闇夜に浮かぶは 皎々たる、望月  
月下に鳴くは、鈴虫か、松虫か―  
この時期は急に庭が賑やかになり、ひとの耳を、楽しませてくれる。これを雑音と捉える者もいると聞くが、少なくとも自分にはそうは聴こえない。  
それは己が所謂「趣」というものを知るからなのか、それとも「ボーカロイド」としてのプログラミングがそうさせているのか―身も蓋も無い考えだな、と手元の杯に映る影を見ながら、がくぽは笑った。  
時は子の刻、濡れ縁で柱にもたれかかり、彼を雇う主から貰った少し値の張る酒を、月と虫の音を肴に、一人、味わっていた。  
良い音だ、と呟いては杯に口付け、空にしていく。その単純な動作が、今はこれ以上に無い程落ち着いて、心地良い。  
一息ついて、がくぽは顔を上げる。目線の先にある、満月。その黄金と銀を混ぜたような色は、冷たくとも、どこか温かみを彼に感じさせた。  
「月、か…」  
がくぽが何気無しに呟いたその時、襖がす…と開く音がした。顔をそちらに向けると、目の慣れた暗闇の中で、視線が合う。  
「あ…」  
相手は小さく声を漏らした。目線がさっと逸らされる。  
「…ごめんなさい。暗いし静かで、もう寝てるものだと思ったから…」  
「ルカ殿?斯様な時間に、何か…」  
「…これ、読み終えたから、返しに…」  
ルカの手元を見ると、小さな古い文庫本があった。それと、小さな紙も。  
「ああ…そうであったか」  
確か四、五日前に貸した物だったかな、とがくぽは思い出していた。  
きっかけは、ルカがある日本文学作品をモチーフにした曲を歌うことになり、それにあたってその原作に目を通しておこうと思い、それをがくぽに借りた、というものだった。  
それを通じて他の作品にも興味を持ったルカに、またがくぽは快く本を貸した。そんな貸し借りが続けられ、今では読み終えた本は二十冊くらいになっている。  
「しかし急がずとも、夜が明けてからでも構わなかったのだぞ?」  
「明日も仕事あるし、なるべく返せるうちに返しておきたかったのよ」  
「その紙は?」  
「…黙って机にボン、じゃいくらなんでも借りてる身として失礼でしょ。だから、その、作品の感想と…あと…お礼の言葉………って何笑ってんのよ」  
「ふふ、いや、ルカ殿らしいと思ってな。それで、感想は…」  
「何よらしいって…まあ、本の方は面白かったわ。文章がとても親しみ易くて、主人公の苦悩がリアルに共感できて…気に入ったわ」  
「そうか、それは何よりだ。また、近いうちに何か貸そう」  
「…ありがとう」  
ルカの礼を言う声のあとに、微かに笑う声が聞こえた。  
 
俯き加減だった顔を無意識に上げて、今まであまり見ないようにしていたがくぽの姿を捉える。  
縁側に座るその影は、淡い藍色の着流しを身に着けており、普段は高く結い上げている髪も、今は緩やかに下で纏められ、片側に流していた。  
屋根の下で藤色の髪が月明かりを受け、ちらりと見えたうなじが光る。  
…だから嫌だったのに。  
彼の姿を、顔をみると、またあの感覚に囚われるから。絶対にそれが何かなんて認めたくない、あの感覚が。  
「それ」は最近特に酷くなっていた。だから近頃はルカの方が一方的に、必要最低限の時以外は忙しいフリをしていた。  
今回、就寝時にこっそり返そうとしたのだって、本当はそんな理由があってのことで。  
でも、予定がすっかり狂ってしまった。しかも、あんな格好で、なんて…最悪。  
引き返さなきゃ、と釘付けだった目線を無理やり逸らし、踵を返そうとする。  
「折角のお楽しみを邪魔して悪かったわ。じゃあ…」  
「あ、ルカ殿」  
部屋を出ていこうとするルカを、がくぽの声が引き止める。  
顔だけ振り返ると、優しい目がこちらを見ていた。  
「暫し…此方で落ち着いてゆかぬか?」  
 
 
明日は早いから、とか言って、冷たく返答する事無くその場を離れることだってできた筈だった。  
自分でも解らない。こんなことしてても、自分が苦しいだけなのに。  
「実に久しぶりだな、こうして二人で並んでいる、というのは」  
がくぽの明るい声が、苦しさに追い討ちをかける。  
決して誘惑されたんじゃない。私だって秋の情緒を楽しみたいって気持ちくらい持ってるんだから。と、一人意味無く頭で言い訳を呟いたりする。  
「我ながら見苦しいわ…」  
「?何か…」  
「いや、何でもないわよ。こっちの話」  
誤魔化すように庭先に視線を向けた。虫の音がここにいるよ、と自己の存在を主張するように、あちこちから聴こえてくる。  
いつの間にか無意識に目を閉じて、その澄んだ音に聴き入っていた。  
「ルカ殿も、斯様なものが好きなのだな」  
「…ええ…だからって一人きりで夜中にお酒なんて飲もうとは思わないけど」  
「今は二人きりであろう?」  
かあ、と耳が熱くなる。  
今のが嬉しそうに聞こえたのは、自惚れなんだろうか。  
とにかく立ち去るタイミングを見つけないと、とルカが腰を少し持ち上げようとしたその時、声がかかった。  
 
「…何よ」  
「済まぬが、酌を…」  
空の杯を此方に向け、にこりと笑う。これ以上居ては駄目なのに、あと少しだけ、と願う自分がどこかにいて、もどかしい。  
「…しょうがないわね」  
がくぽに近づき、傍の徳利を持ち上げ、酒をゆっくりと注いでいくと、かたじけない、と言われた。  
それが違う意味に聞こえて、こっちが申し訳ない気分にさえなる。ああ、馬鹿みたい。  
気がつくと、注ぎ終えてからも彼の手元を覗いていた。丸い光が、捕らわれている。  
杯の中の小さな月。それは、ゆるり、ゆるりと手の中で揺れ、口付けられ、飲み込まれていく。その様子をぼんやりと見つめていると、それに気づいたがくぽがにこりと微笑みかけ、慌てて視線を逸らした。  
「ルカ殿も一杯飲むか?」  
「結構よ。酔わせて何するか分かったもんじゃないわ」  
言われた言葉に少し声を尖らせた。飲みたくて手元を見てたと思われるなんて心外だ。  
そうか、と少し寂しそうな声の後に、再びがくぽが口を開いた。  
「ルカ殿」  
急にこちらを真っ直ぐに見据えてくる。  
真剣な顔に、どきり と、確かに身体が硬直した。  
「愛している とは、英語で何と言ったか」  
一瞬、何を言われたのか解らなかった。  
「あ、ああ、あ、I love youも知らないの?あんた」  
「済まぬ。拙者、英語が苦手故」  
「そのくらい今時日本人の小学生だって知ってるわよ。信じられない…」  
最初のキーワードに動揺した分、言葉が乱暴になってしまう。  
なに期待してるのよ。  
向こうだって、そんな気が無いって事くらい分かってるくせに。  
「何で急にそんな事…」  
「いや、とある話を思い出して、少し気になった」  
「とある話?」  
「ある有名な文豪が、『愛している』という文を、『月』という言葉を用いて訳した、との事だ」  
「月?…どうしてそんなもの…」  
「何故か、か……今は、それが解る気がする」  
「え…」  
どういう意味、と聞く前に、ルカは何かに全身を包まれるような感覚の中にいた。  
からん、と杯が転がる音がする。  
確かな温もりと、僅かな酒の香りに混じって感じる、彼の、匂い  
状況が、呑めない。  
 
何よこれ  
何よ  
何なのよ 一体  
 
「……な……」  
「…ルカ、どの…」  
声が、顔が、近い。  
流されては、駄目。  
「離して…この酔っ払い」  
「…ルカ殿」  
 
どうしてこんな事するのよ  
どうしてよ  
「最低よ…酒で…なんて…」  
 
こんなの、嫌…!  
 
「ルカ殿」  
「離してよ!ねえ!」  
「ルカ」  
 
耳元ではっきりと囁かれ、びくりと身体が震えた。  
がくぽが抱きしめていた腕を緩め、ルカの目を見つめる。  
普段と変わらない、澄んだふたつの瞳。今度は、視線を逸らせなかった。  
「がく…」  
「ルカ…欲しい」  
 
 
いいの?  
「何…言って…」  
 
ねえ、いいの?  
「ルカが、欲しい」  
 
本当に、いいの?  
「ルカの全てが、欲しい」  
 
信じても、いいの?  
 
 
 
「…ばか」  
好きって、認めても いいの?  
 
 

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