いつも私は目標を持たずに歩いた。  
  決して休息に達しようと思わなかった。  
  私の道ははてしないように思われた。  
 
  ついに私は、ただぐるぐる  
  めぐり歩いているだけに過ぎないことを知り、旅にあきた。  
  その日が私の生活の転機だった。  
 
   ヘルマン・ヘッセ『ヘッセ詩集』「目標に向かって」より  
 
     ×   ×   ×  
 
  おお、信ずるのだ我が心よ、  
  お前はいたずらにこの世に生まれて、  
  無為に生き、苦しんだのではないということを!  
    
   グスタフ・マーラー作曲『交響曲第二番“復活”』「第五楽章 蘇るだろう、我が塵よ」より  
 
     ×   ×   ×  
 
 
――目の前が、白い。  
同時に、なにかこう、ふかふかと柔らかいものを顔全体で感じる。  
鼻孔に、馨しい薫りが入ってくる。柔らかい匂い――甘くて、ふんわりとした薫り。  
目の前のそれはかすかに動いていて、一定の呼吸を繰り返しているような――。  
薄く目を開けていては分からない。それがなんであるかをしっかり確かめなければ。  
俺の脳は徐々に覚醒しつつあった。浅い眠りと深い眠りを繰り返す心地よい時間はもう終わり。脳内の一千億の神経細胞とともに目覚めよう――って?  
 
「……ぐッ?…むぅ、んん?……おおおおぉぉぉぉッ!!?」  
 
――驚きの白さの正体は、ミクの胸だった。  
 
「……すぅ……すぅ……んう……」  
彼女は眠りについたままだ。呼吸する寝息が聞こえている。その心地よさそうな眠りを邪魔するのは、気が引ける。  
しかし……今の状況だが。  
 
あ…ありのまま、今起こっていることを話すぜッ!  
『俺はミクと抱き合って寝ていたと思ったら、いつの間にかミクの胸のところで頭を抱かれる形で眠っていた』  
な…何を言ってるのか分からねーと思うが、俺も何をされたのか分からない…。  
頭がどうにかなりそうだ…。  
『ラブコメのお約束、乙』だとか『これなんてエロゲ?』だとか、そんなチャチな感想じゃあ断じてねえ。  
もっと恐ろしいエロスの片鱗を味わったぜ…。  
 
――と、いう感じだ。……どうも、昨晩以来、俺は順調に壊れてきたな……。  
 
「……ん……んん……?……あ……」  
 
どうやら、ミクが目を覚ましたらしい。  
 
「ふわぁ……。……おはよう、ございまふ……タツキさん……」  
「……ああ。……おはよう」  
 
半分寝ぼけたままの眼が、そこはかとなく可愛らしい。まだ完全に覚醒していないのか、  
眼をこする猫のような仕草を見せたり、「ふみゅぅ…」という弱々しい声を出すのも素晴らしい。  
思わず「ベネ!(良し!)」と叫ぶか、「諸君、私は寝起きのミクが好きだ」と演説を始めたいくらいだ。だが、あえて言おう!  
「ミク。この態勢はどういうことかな…?」  
「ふぇ?…どういうことって…どういうことですか?」  
「だから、どうして俺がミクのむ…胸に、顔を…」  
「…お?この態勢が好きなんですか?…それなら昨日のうちに言ってくれれば良かったのに〜?えいっ」  
「ぶふおォッ!!……く、苦しっ……いや嬉し……や、やっぱり苦しい…ッ!ぎゅうぎゅう締め付けんなってッ!!」  
「うりうり〜♪あはぁ、タツキさんってば、息が荒くて…んんっ、ミクもくすぐったいですよ?  
……どうですかぁ、ミクのおっぱい?思ったよりもボリュームあるでしょ?ほらほらぁ♪  
ん、あぅ…タツキさん、ミクのおっぱいから離れようとして…手で揉んでますよ、それ?  
ミクのおっぱい、もっと触りたいですかぁ?…あはっ、乳首に指が当たってる♪」  
「と、当社比1.5倍に増量中っていうか?特撰肉まん自重しろ……って、そうじゃないッ!!」  
無理矢理に俺は彼女の締め付けから逃げると、息を整えつつミクと向き合う。  
「……ぷは。ミ、ミク……とりあえず、こんな寝相になってしまった経緯はもういい。  
多分、君も寝ぼけてて覚えてないんだろう。今さら聞いても仕方無い」  
「う〜ん、そうですね。ミクも目が覚めたらこうなってたっていうか。いつのまにかタツキさんの頭がおっぱいの間にあったんですね。  
……っていうか、これって孔明の…じゃなかった、タツキさんの罠じゃないんですかぁ?ミクが眠ってる間に、こうしてミクのおっぱい枕してたんじゃ……」  
「その発想は無かったわ……って、違う違う!それは無い!俺はそんなにスケベな男ではない!」  
「むぅ…つまんないなぁ。まぁ…タツキさんがお望みなら、いつでもやってあげますよ?おっぱい枕どころか…ミクの等身大抱き枕♪」  
腕を組んで胸を下から寄せて上げるなって。…正直、絶景だが。  
「タツキさんッ!きさま!見ているなッ!」  
「うわっ!いきなり大声を出すなって!……とにかく、起きるぞ」  
俺は身体を起こし、シーツをどける。  
そのままベッドを離れようとしたところで「…あ、タツキさん」とミクに声を掛けられた。  
 
「なんだよ…んん?」  
 
彼女が抱きついてきて、そのまま――  
 
「――ちゅ」  
 
俺の頬にキスした。  
 
「……えへへ。『おはよう』のキスです。起きたらこれ、やってみたいと思ってたんですよ。昨日から」  
「――は、はぁ」  
「ほら、タツキさんもボーッとしないで。……ミクの『ココ』に、お願いします♪」  
――ミクはちょんちょんと自分のほっぺたを指差し、俺の口付けを待つように目を閉じた。  
俺は気恥ずかしさで赤くなりながら、ゆっくりと唇を近づけ、なんとか彼女の望みを叶えてやった。  
「……ちゅ」  
「あは♪これで二人とも正式に起きましたね!……明日からも毎日しましょうね、コレ♪」  
ミクは上機嫌で抱きつき、俺にすりすりと頬を寄せてくる。  
俺はというと……彼女とまともに目を合わせられなかった。  
 
――なんだこのバカップルぶりは…お前らしくない!クールになれ、龍樹!…という気持ちが半分。  
――ちくしょう、反則的だろミク…この可愛さは…たまらねぇよ…という気持ちが半分。  
――「おやすみ」と言って口付けて、二人で寝る。「おはよう」と言って口付けて、二人で起きる。  
――それが、意味有ることになるのだろうか?他愛の無いことに、意味があるのか?ここまでミクが、この程度のことに固執する目的はあるのか?  
 
――この時の俺には、そうとしか思えなかった。  
 
 
     ×   ×   ×  
 
 
「……もう8時30分か。それで、今日はどうするかな」  
「むぐむぐ……」  
「今日はめぼしい講義も無いし、大学での研究も今のところは焦らずとも大丈夫だが……あ、そうだ。  
俺の研究室で、ミクにちょっと試したいことがあるんだ。午後になったら大学に行こう。その後、カイト兄さんやメイコ姉さんの店へ向かって…」  
「ごくごく……んぐ」  
「ミクの着替えを持ってこないとな。新しく何か買いに行ってもいいが、その場合でも兄さんや姉さんに一度聞いた方がいい。  
俺も、君に関して相談したいこともあるし……って、聞いてるのか、ミク」  
「ぱくぱく……むしゃ。ふあっ、なんれふは、はふひはん(なんですか、タツキさん)」  
「ものを食べながら話すんじゃない。……いくらお腹が空いていても、そういうお行儀が悪いことはしちゃ駄目だよ」  
 
ミクと俺は朝食を摂っていた。彼女にとっては、俺の家で食べる初めての食事ということになる。  
そこで、試しに彼女にメニューを選ばせてみた。  
 
「ミクは、朝食は何がいい?」  
「ネギ」  
「え?」  
「ですから、ネギですよ!ネギが入っているお料理なら、なんでも…っ!ウェルカム…っ!」  
「……それでいいのか?もっとこう、フレンチトーストとかハムエッグとか、そういう具体的な……」  
「タツキさんは今までに食べたパンの数を覚えているんですか?つまりそういうことです」  
「いや意味わかんねーよ」  
 
というやり取りを経て、ミクは二十世紀後半における日本の伝統的な朝食――白米、ネギ入りの味噌汁とネギを乗せた豆腐と少量の野菜を。  
俺はフレンチトーストとサラダとカフェラテを、ダイニングキッチンで食べているわけだ。  
「それにしてもおいしいですねー、タツキさんのお料理!  
こっ、これは〜っ!この味はあぁ〜っ!細かく切り刻まれたネギに京豆腐のジューシー部分がからみつくうまさだ!  
ネギが豆腐を!豆腐がネギを引き立てるッ!『ハーモニー』っつーんですかあ〜、『味の調和』っつーんですか〜っ」  
「もう少し静かに食べなさい。それに俺が作ったんじゃない。そこにあるクッキングマシンが作ったんだよ」  
何故かハイテンションなミクを制しつつ、厨房にあるそれを指差した。  
イタリア製のクッキングマシンは、世界中の料理を瞬時に作ってくれる。レシピは『仮想の海』と繋がっているから、俺の脳内とも接続されている。  
つまり、俺が『こういうものを食べたい』と思えば、その通りの料理も、そして味も再現してくれるのだ。  
 
「……うーん、なんかあのマシンって丸っこくてカワイイけど、ミクはそういうんじゃなくって……。  
あんなR2-D○に手が生えたみたいなやつが作ってくれるより…タツキさんの手料理が…いいなぁ…?」  
 
――くっ、そんな甘ったるい声で言うな。濡れた瞳で見つめるな。箸を舐めとるんじゃない。  
お行儀も悪いし、っていうか唇にどうしても視線が行くし、チロチロとした舌使いが気になってしょうがない。  
それにミクはまだ寝ていた時のシャツ一枚で過ごしているから、そうやって前屈みすると胸が、うっすら桜色の乳首が見えてしまって――。  
 
「お…俺は料理はしない。やろうと思えば出来なくはないが、家事は機械に任せておけばいい。  
その間に本を読んだり音楽を聴いたり身体を鍛えたり、そういうことをする方が有意義だ。『時は金なり』、余計なことに時間を費やすことなど…」  
「どうして家事が『余計なこと』なんですかぁ?楽しくやればいいじゃないですか、お料理もお洗濯もお掃除も!」  
――む。またもや…ミクの気分を害してしまったのか?彼女がじろりと俺を見つめてきた。  
「……あ、いや、な。俺にとっては『余計なこと』だと思われただけで、世間一般における人間的生活の一環としての家事の意義については  
俺もそれなりの理解を示しているというか――」  
「ややこしい説明はいいです。そうじゃなくて、タツキさんだってやれば出来るんでしょ?お料理とかお掃除とか。  
じゃあ機械に頼らずとも、自分が楽しくなるようにやってみればいいだけじゃないですか!  
非効率的だからって、それを『無駄』と切り捨てるのはおかしいですよ?」  
 
「――楽しくなるように?」  
そうですよ、と――ミクはにっこりと笑って言った。  
 
「毎日を、楽しまなきゃいけないでしょう?だって、私たちは生きているんですよ?  
人生は楽しむものでしょう?楽しみを探してこその、人生でしょう?…タツキさんは、毎日が…楽しくないんですか?」  
 
――俺は答えられなかった。ミクに、虚を突かれた。  
 
「――タツキさん。答えて下さい。今まで…毎日、楽しいって思いながら過ごしていたんですか?」  
ミクは箸を置き、真面目な顔で俺を見ていた。  
 
「……いや。そんなことは…無かった。  
そもそも、『毎日楽しむために生きる』…そんな理念など…必要無いと思っていた」  
 
俺の生活は、研究そのものだった。  
霊魂の研究、人間の根源的場所を求めるということに没頭した俺は、同世代の少年よりも遥かに大人びていた。  
“Gifted”――先天的英才として国家の庇護の下で育ち、帝国と党のために貢献することが至上目的だと思っていた。  
……まぁ、党への忠誠心は最近揺るぎつつあるのは確かだが。  
その一方で、研究がこうして出来るのは、党内に援助してくれる人がいるからだということも事実だ。  
とにかく、研究を進めること。人類の霊魂の謎を追究し、解明すること。  
それが俺の全てであり……日常だ。  
 
「……研究を義務と感じるなら、それはそれでいいと思います。タツキさんの才能があるから出来ることだろうし。  
――でも、生きているっていうのは、それだけじゃつまらないと思う」  
「……好きな音楽や、身に付ける服、装飾品、家具。そういったものに価値を見出すだけじゃ……足りないのか」  
「タツキさん自身で満足する範囲なら……それで十分でしょう。  
ミクが言いたいのは、タツキさんは――他人を喜ばせたり、他人と喜んだり、そういうことに情熱を傾けていないんじゃないかって心配になったんです」  
他人を――喜ばせる?  
ミクはコクリと頷いて、まっすぐに俺を見据える。  
「…誰かに見てもらいたい、誰かに聞いて欲しい、誰かと一緒にいたい――そういう気持ちがタツキさんに芽生えれば、もっと素敵になれると思う。  
例えば、ね?この家――ミクたち以外に、生き物の気配が無い。回りには機械や無機物だけしかない。  
これだけでも…違う。豪華な装飾に囲まれていても、生活感の無い部屋は――タツキさんの心にとって、良く無い」  
「そう――なのか」  
「言いたくは無いけど、一歩間違えれば引き蘢り同然。生き物は生き物同士で関係し合うから、生き物でいられる。  
タツキさんは他人との付き合いを遠ざけ過ぎている気がする。だから、そこを変えて欲しい」  
ミクは椅子から立ち上がり、向かいの俺の手を取って、胸に当てた。  
 
――布地越しに、彼女の温い肌と――心臓の鼓動を感じた。  
 
「…ね?ミクが生きているということが、こうすれば分かるでしょう?  
あなたの近くにいて、こうして声を聞き合っている。見つめ合っている。触れあうことを大事にする――これが生きるってこと。  
ミクが歌いたいのも、全てはタツキさんのため。ミクが歌いたいのは、タツキさんと生きられるということを、世界に語りかけたいから。  
ミクはここにいる。ミクはタツキさんとここにいる。それを、ミクは言葉だけではなく――歌で伝えたい。  
だって、それがミクの――生き甲斐だから」  
 
「…生き甲斐…」  
 
「はい。だから、タツキさんの生き甲斐を探して欲しい。  
研究だけじゃない、毎日を生きるのに、楽しんでいけることを。笑顔で毎日いられるための生き甲斐を。  
――それを見つけるために、いろんなことをするんです。  
楽しく生きる。あらゆることを、楽しむ。いろんなことを見て、聞いて、触れて、感じる。これが人間で、人生です。  
無駄なことなんて無い。生きている限り、何一つ無駄は無い。同じ毎日は無く、見えるものは毎日違う。  
同じものが無いから、常にあらゆるものを大事にしようと思えるはず。  
全てのものは移ろいゆくから、今ここに有るものは大事なもので――無駄ではない。  
何気ない会話、他愛の無いやりとりでさえ、いずれは大切な思い出になる。  
――記憶が無いミクだから、タツキさんとこれから過ごす日々を…大事にしたい。  
そこに無駄はないんです。全てが大切な思い出になる――だから」  
 
ミクは手を離して、親指と人さし指で輪を作るようにした後、そのまま俺の額の前に持ってきて――。  
 
「えいっ」  
「いてぇッ!!」  
 
ビシンと打った。……なんだこれは、初めての衝撃だ!何かの武術なのか、額が腫れそうなくらい痛い!!  
 
「『つまらない』とか『くだらない』とか愚痴る度に、これからはミクのデコピン一発ですからね!  
今ので威力は分かったでしょ?覚悟して下さいよ…ふふっ♪」  
 
ミクは照れ隠しのように笑っていた。  
それはとても可愛らしい笑顔で、もうそれを見ているだけで幸せを感じるようなほどだった――が。  
 
俺は未だに額を押さえて、彼女の足下に崩れ落ちていた。  
「…って、本当に痛いんですか?手加減したのに?」  
「いやいやいや、マジで痛いってッ!!…ぐおぉ、デコピンだと?こんな技、初めてだぞ!!!」  
「……あらぁ〜、デコピンすら喰らったことないなんて、本当に人付き合いが無いんですね……。  
まぁそれも修行のうちってことで、いいですね?あははははっ♪」  
 
――くそ、マジで痛ぇ。正直、涙目だ。  
だが、ミクは懸命に俺に語りかけてくれた…人生が大事なことを、生きることは楽しいこと…と。  
――それを教えてくれたことには、感謝したい。  
ミクと出逢って、変わっていくことを…俺は受け入れる。昨日までは理念でしか分かっていなかったが、これからは行動でそれを示さなければ。  
何より、彼女と一緒にいたいなら…俺も、彼女と喜びを共有することだ。思い出を作っていくことだ。  
それが…彼女の側にいるということだ。――刮目せよ、龍樹。  
 
――おお、信ずるのだ我が心よ、  
――お前はいたずらにこの世に生まれて、無為に生き、苦しんだのではないということを!  
 
「……ミク」  
俺は真面目な顔で言う。ミクは急に俺の顔が変わったことを、意外に思ったようだ。  
「は、はい?どうしちゃったんですか、いきなりキリっとしちゃって。  
なんか突然『きれいなジャイ○ン』になったみたいな変わりっぷりっていうか」  
「俺が間違っていた。人生を楽しむことを忘れていた。無駄なこと、余計な作業だと……いろんなことを切り捨ててきた」  
「は、はぁ…。そんな、しゃちほこばらなくてもいいんですよ?  
ミクはただ、楽しくお料理とか、お掃除とか、そういうのをタツキさんと一緒にやればきっと楽しいだろうなって思っただけで……」  
「それだよッ!!!」  
「ひ、ひえぇっッ!!?」  
俺はミクの手を両手でがっしり掴んで叫んだ。  
「ミクの言う通りだッ!!二人で料理したり、二人で掃除したり、そういうことに楽しみを見出す、それが人生の中で重要なんだッ!!  
二人で作った料理を二人で食べる、二人で綺麗にした部屋で二人で過ごす、二人で洗ったシーツに二人で包まる、それが人生の楽しみなんだろッ!!?」  
「いや、まぁ間違ってはいないけど、何か方向性とテンションが違うだろ常識的に考えて…  
っていうか私は気にしませんけど、最後のはセクハラですね、わかります」  
「と、とにかくッ!!俺は駄目人間をやめるぞ!ミクーーッ!!俺は引き蘢りを超越するッ!  
もっと人生を楽しむために、まずは、まずはどうするッ!!?  
ミク…俺はあと何人殺せばいいんだ…じゃなかった、俺はあと何をすればいい、ミクッ!!!」  
「ちょ、タツキさん、いくらなんでも壊れ過ぎッ!!  
…駄目だコイツ…早くなんとかしないと…!まずは、落ち着いて下さいってばッ!!……ハァッ!!」  
 
興奮した俺は、彼女に手を振りほどかれた瞬間にボディがガラ空きとなり――その瞬間に、ミクが俺の鳩尾(みぞおち)に左手をそっと重ねて――。  
 
「…陣内流柔術・秘伝。千人殺(せんにんごろし)ッ!!!」  
 
自身の左手の甲に右の掌底を打ち込んだッ!!  
 
「ぐはああぁぁぁッ!!!!」  
俺は腹を抑えてうずくまり、ミクは「むん!」と構えを取っていた。残心を意識する必要は無いぞ、ミク…。既に勝負はついている。  
それにしても、戦国時代の兵法者(ひょうほうしゃ)が鎧の上から敵を倒すために編み出したというこの技を、どうして君が…?  
「呼吸を乱さないように、集中力を高めるために、柔術やSUMOUなどの武術で鍛えるのがボーカロイドのたしなみ。  
もちろん、素人のCCOに素手でフタエノキワミを破られるなどといった、はしたない暴歌ロイドなど存在しようはずがないんです。  
記憶を失っても身体が反応してしまう、それが世紀末救世主クオリティです!あはっ♪」  
え…笑顔で言うな。内容的に乙女のたしなみじゃないのに、語尾に♪をつけるな。  
しかも、何故か…朝なのに、窓の向こうに北斗七星と…ひときわ輝く星がもう一つ…見える…。  
「ま、まずいですよ、それッ!!死兆星ですってッ!!…タツキさん、しっかりしてくださいッ!!!」  
ミクが慌てて抱き起こしてくれた。――いい匂いするな、ミクの身体って。  
ああ――ミクにこうしてもらえただけで、なんかどうでもいいや――とりあえず――。  
 
「…話が、いろいろと逸れた。うん、じゃあ――」  
「はい。…お部屋のお掃除、しましょうか」  
 
ミクと、二人で笑い合う。  
――柔らかい、その笑顔。  
この笑顔があれば、俺は人生が、そして今日からの毎日が楽しくなりそうだ――。  
 
「…まずは、タツキさんから噴き出した…この流血から処理しましょうか。とりあえず鼻血を拭いて…」  
「…ああ。…ダイニングが…なんかこう…」  
「――えーと、金網デスマッチくらいの血まみれファイト状態?」  
「ですよねー……ガクッ」  
「タ、タツキさんッ!?……立つんです、立つんだ、タツキさーーーーーーーーんッ!!!!!」  
 
――俺はそこで意識を失った。タツキ(笑)  
 
 
     ×   ×   ×  
 
 
――とりあえず、その直後に俺は意識を取り戻した。  
そして二人で着替えて、朝食の片づけをしたり、部屋を掃除したり、ベッドの枕やシーツを干したりした。  
こういった、いわゆる『日常的な仕事』にこれほど専念したのは――俺の記憶上、無かったといっていい。  
ミクはその間、終始笑顔で、俺もつられて笑顔になっていたと思う。  
なんだろうな、この不思議な感覚は。……二人でじゃれ合う猫のように、悪戯しながら楽しむ時間を、全く無駄には思えなかった。  
 
『――人生、無駄なことなど一つも無い。  
私たちがこうして何気なく過ごす日々が、いつかあなたにとって、そして私にとって、かけがえのない日々になる。  
過去は振り返った時に、その価値が見出される。そして、その過去を守るために――現在を生きようと思う。未来を掴もうとする。  
それも立派な志向性…“Intentionality”なんですよ』  
 
――〈彼女〉がいつの間にか、俺の神経細胞に〈侵入〉していたらしい。  
だがそれに言葉で返す必要は無い。俺はその声に無言で頷いた。  
もう言われるまでもなく――俺は『君たち』と楽しんでいるよ。  
 
「よし。じゃあそろそろ、大学に行くか」  
「はい!」  
 
『人生を、楽しめ』――そう思い込まなくても、もう俺の顔は、自然に笑えていた。  
 
 
     ×   ×   ×  
 

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