×   ×   ×  
 
  もしひとりになりたい人がいたら星を見せてやればいい。  
  あの天界からさしてくる光が、彼と彼の触れるものとを隔ててくれる。  
  大気が透明にされた意図はといえば、つまり天体によって、崇高なるものがいつも存在していることを  
  人間に知らせるためだと考えてもよさそうだ。  
 
   ラルフ・ウォルドー・エマソン『エマソン論文集(上)』「自然」より  
 
     ×   ×   ×  
 
風呂から上がった後、そのまま俺の部屋へ向かった。  
ミクに食事も勧めたが、今は食べたくないそうなので無理強いはしない。  
壁の大時計は、夜の九時過ぎを指していた。  
俺たちは、二人でベッドに寝そべっている。  
「やっぱり一緒に寝るのは止めないか…?」とぼやいたが、ミクは許さなかった。すっかり主導権は彼女に移ってしまっている。  
ところで今の俺の部屋の天井は、星空を映している。と言っても、これは今の東京の星空ではない。  
奈良に有るという古代日本の古墳内部の壁画をモデルにした、古代人が見たであろう星空の再現――キトラの天文図だ。  
この『仮想の天井画』は、正確には天井全体を覆う立体スクリーンによって映し出された映像だ。気分によって、その画像は変えることが出来る。  
俺の動眼神経及び視神経と立体スクリーンを脳を仲介してワイヤレスで繋ぎ、『見たい映像』を瞼の開閉で変えるのだ。  
かつて旅行したアルプスの山々を映したいならそれを思い描けばいいし、システィーナ礼拝堂の天井画にしたければ、  
『仮想の海』経由で画像データを入力すればいい。ミケランジェロが描いた世界最高の芸術を完全再現出来る。  
これだけの性能を誇る大型天井用立体スクリーンを購入したのは、日本人ではシアトルに住む某メジャーリーグ選手と俺だけらしい。  
この家でも特に豪華な設備の一つなので、大切にしている。俺はそれを使って、世界各地の映像をミクに見せた。  
世界旅行するような気分になれるだけでなく、時代と場所をいろいろ変えて見せれば、なにか記憶を思い出すヒントがあるかもしれないと思ったのだ。  
現在の世界各地で繁栄している大都市から、時代を遡った映像まで。  
ニューヨーク、パリ、ロンドン、ベルリン、ローマ、北京、モスクワ、ロサンゼルス、上海、デリー、サンパウロ、シドニー…。  
東京は特にいろんなところを見せたが、憶えは無いようだ。秋葉原でさえ分からなかったくらいだ、それも当然かもしれない。  
 
あまり多く見せても目が疲れるので、適当なところで止めた。  
天文図にも飽きたので、今度はニュージーランドの『タウマタ』と名称が略される丘から見える、現在の夜空に切り替えた。  
…蛇足だが、この丘の名前は世界一長いので有名だったりする。  
ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』や『ユリシーズ』が好きな俺でも、さすがに覚えられないほどの長大な名前だ。  
南半球の星座は日本からは見れないものが多い。宝石箱をひっくり返したように散らばる星々の中でも、特に南十字星が美しく見える。  
満月もひときわ大きく、月光は青白く輝いていた。  
彼女はというと、さっきから隣で俺の横顔を眺めている。…天文などにはあまり興味が無いのだろうか。  
「ううん。綺麗だと思いますけど…今はいいです」  
「映像に疲れてしまったのかな。…でも、俺の顔をずっと見ていても飽きるだろう」  
「そんなことありません。…いろんな所の映像もいいけど、やっぱりミクは…隣で見る、タツキさんの顔が一番いいです」  
「安上がりと言えば安上がりだな。俺の顔を見るだけならいくらでもどうぞ」  
「安上がりとか、そういう問題じゃないけど…でも、考えようによっては、いくらお金を出しても買えない場所かな。  
ここは世界で唯一つ、お金で買えない特等席なんです」  
「特等席…?」  
 
「――龍樹の隣で寝られるなんて、夢のよう。いくらお金をかけたとしても得られない場所。  
ううん、この価値はお金なんかに換えられない。…隣で見るあなたの横顔が、これ以上無い風景、比べようも無く美しいモノ…」  
 
そう言ってミクは俺の首に手を回し、ゆっくりと頬に口付ける。  
耳元でもう一言、付け加えるように彼女は囁いた。耳たぶにかかる彼女の吐息に、ぞくりとしてしまう。  
 
「…ここが『現実』で、『夢』じゃないのが本当に…嬉しいです。  
こうして抱きしめれば、あなたがすぐ側にいることを実感出来ることが…何よりも…」  
 
俺はその声色にはっとして、彼女を見た。  
普段のミクではなく、あの『夢』で出逢った時のような口調。  
「…ミク?」  
「はい?なんですか?」  
…違う。ここにいるのは『彼女』ではない。さっきまで世界各地の映像を見ながら、画面が変わる度にびっくりしていた『ミク』だ。  
「どうしました?…ミクの顔に、なにかついてるとか?」  
「…いや、何でも無い」  
「あれあれ、元気無くなっちゃったですね〜。ミクはまだ眠くないけど、もしかしてタツキさん、眠くなっちゃったんですかぁ?」  
「いや、そういう訳では…」  
「もうちょっと一緒にゴロゴロしましょうよ〜♪う〜ん、キングサイズのベッドでふかふかだし、隣にタツキさんもいるし〜♪ぬっふっふ…」  
全身で抱きつく彼女は無邪気そのものだ。  
…俺を抱き枕かなにかと勘違いしないでほしい。俺は自制心で『ある部分』が反応しないよう必死に耐えているんだ。  
そんなに両腕でぎゅっと包まないでくれ、頼むから。君のいろんなところが俺に当たって、理性がいつ崩壊してもおかしくない。  
 
何より一番の問題は、ミクが現在着ている服だ。  
昼間の服は全自動洗濯機と形状復元機を使って10分で元通りになったが、同じ服では寝たくないと彼女は言った。  
「…女物のパジャマはない」  
「じゃあ裸で寝ます♪」  
「それは駄目、ぜっっったい駄目ッ!!!!」  
というやりとりを五分ほど経て、俺と同じ白いシャツをパジャマ代わりにすることで合意した。  
「お揃いのパジャマで寝られるっていいですよね〜♪」とミクはご機嫌だが、俺はあまり落ち着かない。  
彼女は俺とそれほど背丈が変わらないので、丈は長くもなく短くもない。つまり、お尻が隠れるか隠れないかくらいの丈しかない。  
彼女が立つと、その…『女性として一番隠さなければならない部分』が見えそうで、非常に宜しく無い。  
「頼むから下着くらいは…」「いらないです、この方がラクだし♪」と俺の頼みも一蹴された。現に彼女は今、下着を着けていない。  
その宜しく無い部分が『見えそう』という表現も、喩えではない。  
彼女が足をもぞもぞする時に、眼球がそっちに反応してしまい、うっすらとそれが見えてしまう。  
こういう時ほど、視力の良さを恨む時はおそらく他にあるまい。視界にもフィルタリング機能が欲しいくらいだ。  
そんな彼女がすぐ隣で寝そべり、かつ抱き締めてくるんだから、悩ましいことこの上ない。  
「…タツキさんって、お星さまが好きなんですか?」  
「お星さま…天体のことかな。好きというか、心安まる感じがする。こうして天空を眺めるだけでいい。  
…ラルフ・ウォルドー・エマソンという19世紀アメリカの思想家がいて、俺は彼の著作が大好きなんだが…こう言っていたな。  
『星はある種の畏敬の念を呼び起こす。いつも姿は見えているのに、しかも近づくことができないからだ』と…」  
「へぇ…なんかカッコイイ。それってどういう意味なんですか…?もっとタツキさんのお話、聞きたいなぁ…」  
彼女は俺の頬を手で撫でている。その手が触れると、ひんやりとした刺激が全身に伝わる。  
――どうしてそういう艶っぽい仕草で俺を追いつめるんだ君は…。  
うっとりと夢見るような彼女の瞳をずっと見つめていると、倫理観のブレーキが壊れそうだ。  
俺はそれを意識しないように、天井を眺めつつ話すことにした。  
 
「…うん。エマソンの言う『星』というのは、『自然の感化力』の隠喩なんだ。  
エマソンは超絶主義を説いた。彼の思想の神髄は、宇宙全体に包含される個人という関係性にある。  
個人は世界の中に有り、世界とは切り離せない。個が輝くには全体が無くてはならず、全体から個を切り離すことも出来ない。  
個人は世界と結びついている。関係性無しに個人は存在し得ない。そして自然との関係こそ、個人が重視すべきものだ。  
自然は美しい、それは何故か?自己の内面の美を自然の中に見出すからだ。しかも霊魂は無限の拡張性を持っている。  
調和している世界と個人が結びつき、人間は更に自然と和合していく。  
つまり星は畏敬の対象では無く、自然に内在している真理の隠喩であり、それこそ自然の感化力。美しい星の中に、人は自己の内面の中に美を見出す。  
しかし『いつも姿は見えているのに、しかも近づくことができない』のはそれを見抜く目が必要だからであり…」  
 
「むぅ〜。なんか、お勉強してるみたい。そういう難しめなお話じゃなくって…ミクに合わせて、もっとロマンティックなこと言ってほしいなぁ」  
俺の説明が長過ぎたのか、ミクは頬を膨らませていた。…一応、真剣に解題したつもりだったんだが。  
「ロマンティック…?ロマン主義は俺も好きだし、エマソンも十分ロマン主義者だと思うが、君のいうロマンチックとは違うのか?  
アメリカ・ルネッサンスじゃなくて、ゲーテやドラクロワのような?」  
「そうじゃなくて…ミクの気分に合わせて、タツキさんも言葉を飾って欲しいっていうか…」  
「じゃあ耽美派のような言語感覚が必要ということか?オスカー・ワイルド、あるいは日本文学で言えば永井荷風、谷崎潤一郎、三島由紀夫のように…」  
「も〜。そういう話じゃないんですってば〜!」  
見ると、ミクの眉毛が時計の針でいう10時10分のような形になっていた。  
これは、腹を立てているのか?…怒っているわけではなさそうだが、俺が原因なのは間違いないだろう。  
「む。…済まない。話の方向性を間違ってしまって…」  
「そうですよ。タツキさんは頭が良いのは分かるし、話してる時もカッコイイのに、どこかズレるのがもったいないんですよ。  
なんていうのかなぁ…喩えばですよ?さっきの『星』って言葉を使ってですね…」  
彼女は顎に手を当てて考える。…そうやって考え込む顔も可愛らしいなと思っていたが、  
「うん!閃きました。こうやって口説くんですよ!」と目をスっと細め、ニヒルに笑いつつ、声を低めて静かに言った。  
 
『――ミク。本当に綺麗な星は、君だけさ。天空に輝くどんな星々よりも、君の笑顔の方が輝いているよ…』  
 
「…っていう感じですよ!そう、こんな風にタツキさんが口説いてくれたら、ミクはもうメロメロでタッツタツにされてやんよで…キャ〜♪」  
――何が面白いんだ、今のセリフは?そして、何故そんなに顔を赤らめて俺をぎゅうぎゅう抱きしめるんだ??  
君は今、恥ずかしがっているのか?嬉しがっているのか?謎だ、この反応は。  
今世紀初頭にロシアの数学者によって解決されたポワンカレ予想より分からないぞ、ミク。  
「――今のはひょっとして、何かのギャグなのか?」  
「違いますよ、こうやってミクを口説いてみて下さいって例ですよ!」  
「…いや、待て。こんな歯の浮いたセリフを俺が…?」  
「タツキさんだからこそ、ですよ!カッコイイですよ、絶対!ミクはこういうのがいいんです!  
そう、もっと女の子に合わせて下さい!ミクに合わせて、もっと二人でラブラブって感じにして下さい♪」  
「ら、らぶらぶ…」  
「そう、ラブラブです!二人で甘ったる〜くイチャイチャするんです!さっきのお風呂みたいに♪みっくみくにタッツタツ〜♪」  
そう言って彼女はさらに俺を抱き締め、頬をすりすりと寄せてくる。  
 
――なんだこの阿呆なやり取りは…あんな歯の浮くセリフを始終連発するような男など、知性の欠片も無いではないか。  
中身の無い非論理的で無駄な会話をする男女など、この東京にいくらでもいるだろうに、そんな馬鹿の真似事を俺たちがしなくても。  
カフェで不味いエスプレッソを片手にくだらない会話を繰り広げた数時間より、  
芥川龍之介の『羅生門』を読んだ5分間の方が、有意義な時間の使い方という意味で素晴らしいはずだ――  
俺はアインシュタインの特殊相対性理論に基づいて時間の相対性を思い出し  
ボーアの前期量子論からコペンハーゲン解釈に対して提示されたシュレーディンガーの猫の思考実験に至った歴史を振り返りつつ  
そういえば今のミクって猫みたいで可愛い過ぎるこの控えめな胸とか華奢な身体とか風呂上がりのいい匂いとかで  
俺の股間もいよいよ励起状態…って、タツキそれ励起やない!勃起や!  
俺の下品な喩えに自分の量子力学が使われたのを見て、天国でハイゼンベルクあたりが泣いているだろう。許して欲しい。  
とにかく混乱の極みだ。さっきの風呂の二の舞いか、いやそれだけで済むのか…?と思ったところで、俺の脳は閃いた。  
 
――ここは話題をずらそう。彼女が不機嫌にならないよう気をつけつつ。  
 
     ×  ×  ×  
 
  信じられるものがなければ信ずるということはなく、  
  希望されるもののない希望はなく、  
  得ようと努力されるもののない努力はなく、  
  喜ばれるもののない喜びはありません。  
 
   フランツ・ブレンターノ『道徳的認識の源泉について』「あらゆる心的なものの共通な性格」より  
 
     ×   ×   ×  
 
「――ミク、ところでさ」  
「はい?」  
「…ミクは、歌は嫌いじゃない…よな?」  
俺は恐る恐る聞いた。…あまり露骨な話題逸らしで、彼女が傷付いては元も子も無い。  
ミクは力を緩めつつ少し首を傾げたが、すぐに笑顔で答えてくれた。  
「嫌いじゃないですよ。…うん、嫌いじゃない。むしろ…好きです。どんな曲が好きだったかは憶えていないけど。  
でも、お兄ちゃんやお姉ちゃんのお店で流れていた曲で、特にいいなぁと思えるのがあったなぁ…」  
――これはいい手応えだ。彼女の記憶を取り戻す突破口は、やはり音楽か。  
「…それはどんな感じの曲だ?」  
「えぇと…ピアノ曲だったかな。とっても綺麗なメロディーで、クラシックだろうけど…そうだ、弾いてる人のハミングが時々混じってました。  
弾きながら歌うピアニストって珍しいのかなって思って…  
あ、あと椅子の音のようなものも聞こえたっけ。弾きながら身体を動かしてるから、椅子が動くんでしょうか…?」  
クラシック。ピアノ。ハミング。椅子の音。――これはもう、ピンポイントで分かる。  
 
「…グレン・グールド」  
 
20世紀最高のピアニストであり、孤高の異端児。  
カナダのトロントに生まれた彼は、幼い頃からその才能を発輝したdas Wunderkind(ヴンダーキント=神童)だった。  
彼が音楽界の異端たる最大の由縁は、類い稀な技術を持ちながら『ある時期を境に人前で演奏しなくなった』ことだ。  
演奏の一回性に疑問を持ち、いわゆるドロップアウト以降はスタジオ録音のみを行い、数々の名演を記録媒体に残した。  
演奏中のハミングも彼のユニークな特徴の一つ。彼のハミングはいくらエンジニアに指摘されても治らなかった。  
彼の演奏を耳にすれば、愛用の椅子の音とともに誰でも容易に気付ける。  
他にも彼に関するエピソードは枚挙に暇が無いが、今は彼の生涯を振り返ることが目的じゃない。  
ここで重要なのは、ミクが聞いた曲だ。昼間、彼女が聞いたのは…。  
 
俺は起き上がって、ベッドに腰掛けつつ、脇のナイトテーブルに手を伸ばす。  
ヴェローナのとある貴族が使用していた18世紀の家具の上に、昼間メイコ姉さんから借りたミクのCDがある。  
この中にあったはず――そう思って手に取った一枚こそ、『その』CDだった。  
 
「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲。――『平均律クラヴィーア曲集』」  
 
それは、今日の朝から、俺が聴きたいと願っていた曲集でもあった。  
――なんだろう。これを手にしてタイトルを読み上げた瞬間、『これを今ここで手に取り、今から二人で聴かねばならなかった』ような気がした。  
朝からこのCDが欲しい、この曲が聴きたいと思っていたのも、全てこの時のため。  
『俺が手に入れようと思ってこれを手にしたのではなく、手に入れなければならなかった』、  
これを今ここで手に取って聴くべく、『既に定められていた』気さえしてくる。  
…それは言い換えるならば、『必然』だ。予測不可能な『偶然』ではなく、ある規則性に基づく『必然』に人が導かれ――それが分かった瞬間、人は思う。  
――これは『運命』だ、と。  
 
「…タツキさん?どうかしたんですか?…なんか、ちょっと顔が怖いですよ…」  
 
ミクの声で我に返った。彼女もまた俺の隣に密着し、腕を絡めていた。  
…どうも俺は独りで思索に耽ってしまっていたらしい。  
「…ごめん、ちょっと考え事をしていた」  
「そうなんですか?CD持ったまま固まって、眉間に力入れてどうしたんだろうって思っちゃいました」  
「何でも無い、気にしないでくれ。…で、ミクの聴いた曲は多分これだと思うんだ。――もう一度、聴いてもらっていいかな」  
「はい、もちろんOKです!いい曲なら、何度聴いたって楽しいですから♪」  
彼女の満面の笑顔に安心する。…メイコ姉さんの言っていた通り、この子は本当に音楽を愛している。  
音楽を聴き、歌い、まさに『音を楽しむ』ことが出来れば――彼女の未来は明るいだろう。  
 
――しかし、音楽の話になった途端、本当に眩しい顔をするな…。  
まるで彼女が今着ている、ミラノに住む知り合いのデザイナーに仕立ててもらった白いシャツのように輝いていて…。  
む、いかん…視線が自然に彼女の控えめだがしっかり存在をアピールする双丘と、その下へ移って…さらにお臍の下まで…  
駄目だ駄目だ、俺ッ!!またベータ崩壊したいのかッ!!?  
 
気をしっかり保ち、平静を装って立ち上がる。  
ベッドの近くに置いたAVラックに載せてあるユニヴァーサル・プレーヤーにCDをセットしようとしたが、  
ミクも俺の後を追って立ち上がり、俺の背中を後ろから「えいっ♪」と可愛く抱き締めてきた。  
…気にしないぞ。彼女の胸が背中に当たろうが、平常心だ。『滅却心頭火自涼』だ。  
「へぇ〜。なんかカッコイイですね、タツキさんのCDプレーヤーって。…他にも、アンプでしたっけ?そういうのもあって、本格的って感じ」  
「うん。この部屋もだけど、キッチンとか他の部屋とか、俺の家に有るオーディオ機器は全てスイス製だ。音響機器に関しては、それなりにこだわって選んだから」  
「すごいなぁ〜…あ、ここになんか書いてありますね…ゴ、ゴールド…?」  
「ゴールドムンド。このメーカーはヘルマン・ヘッセの小説『知と愛』に登場する彫刻家の名をブランド名にしているんだ。  
各機器には古代ギリシャ哲学に由来する言葉がつけられている所も気に入った」  
「なんかタツキさんにぴったりって感じですね。…同じようなプレーヤーでも、お兄ちゃんとお姉ちゃんのお店にあったのとは違うかも」  
カイト兄さんか…そういえばオーディオ談義になった時にこのブランドを薦めたら、腰を抜かすほど驚いていたな。あの時の兄さんの興奮した顔は忘れられない。  
「ゴールドムンドなんて凄過ぎですよッ!!タツキさんくらいオーディオにお金かけてる人なんて、カラヤンか某ゲイツくらいですよッ!!」  
――二人とも俺の大好きな偉人だから、彼らと並べてもらえるのは嬉しいな。  
カラヤンが残した音源は非正規流通盤も含めて全曲持っているし、ビルも実際会ってみたら尊敬出来る人だったし。  
 
…話が脇道に逸れたな。俺はCDをセットしようとしたが、その前に。  
「ミク、ちょっと部屋の真ん中に立ってみてくれ」  
「え?なんでですか?」  
「この部屋の真ん中が、一番音が良く聞こえる場所なんだ。そこなら一層この曲を堪能出来る」  
「はい!…じゃあ、ここですね?」  
彼女が部屋の真ん中に移動したのを確かめて、CDをセットする。  
そして意識をスピーカーに向ける。立体スクリーンと同様に、部屋に有る六十四個全てのスピーカーは脳とワイヤレス接続されている。  
ミクにこの曲を聞かせる最良のスピーカーの位置と音質設定を思い描く。目を開くと、その通りに全てセットされる。…舞台は整った。  
 
「じゃあ、ミク。――曲を流すぞ」  
「…はい」  
 
俺が脳内でその曲目を意識した途端――CDが回り出し、音楽が部屋に響き始めた。  
 
  ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲。グレン・グールド演奏。  
  『平均律クラヴィーア曲集』第1巻より。  
  第1番、ハ長調BWV846――前奏曲とフーガ。  
 
 彼女は、耳を澄まして聴き入っていた。  
 グールドの弾く清冽なピアノの音を、目を閉じ、両手を胸に当てながら、一音も逃さぬように。  
 俺はそんな彼女の立ち姿に、見とれていた。  
 ミクの姿に、ある種の神々しささえ感じられた。  
 
だが、第1番がちょうど終わったところで、彼女が静かに口を開いた。  
「…一度、止めて下さい」  
目を閉じたまま呟く彼女に俺は首を傾げたが、とりあえずCDを止める。  
「…どうかしたのか?これから第2番が――」  
「第1巻第2番ではなく、第2巻第1番の前奏曲をお願いします」  
――何だって?…それって、まさか――  
「…知っているのか!?憶えているのか、この曲をッ!!」  
『平均律クラヴィーア曲集』を、バッハを、グールドを知っているのかッ!?――いや、そもそもどうして、第2巻第1番を選んだ?  
「…とりあえず、曲を流して下さい。そうすれば…分かります。時間がありません、お願いします」  
…厳かに告げるミクに、俺はただならぬものを感じた。その『命令』を拒否してはならないというほどの、強い意志を。  
だが、彼女が聞きたいというならば、それを拒む理由は無い。俺は目を閉じ、彼女に指定された曲に切り替え、目を開く。  
――ミクもほぼ同時に目を開く。ゆっくりと、静かに開いたその瞳は、今まで見たことが無いほどの真剣な眼だった。  
 
――それが流れた瞬間、俺は耳を疑った。  
 
  ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲。グレン・グールド演奏。  
  『平均律クラヴィーア曲集』第2巻より。  
  第1番、ハ長調BWV870――前奏曲。  
 
 ミクは、歌っていた。  
 グールドのピアノに合わせて、主旋律を彼の演奏に乗せて歌っていた。  
 彼女の身体全体が楽器になっていた。その細い身体のどこにそれほどの声量があるのかというほどの伸びやかな声が部屋を満たす。  
 しかしそれはどこまでも澄んだ歌声。玲瓏(れいろう)とした声――玉と玉が触れ合った時に鳴る、美しく冴えた音。  
 手を広げて、喉を震わせるその姿は、まるでオペラ歌手だ。  
 満天の星空の下、白く輝く月の光がスポットライトのようにミクを照らす。  
 聴衆は俺しかいない。だが、彼女は間違いなく、俺に向けて歌っている。  
 しかし同時に、世界中の人々に向かって歌っているようにも思えた。いや、人だけでなく、宇宙の万物全てに向かって。  
 その歌声は、もはや人間の領域を超えている。地上の誰より美しく、これまで存在したことのないような芸術。  
 天使の歌声だ――俺はそう思う他無かった。それしか言葉が見つからない。  
 バッハが作った曲と、グールドの演奏に、ミクが歌声を乗せ、至福の音楽がここにあった。  
 南十字星が彼女の上に瞬いている。南天の十字架の彼方、宇宙の果てまで、ミクは高らかに歌い上げる。  
 心が、霊魂が、打ち震える。――奇跡だ。妙なる響きに俺はただ陶然として、恍惚すら覚えた。  
 
――そして、ミクは歌い終えた。  
 
俺もまた同時に、フーガの前でCDを止める。…俺は動けなかった。彼女を見つめたまま、茫然としていた。  
彼女もしばらく動いていなかった。目を閉じて立ち尽くし、胸に両手を当て、歌い終わった余韻に浸っているようだった。  
しばらくそうした後、俺はようやくゆっくりと彼女に近づき、その顔を見た。  
呼吸を整える彼女は、ほんのりと頬に朱を差していた。  
「…ミク…?」  
俺が声を掛けると、彼女はうっすらと目を開けた。  
「…龍樹…」  
彼女の瞳は、涙で潤んでいた。  
「…タツキ、さん…!」  
――俺の胸に飛び込んできたミクは、そのまま感極まって泣き出してしまった。  
「タツキさん、タツキさん…う、うぅ、うわああぁぁん…!」  
「なッ…どうした、一体どうしたんだよ、ミクッ!?…何で泣くんだ、何が悲しいんだッ!!?」  
「違うんです、違うんですッ!…悲しくなんかない、そうじゃなくて…そうじゃ、なくてぇ…ッ」  
「そうじゃなくて、何だッ?…落ち着け、言ってごらん?」  
ミクは肩を震わせていた。しばらく嗚咽を繰り返していたが、呼吸を整えて俺を見た。  
 
「…嬉しいんです!…歌って…ここで今、歌えて…!タツキさんの前で歌えて、すごく嬉しいんですッ!!」  
 
彼女はぽろぽろと涙をこぼしながら、もう一度俺を抱きしめる。  
「…ミクの記憶は無いと思っていたけど、この曲が流れた時、なんだか不思議な気持ちになって…。  
一曲聞いた後に、タツキさんが違う曲を流した時に、意識しなくても自然に歌えちゃったんです!  
憶えてないのに、主旋律なんてほとんど分からないのに、身体が勝手に反応して歌えちゃったんです!  
…信じられないでしょうけど、本当なんです!ミクも信じられない、どうして歌えるのか!  
でも、それよりも…何よりも、嬉しいんです!ミクが今ここで歌えたことが、すっごく嬉しくてたまらないんですッ!!  
嬉しくて、嬉しくて…胸が震えて、高鳴って、清々しくて、気持ち良くて…!」  
 
彼女は笑顔のまま、泣いていた。  
――そんな顔をするな。そんなに泣かれたら、俺ももらい泣きしそうになるじゃないか。  
そんなに、泣いたら、泣いたら―――  
 
「…あ、あは…。タツキさんも、泣いてる…」  
「――え」  
俺は思わず、指で右目の下をなぞった。確かに目から流れ、溢れ出すものがあった。  
「――お、俺も…今、泣いて…?」  
「そうですよ…?タツキさんも、ミクと一緒に、泣いちゃってます。えへへ…タツキさんも、ミクみたいに泣き虫さんですかぁ?」  
「な、泣き虫じゃない。…ただ、ただ…」  
「――ただ、嬉しいんですか?…ミクと同じに…」  
――ああ、そうだ。嬉しいんだ。  
ミクを見つけたまではいいものの、記憶が無いというショッキングな出来事があった。  
記憶が戻るのかという不安があったが、今ここで彼女の素晴らしい歌声を目の当たりにして――感動している。  
彼女は、ただ歌が好きなだけじゃない。この声は天からの授かり物だ。歌うために生まれてきた存在なのだ。  
技巧や歌唱力といった常識を超えて、万人の心を震わせずにはいられない――それがミクの声であり、彼女の歌だ。  
いや、それも含めてだが、俺が本当に嬉しいのは歌だけじゃない。君に、ミクに出逢えたことに、本心から感動して――嬉しかった。  
感謝したい。こんなに素晴らしい君に出逢えたことを――この地上で、奇跡のような出逢いを果たせたことを。  
 
「――そうだ、嬉しいんだ。ミクと出逢えて…本当の本当に嬉しいんだ!  
今、ようやく実感している…!君と出逢えたから、君がここにいるから、君の素晴らしい歌声を聞けたんだ!  
出逢えなければ、始まらなかった。もし君を見つけていなかったら…君はここにいなかった。君がいなかったら…君の歌も聴けなかった…」  
 
――彼女はそっと、俺の涙をぬぐってくれた。  
不思議なほど、彼女は落ち着いていた。微笑む彼女に、後光が差しているような気さえしていた。  
 
「でも、私はここにいる。…あなたが見つけてくれたから…。  
私が歌えたのも、私の歌を聴いてくれたのも、全てはあなたのおかげです。…感謝しなければいけないのは、私の方です」  
 
ミクは俺の頬を撫でながら、厳かに告げた。  
 
「――凡ての生命には、向かうべき目的があります。心が意識し、向けた先に対象は与えられる。  
それは指向性、あるいは志向性…“Intentionality”と呼ばれる感覚質が、心に――魂魄に生まれるから。  
誰かの心はもう一方の誰かに向かい…結ばれる。互いに向き合う心は、意識は、魂魄は、必ず関係し合う。  
個は全体に向かい、全体は個に向かう。世界は調和し、欠けるものなど一つも無い。  
『わたしは一個の眼球になる。いまやわたしは無、わたしはいっさいが消え、「普遍者」の流れがわたしの全身をかけめぐり、わたしは完全に神の一部だ』  
――ラルフ・ウォルドー・エマソンの言葉を借りれば、これが世界の姿なんです。  
生きとし生けるものは凡て関係性の中にこそ生きている。『すべて真の生とは出合いである』――  
あなたもまた、この言葉を信じていたからこそ、私たちは出逢えたんです。  
私が向かう先はあなたで、あなたが向かう先は私。そして歌は二人を繋ぎ――歌声は無限に拡がり、世界を満たす。  
私が歌うのは、あなたのために――あなたの喜びが、私の悦びになるから」  
 
…ここにいる『彼女』は、『ミク』ではないかもしれない。理知的な『彼女』は、どこまでも神秘的な雰囲気に包まれている。  
それでも『彼女』の言葉は俺の心に響いてくる。それは無視出来ない説得力を持っていた。  
 
「私たちは共に、『願い』を叶えた。出逢いは『運命』だったかもしれない。願えば叶ったような、『必然』だったかもしれない。  
――でもここから先は、『願い』だけでは駄目なのです。龍樹――私とあなたの未来は、私たち自身で創り上げなければならない」  
 
だが、『彼女』は視線を外した。悲しげな、不安げな表情だが、決意を秘めた瞳で再び俺を見た。  
 
「…それは決して穏やかな道ではありません。おそらく、困難が私たちを襲う。まさに茨の道…。  
でも、大丈夫。私があなたの側で歌う限り、世界は終わらない。…いえ、終わらせてはならない。  
いずれ、私たちの歓喜の時はやって来ます。必ず、必ず――」  
 
そこで『彼女』は俺を強く抱き締めた。温かいと思った。こうしていつまでも抱き合っていたい――。  
『彼女』は何か大切なことを伝えようとしている。それは分かる。でも、今は落ち着かないんだ。君の歌に身も心も震えて、上手く飲み込めない。  
――だから、また逢おう。次はそうだな…あの『海』がいい。俺たちが初めて出逢ったあの場所で、ゆっくり話そうか――。  
 
「――ミク」  
「…はい、何ですか?タツキさん…?」  
ああ、やはり『彼女』はいなくなったのか――ここにいるのは『ミク』だ。  
「いや…とにかく、素晴らしい歌だった。ミクの歌声は…もう、言葉じゃ言い尽くせない。本当の感動の前では…言葉が見つからない」  
「――はい、ミクもです。気持ち良く歌えて、本当に幸せ。だから…もっと、こうして抱き締めてほしい。  
もっと歌わせて下さい。タツキさんのために歌って、喜んでもらって…歌い終わった時に、ミクをもっと…抱き締めて…」  
「もちろん、もちろんだ。俺の方こそ、もっと聴きたい。もっと歌って欲しい、俺の側で。俺の側にいてくれ――ミク」  
 
「――はい。ミクはもっと歌います。あなたのために――」  
 
――『彼女』は言った、困難がこの先に待ち受けていると。それは並大抵のことではないと。  
何故、それが分かる?一体、二人はどうなる?俺とミクに、何が起こる?  
…君の秘密を知ること、君の謎を解くことが、俺と君の未来を脅かすとでも?  
そうだとしたら、杞憂だ。俺は受け入れる。どんな運命だろうと、俺は君を見捨てない。  
ああ、そうだな――この話はしばらく置いておこうか。君の言う通り、いずれ分かることさ。  
それより、今はこうしていたい。未来への不安をよそに、星空の下でミクを抱き締めたい。いいだろ?たまには俺だって、こういう気分になる。  
――今まで生きてきた中で、これほど嬉しいことは無かった。  
――『生』の実感を本当に教えてくれたのは、ミク――君なんだ。  
 
     ×  ×  ×  
 

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