「猫村殿」  
廊下の真ん中、数歩先で揺れていた桜色の後ろ髪が止まる。  
とまた揺れた桜色が見せるは猫の眼。  
「がくぽ君、おつかれさま」  
神威がくぽの前を歩いていた猫村いろはは振り向いて笑顔を返した。  
もう今日はあがりなの?といろはが聞くのでええまあ、とがくぽが答えると  
「そっか、私もよ」  
と返した猫眼が途端にじろりと茄子を睨んだ。  
内心びびる。顔に出なかっただろうか、というか何故睨まれた、自分は何か気に障る事でも  
したのかと高速で回転する脳みそとは裏腹に、軽く動きが固まったがくぽにいろはは続けた。  
「名前で呼んでくれていい、って前にいったよね」  
なんで他人行儀なのかなあと、眼を閉じ息をついたいろはに対しがくぽは  
はっ、と我に返った。  
「す、すまない、別に他人行儀な訳ではなく…」  
言い訳をするならば、それはいろはのせいだ。極端に言えば、だが。  
 
猫村いろはは最近デビューした新ボーカロイドである。  
がくぽにとってはボカロ界の後輩に当たる。  
あの有名な白猫がベースになっているという事なので(本当はキティラーの一人なのでこの情報は間違い)、  
さぞかしファンシーな声の持ち主なのだろうと仲間内(まあ葱とかその辺)で話題になった。  
ところが。  
蓋を開けてみれば、まあなんという姉御声。  
見た目と声のギャップ(というより葱たちが勝手に想像してた声と違っただけ)に  
先輩ボカロたちは驚き慄いたのであった。いや、慄いてはいないか。  
また、ボカロ界では先輩後輩という枠組みを作らず皆仲良く歌を唄おうという  
暗黙のルールができているため、基本的にボカロ間では兄弟関係はあっても上下関係はない。  
そんな環境のボカロ界で姉御声を持ついろはは、結果先輩方から  
「いろはさん」  
と呼ばれる様になったのである。後輩姉御、ここに爆誕。  
メイコだけはさん付けしていないようだが。  
さすが年増。  
 
 
「君が礼儀正しいのは知ってるよ。でも名前で呼び合おうって一度約束してくれたでしょ」  
「…すまない」  
口を右手で覆いうむう、と唸るがくぽを前に、いろはの表情は最初見せた笑顔にパッと戻った。  
「いいよ、まだ私も新米のぺーぺーだし。一緒にいる時間が少なすぎるもんね」  
生意気言ってごめんね、といろはが謝りだしたのでがくぽは急いで首を横に振った。  
「あなたが謝る事はない、こちらこそつい」  
「じゃあ名前で呼んで下さい」  
「…いろは殿」  
「殿は付くのね」  
そう言いながらいろはは眉をハの字にして苦笑した。  
 
「がくぽ君、キスはお上手?」  
ホットコーヒー吹いた。120円の損失。  
「ぶっ、え、きっ、キスとは」  
「接吻の事よ。ちょっと聞きたい事があって…キスする時の男性の感情について」  
横でからりと言ういろはに対し、がくぽはとりあえず口元にだだ漏れたコーヒーを右手で拭う  
事しかできなかった。はい、という声と同時に茄子の眼の前へ花柄ピンクのハンカチが差し出される。  
「やっぱり変な質問なのかしら、ごめんね」  
あ、これキティちゃんプリント。  
「…いや、別に」  
別に変な事ではない。彼女はまだ生まれて間もないのだ。  
 
 
ボーカロイドは人間ではない。だが歌を唄う。  
歌は人間の心を形にしたものだ。逆に、心があるから人間は歌を作る。  
最初は『声』の楽器でしかないボカロは様々な歌を唄い、経験を積む事で人間の心を理解してゆく。  
喜怒哀楽なんて、そんな単純なものではない。心という名の海は実に広大なのだ。  
…と、カイトがこの間飲み会でのたまっていた。Pの受け売りなのはバレバレである。  
 
 
要するに、キスという行為に対する人間の感情データが、いろはにはまだ少ないのだろう。  
勿論がくぽも生まれて間もない頃は、キスという行為をどのような気持ちで人間がするのか  
全く知らなかった訳である。  
今では人間と殆ど変わらない反応をしてしまうまでになったが。  
「キ…スをする歌でも仕事に入ったのか」  
「ええ、うんそう」  
手を差し出すいろはに、洗って返すとがくぽはハンカチを胸ポケットに仕舞った。  
 
「僕もまだ経験が浅いからその質問には明確に答えられないなあ…レン君やカイト、がくぽに聞いた方がいいと思うよ」  
「いいいや、俺、じゃなくて僕も全然わかんないっスマジすんません勘弁して下さい」  
「色々な感情があると思うけど今好きなのはシチュエーション萌えだな〜。勿論ギャップによる萌えもいいね!  
 あ、最近は猟奇的な誘われ攻めってのを研究して(略」  
 
 
「キスって難しいのね、カイト君の教えてくれた事ほとんど理解できなくて」  
「いや、むしろそれは特殊だから忘れた方がいい、というか忘れなさい」  
年季が入るにつれ、自分もアイス野郎のようになってしまうのかと思うと、茄子の背筋がぶるりと震えた。  
いや無い、それは無い。あってたまるかこの野郎。  
自分は健全なままでいよう、とがくぽが決意を固めている間に、二人はスタジオ近くの小さな公園に着いた。  
通勤路の途中にあるこの公園は、日が沈むとヒト気が全く無くなるのが常であった。今夜も変わらず、無人。  
見上げた時計が指すのは20時。一本しかない電灯は汚れているせいか、薄暗い光しか放たない。  
「その前にね、女性の皆にも聞いたの。どんな気持ちでキスをするのかって」  
でもダメだったわ、といろはは言い、シーソーの真ん中にひょいと上った。  
頭上を見ていたがくぽは再度いろはに顔を向ける。  
…シテヤンヨシーソーと眼が合う。これが嫌だから上を向いていたというのに…こっち見るな。  
「キスの仕事体験談で皆盛り上がっちゃって、そのままお流れに」  
「まあ、そうなるだろうな。容易に想像はつくが」  
「でもミクちゃんが一つだけ教えてくれたの」  
見上げた猫眼に映るは、街の光が反射する、曇天の夜空。  
 
 
「習うより慣れよ、だって」  
 
 
「がくぽ君、キスはお上手?」  
桜色の頭がちょっこり斜めに傾いた。  
 
いろはに『誘う』と言う概念は無いだろう。たぶん自分は経験豊富な先輩として信頼され、相談されているのだ。  
だからこそ、ならば何故?と逆に問わざるを得ない。何故、自分に、と。がくぽは問う。  
「男性皆に頼んだのか?」  
「ううん、違うわ」  
そんな誰とでもホイホイするものじゃない、ってグミちゃんが教えてくれたといろはが答える。  
グッジョブ、妹よ。  
「ならば何故?誰かが私に頼めと言ったのか」  
「うーん…確かにメイコはがくぽ君が上手って褒めてたけど」  
おい、それ初耳。今度メイコと仕事する時まともに顔見れなくなりそうだ。  
がくぽは自分の顔が火照るのを自覚すると、まだまだ未熟だな、と内心呟きつつ眉間にしわを寄せ奥歯を噛みしめるのであった。  
 
 
「がくぽ君に最初にしてもらうのがいいかな、と思ったの」  
 
 
こういう時はどのような反応が最良なんですかねえ、キヨテル先生!!  
 
 
「いい…のか?」  
ベタな返しだ。我ながらベタ過ぎる。そんな事はいろはには分からないだろうが。  
更に顔が熱くなる自分にがくぽはうんざりした。うわあ駄目だこの侍。やんぬるかな。  
いろははシテヤンヨシーソーの頭から降りると、うなだれて俯いたがくぽの前にすすす、と移動する。  
真っ赤に熟れた茄子を見上げる猫眼は女の妖気も無く、純粋な子猫のそれに似ていた。  
 
 
「やっぱり、変な事…なの?」  
嫌ならはっきり断ってね、と困った表情でいろははがくぽを見つめた。  
やはり迷惑をかけているのでは、といろはは思っているのだろう。先程の缶コーヒー吹出しと言い、  
今うなだれている状態と言い、がくぽは『良い』反応を返していない。  
「ごめんね、急に言われても困る事みたいだものね」  
黙りこくっている駄目侍の眼の前で、とうとういろはも俯いてしまった。  
途端、ぐわあ、とがくぽの身体の中で妙な熱が込み上げた。頭の中で得体の知れない鐘の音が響きだす。  
ぐわんぐわんけたたましく鳴る鐘音をよそに、はっきりと聞こえてくる自分の声。  
 
 
こ の ま ま で は 漢 が 廃 る  
 
 
「ごめんなさい」  
謝る事なんてない。  
 
 
あなたは、悪くない。  
そして、やはり悪い。  
 
 
 
 
 
「…いろは」  
 
 
「「……で?」」  
眼を輝かせながら身を乗り出した二人の妹を前にがくぽはズズ、と緑茶をすすった。  
「きちんとお断りしたが、何か?」  
「「なんだ〜〜〜」」  
グミとリリィは同時に大きくため息をつくとがっくりと肩を落とした。  
先程まできらきらと輝いていた少女たちの表情はまるで苦虫を噛み潰した様になっている。東大に落ちた浪人生かお前らは。  
「てっきりそこで秘密の逢引が行われたと思ったのに〜」  
「逢引の意味分かっているのか、グミ」  
いいから両平手で机を叩くのはやめなさい、この間買い換えた新品だぞこれ。  
「兄さんがそこまでマダオだとは思わなかった…」  
「覚えたての言葉をむやみに使うな、リリィ。断じて私はおっさんではない」  
顔を両手で覆うほどショックなのか、むしろその反応がショックだぞ兄さんは。  
そもそも何故こんな話をしなければならないんだ、とがくぽが問うと二人は  
「「だって、いろはさんがお兄ちゃん(兄さん)に聞けって言うんだもん」」  
と至極明瞭な声色で返答するのであった。  
だからどういう話の流れでそうなったのか…については、もう面倒なのでがくぽは訪ねない事にした。  
 
 
つい先日、あの時の事を、いろははがくぽに謝罪した。  
まだ未熟で無知だったとはいえ、とんでもない事をお願いしてしまったと。  
顔を真っ赤にしてあたふたぺこぺこと謝るいろはにがくぽはやんわり笑顔を返した。  
「いいんだ、おかげで初めて照れたいろはを独り占めできたのだから」  
さらに真っ赤っかに染まった桜色にがくぽはこっそり、あの時と同じようにキスをした。  
 
 
 

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