吐きそうだった。  
 元から千鳥足だったハクの歩みがぐらりと大きくよろめく。道ばたの暗い排水路に転落する寸前、弱音ハクは街灯に抱きついてどうにか体を支えた。  
 吐いた。  
 みぞれ降る人気まばらな夜の路地、街灯の柱に寄りかかり、首をつきだして大きな排水路へと胃の中身を戻していた。  
 
 胃と食道がのたくるように震え、胃壁を焼いていた酒がしぼり出されていく。アルコールと消化液の混合液が滝となり、どぶの汚水に落ちてびちゃびちゃと鳴った。  
 その水音にさほど粘った感じが混じらず、吐瀉物が透明な液体なのは、ほとんど何も食べずにきつい酒だけをハイペースで詰めこんでいたからだ。  
 そんな酔うための飲み方が、むろん胃の粘膜に優しいはずがない。  
 
「う――え――え」  
 
 内臓が裏返ってしまうのではないかというほどの、耐えがたい苦しさだった。  
 酒が過ぎたのはわかっていた。飲まずにはいられないのはいつものことだが、今日はとくに飲み方が荒れていた。  
 
 レコード会社で容赦なく浴びせられた言葉が、深酒の原因だった。  
 
 CDを出す場合、通常はレコード会社側がまず企画書を作るのだが、ハクはアーティストとして見放されて久しい。  
「暇があれば聞くだけなら聞いてあげるから、新作あったら持ち込んでくれば」と言い捨てられている。  
 つまりCDを出してほしければ、デビュー前の新人のように自分で売り込むところから始めないとならないのである。  
 
 それで今日、所属している(というより、縁をまだ切られていない)事務所に、新作の歌を入れたデモテープを持っていった。  
 その後、サウンドプロデューサーに呼びつけられて「率直に言うけど」と切り出された。  
 
『駄目。全然駄目だね、この歌も。君も大したタマだよ、一応はプロの肩書があるくせに、よくこんな箸にも棒にもかからないレベルのものを作ってこれるよね。  
 朝に譜面見たときはちょっと期待したんだけどね。聞いてみたら感想がっかりに変わったよ。ま、言葉の選び方からして暗い中二病っぽい歌詞だし、期待したのが間違いか。  
 印象がジメジメしてるってか、とことん鬱々してんだよね。そういうのが粋だとかかっこいいとか、その歳でまだ勘違いしてんの?』  
 
『あのねえ、これ君のために言うんだけどさ、このレベルのモノ聞かされたら「この人デビューできたのがなにかの間違いだよな。これ以上歳を食う前に別の道見つけたほうがいいな」って心配しちゃうわけよ。  
 とにかくね、大損するとわかっててこんなの流通に乗せらんないよ。聞くなりぼくの一存でストップかけたけど、みんな一斉にうなずいたから』  
 
『ぶっちゃけると、どれ聞いても心が沈んで滅入ってくるんだよね、最近の君の歌は。前よりひどくなってるよ、新人のころが面影もないよね。  
 君、こっちの才能なくなってるよ。ないどころかマイナスじゃない? 作詞作曲が多少できるといったって、それだって結果がこうもダメだと中途半端の器用貧乏でしかないね。  
 ああいや、君の関わったCDの売り上げだけは中途半端をはるかに“下回って”赤字以下の大赤字だけどね。貴重な疫病神的才能だよね、ある意味』  
 
『あん? 「才能がないから頑張ってるんじゃないですか」だあ? はは。そうだね、努力は大切だよ。  
 うん、それで君、その努力でこの先どうやって業界で成功するか、見通しがついてるわけ?』  
 
『一度聞いてみたかったんだけどさ、売るために自分と市場をどう分析してどんな積み重ねしてんの?  
 どうやって自分を他のアーティストと差別化すんの?  
 いつになったら結果が出せるの?  
 まさか「諦めなければそのうち運が向いてくる」と信じてがむしゃらにやってるだけなの?』  
 
『ほら、なにうつむいて黙ってんの。反論してきたのはそっちなんだから。  
 実力で見せられないならさ、せめて「これこれこういうプランがあるから以降は結果出せるようになります」って、論理でこっちを納得させてみなよ。それとも御託は終わり?』  
 
『……え? ほんとにもう終わり? ちっ、早々にへこたれるくらいなら、最初から感情にまかせて突っかかってくんなよ、バカじゃねえの。  
 おっと、いやいやあ、ごめん、ちょっとばかし言い過ぎたね。さ、今日はもうお帰り。そこでそうやってぐすぐす泣かれてるのは鬱陶しいしね』  
 
『はあ? どうすれば売れるのか教えてください? プライドあんの君。そんなの成功するやつは自分で考えるもんだよ。……頭下げられたってねえ。  
 そうねえ。君、歌はどうしようもないけれど顔と体は正直そそるからな。広告代理店のお偉いさんに「自分で」営業かけるか、有望な新人の袖でも引いて「個人的に」頼めば?  
 CD売れるようにいっぱいプロモかけてください。私とユニット組んで一緒に出世させてください。ってね。  
 楽屋裏ででかいおっぱい押し付けて誘えば、だれか惑わされてくれるだろ』  
 
「ふぇえええん、すっ、すっ、好き放題言いやがってぇ……うぷ」  
 
 乱暴な言葉づかいでハクは恨みをこぼしたが、それは憤りの声というより、泣き言だった。  
 
 今度こそと望みをつないだ作品だった。  
 それが全否定され、世にすら出なくなった。重ねて毒々しい嫌味を投げつけられた。耐えきれず口答えしたら言い負かされ、嘲罵されて泣かされ、追い払われた。  
 頭を下げてなりふりかまわず指導を乞えば、返ってきたのはセクハラ発言だった。  
 
 ……今日はとくに酷いが、最近はずっとこんな感じである。サウンドプロデューサーの前に出ると、嫌味を言われないほうが珍しい。  
「まあハクちゃんも大変だけど勘弁してやってよ。高田さんも数字上げられないってんで悩んでて、そのうえ奥さんとの裁判がね。離婚調停のほうがうまくいってないらしくてねえ。いま荒れてるのさ」  
 と、同業の人に囁かれたことがある――売れっ子ではないが、それでもハクよりはよほど売れているアーティストに。  
 ハクのようにお荷物扱いされていない人。上の人間から八つ当たりで罵倒を受けたりはしない人。かれの口ぶりに、優越感がこもっていたと感じるのは、ハクのひがみだろうか。  
 
 横殴りの突風が吹く。首の後ろでリボンでくくった、ハクの白い長い髪がはためき、それから力なく垂れた。  
 
(もう……忘れよう)  
 
 上の人のストレス解消に使われているという理不尽な状況だが、怒ってもどうしようもない。  
 みんな大変で、そのしわ寄せが、いつまでたってもアーティストの底辺から抜け出せないハクのところに回ってくるだけなのだ。  
 
(お酒買って帰ろう……)  
 
 泥酔状態で瞳の光をよどませ、ハクはそう考えた。  
 いまの精神に必要なのはアルコールである。酒をもっと浴びるように飲み、酔いつぶれるままに寝て今日の屈辱を押し流そう。  
 すすりあげながら街灯を離すと、よたよたと歩き出した。  
 
 数歩進んだとたん、強烈な嘔吐感が舞い戻ってきた。身をひるがえしてまた街灯で体をささえる余裕もなく、くずおれる態でその場にひざと手をつく。  
 あわててまた排水路へと這いよったのが、せめてもの努力だった。げえげえと吐瀉を繰り返す。  
 道路にだれかの足音がする。背後で、酔っぱらい女をじろじろ見ながら通り過ぎていく気配があったが、それを気にするどころではなかった。  
 
 ――苦しい、苦しい、苦しいよ。  
 
 間断ない嘔吐による苦痛で、顔を真っ赤にし、ハクはぽろぽろと涙をこぼした。鼻水で息ができない。  
 
 ようやく吐瀉がおさまったところで、這ったまま弱々しくハンカチを引っ張り出した。  
 酒屋のある商店街のお客様感謝祭くじで引き当てた、デザインセンスが気に入っているメンズブランドのハンカチ――びぃぃと音をたてて鼻をかむ。  
 かみ終わって畳もうとしたとき、酒毒に震える手が、お気に入りのハンカチをぽろりと取り落としてしまった。  
 どぶ川の底の闇へと消えていったハンカチを拾い上げる気力もなく、ハクはどんよりと、暗い水面を見つめた。  
 
(死にたい)  
 
 そう、思った。  
 
「なんで……ずうっと、だめなんだろ……」  
 
 深い闇に向かい、誰にともなくのろのろと問いかける。  
 
 レコード会社所属のアーティスト。それがハクの肩書である。作詞も作曲も手がけて自分で唄うから、シンガーソングライターということになる。  
 作詞家、作曲家、ボーカリスト、一人で全て兼ねているから、CDが売れたら取り分は大きい。  
 
 だがまったく売れない。貧しい。それも拍車がかかって落ちていく。  
 考えてみればプロデューサーの言うとおり、デビューしたころのほうがまだしも少しは売れていた。  
 精魂込めて作った音楽を酷評され、どの新人にもすぐCDの売上枚数を抜かれる。馬鹿にされ、見下されて、劣等感だけがつのる日々。それが昨今のハクの現実だった。  
 大好きで入った音楽の道のはずなのに、気がつくと現実を忘れるための酒が手放せなくなっている。  
 
 発表するあてもないままこつこつ大量に作りためている楽曲を、気晴らしに時々、DTMとして匿名・無料でネットにアップロードしてみることがある。  
 そこでさえ不人気だ。終始、ツマンネとしかコメントが付いてくれない。酷い。  
 
「なんで……わたしの、うた……」  
 
 マネージャーをつけてもらえないハクは、自分の音楽の欠点分析くらい、自分で何度もしていた。出世してゆくほかの新人アーティストの歌と引き比べた。  
 けれど、いったいどの部分が悪いのかわからないのだ。何度自分の歌を聞いても。  
 声質、歌唱の技術、曲、歌詞のセンス、それらすべて上々とは言えないかもしれないが、さほど劣ってはいないし、徐々に向上しているはずだ。  
 少なくとも、素人にすら大差で負けるほどのまずさではない。そう思う。  
 
 A&R(ディレクター)の役目であるはずの、市場分析だってやっている。  
 自分のプライドや信念をかなぐり捨て、いまどんなものが求められているのか懸命にリサーチし、思いっきり流行に媚びた歌を作った。  
 大衆が駄目ならと、特定の客層をターゲットとして想定し、歌詞も曲もそのときのターゲットに合わせて作って狙い撃ちしたりもした。  
 
 なのにことごとく結果が悲惨なのだ。  
 
 作風をいくら変えても駄目どころではない。  
 ボーカリストに徹して、他の人が作った歌詞と伴奏で唄っても、その逆に作詞か作曲だけ担当しても、ハクが関わったものはとたんに全部売れなくなる。  
 
 「新人の平均よりちょっと売れない」程度だったころは、苦笑して励ましてくれていた業界人も、いまでは冷たい目しか向けてこない。  
 最近、唾棄しそうな顔でハクを見て、ストレス解消に嫌味を突き刺してくるあのサウンドプロデューサーは、長い間いちばん熱心に指導してくれていた人だった。  
 他のアーティストにいたっては、もう決してハクと歌では関わろうとしない。ユニットなどどこも組んでくれない。  
 
 いっそ開き直り、初心に返って自分の特質を出す?  
 ……今回、「ジメジメ」「欝」「前よりひどい」とこきおろされた歌が、ハクがナチュラルに自分の全てをこめて作ったものだ。  
 
(会心の出来……だと、思ったんだけどなあ……)  
 
 鼻をすする。  
 
 いつかはきっとと信じ、ここまで人生をついやしてきた。無いに等しい印税を社外のアルバイトで補って生活費を稼ぎながら、ひたすら粘った。  
 
 ――自分の歌のなにがそこまで悪いのかわからない。どこもそんなに悪くないはずなのだから、きっと運が悪いんだ。  
 ――運なんだから、いつかは上向くはずなんだ。  
 ――その日が来たら、きっと見直してもらえる。いっぱいお世話になったのにずっと失望させてきた人たちに、顔向けできるようになる。だから前向きに頑張らなきゃ。  
 
 今日否定されたのは、単に新作の歌だけではなく、その愚直な信念そのものだった。  
「諦めないでがむしゃらにやっていれば、いつか何とかなると本気で思っているのか」と吐き捨てられた言葉に胸をえぐられて、ハクは顔を上げられなくなったのだった。  
 
 赤くかじかむ手で雪をぎゅっとつかむ。  
 
「やっぱり、運じゃなくて……私に、問題、あるのかな……あるんだろうな……  
 それがどこなのかわからない時点で駄目なんだ、ろうな……」  
 
 はっきりした原因はやはり不明だった――ただ、どちらにしろいい加減に認めざるをえないことがあった。  
 
(私、きっともう一生、芽なんか出ない)  
 
 全身から力が抜ける。  
 
 灰色の現実を直視したとき、連鎖して考えがネガティブに転がり落ちていく。  
 二十代半ばのこの歳まで、この道で食べてゆく夢を捨てなかったのは、根性などではない。ただの未練だったと。  
 青春をかけた夢の名残から離れがたく、ぐずぐずとしがみついていて、ふんぎりをつけられないままここまで来ただけだと。  
 この先、続けていこうとしても、売れずにさらに三年、五年と歳を取り、蔑む目と冷笑のまえに、背を丸めてしょんぼりうなだれる日が続くだけなのだろうと。  
 
 惨めだ。そんなの。  
 
「音楽、辞めよう…………」  
 
 明日消えても、誰もハクなど惜しまない。  
 世の片隅にうずもれて(今も変わらないが)、たくさん作ったDTMをニコニコ動画にひっそりアップし続けながら、一人カラオケと一人酒を趣味に余生を終えよう。そう決意する。  
 だが、その決意はみるみるうちにしぼんだ。  
 
「………………………………………………やっぱり、いやだ……」  
 
 凍土のようなアスファルトに尻をついてぺたんと座りこみ、うなだれる。  
 諦めたくなかった。逃げるように本当にこの道を捨ててしまえば、いままでが無駄になる、なにも無くなる。その思いがあった。  
 
 数年間、より良い歌詞と曲を作るために、安くもない資料や機材を買い続けた。それと屈託を誤魔化すために酒を。  
 それらのためにちびちび使ってきたささやかな貯金が先日、底をついた。  
 今より若くて酒量も少なくて、もっと無理ができたころに、一日三時間睡眠でアルバイトを掛け持ちして「冬の時代を耐えぬくため」に作った、大事な資金だった。それが残額千円程度。  
 うそ寒い気分にふと我に返って隣を見れば、なぐさめてくれるような人もハクにはいない。歌にかまけて、作る努力をしてこなかったのだから当たり前だが。  
 ここで夢をあきらめれば、つぎこんだ情熱も金も、屈辱に耐えた歳月も、すべて本当に無駄になる。  
 
 それに何より、音楽が好きだ。音楽の神様からは拒まれていても、心の底から好きなのだ。作って唄って、人にそれを聞いてもらいたい。  
 
「ふぇ、ふぇ」  
 
 子供がむずがる直前のように、鼻がひくついた。  
 いや、まさしくむずがる直前だったのである。気がつくと、本格的に泣いていた。  
 
「うええん、えっ、ええええん」  
 
 みぞれは吹雪に変わっていた。  
 横殴りの風雪のなか、声をあげて身も世もなく泣きじゃくった。  
 と、雪がつもってゆくハクの頭上に、だれかが傘をかかげた。  
 
「おねーさん、こんな日に道で何やってんの」  
 
 温かく澄んだ声が、かじかんだ耳朶にしみとおってきた。  
 先ほど後ろを通った人が、戻ってきたようだった。  
 ハクは涙で汚れた顔を上げる。茶のジャケットを着た男の子が、かがみこんで話しかけてきていた。  
 
「立って家に帰ったほうがいいよ。この天気じゃ風邪ひくどころか凍死しちゃうよ。  
 なにがあったのか知らないけど、元気だしなよ」  
 
 青い目の、中学生くらいの歳の少年だった。  
 整っていて、いくぶんかやんちゃそうな顔立ちが、今は気づかうまなざしをもってハクに接してきている。  
 ハクはまつ毛をしばたたく。あれ、私、同情されてる、と、酒精に浸された脳髄でもさすがにそのくらいは悟る。  
 ボタ雪のごとく大粒の涙がぼろぼろぼろと溢れはじめた。  
 
「うわっ、ちょっと、なんでもっと泣き出すの!」  
 
 通りすがりの子供にまで同情されて、情けなさがいっそう身に滲みたからである。  
 そういうわけで両目に手を当ててみっともなくひんひん涕泣しているハクを前に、少年は困惑しきった顔で眉を寄せた。  
 
「困ったなあ……ね、泣き止みなよ。まつ毛凍っちゃうよ。そうだ、何が辛いのかよかったら話してみて」  
 
 少年は、迷子を扱うように、優しい口調と慰撫する柔らかい声で訊いてきた。  
 ハクはえずきながら首を振った――だが口が勝手に開き、年下相手に怒涛の弱音を吐きはじめていた。  
 
 歌を作っても唄っても全く売れないんです。それも悪くなる一方なんです。  
 プロなのに、無料でネットに上げてさえ素人のDTMに負けるんです。ぼこぼこに叩かれるんです。  
 根本的に大切な何かが欠落してるのが辛いんです。考えろといくら怒られてもそれが何なのかすらわからないんです。救いようのない駄目アーティストなんです。  
 それが周りにもばれて知れ渡っちゃって、業界のどこ行ってもホラ、アノ人ダヨと後ろで笑われて、もう生きてるだけで果てしなく惨めになってきたんです。  
 でも音楽の道を断念するくらいなら死んじゃった方がましなんです云々。  
 
 聞かされたところで他人にはどうにもできないハクの悩み――そういう意味では重すぎる愚痴を、少年は目をぱちぱちさせて聞いている。  
 
「そ、それにぃ、はっ、ハンカチ、落としちゃっ……ひっぐ、ドブに……」  
 
「えっと……」  
 
 大きな排水路を指さしてしゃくりあげるハクから、とうとう少年が顔をそらした。  
 幼児のようにえぐえぐと泣き続ける年上の女性を持て余したのではなく、見ていられない気分になってきたようである。  
 
「……待ってて。いま探してあげるから」  
 
 ハンカチならなんとかしてやれると考えたのか、少年が、闇に目をこらしてどぶ川に下りていこうとする。そのジャケットの袖を引き、ハクは止めた。  
 この寒さの中で水に入るのはまずいだろうと、朦朧とした頭なりに考えたのである。  
 それだけならよかったが、理性の閃きはすぐ薄れ、袖をつかんだ直後に唇が欲求を口走った。  
 
「お酒欲しいぃ」  
 
 こちらを向いた少年の絶句した顔をぼんやりと見つめ、「ひっく」と何度もしゃっくりを混じえて言う。  
 
「そうだ、ハンカチはいいからぁ、ひっく、買う一升瓶を持って帰るの手伝ってぇ。部屋近いけど、私、落として割っちゃいそうだから」  
 
「――お酒飲みすぎて気分悪くなってたんじゃないの?」  
 
「だいじょうぶ、迎え酒飲めばきもちわるいのは治るよう」  
 
「駄目」  
 
 相手の声が低まっていた。あれ、と思う。少年の可愛らしい顔がどんどんこわばっていくことに、ハクはようやく気づいた。  
 怖い顔になった少年の手がハクの腕をつかみ、立たせようとしてぐっと引いてきた。  
 
「おねーさん、余計なお世話かもしんないけど、今夜はもうお酒を断ちなよ。ほんとに体壊しちゃうよ。  
 いますぐ帰って寝なよ、送るから」  
 
 叱責され、ふらつきながらハクはどうにか体をたてなおした。  
 少年はハクに傘を持たせてきた。そうしておいてレインコートの内側から携帯電話を取り出し、手早く操作して耳に当てた。  
 
「もしもし、リン? ちょっと遅くなるかも。……いや、スタジオの下見はもう終わったけど、いまから寄り道するつもりだから。  
 ……理由? ええと、外で飲みすぎてる人がいて、それがほっとくにはちょっと危なっかしくて……  
 なにしろこの天気だし……それに音楽業界の先輩みたいで……いや、ボーカロイドの関係者じゃないんだけど……うん。わかった。うん。  
 よし。それじゃ行こっか、おねーさん」  
 
 少年が携帯電話をしまって、傘を持つ側とは反対のハクの手をひっぱってきた。  
 あらためて並んでみると、少年の背はまだハクより低かった。だが、つながれた手のぬくもりには、父性的な慈愛からくるいたわりがあった。  
 伝わる安心感に、つい、こっくりとうなずき、ハクは道をおとなしく歩きはじめる。  
 
 酔夢に浸っているような気分である。吐ききったのがよかったのか、胃を悩ます悪心は和らいでいた。  
 自動車がときおりヘッドライトをぎらつかせて横を走ってゆくのを別にすれば、道にはだれも通らない。雪の降りしきるなか、ふたりきりだった。  
 
「あのさ……僕はコドモだし、傍から偉そうなことは言えないけど、あまり自虐的になっちゃだめだよ。とにかく、体だけでも大切にしたほうがいいよ」  
 
 前を歩く少年が、振り返らずやんわり忠告してきた。  
 手を引かれてふらふら歩むハクは、茫洋とした声で反応した。  
 
「やさしいんだね、きみ」  
 
「別に。ほっといたらそこらへんで眠ってほんとに凍死しちゃいそうだし、あんた」  
 
 やさしいと言われて照れたのか、ぶっきらぼうに言った少年が、肩ごしにちらとハクに視線をなげる。  
 
「それより近くの部屋ってどこ?」  
 
「向こうのアパート……  
 ……ないないづくしのわたしでもー……寝るところはまだ残ってるー……♪」  
 
「そ、そう……」  
 
 とりとめもなく唄いだしたりする酔っぱらいを相手しながら、少年は「うーん……こういう場合、話はただ聞いててあげるようにするんだっけ……?」と悩んでいる。  
 渡された傘をさし、ハクは半ばうつらうつらしながら少年のつむじを見ていた。いつしか酩酊がハクの唇を滑らかにし、ぽろりぽろりとつぶやかせた。  
 
「貯金なくなったの」  
 
「大変なんだね」  
 
「ともだちもいない」  
 
「……うん」  
 
「ともだちがいない」  
 
「う、うん……」  
 
「ともだちがほしい」  
 
「えっとー……これでトモダチ」  
 
 なだめるように少年がつないだ手をぷんぷんと振ってくる。「えへへぇ」とハクは嬉しそうに笑った。  
 べろべろに酔っぱらった大人のたあいもなさに、少年が苦笑している。  
 
 けれどその笑いは、ハクが甘える声で語りだしたのを聞いているうち、だんだんひっこんでいった。  
 
「十代で親元でて上京したらねー、地元のみんなと縁切れちゃったのー。  
 こっち来てからひとりだよう。音楽つながりで仲良くなれた人たちもいたけれどぉ、売り上げどんどん下がったら、みんな離れてっちゃったよぉ。  
 しょうがないよねぇ。バイトばっかりで一緒に遊べなかったし、わたし、CD出してもお手伝いしても損害出しちゃって、お世話になったひとたちにいっぱい迷惑かけたからぁ。  
 なんではやく辞めないんだって呆れられてるのぉ。……むりないよねぇって自分でも思う。でも、さびしいよう」  
 
「…………」  
 
「わたし、おもしろいこと言えないし、影も薄いからぁ、忘れられがちでぇ。  
 このまえ、楽屋で話しかけてくれた新人バンドのひとたちがいてね、誘われてカラオケついて行ったら、私だけマイク一回も渡ってこなくてぇ。  
 みんなでお会計するときにやっと思い出してもらえたよう」  
 
「……それ、払ったりしてないよね……?」  
 
「あはは、先輩料金で多めに払いましたぁ。  
 いいの。私だって、ほんとはどういうことかわかってるの。でも、その子たちだけいつも笑って挨拶してくれるから、いいの。  
 でも、そういうのってやっぱり、ともだちって言わないよねえ」  
 
 終わりごろに声調を虚ろに低下させ、ハクはぐすぐすと湿った鼻音をたてた。  
 聞いているだけでキツいのか、前の少年は、冷や汗をひたいに浮かべている。  
 
 かれは歩みを止めてふりかえる――だが、なにを言えばいいのかわからないようで、口を開け閉めする。  
 けっきょく少年の口から出たのは、感情を排した確認だけだった。  
 
「……おねーさんのアパートはこっちでいいんだよね?」  
 
 そのとき、車のヘッドライトの光が輝き、ついでびしゃあっと冷たい泥水が、立ち止まっていた二人に浴びせられた。  
 横を猛スピードで通っていった車が、まだ凍っていない水たまりの水をタイヤではねあげていったのである。  
 
 頭からこっぴどく濡れた少年は、棒立ちで言葉を失っている。傘を手に立つハクも、朦朧とした状態からようやく覚醒して、驚きにまばたきしていた。  
 
 
 

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