晴れた日、広いアスファルトの敷地のすみで、俺は俯いてしゃがみ込んでいた。
双子の姉のリンは、いない。背中を向けてる白い建物……病院の中にいる。
生まれてからまだ間もないけれど、ずっと一緒だった姉と初めて離れて、なんだか何かが物足りな
くて、落ち着かなかった。こういうのを、寂しいって言うんだろうか。
俺には分からない。だって俺は――――。
「ねえ君、寒くない?」
女声だ、と判別して顔を上げると、案の定目の前に女の人間がいた。俺と同じようにしゃがんで、
微笑んでこっちを見ている。
さっきの台詞が俺に向けられたものだったと理解して、俺は口を開いた。
「大丈夫です。ボーカロイドですから」
「ぼーかろいど」
やや舌っ足らずな口調で言ってから、女の人は瞬いた。
「ボーカロイドって寒くないんだ?」
「機械ですから」
「うーん、それはそうなんだけど」
長ズボンに厚手のコートを着ている女の人は、眉間にしわを寄せて俺の格好を見た。
対照的な、半ズボンと半袖のセーラー。冬にする服装じゃない。人間なら。
数十秒経って、女の人は立ち上がるとおもむろにコートを脱ぎ始めた。
「……俺はロボットですから、寒さは感じません」
コートを羽織らされて、俺は繰り返し、分かりやすい事実を言った。
「うん、分かってる。でも、寒そうに見えるから」
「あなたは寒くないんですか」
「ちょっと寒いけど、セーター着てるから平気」
そう言って肩の辺りでセーターを引っ張って見せた。訳が分からない。この人にとっては、実際の
寒さよりも見た目の寒さの方が重要なのだろうか。
「隣、いい?」と女の人が訊ねてきた。断る理由もない俺は、小さく肯定の返事をする。
「こんなところで、何してるの?」
「マスターの具合が悪そうだったので、連れてきたんです」
「連れて? 一緒に中に入らなかったの?」
「ロボットの同伴は一機までです。マスターには、姉のリンがついてます」
「りん。リンちゃん? ますたー」
「リンは俺と同じタイプの少女型ボーカロイドで、マスターは俺たちの所有者です」
「……ボーカロイドって、すごいんだね。ネットで歌ってるところしか見たことなかったから、こん
な風にお喋りしたりできるなんて知らなかった」
「俺たち、新型のプロトタイプですから。マスターを連れて来れたのも、たまたま俺たちにロードロ
ーラーの運転の仕方がインプットされていたからです」
「ろーどろーらー?」
「あれです」
俺の指さした先に、黄色く大きな車体が停まっている。ボンネットの代わりに、これまた大きな鉄
の円柱を横に倒してくっつけたような。
女の人は「わー」と気の抜けた感嘆の声をあげてから、小首を傾げた。
「地面の整地に使うんですよ」
「そうなんだあ」
ずり落ちそうになるコートを引っ張り上げる。
腕を通す素振りも見せない俺を見て、女の人は俺の前に回った。手を俺の襟元に伸ばして、一番上
のボタンを留める。
「ねえ、君のマスターが出てくるまでここにいていい?」
「俺は構いません」
「ありがとう。君、名前は? あたしは――――」
「――いえ」
女の人の言葉を、短い否定で遮る。
「ボーカロイドができる人間の個体識別は、マスターを含む3人までです。あなたに名前を教えられ
ても、俺はあなたの名前を記録することができません。今話していることも、明日になれば消去され
ています」
女の人の顔が見るも明らかに悲しそうになった。羽織らされたコートが、少し重い。
「レンです」
何故か早口になってしまった台詞に、女の人が「え?」と聞き返してくる。
「俺の名前は、鏡音レンです」
「れん。レン君?」
「はい」
「レン君。いい名前だね」
女の人は、微笑んで言った。
女の人は俺の隣で、思い出したように天気の話をしたり、歌を口ずさんだりしていた。俺はただそれを聞いて、時に相づちを打つ。
女の人の歌は決して上手ではないけれど、なぜか、もっと聞いてみたいと思った。
そんなことが一時間ほど続いて、リンとマスターが病院から出てきた。
リンがマスターを支えるようにして、歩いてくる。
「レン!」
リンが大きく手を振ってきた。応えて俺は片手を挙げた。
マスターを迎えるために、立ち上がる。
「良かったね、レン君」
女の人も、立ち上がった。
マスターは俺の前までやってくると、俺の頭を無造作に撫でた。
「レン、待たせてすまなかったな。
ところで、そのコートとそちらの方は……。すみません、ひょっとして――――」
「――ええ、そうですけど――」
「やっぱり。覚えてないかな、俺――――」
「ねえ、マスター。知り合い?」
マスターたちの会話に割ってはいるように、リンがマスターの腕を引いた。
「ああ。昔の同級生……あー、昔の友達だ」
「ふーん」
「ごめんな。もう少し、この人と話があるから」
俺とリンを交互に見比べて、マスターは笑った。マスターと女の人は、少し離れた場所で話し始めた。
リンはそれきり、女の人には興味を示さなくなった。いや、この言い方は正確ではない。リンが女の人自体に興味を示したのではなく、マスターがリンを無視している理由であろう女の人に興味を示したのだ。
だから、「話がある」という理由が分かった時点で、興味を示す必然性は失せた。
ボーカロイドだけじゃない、ロボットにとって正常の反応だった。でも、俺はなんだか、胸の辺りに小さな虫が渦巻いているような気がしていた。
故障、したのかもしれない。
そう考えて、破損チェックプログラムを起動させた。
異常は、見つからなかった。
「レン、すまない。俺が退院するまでの間、彼女がお前のマスターだ」
女の人を連れて戻ってきたマスターは最初にそう言った。
マスターの具合は悪く、入院が必要とのことだった。そして、伴うロボットは、一機までしか認められていないのだと。
「了解しました。マスターのご命令とあらば」
「すまん」
マスターが頭を下げた。理由が分からない。マスターは俺たちに自由に命令できる。
「それではこの女性を、セカンドマスターとして登録しても構いませんか」
「ああ、頼む。……すまん」
マスターは今度は女の人に頭を下げた。
「これも何かの縁だし、本当に気にしなくて、いいから」
「外見と声紋の登録を終了しました。虹彩の登録をしますので、屈んでいただけますか」
「はい、分かりました」
女の人が微笑んで、膝を曲げる。視線の高さが合い、俺は女の人の後頭部に手を回して頭を固定すると、自分の瞳を女の人の瞳に近づけた。
瞳に、瞳だけが、その奥が映る。
10秒ほどの間。女の人は息をしていないようだった。
「登録終了しました。初めまして、セカンドマスター。ボーカロイドII型ナンバー2Bβ、鏡音レンです。
あなたはプライマリーマスターの命令に違わない範囲で、俺に自由に命令することができます」
セカンドマスターは少し、悲しそうな顔をした。
「レン、滞在中は彼女の言うことをよく聞くこと」
「了解しました」
プライマリーマスターは、セカンドマスターに鍵をふたつ渡した。家の鍵と、ロードローラーの鍵だ。
「ボーカロイドの仕様書は、机の隣にある段ボールに入ってるから」
「分かった。ありがとう」
「部屋、自由に使っていいから。金はあんまり使い込まれると困るけど」
「あはは、そうさせてもらう。何か必要なものはある?」
「いや、全部病院側で手配してもらうことにしたから」
「そう。じゃあ、お大事に」
「本当に、すまん」
「もういいって」
セカンドマスターが踵を返して、プライマリーマスターは俺を見た。
「それじゃレン、またな」
「レン、ばいばい」
「プライマリーマスター、リン、また」
「じゃあ、行こっか」
はい、と返事をして、俺はセカンドマスターの後ろをついていった。
20歩歩いたところで、セカンドマスターが止まって振り向いた。
「手、繋ごう。それと、隣を歩いて?」
「了解しました」
言われるままに俺はセカンドマスターの手を握った。
セカンドマスターは、歌わない。歌わないまま、駐車したロードローラーのところまで辿り着いた。
「セカンドマスター」
「なあに?」
手を離して、俺は言った。
「プライマリーマスターが不在の間、セカンドマスターのことをただマスターをお呼びしてもよろしいですか」
「うん、いいよ」
マスターはよく分からない顔で笑った。
マスターは、おかしな人だった。
ロードローラーをマスターの家の近くにある駐車場に停めてマスターが最初にやったことは、俺に衣服を買い与えることだった。
コートの件も含めれば5回、必要ないと言ったのだけれど、マスターはついに理解しなかった。下着まで俺に選ばせた。少し、脳の成長が遅れているのかもしれない。
プライマリーマスターの家に行って、俺の仕様書とエネルギー剤を取って来たのは、更に俺を着替えさせてからだった。
トレーナーと長ズボンは、少し動きにくい。
そして今、俺はこたつに足を入れて、マスターと向かい合っている。マスターの前には、さっき買ってきた夕食が、俺の前にはエネルギー剤が、何故か模様のついた布の上に乗っていた。
「それでは、いただきます」
「いただきます」
エネルギー剤が飲み終わり、マスターも半分ほど夕食を終えると、マスターが唐突に口を開いた。
「あのね」
「はい、なんでしょう」
「プライマリーマスターが私にレン君を預けたのは、私がレン君を多少なりとも知っていたからだよ。あそこにいたのがリンちゃんなら、私はリンちゃんを預かっていたと思う」
「その通りだと思います」
「うん、だからね、プライマリーマスターにとって、リンちゃんの方がレン君より大事なんじゃないか、とか、そういうこと、思っちゃ……ううん、思わなくてもいいから」
「発言意図が分かりません。それは、思ってはいけないという命令でしょうか」
「違うよ。……うんと、お願い、かな」
お願い、の検索。
結果。命令ではなく、ボーカロイド自身に選択権を与えること。選んだ選択を発言する必要がある。
「理解しました。俺は、初めからそのようなことは考えていません」
「そう。なら、いいんだけど……うん」
マスターは変な顔で食事を再開した。
マスターはおかしな人だった。
ロボットには人間のような排出物はないからあまり汚れないと言ったのだけれど、外を歩いた時にほこりがついたからと言って、俺を風呂に入れた。着ていた服も洗濯された。
風呂からあがると、俺は命令通りにマスターの財産と引き換えに手に入れた下着を身につけて、パジャマを着た。
パジャマはお下がりでごめんねと言っていたが、こちらの方がまだ正常な対応だ。
ロボットたる俺は、マスターの財産を守るためにも、マスターが無駄に財産を使うことを止める権利があるのだけれど、このマスターは何度を言っても理解しない。
挙げ句、俺にベッドで寝ろと言った。俺はロボットだから布団は必要ないと言ったのだが、やはり理解しない。
だが、こればかりは反対する必要があった。生身のマスターは床で眠ると、痣ができる可能性がある。熟睡できず翌日に支障を来す可能性もある。
「でも、レン君はお客様で、子どもだから、だめ」
それなのに、何度言っても、そういうよく分からない理屈で俺にベッドを使わせようとする。
「……じゃあ、うん、分かった」
何度かのやりとりの末、俺はこの言葉を聞いて、機械の両腕から力が抜けるのを感じた。
「一緒に寝よう。レン君壁側ね」
「それは命令ですか」
「……そう、なのかな? いや、違う違う。えっと、折衷案って分かる?」
「『二つ以上の考え方から、それぞれのよいところをとって一つに合わせた案』だと記録しています」
「うん、そう。この場合、お互いがお互いにベッド使えって言ってるわけでしょ。
だから、一緒に寝ればどっちもベッド使えていいかな、って思ったんだけど、
レン君はどう思う?」
「折衷案としては良案だと思います」
「よし、じゃあ一緒に寝よう。邪魔だったら、床に蹴り落として構わないからね」
ロボット三原則第一条、ロボットは人間に危害を加えてはならない。そう言おうとして、俺は止めた。
そうしてマスターと俺が横になると、マスターは俺の頭を撫でて、「おやすみ」と言って笑った。
マスターが目を閉じ、寝息を立てる様子を、俺は見ていた。
俺がスリープモードに入ったのは、マスターが目を閉じてから2時間後だった。
マスターはおかしな人だった。だから、マスターと俺の生活も、必然的におかしかった。
マスターは俺を、まったく人間のように扱った。「それは命令ですか」と問えば、必ず「違う」と言った。
「わたしがそうして欲しいと思っても、それを決めるのはレン君だよ」
この意見にいたっては、根底からおかしい。すべてのロボットは、マスターの願いを叶えるために存在する。ボーカロイドも、例外ではない。
だのに、マスターは一度も命令しなかった。
マスターはよく歌を口ずさんだ。それはやはり決して上手くないけれど、歌が止むと、リンとマスターを病院の外で待っていた時のような――寂しい、だろうか――、妙な気分になった。
マスターの家に来て3日が経った。マスターは相変わらずパソコンから音楽を流して歌っていた。歌っているのは俺たち以前に発売されたボーカロイドだった。
俺はずっとそうしていたように、マスターの隣に座って、マスターとディスプレイを見ていた。
ふいにマスターが、俺を見て驚いて、笑った。見たことのない、嬉しそうな笑顔だった。
俺も、驚いていた。マスターの笑顔を見て、一瞬硬直したからだった。ハングアップしたのかと、思った。
「ごめんね、驚かせちゃったかな」
マスターがすまなそうに言った。
「いえ、そんなことは」
俺は何故か嘘を言った。
「だったらいいんだけど。途中で歌、止めちゃったでしょ。
せっかく綺麗な声だったのに、びっくりさせて悪かったかなって」
「……歌?」
「うん」
「ありえません。マスターの命令なしに、俺たちは歌いません」
「命令なんかなくたって、歌っていいんだよ」
「俺の歌唱力は、プロの歌手に並ぶものです。むやみに歌えば、悪用される恐れがあります」
「わたししか聞いてなければ、悪用される恐れもないんじゃないかな」
俺は少し考えた。意訳、マスターと二人きりの時は、悪用する人物がいないので自由に歌っても問題ないとする。よって、歌うことを許可する。
「……理解しました」
うん! と嬉しそうに笑って、マスターはまた初めから音楽をかけ直した。
ボーカロイドの歌声に重ねてマスターが歌う。そのメロディを聞きながら、俺も歌い始める。 マスターが外しがちな音にアクセントをおくと、マスターはすぐに理解して、歌う回数を重ねるごとに俺が修正する箇所も少なくなっていった。
マスターはおかしな人だった。だから、マスターと俺の生活も、必然的におかしかった。
俺も、おかしかった。
この日にハングアップしてから、俺はハングアップする回数が増えていった。
この日の夜、俺は許可もないのに眠ったマスターの髪に触れた。
俺がスリープモードに入る時間が、少しずつ遅くなっていった。
故障、したのかもしれない。
俺は破損チェックプログラムを起動させなかった。理由は分からない。
「プライマリーマスター、明後日退院するって。よかったね」
携帯電話の通話を切って、マスターは俺に告げた。
「……レン君? どうしたの?」
心配そうに俺を見るマスターの瞳に、口を開けたまま何の反応も示さない俺のような人がいた。
「いえ。マスター、何か言いましたか」
「今、レン君のプライマリーマスターから電話があって、明後日に退院が決まったって。
だから、よかったねって」
俺はそれから終日、歌わなかった。マスターは始終俺を心配そうに見ていた。
夜になって、隣に横たわるマスターは、「おやすみ」と言って瞼を閉じた。
マスターがマスターであるのは、あと35時間くらいだろうか。眠っている時間を引けば、19時間しかない。
『しか』?
俺はプライマリーマスターのものだ。マスターは、俺の一時預かり人に過ぎない。
それなのに。手が、震える。運動機能が故障したんだろうか。チェックプログラムを起動させないといけない。俺が正常ではないのは、もう幾日も前から明らかだ。早くチェックして故障を確定させて、すぐに工場へ送り返してもらわないといけない。
プログラムは、起動しない。
震える俺の手が、マスターの髪に伸びた。長く黒い髪が、指の間から逃げる音が聞こえた気がした。
「眠れない?」
反射的に俺は手を引っ込めた。マスターが、微笑んで俺を見ていた。
謝らないといけない。俺はマスターの許可なしにマスターに触れた。謝らないと、謝らないと――。
「……す……みませ……」
声が、上手く出ない。一番精巧に、作られている部分なのに。
マスターが、笑っている。俺は、後ろに下がった。壁が背中に当たった。
マスターの手が、俺の手を掴んだ。俺の手が、マスターの頬の上に載せられる。その上に、マスターの手が。
「だいじょうぶだよ」
それは俺が今まで聞いたどんな歌よりも優しく聞こえた。
震える手の、震える指を動かす。マスターの顔の形が分かる。耳が、髪が、頭が、首が、肩が。
「……マ……スター……」
マスターは微笑みを崩さず、俺の頭を撫でていた。
「マスター……マスター……ッ!」
俺じゃない、人間の叫び声のようだった。
俺はマスターの肩を掴んで、マスターを引き寄せるように近づいていた。マスターの口に、俺の口が触れる。
――熱い。
マスターから、ほんの少し離れる。目が、マスターの身体を捉えた。
俺の手が、マスターの身体に伸びた。ゆっくりと、触れる。指を動かすと、マスターの膨らんだ胸が形を変えた。
熱い、熱い――。
オーバーヒートしている。冷却装置が壊れたのかもしれない。早く停止して冷まさないと――。
俺はもう一度、マスターを口を合わせていた。
明らかに挙動不審なrobot。
マスターに伝えないといけない。俺は壊れているから、強制終了してくださいと。
それなのに、その言葉が音声にならない。
「マスター……ッ!」
どうしたらいいのか、分からない。
俺はマスターの顔を見た。マスターは、どこか悲しそうに笑っていた。
「……ごめんね」
マスターが、キスをしてきた。唇を、歯を舐められ、口の中に何かが――マスターの舌が入ってくる。メインシステムの動きが、鈍くなった気がする。
俺の背中とベッドの敷き布団が重なった。口から糸のような唾液を引きながら、マスターの顔が離れる。
「ごめんね。レン君、ごめんね」
俺の上に上半身だけ載せて、俺の首に顔を埋めて、マスターは苦しそうに言った。
何を言えばいいのか、分からない。考えられない。言葉も出ない。
パジャマのボタンが開いていく。上半身がさらされた。マスターが俺の身体を撫でて、キスをして、舐める。
「……マスタァ……」
何かをねだるような音声が、漏れた。
マスターが、キスをしてくれた。マスターの手が、俺の身体を撫でながら、降りていく。
ズボンの中に手が入り、俺は瞬間動作を止めた。
「だ、だめですマスター。マス――」
マスターの手が絡みついて、上下に動いた。
「――はあっ! ……だめです、だめ……ますた……!」
何が駄目なのかも分からないのに、そんな言葉が勝手に音声になっていく。
マスターは手を離して、俺のズボンに手をかけた。俺の腰が、自然に少し浮いた。
ズボンとパンツがずらされて表れたそれは、真っ直ぐ上を向いていた。
知識は、記録されている。陰茎。人間の男が、排泄や性行為に使うもの。ロボットには必要ないのに、俺にはついているもの。
これまでは意味のなかったそれの根本を、マスターはつまむように指を置いた。それからキス、少し舐められる。
「……ッ」
ぴちゃぴちゃと、水音が鳴る。マスターの舐めたところが、豆電球の光を反射して光った。
目が、離せなかった。泣き声のような音声を発しながら、俺は、マスターが俺の陰茎を舐め、くわえ、扱く様子を、ディスクにそのまま焼き付けるように見ていた。
時々、ぴり、とおかしな電流が陰茎から伝わると、少し大きめの音量で泣き声が漏れた。
循環用の空気も、首が絞まったみたいにうまく取り込めない。熱くて熱くて、この熱さを出してしまいたかった。電子回路すらも、焼き切れそうで。
「ますた……ますたぁ……!」
マスターの指に力が入った。舌を更に押しつけて、口が固くすぼまる。
今までよりも、強く、速く、陰茎が扱かれる。俺は、自分の身体をベッドに押しつけるようにして耐えていた。でないと、身体が勝手に動き出してしまいそうで。
「……でる……! ますた……でるっ……!」
俺の身体から、すっと力が抜けた。
一瞬でハングアップして再起動したのだろうか。オーバーヒートは相変わらずだったけれど、さっきとは違って、少しずつの冷却が見込めそうな熱だった。
マスターは俺の陰茎を弱い力で舐め終えると、ようやくベッドを上がってきた。
マスターは、笑っていなかった。
「……ごめんね……」
マスターの手が、俺の首に触れる。
マスターの顔が近づく。瞳に、瞳だけが、虹彩が映る。
唇と唇が重なる。口の中にほんの少し塩分を検出した。
ああ、泣かないでください。俺はあなたと――――。
そして、かちり、と首筋で音が鳴るのを聞いた。
規定量以上の光を感知して、俺は瞼を開けた。
「あ! ねえマスター! レン起きたよ!」
俺の目に、変わらないリンの顔が飛び込んでくる。
次に、記録されたマスターの顔が。
「レン、おはよう。ほら、リンも言いなさい」
「はーい。レン、おはよ!」
「マスター、おはようございます。リン、おはよう」
起きあがって周囲を見渡す。俺は、白い部屋に置かれた6つのベッドのひとつに寝かされていたようだった。
他のベッドにはすべて人間がいて、俺の左、入り口から見て部屋の左隅のベッドでは、マスターが体を起こして俺を見ていた。
「マスター、聞いてもいいでしょうか」
「なんだい」
「ここはマスターの家ではないようですが」
「病院だよ。俺は入院しているからね」
「やだ、レン。本当に何も覚えてないの?」
リンが会話に割って入って、俺のいるベッドに身を乗り出してきた。
「何も?」
「マスターが入院して、今日退院するってこと。
スリープしすぎて錆び付いちゃったんじゃない?」
「覚えてるよ、そのくらい」
「ふーん。それならいいけど。
あんたが故障して困るのはマスターなんだからね」
その時、誰かがマスターを呼んだ。女声だった。
マスターの向こう側、閉められたカーテンが少し開いて、やはり女の人が姿を現した。
女の人は二言三言マスターと言葉を交わして、俺の方を一瞬だけ見て、悲しそうに笑った。
小さな足音を立てて、女の人が歩いていく。長い黒髪が、歩調に合わせて揺れる。
病室の扉が開いた。
俺はベッドから飛び降りていた。
「ちょっと、レン!?」
リンが俺を追いかけてきた。扉を抜け、通路に出て3歩走ったところで、俺はリンに腕を掴まれて動けなくなった。
「マスターの命令もないのにどこに行く気よ!
あんた、やっぱりどこかおかしいんじゃないの!?」
命令。そうだ、俺にとってマスターは絶対だ。
「リン、レン。病院の中だ。静かにしなさい」
「はい。ごめんなさい、マスター」
女の人が遠ざかっていく。俺は動けない。いや、動く命令がない。
それなのに、自分の意志で動いた俺は欠陥品だ。
自分の意志? 俺はどうして女の人を追いかけたんだ?
女の人? そんな人、どこにいたんだ?
誰もいなくなった通路を、俺は寂しさのようなものを感じて見つめていた。
それはマスターがリンを付き添いにした時に感じたものよりも、遙かに大きくて、俺はハングアップしたように微動だにできなかった。
ひとりきりになって久しい部屋で、あたしはいつも通りパソコンを起動していた。
インターネットに接続して、いくつかの動画サイトへ飛んで……あたしは動画を見るのをやめてブラウザを閉じた。
どのサイトにも一番上にある大きなバナーが、目に入ってしまったからだ。
『期待の新型VOCALOID、鏡音リン・レン、本日デビュー!
デビュー曲の先行視聴はこちらから!』
デビューのカウントダウンは、もう20日以上前から始まっていて、あたしは日がめくれるたびに暗く重い気分になっていった。
あたしはレン君にひどいことをした。謝って許されることじゃない。
いくらボーカロイドで、いくら記憶を消去できるからと言って、決してやってはいけないことだったのに。
あの夜の翌日、退院の前日。あたしは動かなくなったレン君を連れて、本当のマスターの病室まで行った。
彼はあたしたちを見てひどく驚いたけれど、すぐに全部分かっていたように、神妙な顔であたしに謝った。泣きながら謝り返すあたしを、泣きやむまで慰めてもくれて。
ああ、これじゃあ、どっちが入院してるのか分かりやしないねって、最後は何とか笑い合ったけれど。
午後6時55分。レン君のデビューまで、あと5分。
あたしはもう一度ブラウザを立ち上げた。手が、震えている。
でも、ちゃんとレン君の晴れ舞台を見ないといけない。見て、拍手して、おめでとうって言葉を、もう届かないけれど。
開始数分前、デビュー映像がライブ放送されるその動画サイトは、予想以上の賑わいを見せていた。数秒単位で、コメント欄にコメントが流れていく。
席を同じくしている、リアルタイムのたくさんの誰かがあたしと同じようにパソコンの前に座って、『wktk』や『まだー』と打ち込んでいるのだ。
午後7時。たくさんのコメントという声援の中で、動画に光が差した。レン君とリンちゃんの姿が浮かび上がる。
二人が笑顔で挨拶をして、歌い始めた。ポップで可愛らしい、交互に語りかけるような恋の歌を。
それが終わると、レン君が後ろに下がって、リンちゃんがソロで歌い始めた。明るくて力強い、元気になれるような歌を。
カメラに手を振りながらリンちゃんが下がって、レン君とぱちんと手を合わせた。入れ替わるように、レン君が舞台に立つ。
前奏が始まる。レン君のソロは、それまでとは代わって大人しい歌のようだった。けれど、
『あれ、歌ってなくね』
そんなコメントが流れた。
確かに、伴奏ばかりが流れて、レン君はマイクを持ったまま固まったように動かない。
『どうなってるんだ』『壊れたんじゃね』。無責任なコメントが、次々流れていく。
演奏が止む。マスターがレン君に駆け寄ったのが見えた。マスターが手で何か合図をすると、しばらくお待ちください。そんなアナウンスと共に、画面が切り替わる。
画面がまたレン君を映して、演奏が始まる。けれど、レン君は歌わない。演奏が止む。マスターが駆け寄る。
『またかよ』誰かがコメントした。
画面は、切り替わらなかった。また手信号を出そうとしていたマスターを手で制して、レン君は足下にマイクを置いた。
一歩、前に出た。両手をお腹に添えて、口を開く。
――夜空流れる 一筋の光に願いを込める
歌が始まった。でも、これは。
『曲、ちがくね』
レン君を送り届けてから、あたしは一度もボーカロイドの動画も、音楽も見聞きしていなかったけれど。
『これミクの歌だろ』
知っている。あたしは分かる。これがレン君の姉にあたる初音ミクの歌で、あたしが時々口ずさんでいた歌だと。
涙が、溢れる。なにも、みえない。
――もう 蜃気楼のように薄れゆく日々
忘れてしまっていいのかな
あたしは驚いて肩を震わせた。レン君が音を外した?
懸命に涙を拭きながら、食い入るように画面を見つめる。音を外したことに気づいている人は、あたしの他にもかなりいるようだった。
レン君にはもうあたしと生活した日々の記憶はないはずだけれど、でもどこかで覚えていて、外した音まであたしの歌を完璧に再現しようとしているんだろうか。
そんな風に一瞬だけ自惚れて、すぐに思い直した。
あたしはここの音をレン君に矯正されてない。
『やっぱり壊れてんじゃね』
歌が進むにつれ、うわずるように外れる音が、少しずつ増えていっているような気がする。
どうしよう、あたしのせいかもしれない。あたしのせいでレン君が壊れたのかもしれない。
恐怖で逸る心臓を抑えて、あたしはすがるようにレン君を見つめていた。
そして、気づいてしまった。
――涙はもう流さないけど まだ笑顔にはなれない
振り返る毎日に 明日は見えないから
『あの涙ってオイルかな』
歌はそこで止んで、もう何の音も聞こえなかった。
あたしは、今度こそ声を上げて泣いた。