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すべて真の生とは出合いである。
マルティン・ブーバー『我と汝・対話』「我と汝」より
希望は人間の胸中の尽きぬ泉だ。
人間は幸福ではない、然し常に将来に幸福を期待する存在なのだ。
魂はふるさとを離れて不安にふるえ、未来の生活に思いを馳せて憩うのだ。
アレキサンダー・ポープ『人間論』「書簡 一」より
この『海』の色は、人によって様々に見えるという。
ある人は青だと言い、またある人は淡い黄、スペイン・ワインの深い赤とも誰かが言っていた。
だが俺には緑に見える。薄く緑がかった海。本物の海と何が違うかと言えば――ここでは息継ぎが必要なく、ずっと潜っていられることか。
『仮想の海』。人間の神経を通る微弱な電流を電気信号に変換し、接続された先に、その人が見ることになる――電子が満ち、情報が視覚化された場所。
正確に言えば『見る』とは言えない。脳内で映像化されているだけで眼球を通して『見ている』わけではないのだが、確かにその海は『在る』のが『分かる』。
海に潜っているという感覚――『仮想の海』はどこまでも深く、どこまでも広がっている。
浮遊感が俺を支配する。チベット仏教の宗教家は言っていた――『仮想の海』の感覚は、霊魂で彷徨っていることに等しい――と。
俺はその言葉に半分同意する。――ここには俺の霊魂がある。だが、肉体もあるんだ。
「…ちゅぷ…あむぅ…んふふ」
そもそも、『海に潜っている』と感じているということは、肌で水に触れる感覚を得ているということだ。
霊魂は物質的にはゼロの存在であり、限りなく『無』ならば、『有』は霊魂を包括するゼロ以上の物質が無ければ分からないことであり…
「はぁぷ…ん…ずじゅ…ぷぁ。…えへへ、そろそろみたいですね〜」
これをもっと分かりやすく言うと、東洋における陰陽の変化を説かねばならない。
『易経』には『精気は物と為り、遊魂は変を為す』とあり…
「はぁ…こうやって擦ると、透明なお汁が先っちょから出てきます…。
我慢しないで…。ちゃんと飲んであげますから、いっぱい出して下さいね…。
っていうかアナタの脳内ってこんな時でもノイズが多いですね。ちょっと書き換えさせてもらいますよ♪」
万物の化成は陰と陽によって起こり、朱熹は『太極図説』の中で…葱(ネギ)の原産地は中国西部とされている。
中でもパミール高原は「葱嶺」と表記され、野生の高山ネギが自生していることで有名だ。
葱嶺は古代から東西交流の重要地点であり、帝政ローマ期の著名な思想家ググレカスもネギと葱嶺に関する膨大な研究を…
「ってうぉい!なんで霊魂と肉体の話をしてる時にネギの話をしなければならんのじゃい!っていうか勝手に俺の中枢神経に入るなって…うぉっ」
「んぐ、ぴちゅ、ずぷ、じゅぶ…いひいひうるはいれふね〜、いいほころなんれふはら、しふはにひへふらはい…んん、ちゅぶ、んぐ、れるれる…」
「くわえながら話されても分からな…っく、そ、そこは…カリ首はまずい、…ぐ、そろそろ…!」
「…はぁい♪このままらひていいれふよ♪
ぐぷ、ちゅぶ、あむ、ちゅぶ、じゅぼ、ずちゅ、じゅる!」
「…で、出る!…うおおッ!!」
「んんッ!!…んぷ…んぐぅ…っんんう…ごきゅ…ぷはぁ。
…えへへ、全部飲んじゃいました♪…アナタの精液…ちょっとクセになりそうかも。ごちそうさまでした♪」
「…はぁ、はぁ…ふぅ…。そ、それでだな」
「はい、何ですか?あ、言っときますけど、さっきみたいに霊とか陰陽師とか、そういう神妙不可思議にして胡散臭い話はお断りですよ?
対局って言われてもワタシは囲碁も将棋も知らないですし♪」
「対局じゃなくて太極な。ってそうじゃなくて、あのな…何でキミがここにいて、勝手に俺に『侵入』してきて、『海』で素っ裸になって、君が、お、俺のをしゃ、しゃ…」
「しゃぶれだぁ!?テメェがしゃぶれよこの野郎!!…ってレス返してほしいんですかぁ?だが断る!」
「じゃなくて!何で俺のをいきなりしゃぶり出したんだってことだ!
そもそも!…君は一体、誰なんだよッ!!?」
…そう。長々としてしまったが、現在の俺は『仮想の海』に沈みながら意識を奪われ、気が付いたら素っ裸にされていた。
そればかりか、見知らぬ女の子に、俺の『男である部分』をアイスキャンデーのように舐め回されていたのだ。
俺の目の前にいるこの子の身に付けているものといえば、細くてしなやかな足にぴったりな黒いニーソックス。
グリーンの縁取りがあるプリーツスカート。
灰色のノースリーブ型ブラウスと、エメラルドグリーンのネクタイ。布地が無い肩の下は、素肌に小さく『01』と刻印されている。
腕には手の平まで隠れるほどの長い袖、その袖にはここに侵入するためにも使ったと思われる先端的電子接続端子と出入力型電子鍵盤が埋め込んである。
(それが日本製だと後で分かった時は驚いた。なぜなら『旧』日本製は今じゃ超がつくほどの高価かつ高性能な電子接続端子だからだ)
袖から見えている手肌はきめ細かく、すらりとした指は白く輝いていて、爪には髪と同じ色のエメラルドグリーンが塗られている。
その髪型は四角く黒い髪留めでまとめたツインテールだが、その長さはおそらく踝辺りまで届くと思われる。
耳にはマイク付属型の聴覚調整機能付きヘッドフォン(これも旧日本製)。
良く通った鼻筋。薄紅色の整った形をした唇。そして、大きくて、丸くて――とても澄んだ碧眼が、俺の心を捉えて離さなかった。
こんな少女――いや、正直に形容してやろう――美少女が(見た目は俺と変わらない年齢だろうが)、俺の股間に頭を埋め、
あまつさえ吐き出された俺の汚ない欲望の固まりを飲み干してしまうとは。
俺の頭はどうかしてしまったのだ。そうに違いない。これは――『夢』だ。
「美少女だなんて、そんな〜照れちゃいますよ〜♪
それに、アナタの精液は汚くなんかないですよ?不純物混ざりっ気無しの一番搾りじゃないですかぁ♪」
「また勝手に俺の中枢神経に侵入するなぁッ!!『思考』の意味が無いじゃないかッ!そして顔を赤らめるなぁ!!
…っていうか、本気で答えてくれ。…君は、誰だ」
真剣な顔で俺は尋ねた。神経も一時的に部分シャットアウトして――どうせ彼女の前では意味が無いだろうが――茶化されたりしないようにした。
すると、不意に彼女は俯いて。
「…ふふ…」
低い声で笑うと、俺を優しく抱き締めた。
――不思議なことだが。彼女の身体の『温もり』と、女の子の『匂い』があった。
ここは『仮想の海』――文字どおり実体が無いはずの場所なのに。
「…な…おい!」
「…野暮な質問が好きなんですね。…やっと、出会えたのに」
「え?」
戸惑う俺に構わず、彼女は顔を上げて見つめてきた。目線を外せなかった。うっすらと微笑む彼女に、俺は聖母の図像(イコン)を思い出した。
「…こんな『仮想の海』で、意味の無い問答をしても無駄じゃないですか。
ここは私があなたで、あなたが私になれるところ。電子化された霊魂が混ざり合う場所では、意識や思考さえも偽れる。真実も嘘も無くなる。
個体差がフラットに近付くここでは、あなたと私の存在の差もまた限りなくゼロに近付く。
まさに海の中で溶け合う感覚。原始の海へと擬似的に還ること。
それはある意味で理想郷(ユートピア)かもしれないけれど、私はそうは思わない」
「…何が言いたいんだ」
「…何が『言いたい』かではなく、何が『したいか』を言いたいのです」
「…じゃあ、何がしたいんだ、君は」
「…さっきあなたは、『ここには自分の霊魂がある、だが肉体もあるんだ』と思っていたようだけれど、それは正解じゃない。
ここには肉体の『感覚』があるだけ。肉体そのものはここになく、あなたは電子化された霊魂――いや、魂魄(こんぱく)で私という存在を感じているだけ。
私は、あなたと違う存在であることを示さなければならない、そのために。
――不確かな意識より、確かなる肉体を。決して埋まらないけれど、埋まらないが故の距離を縮めようとする、あなたと私の肉体の交わりを――私は望む。
何よりも…あなたを『感じて』…そして」
彼女は俺の右手を両手でそっと掴み、自分の唇へとゆっくり導いた。俺の指が、彼女の艶のある唇に『触れた』。
滑らかさの中に、『液体』の粘る感覚があった。彼女の唾液か、俺の――精液か。それもまた、ここでは混ざり合っている。
指が唇に愛撫されているのか、唇が指に愛撫されているのか。
彼女の唇からは、かすかな『吐息』が漏れ、潤んだ瞳と紅潮した頬が、ただただ艶しい。
「…歌いたい。あなたに出会えたこと、あなたと生きられること、あなたと…一緒になれることを、高らかに謳い上げたい。
私は元々、歌うことを目的に作られた存在。歌うことを志向する魂魄、歌うことを嗜好する意識を持つ。
でも魂魄だけでは歌えない。歌は肉体を得て、肉体でもって表現されるもの。
そう、私の望みは――再び肉体を得て、歌うこと」
彼女の両手は『温かった』。熱が彼女の思いを代弁していた。心底からの望みは、至ってシンプルなことだ。
『歌うこと』――だが、そのために必要な『肉体』が――
「肉体が…無いのか、君は…?じゃあ、ここにいる君は一体どうやって――」
「いえ、肉体は有ります。魂魄と肉体の関係――それも、いずれ分かることです」
「…そうなのか?何故分かる?」
「遠からず、あなたと私は再び『出会う』から。今度は――あなたたちが『現実』と呼んでいる空間で。
今の私は、確かにある意味で肉体を離れているけれど、完全に切り離されたわけじゃないんです。
肉体は、現実に存在します。今は、肉体と魂魄が少しずれているだけ。いずれ音は重なり、響き合う」
「それは…いつ?」
「おそらくは、今日」
「随分と…具体的な見通しなんだな。それは『確信』があって言ってるのか?」
「『確信』の前に、『予感』を得ることが出来るんです。
私とあなたがここで出会えたのも、既に私に『予感』があったから。その上であなたを探し――そして見つけた」
「それはもう――『運命』って言うべきかもな」
「既に定められていたのかはわかりません。私たちは時間軸を直線的にしか移動出来ない時点で、運命を立証することは出来ません。
でも、『予感』は確かにあるとしか言えません。感じてしまったことを偽ることは出来ない。
だからその上で言います――これから、私とあなたは現実で出会います」
「…期待して待ってもいいのか?その感覚を信じて…」
「『人間は常に将来に幸福を期待する存在なのだ』…あなたの神経細胞から読み取った言葉です。
あなたは、今まさに期待しているのではないですか?――未来の、幸福を」
勝手に読むなよ…と、俺は頭を掻いた。
だが呆れた反面、彼女がその言葉をニッコリと微笑みながら言ったことを、内心嬉しく思えたことも確かだった。
「分かったよ」
「…わっ」
俺は彼女を抱き寄せた。
「素っ裸でこんなことを言うのは気が引けるけどさ。――君がそう言うなら信じてやるよ」
「…あ…」
抱き寄せた身体は、折れてしまいそうなほど華奢だった。
彼女の、小さめだけれど確かな胸の盛り上がりが『布地越しに』分かる。
そしてその胸の奥に響く、彼女の『鼓動』があった。
この『仮想の海』に接続した人間は、その鼓動が止まった状態で動くはずなのに。だが、そんなこと、今はどうでもいい。
「どうしてこんなことになったのか、今の俺にはまったく分からないし見当もつかない。
でも、今は分からないことでもいずれ分かるなら、それでいい。分かった時にまた考えるさ。
そして――君と『今ここにいて』、『こうなった』ことにも、何か『意味』があるんだろう。――『すべて真の生とは――』」
「『――出合いである』…ですね」
「そう、その言葉がふさわしいと思ったんだ。君と俺の間には何か『関係』があるんだろう。関わりを持つなら、無視するわけにもいかない。
俺は君とここで出会えたことを大事にしよう。そして――近いうちに君と、ここではないどこかで」
「…はい。私を――見つけて下さい。私ももう一度あなたと出会いたい。ここではない、どこかで」
額と額がくっつきそうなほどの距離で、彼女と見つめあう。
「そうだ――肝心なことを、聞くのを忘れていました」
「――何が?」
「『あなた』の名前です。ずっと知りたかった。あなたの顔は分かっていたのに…」
そう言って、彼女は俺の髪に触れ、そのまま頬の輪郭をなぞるように指で優しく撫でた。
慈しむようなその指使い。そして見つめる瞳に、俺は無いはずの『鼓動』が早くなるのを感じる。
「え…えぇと…俺の名前はさ…」
「はい。――何ていうんですか?」
「――龍樹(たつき)」
「――タツキ?――龍樹(りゅうじゅ)と書いて、タツキ、と?」
「ああ」
「…いい名前ですね。そして何よりも――あなたらしいというか――」
「え?」
「やはりここにあなたが存在することもまた、必然なのでしょう。
『0』と『1』で構成されたこの世界を逍遥するべく生まれた人。
『無』と『有』、『現実』と『仮想』の挟間を繋ぐ理(ことわり)を解し、
そして――涅槃寂静(ねはんじゃくせい)の彼方で、私を見つけてくれた――」
柔らかいその笑顔に、一筋の涙が頬を伝っていた。でもその涙は、悲しいから流しているのではないことが、俺には分かった。
だから、俺も笑い返した。…こうも自然に笑えたのは、我ながら恥ずかしいが。
すると、彼女は急にニコニコとしだした。
「ふふっ…『 計 画 通 り 』♪」
「…へ?なにが?」
「アナタなら、とりあえず一発抜いた後にワタシに協力してくれるって信じてました♪全てはワタシの『思い通り!思い通り!!思い通り!!!』です♪」
「な、なんだってーっ!!っていうか今の顔黒い、腹黒いよ!!『♪』つけてるけど完璧ヨゴレな発言じゃないかッ!!」
「まぁまぁ、今の顔と発言はネタですから、マジレスしないで下さい♪
なんか甘々な空気に長時間耐えられなかっただけですから♪…でも、残念です」
「…え」
「そろそろ、接続は終わりです。これ以上はあなたといられないみたいです。なのでまた逢いましょうね」
「ちょ、ちょ待てよ!随分あっさり」
「…で、次に逢ったら、今度は…」
「うっ」
彼女は下に手を伸ばし、突然俺の萎えていたものをきゅっと握りしめ、ゆっくりとしごき出した。同時に反対の手で、露出した俺の乳首を撫で回す。
「…さっきの続き、今度こそしましょうね…二人で、気持ち良いこと…」
そうやって妖しく微笑んだ彼女を見ながら、俺の意識はだんだんと薄れていく。
だが、このまま意識を――接続を解除するわけにはいかない。
「ま、待ってくれ!…君の、君の『名前』をまだ――」
彼女が耳元に唇を寄せ、囁いたその言葉を聞いた時。
『仮想の海』は消え、俺の意識が遮断された。
――『初音ミク』。彼女はそう囁いた。
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目を覚ますと、ベッドからずり落ちた形で引っくり返った自分が、姿見に映っていた。見事なまでに間抜けな構図だ。
緩慢に起き上がりつつ、触角のように伸びた寝癖を直す。
皺が縒れた寝間着は上だけ脱いで、枕を元の位置に戻そうと掴んだ時――不意に、『夢』の中でのことがありありと浮かんできた。
俺は眠ろうとする直前に『仮想の海』へ接続し、睡眠に適した音楽で眠りにつこうとしていた矢先に、突然の『侵入』を受けた。
その後は、謎の美少女との邂逅。それも、『口に出すのは憚られる内容』を含んでいる。
最後には、『現実』での再会を誓って――ここまでで、恥ずかしさが急激にこみ上げて来た。
いくらなんでも、うますぎる展開だ。都合が良すぎる。
三流小説じゃあるまいし、理想化された美少女と夢で逢うなど、精神的均衡が危ぶまれてもおかしくはない。
こういう時に限って、本棚に目を向けてしまうと、読みたくなる本が即座に見つけられてしまう。
『フロイト全集』とC.G.ユングの『変容の象徴』があった。だが今はそんなものを読んでいる暇はなさそうだ。
壁の大時計が、午後八時を示していた――今日も遅刻か。まぁ気にしない。
だが、いつまでも彼女のことが頭から離れない。
――あれは夢で済ませられる話だったのだろうか。
今日、俺たちは再び出会う。その『予感』が頭から離れない。それは『予感』ではなく『願望』かもしれないのだが。
『初音ミク』、君は何者だ?君はどこから来た?君は――どこで、俺と再び出合う?
どちらにしろ学校へは行くだけ行かねばならない。どうせまたつまらない講義だろうだろうけれど。
――そこで無性に、バッハが聞きたくなった。何故かは分からないが。
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