凡ての物には何時(いつ)までも、昔見た其時の魂が残って居る。  
  其の魂が人を悲しましめ又喜ばすのだ。  
 
   永井荷風『歓楽』より  
 
  彼は愛する女の眼を見さえすればよい。  
  たった一つの微笑が彼を幸福の絶頂へ押し上げる。  
  彼は絶えずそういう微笑を得ようと努める。  
 
   スタンダール『恋愛論』「第八章」より  
 
 
ミクは、確かに記憶が無いらしい。  
『初音ミク』という自分の名前くらいしか分からない。  
日常生活を営む程度の知識、つまり常識的な話は憶えているようだが、生まれてからの知人関係や思い出といったことは綺麗さっぱり忘れている。  
秋葉原に来た理由すら分からない。気付いたらこの店の前にいたので、とりあえず入ってみただけだった。  
カイト兄さんとメイコ姉さんはミクの帰りを喜んではいたが、ミク本人が彼らのことを覚えていないことに、最初は愕然としていた。  
彼らは一時閉店し、奥の部屋にミクを座らせ、これまでのことを――彼らの過去を話した。  
 
彼ら「ボーカロイド」と呼ばれる存在が、ヒトに混じって暮らしていること。  
人類と仲良く暮らせてはいたが、戦争でボーカロイドの活躍する場が縮小していったこと。  
戦後になって、カイト兄さんやメイコ姉さんと一緒に、ミクもここ秋葉原にいたこと。  
そして一年前、突然ミクが消息不明になったこと――。  
 
 
俺はそれを、少し離れた所に腰掛けて聞いていた。  
――カイト兄さんやメイコ姉さんが人間でないことは知っていた。  
世界には、人類以外のヒューマノイドと呼ばれる存在も住んでいる。  
数十年前くらいに誕生した新人類で、元々は人類に限りなく近い機械に由来する有機生命体とされたが、  
今は人類と同等の権利を保障されている。  
彼らに対する差別主義者も未だ少数ながら存在するが、人類と見た目はほとんど変わらない彼らを差別することは愚かしいと思う。  
俺は当然、彼らと分け隔てなく接することが出来る。――いや、むしろ人類より親しみを感じているかもしれない。  
有機物と無機物をつなぐ存在としては、ヒューマノイドの方が人類より多くの可能性を秘めているんじゃないだろうか。  
俺が研究している『霊魂』というものも、ヒューマノイドに宿っている。  
人類とヒューマノイドにのみ宿るその神秘を、いつか解明したい――俺の手で。  
 
…話が逸れてしまった。俺の研究より、今はミクの話だ。  
「――でも、本当に戻ってきてくれて良かった。ミクがいなくなって、アタシたちがどんなに心配したか…」  
そう言ってミクを抱きしめるメイコ姉さんは、涙を滲ませていた。  
カイト兄さんもティッシュで鼻を噛みながら喜んでいる。  
…ミクに再会の抱擁を求めたら身構えられ、あからさまな彼女の拒否にショックを受けていたが。  
「…でも、ミクの記憶が無いなんてなぁ…。ボクやメイコのことも覚えていないなんて…。  
…記憶を失う前は、ボクに『お兄ちゃん大好き♪』なんて言って抱きついてくれたのに」  
「いや、それは無かったから。勝手に過去を書き換えるなバカイト」  
「うぅ、酷いよメイコ」  
メイコ姉さんが即座に否定していたが、それはともかくとして、確かにミクはここにいた…一年前に失綜するまでは。  
――思い出してみると、俺がこの店に来るようになったのもちょうど一年ほど前から。ミクとはすれ違いだったのか。  
その頃のカイト兄さんやメイコ姉さんも、今と変わらず明るい表情をしていた。  
だがそれは表向きで、密かにいなくなったミクのことをずっと心配していたのだろう。  
俺の前で彼女のことを話題にしなかったのも、思い出すと悲しくなるからだったのかもしれない。  
そう考えると、こうして彼女が戻ってきたことだけでも彼らは嬉しいはずだ。  
――それでも、記憶が無いというのは不可解だが。  
「――ごめんなさい、本当に覚えていないんです。えぇと、カイト兄さんと…メイコ姉さんでしたっけ。  
ミクが憶えていたら良かったんですけど、その…今は、ミクの名前と…あと、ある人のことくらいしか思い出せなくて」  
ある人?…誰のことだ?  
 
「…顔は思い出せないんですけど、確か…名前が『タツキ』っていう人です」  
 
心臓がドクンと跳ね上がるのが分かった。  
『夢』の中で出会ったが、彼女の言った通り、『現実』で再会は出来た。  
他の記憶は無いが、ミクは俺のことを憶えていて――。  
ここでまた疑問が湧いた。今、彼女は『顔は思い出せない』と言ったよな?  
『夢』では『顔は分かっていたのに』と言っていた。…矛盾している。  
しかし今はそれを考える前に、まず名乗らなければならないだろう。  
 
「…『タツキ』は、俺だ」  
 
カイト兄さんやメイコ姉さんとともに、ミクが俺に振り向いた。驚きといった感情がありありと浮かぶ顔だ。  
だが、彼女は俺の方に近付いて、俺の顔を両手でそっと触れた。  
「…タツキ…」  
――『夢』と同じように至近距離で見つめられると、ドキっとしてしまう。  
ただでさえ非の打ち所の無い美少女なのに、こう間近に迫られては、その柔らかい肌の手触りだったり、  
ほのかに薫る女の子の匂いだったり、いろんなものが俺を戸惑わせる。  
「…あ、あぁ。その…『龍樹』と書いて、タツキだ。  
なんで記憶喪失のキミが俺だけを憶えているのかは分からないが、俺も『夢』の中でキミと出会って、  
キミが俺に『現実』で会うことを予言して…」  
「…『夢』…」  
…だからそんなに艶っぽく囁かないでくれ、『夢』でやっちまった事を思い出してしまう。  
なんだかこっちも恥ずかしいし、心無しかミクも吐息が熱くなってきて、俺の頬を慈しむように撫で――  
「…どういうことかなタツキくん。詳しく話してくれないかな…?」  
ドス黒い声を放ったのは、カイト兄さんだった。今までに見たことが無いほどの目の据わり方で、正直怖い。  
――あぁ、そうか。ミクがカイト兄さんは忘れてても俺を憶えていたら、そりゃ兄さんは悲しむ。っていうか俺に厳しく当たりたくもなりますよねー。  
「…ええ、まぁ、その。『夢』でですね、こういうことがありまして…」  
俺は誤解を解くために、二人に話した。  
――もちろん、『ミクの前では言うのが憚られる行為』に関する箇所は除いて。  
 
×  ×  ×  
 
「――そうだったの。ミクが『仮想の海』にいたなんて…」  
メイコ姉さんは頷いてくれている。俺は出来る限りの情報を教えた。  
「あそこでの彼女は、いろいろなことを知っているみたいでした。記憶もあるみたいだったし、この『現実』とは様子が違…」  
ミクは俺が話している間ずっと俺の隣に座って、身体を妙に俺に寄せつつ至近距離から見つめていた。しかも、やたらと瞳を潤ませて。  
 
――隣からそうやって熱っぽく見られると、こっちの調子が狂う。  
まるで今だけ『夢』の中での『やたら大胆な』彼女みたいじゃないか…?  
 
…そして俺がもう一つ困るのは、目を据わらせて俺とミクを見比べるカイト兄さんだ。明らかに俺たちの仲を怪しんでいる。  
さらに、ハーゲンダッツのアイスカップを持つ手がブルブルと震えている。  
冷静になるために食べ出したようだが、それも効いていないらしい。スプーンから何度も取りこぼして、ズボンを汚している。  
「…うん、じゃあ決まりね」  
メイコ姉さんが俺の肩を叩いた。  
 
「タツキくん。――アンタにミクをしばらく預けるわ。記憶が戻るまで、一緒にいてやってちょうだい」  
 
思いがけない提案に、俺は言葉を失った。  
「…な…。いや、姉さん。それは…」  
「今のミクは、名前とあなたしか憶えていない。  
義兄姉のアタシたちじゃなくてアンタを憶えているということは、アンタに何か特別なことがある」  
だがメイコ姉さんは真剣な顔だ。…冗談で俺にミクを預けるわけではない。  
「…ミクの力になってくれない?多分、絶対そっちの方がミクにとってもいいと思う」  
俺は隣にいるミクを見た。状況が飲み込めているのかは分からないが、俺をずっと見つめている。  
俺の手に重ねられた彼女の手に、少しだけ力が入った。…俺を頼ると言う意味か?  
 
――いや、龍樹。俺がこの子の力になれるかどうかを考えろ。  
家族同然のメイコ姉さんが、敢えて俺にミクを頼むという意味を汲み取れ。  
そして、俺はミクをどう思っている?彼女に対する正直な気持ちを偽り無く――  
 
「…分かりました。ミクが早く元通りになれるよう、なんとか手を尽くします」  
彼女の手を握って、俺は宣言した。  
その瞬間、ミクがニッコリと笑った。  
 
――ここに来てから、あるいは『現実』で初めて、彼女は笑った。  
――ああ、この笑顔だ。このために、俺は頑張ろうとしているんだ。  
 
「よし!それでこそ男ってものよ!…ミクもいいわね、タツキくんに迷惑をかけないようにしなさい」  
「はい!…えへへ。なんだかアナタといると、ミクも安心です♪」  
ちょ、ちょ待てよ!腕を絡めるな、腕を!可愛い仕草だが今はマズイ、頼むから!  
なんだか俺たち三人だけほのぼのシーンだが、すぐそこに約一名、暗黒のオーラを発する人がいるじゃねーか!  
「…タツキくん」  
「は…はい。なんでしょうか、カイト兄さん」  
彼は俺に握手を求めた。握ったその手が震えていた。  
「…ボクも断腸の思いで賛成するよ…。ミクを、 『 ボ ク の 』 ミクを頼んだからね…」  
「は、はい。謹んで、お預かり致します…」  
『ボクの』を強調するカイト兄さんは、はらはらと涙を流していた。  
「…ミク、いい子にしてるんだよ。ボクたちと一緒にいた時のキミは、そりゃあもういい子で可愛くて可愛くて…」  
――義兄として義妹を心配しているようだが、カイト兄さんはミクの次の言葉で止めを刺された。  
 
「大丈夫です!アナタのことは憶えてませんけど、タツキさんならミクは『全部』任せちゃいます!  
…だってタツキさん、すっごくカッコイイし。ミク、一目惚れしちゃいました♪」  
 
すりすりと俺に頬寄せる彼女を見て、ついにカイト兄さんは「うおおおおおぉぉぉぉぉッ!!!」という悲痛な叫びとともに店を飛び出した。  
――涙の軌跡が輝いていた。  
 
店を出ると、既に日が傾き始めていた。秋葉原の高層ビル群が赤光(しゃっこう)の中に包まれている。  
「カイトはほっといていいよ。多分、夕飯食べたさに戻ってくると思うから」  
「はあ…」  
「あ。そういえばあいつアイスクリーム忘れてるから、今頃手ぇブルブル震えてるんじゃない?  
だとしたら中毒で確実に戻ってくるからやっぱ楽だわ、あっはっはっはっは♪」  
メイコ姉さんが見送りに出てくれている。…カイト兄さんは数時間待っても結局帰ってこなかった。  
 
待っている間、メイコ姉さんがミクがここにいた頃の映像や記録、それと店の商品をミクに見せていた。  
記憶を取り戻すきっかけになるかもしれないと思ったのだろうが、ミクは悲しそうな顔で首を横に振っていた。  
…そんな彼女を笑顔で励ますメイコ姉さんの優しさには、俺も心打たれるものがあった。  
記憶が無いミクだが、俺に対してはベタベタで、腕を絡めたまま離してくれない。  
時々俺の肩に頭を乗せてニヤニヤして、まるでネコのように懐いてしまった。  
…いくら俺しか記憶に無いからと言って、この反応は直接的過ぎないか?  
「いいじゃない、相通じ合っている見目麗しい美少年と美少女が一つ屋根の下。これで胸ときめかない方がオカシイってもんよ」  
「…俺は彼女のために力になろうとしているだけです。決して邪な思いでいるわけじゃ…」  
「まーまー、そんなにしゃちほこばらなくていいから。何かあったら連絡ちょうだいね。  
…あ。あとこれ持っていって」  
メイコ姉さんが渡してくれたのは、数枚のCD。俺が求めようとしたものも含まれていた。  
「これは?」  
「ミクが持っていたやつ。…聞かせれば、何か思い出すかもしれないと思って」  
姉さんも気付いていたようだが、ミクは店内に流れていたBGMにいくつか耳を傾けていた。  
音楽に興味があるのなら、家で何か聴かせてやろうと俺も思っていたところだ。  
姉さんは遠い日を思い出すように、眼を細めてミクを見た。  
「…ミクはね。誰よりも歌が上手で、そして歌うことが本当に好きだった…」  
…それは『夢』でも言っていたな。『肉体を得て再び歌う』――それを彼女は望んでいる。  
それがどういう意味なのかは、これから時機を見て彼女自身に直接問うべきことだろう。  
 
…普段から声が澄んでいるミクのことだ、きっと彼女の歌も格別のものに違いない。  
いつか、彼女がのびのびと歌える日が来るように――俺も微力を尽くそう。  
 
俺は姉さんからCDを預かり、ミクを伴って表通りの駐車場へ向かう。  
 
メイコ姉さんが別れを惜しむように、いつまでも手を振っていた。  
それに応えるようにミクに手を振り返された時、いつもは気丈な姉さんの頬に、一筋の線が流れていた。  
 
×  ×  ×  
 
 

楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] ECナビでポインと Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!


無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 解約手数料0円【あしたでんき】 海外旅行保険が無料! 海外ホテル