々ある。ハクは天才ではないから、地道に積み重ねたレベルより上には行けない。
だが、問題はそんな瑣末な部分ではなかった。
「自分の歌はプロのなかでは特に上手くはない。だが、総合的に見れば悪くとも中の下クラスのはず」――ハク自身の採点ではそうなるのに、他者の批評だと「論外」「素人以下」の烙印を押されるのだ。
先日、もう何度目になるかわからない新作CDの持ちこみをしてきた。
そしてこれまた、レコード会社からさんざんにけなされて没を食らった。ハクの歌は今度も日の目を見ずに終わる。
全身全霊をこめて、少しでもよいものを作ろうと心がけて、自分では「前より絶対によくなってる」と信じられるものを作った。それなのに……「一作ごとに悪くなる」と人には言われる。
自分と他者のあいだで、なにかの歯車がかみ合わない。
だから、レンには内緒で耳鼻科に行った。
そこで悪いところが見つかることを、むしろ期待して――けれど聴力テストの結果は、異常なし。
次は、脳外科あたりに行って相談してみるつもりである。よくは知らないが、認識能力の問題とかいうやつかもしれないから。
……実を言うと、カウンセリングを勧められていた。事情を話した耳鼻科の医師に。
それは、反射的に拒絶してしまっていた。
歌をどうにかしたいだけなのだ。メンタルケアなんか必要ではない。
それにレンに失礼だ。いまはあの子の存在があるのに、ストレスを感じるなんて駄目だ。いまの状況に文句や不満など、あってはいけない。
そう、かたくなに自分をいましめる。
いまではレンはハクにとって、特別な子になっている。
寂しかったとき、そばに来てくれた。いまでは、だれより近くにいてくれる。
忙しくてもその合間を縫って、ひんぱんに訪れて世話を焼いてくれる。出会ったときと変わらず、ずっと優しい。
(……レン君、今日も来るのかな……)
嬉しい――嬉しくないはずがない。
なのに、なんで、
(会いたくないな、なんて……思ってるんだろ)
レンに出会い、もっとがんばろうと決めてからの、これまでの日々がよみがえってくる。
努力で浮かびあろうとして失敗して、業界の底に気持ちごと沈んで。
あの子の存在に励まされて、立ち直って。
気をとりなおして、また挑戦して。
また失敗して、また沈んで。
だんだんと落ちこむ期間が長くなっていって……
いつからだったろう。
レンと目を合わせられなくなっている自分に気がついたのは。
――レンが天井知らずに名を上げていくことも、理由のひとつだ。
ハクがCDすら出してもらえないでくすぶっているうちに、かれはどんどんアーティストとしての高みに上りつめていく。
もともと才能では彼女など及びもつかない。実績も遠く引き離された。自分が「鏡音レン」に勝っているところなど、この業界に入ってからの年月しかない。
(……私たち、なんで一緒にいるんだっけ?)
自問するまでもなく答えははっきりしていた。レンが、同情してくれたからだ。
手を当てて、ヘッドホンを耳に押しつける。
「いい歌だなあ……」
ぼんやり、ほとんど唇だけでつぶやく。
ハクには特技がある。唄い手の能力のほどが、歌の片鱗を聞くだけでわかる。この先の伸びしろがあるか、ないかまで。
たとえ無名の新人であっても、デビュー前の素人であっても、"あ、この子伸びる"と思ったとき、それが外れたことはなかった。
採点できないのは、ハク自身の歌だけだ。それだけ必ず人と評価が食い違ってしまうのだ。
そのハクの耳で聞く限り、この唄い手は、最上ランクへと上っていける可能性を示していた。いつか聞いた、初音ミクと同じように。
「すごいなあ……レン君」
ヘッドホンから今流れているのは、レンの歌だった。今回はじめて、かれの歌を聞いた。
これまで避けてきたのに。これからも聞かないつもりだったのに。
いまこうして、衝動的に買ってしまったCDへと耳を傾けている。そして事前に予想していたとおり、ハクの胸には虚ろな後悔が満ちていた。
「やっぱり聞かなきゃ、よかったなあ……」
はっきり劣等感を抱いてしまうとわかっていたのだから。
馬鹿な女と、四隅の暗闇が笑っている。
生足を抱え、ひざに顔を埋める。
(お酒……もう少し飲もうかな)
かたわらに置いた飲みかけの瓶。さっきから口にした量は、そろそろ、一週間分として許可された量を越すころだ。
酒を控えるように病院で勧告されてから、数月になる。
医者の言葉だけなら我慢できなかったかもしれない。でも、レンに言われたから守っていた。
守っていたけれど……
何分かおきに、酒瓶に手が伸びる。たいていは黙って手をひっこめるけれど、時間がたってからふと気づくと、瓶の中身がすこしだけ減っていたりする。
ヘッドホンから流れる音の渦。いつ飲んだとも気づかないまま、中身が減ってゆく酒瓶。
日がな一日、くりかえす。
気づけば外のセミの声が、雨の音に変わっている。
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レンは傘から雨滴をふるいおとした。渡されている合鍵でアパートの部屋に入りこむ。
もう夕刻なのに、部屋のなかに明かりはついていなかった。
キッチンのシンクには、洗い物はない。シンクの乾きようからして、食器を洗って片付けたのではなく、洗い物が最初から出ていなかったように思えた。
手にさげていたスーパーの袋を床に下ろしながら、レンは顔をくもらせた。
(今日も、朝やお昼を食べてないのかな)
部屋の奥でもぞもぞ動いた気配に、声をかけた。
「明かりくらい、つけなよ」
「……ん……」
暗く不明瞭な返事が、かろうじてあった。
荒廃した心が、空気とともによどんでいるような雰囲気。
自分まで暗然としてくるのをふりはらうようにレンは首をふり、わざと明るい声を張り上げた。
「さ、ご飯作るね」
エプロンをつけ、野菜を洗い、水と昆布を鍋にいれて火にかける。
出汁をとりながら皮をむいた蓮根を切り、酢水にさらし、電子レンジで加熱する。
豆腐を切りながら話を続けた。
「明日はまた雨だってさ」
答えはない。沈黙が返ってくる。
つとめて気にせず、レンは言葉をつむぐ。
「最近の雨の多さにはやんなっちゃうよね。梅雨がもう一回来たみたい。
でも、今度のお休みは、すっきり快晴だそうだよ」
「…………そうなんだ」
ほんのかすかな声ではあるが、今度はちゃんと話に受け答えがあった。
そして後ろに立つ気配があった。
あ、ちゃんと起きてきた、とレンはほっとした。
ひそかにぎこちなくなっていた表情が、やわらぐ。
安堵の微笑をにじませながら、背中ごしにたずねた。
「だからさ、ハク姉、どこか行かない? 都内の動物園とか水族館とか――」
「ここにいたい……この部屋がいい」
「えーと……」
レンは視線を上方にさまよわせた。説得を続けてみる。
「せ、せっかくいい天気なら、外に遊びに出るのも」
言いかけたところで、後ろから抱きしめられた。いきなりの抱擁に、エプロンを身につけた少年は包丁を手に固まる。
すがる響きを含めた要望が、耳に届いた。
「……ふたりだけで、いたい」
少年は、そろそろと慎重に包丁を置いた。
体の前にまわされたハクの腕に、なだめるように触れる。
ハク姉、何があったの。そう聞こうとして黙る。聞かずともわかっていたからだ。
(新作持ちこみ、また、うまくいかなかったのか)
そしてそれは、聞いてはいけないと釘を刺された話題でもあった。
ずっと抱いていたもどかしさが、またも大きく心中でふくれあがる。
『ぼくじゃ、手伝えない?』
そう、言ってしまいそうになる。
そんなふうに持ちかけることができれば。ただ慰めるだけでなく、アドバイスして、力になることができれば。
もしも、ヒット中の自分がハクといっしょに歌えば。それなら発売後の売れ行きはともかく、CDがとりあえず出ることは出るだろう。
あるいは、ハクの所属するレコード会社にレンが口をきくだけでいい。それだけでもかなり扱いは改善するかもしれない。
でも駄目だ――「ハクの歌の話だけは、ふたりの間では決してしない」という約束があるかぎり、口にすら出せない。
それに、レンはわかっていた。彼女は決して、そんなコネを使ったやり方を受け入れてくれない。
(この人は心底音楽が好きで……歌に関しては、誇り高いから)
ただ自分の歌のみで結果を出す――その愚直でシンプルな結果以外は、ハクは拒絶するだろう。ならばもう、これに関してレンにできることは何もない。
抱きしめられたまま、無言でいるしかなかった。
いたたまれない疼きを胸奥に感じ、レンは耐えかねて口を開いた。
じゃあこんどの休みは、映画のDVDでも借りてきて見てよっか――
そう提案する前に、ハクに先をこされた。
「……しよう、レン君」
「え?」
「しようよ。ね……」
背後から酒の香が、女の体臭にまじってほのめいた。
ワイシャツごしに素肌の柔らかさ熱さが、背後から伝わってくる。
妖しく、淫蕩で、そして危うく、痛ましい。レンの困惑と胸の疼きが、大きくなる。
前に回されたハクの手が、レンのエプロンの下にすべりこんだ。少年のシャツのボタンをいじくり、外しはじめる。その手をレンは押さえて止めた。
「ま、待ってよ。ごはんだってまだ……」
「……したくない……?」
「違うって。でも、来るなりすぐこういうことは……
最近、こんなのばっかりじゃないか」
「…………」
二人でいる時間の大半、肌を重ねているようになった。
求めるのは彼女からで、終わらせたがらないのも彼女だ。
一度引きずり込まれて応えてしまえば、濃く後をひく官能に理性など融けて、帰る間際までずるずると爛れつづけている。
……なのに心は遠ざかっている気がする。
明らかに、何かがおかしくなっていた。
(ちょっと前までは、こんなじゃなかったのに)
二人でいるだけで心地よい関係だったのだ。
急にレンは、透明なかけらが心臓に突き刺さったような痛みを感じた。
もう違うのではないだろうか? ハクにとっては。
だって、彼女の態度はまるで、かれといても安らげないから肌を求めているみたいだ。
だが、レンの疑心が大きくなるまえに、ハクの腕がぎゅっとかれを抱きしめた。
「ごめん……ごめんね」
震える声が謝ってくる。
「触れていたいの。もう少ししたら、ちゃんと元気だすから……」
「……うん。わかった」
答えてレンは、ハクの手の甲に自分の手のひらを重ねながら、心に言い聞かせた。
ほら大丈夫。少し、踏み外してしまっただけだ。自分たちはまだいくらでもやり直しはきく、と。
そうだ、カイト兄かメイコさんに相談してみよう、と考えを固めていく。
暗い予感は、心中から払いのけるようにして。
………………………………………………
…………………………
……
僕はボーカロイドです。
唄うことは、僕にとって生まれてきた意味です。唄えばみんな喜んでくれます。
ただ大好きな歌を楽しんで唄っていれば、ほとんどの人が褒めてくれます。
最近ボーカロイド仲間以外にも、大切な人ができました。
彼女も僕を大切だと言ってくれます。
ただ、たったひとつ共有させてもらえない話題があります。
彼女は、ボーカロイドに負けないくらい唄うことが好きです。
唄うことは、彼女にとって生きてきた意味です。
けれど、唄っても唄っても人に認めてもらえないようです。
歌から嫌われたみたいだと、もう長いことずっと泣いています。
最近、彼女は僕に触れたがります。離れないでねと言ってくれます。
でも、笑顔を向けてくれなくなりました。
僕は、どうすれば彼女にまた笑ってもらえるのでしょう。