かしこへ此処へ急ぎさまよう。  
  今しばし今しばし、待たば逢うべし  
  美(うる)わしき美わしきうつしみのその人に。  
  心よ、などてかく重く搏(う)てるぞ!  
 
   ハインリッヒ・ハイネ『ハイネ詩集』「かしこへ此処へ」より  
 
 
  Breathe, breathe in the air.  
  Don't be afraid to care.  
  Leave but don't leave me.  
  Look around and choose your own ground.   
 
   Pink Floyd “Breathe”  
 
 
午後は講義を休んで、秋葉原(アキハバラ)までコンパクト・ディスク――CDを探しに来た。  
前世紀の録音媒体で音質は多少古いが、戦前の音楽を聞くならCDを探すのが一番だ。  
大学の講義は、本来ならもう受ける必要は無い。面白そうな講義に顔を出す程度だ。  
今日の午前中は、レヴィ=ストロースについての講義と老荘思想研究の教授のところへ遊びに行っただけ。  
俺は二年前、飛び級で東京の国立大学に入った。  
飛び級で入った学生は、所定の単位を取る他に研究で業績を残せば、卒業はいつでも構わない。  
必要な単位は既に取得済み、研究もあとは論文を書いて終わりなので順調だろう。  
世話になっている教授には卒業までエディンバラやウィーンへの短期留学も薦められたが、日本を離れる気は今の所無い。  
欧州もいいが、バンガロール、シンガポール、香港、そして東京といったアジア各地にも、優秀な大学はある。  
わけても東京は、仮想世界研究や先端的電子接続端子開発の分野では世界最高の都市と言っていい。  
俺の研究である『霊魂の科学的実存証明』にこれほど相性が合う所は、他に無かった。  
この混沌都市に遊び『仮想の海』を漂うことは、何よりエキサイティングだ。  
俺にとってはロシアとの戦争を気にするより、『海』で世界中の人々と出会い、情報を集めたりする方が充実を感じる。  
…最近は研究よりも、『海』で漂うことで『霊魂』を考える方に『生』の実感を得ている。  
――あの子に、『ここには肉体が無い』と言われてしまったが。  
そうだとしても、俺は『海』を離れて生きることは出来ない身体になっていた。  
一度あそこに漂う快楽を覚えたら、『現実』が絶対的な場所に思えなくなる。  
 
「…次のニュースです。現在イスタンブールで開かれている国連総会で、先月北京市内で発生した同時多発自爆テロについて、  
北中国=中華民主主義共和国連邦が、アメリカ合衆国と南中国=華南民国を非難する声明を発表しました…」  
 
駅前の大型立体電視からは、13時のニュースを流していた。  
大陸では相変わらずテロが絶えないようだ。昔は中国という一つの超大国だったが、  
アメリカと戦端を開いた挙げ句に経済混乱や内戦で崩壊した。  
アメリカは戦争には勝ったが、国内はボロボロになって暴動が多発。今では英国や欧州連邦・ロシア帝国の半植民地と化している。  
戦争に参加した日本も被害を受け、特に大阪には中国の戦術核が落ちて現在復興中。  
今も京都周辺の残留放射能濃度が警戒レベル2、神戸・福岡周辺がレベル1と、今日の天気と一緒に放射能予報が流れている。  
俺はまだ16歳なのでよく分からないが、かつての世界を知る大人から見れば、中国を相手にして日本が崩壊しなかったのは奇跡らしい。  
…こんな世界だからこそ、俺は『海』に『潜る』ことに執着するのかもしれない。  
あっちが『現実』で、こっちが『仮想』だったなんて言われたら、俺は驚かないし、むしろ喜ぶだろうに。  
 
――じゃあ、あそこで出会った彼女は――『現実』と『仮想』、どっちにも存在するということだろうか。  
 
不意に彼女のことを思い出した。――いや、何度も思い出してはそれを打ち消すと言うべきか。  
今のところ、彼女らしきヒトとは出会えていない。  
やはり、あれはただの『夢』だったのかもな――と思いつつも、それを否定したい気持ちが俺にある。  
彼女に、もう一度出会いたい。『初音ミク』と名乗った、彼女に。  
それは単なる興味だけじゃないのだろう。彼女を想う度、無視するわけにはいかない気が強くなる。  
良くも悪くも彼女に惹かれている。  
それに何故か今日に限って、思い出したように音楽のことばかり頭にあった。  
朝から彼女と『ある曲』のことしか考えていなかった。  
…こうしてわざわざ秋葉原へ来たこと自体も、なにかの『運命』だろうか…?  
 
駐車場に車を停め、あとは目的地まで歩く。  
俺の持っている車の一つであるマツダは、ロータリーエンジンという珍しい機構を持つため、盗難に気をつけねばならない。  
精密部品の露天商も多い裏通りに入ってしばらくすると、やがてその店が見えてくる。  
秋葉原にある楽器屋はいくつかあるが、ここはちょっと頑張らないと見つけられない所にある。  
自動ドアが開く。店内ではピンク・フロイドが流れていた。俺の大好きなロックバンドで、何度聴いても飽きない。時代を超越した、偉大なバンドだ。  
特に『狂気』は今も繰り返し聞いているアルバムで、俺の人生に多大な影響を及ぼした一枚だ。  
この店が好きなのは、18世紀のクラシックから20世紀のロックまで幅広く選ぶBGMのセンスが良く、いつ来ても楽しいのが理由の一つ。  
ここは主に電子楽器が多い。史上最初と言われる電子楽器「テルミン」から、最新鋭の音楽機材まで。  
特に店のショーケースで大切に飾られているのは、1980年代に爆発的にヒットしたという、日本製のシンセサイザー。  
また、前世紀に主に生産されたCDも取り扱っている。  
カウンターに向かうと、アイスを食べている青年と、雑誌を読んでいる美女が仲良く座っていた。  
「いらっしゃ…あっ、お久しぶりですね。タツキさん」  
「こんにちは、カイト兄さん。――それと、メイコ姉さんも」  
「久しぶりね。元気してた?」  
俺の数少ない『友人』である二人だ。彼らに会えることが、この店によく足を運ぶもう一つの理由だった。  
 
×  ×  ×  
 
カイト兄さんとメイコ姉さんが、この楽器屋を営んでいる。  
二人とも俺より少し年上の美青年、美女なのは間違いないが、どっちも年齢不詳。  
カイト兄さんはそのことを気にしていないが、メイコ姉さんに年齢の話題を振るのはちょっとした冒険だ。  
――いや、冒険などという生温い表現では済まない。  
以前、メイコ姉さんの年齢を『大きく見積もり過ぎた』客が、それはもう悲惨な姿で店を叩き出されたらしい。  
カイト兄さんは密かに「死にたい人にお薦めのメイコ姉さんのガイドライン」なるものを作って、知り合いに注意を喚起しているという。  
彼のトレードマークは、青いマフラーとアイスクリーム。特にアイスクリームは手放せない。  
この前ちょっとしたイタズラで俺とメイコ姉さんがアイスを隠したら、禁断症状で手がブルブル震え出したというくらいだ。  
それさえ無ければ、見た目通りの好青年であることは間違いない。  
「最近はあまりお見かけしなかったですね。大学がお忙しかったんですか?」  
「研究でちょっと煮詰まってました。でも『海』で遊んで復活しましたよ」  
「あっはっはっは…相変わらずですね。それで、今日は何をお探しに?」  
「ちょっとCDを買おうと思って。…あぁ、そうだ、メイコ姉さんにお土産があったんだった」  
俺は赤くて露出が激しくなくはない服――その服のせいでどうしてもその豊かな胸とスラリとした脚に目がいってしまって困るんだが――  
に身を包む彼女に、バッグから取り出したお土産を見せる。  
みるみるうちに彼女の目が驚愕に見開かれていく。  
「――こ、これはッ!幻の大吟醸浦霞(うらかすみ)じゃないッ!!」  
「ワンカップなんとかでしたっけ?あれと一緒に見つけてきました。今でもロシア領仙台では少数ながら流通してるみたいですね。  
『海』で知り合ったウクライナ人に頼んで手に入れたんです。前に飲みたいって姉さんが言ってたのを思い出して」  
「…ッ…タ、タツキ、くん…!」  
「はい?…って、うおおぉぉッ!!?」  
目に涙を浮かべたメイコ姉さんがいきなり抱きついてきた。――む、胸が、メイコ姉さんの胸が当たってる…。で、でけぇ…。  
これは…大胆な…が、息が、苦しい…ッ!!  
「ありがとうッ!!お姉さん、この恩は忘れないわッ!!いつかきっと、倍にして返すからッ!!」  
「わ、分かりました、分かりましたから…少し、力をゆるめて…」  
「あ、ごめんなさい。…お姉さん、お酒のことになると興奮してしまうから許してね♪」  
俺を解放した後、姉さんは舌をペロっと出して謝った。…うん、こうして見るとやっぱりかわいいな。  
「――あ。今、アタシのこと『かわいい』って思ったでしょ?やだな〜正直に口にしてくれればいいのに〜」  
 
なんでいつもいつも鋭くて地獄耳なんだ、この人は。  
――と思っていたら、姉さんが左手で俺の頬をスッと撫でた。大吟醸は右手にしっかり握りつつ。  
「お礼に今度、二人で楽しみましょうか?――お姉さんがいろいろと教えてあげてもいいけどね…?」  
耳元に唇を寄せて囁かれる。女の魅力(みりき)ってやつか?妙に手慣れている。  
何も知らない人がこうされたら、ドキリとするだろう。――だが俺は騙されない。  
「ええ。今世紀初頭の『カラオケ』ってやつでしたっけ?姉さんの歌、また聞かせて下さい」  
「…あはははははは!やっぱりタツキくんには色仕掛けが効かないわ。…アタシもまだまだだね〜♪…でも、本当にありがとね!」  
メイコ姉さんは俺の頬に軽く口付けた後、日本酒を抱えて店の奥へ消えた。鼻歌混じりのステップは軽やかだった。  
「――で、CDなんですけど」  
俺はカイト兄さんに向き直る。彼は俺たちのやり取りをいつも生温かく見てくれているのだ。まだ兄さんの顔がニヤついている。  
「うんうん。っていうかそろそろメイコと付き合っちゃえば?彼女、キミのことすっごく気に入ってんだから、悪くない縁だと思うよ?」  
「茶化さないで下さい。CDなんですけど、前に頼んでいたアレです」  
「あぁ、確かJ.S.バッハの――」  
 
そこで入り口の自動ドアが開き、もう一人、客がやって来た。  
振り向いて――俺は言葉を失った。  
 
『夢』で見た美少女が、そこにいた。  
 
エメラルドグリーンの長い髪、ブラウスとネクタイ、先端的電子接続端子と出入力型電子鍵盤付きの袖、  
短いプリーツスカートに黒のニーソックス、そして大きな碧眼。  
どれも『夢』で見たままだ。間違えるはずが無い、こんな姿形をした少女は他にあり得ない。  
 
完璧な――俺の理想的な美少女だ。  
やはり、見とれてしまうほどの愛らしさだと言わざるを得ない。  
 
まさか、本当に『実在』していたとは――。いや、待て。これは『夢』じゃないよな。  
ここは『現実』だよな、『仮想』じゃないよな?いやいや、そんなことは関係ない。  
『夢』だろうと『現実』だろうと、彼女とこうして出会えたことに、何より俺は――喜んでいる。  
だが同時に、「どうしてここに?」という思いもある。  
彼女は俺の困惑などお構い無しに、店内をきょろきょろと見回していたが、俺たちの姿を見つけると、きょとん、とした顔で固まった。  
あまりに突然な出来事で我を忘れていた。俺はようやく声を取り戻し、叫んだ。  
 
「ミクッ!!!」  
「ミクッ!!?」  
 
ほぼ同時に叫んだのは、カイト兄さんだった。俺と兄さんは「え?」と同時に顔を見合わせた。  
なんでカイト兄さんがミクを知っているんだ?いやいや、今はそんなことはどうでもいい。  
俺たちはもう一度ミクを見た。――彼女は未だに固まったままだった。  
 
――なんだ、この違和感は。『夢』で見たミクと、ここにいるミクは、本当に同一人物なのか?  
 
そして彼女は、そこでやっと口を開いた。  
 
「――あのぅ、なんでミクのことを知ってるんですかぁ?っていうかワタシ、気付いたらここにいたんですけど…」  
 
それは『夢』と同じく、銀の鈴を慣らしたような美声。  
だが、今の彼女の声は不安に満ちている。  
おろおろと戸惑うミクに、俺はただ唖然とするばかりだった。  
 
今の彼女には、記憶が――無い?  
 
 
×  ×  ×  
 

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