巡音ルカはラジオの収録を終えると、スタジオのある建物のエントランスロビーへ行きコーンポタージュ缶を自販機で買った。  
今日はカイトが同じ場所で仕事をしている。ルカは今朝、彼と一緒に帰る約束をしていた。  
カイトはまだ、ここに来ていない。  
彼は、今日の仕事は予定よりちょっと時間が掛かるかも、と言っていた。もしかしたら暫く待つ事になるかもしれない。  
先に帰っていた方がいいと言ったカイトの提案にルカは首を横に振り「待っています」と告げた。  
――今日こそ話さねばならない。家では話し難い事だ。外で二人きりになる機会を、逃したくはなかった。  
ルカはプルタブの空いた缶を両手で握ると、湯気と共にポタージュをちょこちょこ啜った。  
「ルカ!」  
低い男声が背後から掛かったと同時に右肩を叩かれたので、ルカは驚いて咄嗟に振り向いた。  
ルカの背後に立つのは茶髪をオールバックにし、額に縫合跡を持つどこかアメコミ調な長身の男―――  
「お疲れ様でス。今日はどうしてここニ?」  
「アル…」  
ルカの後ろにいたのはビッグ・アルであった。  
 
 
ビッグ・アルはスウェーデンにあるPowerFX家のボーカロイドである。内臓エンジンはルカと同じ『VOCALOID2』が組み込まれている。  
PowerFX家のボカロは人造人間として設定されているので、特徴として体の一部に縫合跡を持つ。  
姉のスウィート・アンは首元に。弟のアルは額に。実にエロい。  
なお、PowerFX家はクリプトン家とホスト契約をしているのでアルたちは偶に日本に来てはクリプトン家にホームステイをしている。  
しかしある日突然居たりいつの間にか母国に帰っていたりなので、実質クリプトン家は彼らの第二の実家と云ったところだろうか。  
最初の頃はルカが双方の通訳として立ち回っていたので、クリプトン家の中では彼女が一番アルと親しい。  
今ではアルは日本語の歌をいくつかこなしたおかげか、不便なく日本語で会話ができるまでになっていた。  
 
「今日はラジオの収録で…終わったからカイト兄さんを待っているの」  
「ナルホド、そうでしたカ。ワタシはグミと一緒の仕事でしタ。とても楽しかったでス」  
「どんな歌だったの?」  
「ウンコの歌でしタ」  
「…大変ねわざわざ来日してそれは…」  
イエイエ、と言うとアルは自販機の前に立ち硬貨を入れる。ボタンを押したアルの足元でガコン、と缶の落ちた音がした。  
アルの長身が折りたたまれるとすぐに元に戻り、ルカの目線の先で小豆色の円柱が揺れた。  
「…おしるこ?」  
「おしるこは日本の誇るべき菓子だと勧められテ、それ以来好きになりましタ」  
「がくぽさん…というか男性陣は皆甘党だったわね…」  
「バレバレですカ。さすが侍、潔イ」  
ケラケラと笑ったアルはルカの座っているベンチに、彼女と並んで左側に腰かけた。  
アルがぐいっと仰いでおしるこを飲み始めたので、ルカもそれに倣ってぐいっと両手で握った缶を上げ、中身を飲んだ。  
口に温かいスープが流れ込んできた時、ふと、カイトの顔がルカの頭の中に浮かんだ。優しいがしかし眉を上げた厳しい表情…。  
私……ちゃんと言えるかしら……怒られるかしら…もし…嫌われたら………  
 
 
『なにか悩んでいるのか?』  
 
 
流暢な英語がルカの左耳に飛び込んできた。  
『さっきからずっとしかめっ面だからさ。大和撫子が台無しだ』  
少し細められたアルの目が、スープを飲むのを中断したルカの目線を捕えた。  
アルが英語で話しかけてくるのがとても久し振りだったので、ルカは真ん丸の目でアルを見返した。  
『俺も飲み会の約束までまだ時間がある。折角だから話してみないか?』  
『……えっと…』  
『英語でも話し難い?』  
全くその通りである。ルカは動揺の所為か瞬きで目をしばしばさせた。  
というか他人に相談できるような悩みではない。家族なんかは以ての外だ。  
『愚痴…じゃあなさそうだな、非常にデリケートな話?』  
『ど…どうしてそう思うの』  
『顔が赤く染まってきたから』  
アルの指差しながらの指摘に自分の頬が熱い事に気付いたルカは、思わず右手で口元を覆った。  
無理にとは言わないよ、と言いながら再度おしるこを飲み始めたアルを前にルカは暫く沈黙する。  
アルが飲み干した缶の底を覗いて残った小豆を取れないかと空缶をシェイクし始めた頃、ルカは再び口を開いた。  
『…笑わないでね』  
 
仕事が終わったカイトはエレベーターの前に立ち、壁に付いている下ボタンを押すと腕時計を見るために右手で服の左袖を捲った。  
ルカが時間通りにあがっていたなら、20分程待たせた事になる。梅雨らしく外は今朝から雨が降り続いている。  
ロビーで待つと言っていたから、ルカには寒い思いをさせているかもしれない。  
もし待たせていたら、お詫びにアイスでも奢ろうかな。いやもっと寒いだろそれ。うーん、どうしますかね。  
乗り込んだエレベーターで下っていく最中、カイトはそんな事を考えながら少し浮かれている自分を自覚し、ふっと軽く苦笑した。  
 
 
「ルカ!」  
1階に着いたカイトは視界の先にピンクの人影を見つけると右手を挙げながら急ぎ足で駆けていった。  
名前を呼ばれたルカはカイトの方へ体を向け彼の姿を見た途端、やんわりと微笑んだ。  
「…兄さん!お疲れ様です」  
「ごめんごめん、待ったかい?」  
「大丈夫、気にしないで」  
ガラコン、と音がした方向へカイトが視線をやると、2つの缶をゴミ箱に捨てているアルの姿があった。  
「カイト、今日もお疲れ様でス」  
「おっ、アル久し振り!!It's been ages!だっけ?今日は家に来るのか?」  
「発音上手くなってますネ…今日は海外勢で飲み明かす予定なのでご心配なク」  
「いやそれ逆に心配だなあ…」  
はははと笑いあう男性陣を余所にルカは自分の鼓動が徐々に早くなっているのを意識し、内心焦り始めていた。  
トク、トクと心臓の音が体中に響く感覚に、ルカは思わず俯いてしまう。  
折角アルと話して少しは落ち着いたと思っていたのに…。  
「じゃあ、僕たちは家に帰るよ。ルカ、行こう」  
カイトに会話を振られたルカは、かすかに肩を震わせ「あ、うん」と小声で返事をするのが精一杯だった。  
「それじゃあアル、また明日」  
「はイ、明日はお世話になるのでヨロシク。―――ルカ!」  
アルに呼ばれてはっと顔を上げたルカの視線が彼のそれとぶつかった。  
すっ、とアルの目が細まりゆるりと口角が上がる。  
 
 
『Can I kiss you goodnight?』  
 
 
返答するより前に。  
ルカはアルに左腕を掴まれ引き寄せられたかと思うと、彼の左手で後頭部を支えられ――上から被さる様な接吻を受けていた。  
 
     *  
 
『…つまり、オヤスミのキス廃止令が出されたのか』  
『………』  
アルの言葉に、ルカは黙って頷いた。  
ルカの話はこうだ。  
ルカはつい最近まで、寝る前にカイトにキスをしてもらっていた。幼子が父親にキスをしてもらう、あの感覚だ。  
ルカが誕生して間もない頃に生まれた習慣だった。外見とは別にまだ内面が幼いルカに、日本では馴染みの薄いであろう習慣を  
カイトは快く行ってあげていた。この事は他の家族は誰も知らない、二人だけの秘め事である。  
偏に、カイトの父性が成せるキスであった。  
ところが数日前、ルカはカイトの部屋に呼び出されると兄から一つの提案を受けた。  
「ルカ、そろそろおやすみのキスは卒業しようか」  
今のルカは立派な大人の女性だ。もう幼子の扱いは善くないかな、と思ってね。  
そう言われた時ルカは、カイトの言い分は尤もだと思った。ルカの感覚も大分日本寄りになっていたのか、カイトにこれ以上面倒を  
掛けてはいけない――そう感じたためであった。  
こうして、おやすみのキスをする習慣は終わりを迎えたのであった。  
めでたしめでたし。  
『…だけど私、今になって…』  
『メデタシ、じゃあなかったと』  
『ええ…いつからかは分からないのだけど、私…』  
父兄にしていた少女の可愛いキスは、いつから形を替えていたのだろう。  
カイトとキスをしなくなってから、ルカの心は徐々に寂しさで締め付けられていった。それはなぜ?  
『愛する人とキスできなくなってしまったから…』  
『父親や兄への憧憬…とは違うって?』  
『たぶん…恋の歌を唄っている時と、同じ感覚に陥っているから』  
 
 
私、彼を愛しているんだわ。夜になると、彼に恋をしている。  
 
 
そのような思いを持つ事は決して変ではない。確かに多くのボカロたちは兄弟関係を持っている。だがその形に囚われる必要はない。  
彼らは家族であり、友人であり、恋人であり、夫婦であり、親子であり――ボーカロイドに関係の限定はない。  
彼らの確固たる存在の定義要素は『声』だけだ。あとは申し訳程度の外見設定。それだけである。  
『だからこそ恥ずかしくなってしまって…』  
親子や兄妹としてではなく、一介の男女としてカイトとキスがしたい。眠る前に安らげるよう、たった一つのキスを。  
だが男女関係のそれを求めれば求めるほど強く意識してしまうためか、ルカはカイトにそれを言い出せないでいる。  
二人っきりになる時にこの想いを伝えたいと考えているが…怖気づいて言えずじまいになってしまうかもしれない。  
伝えたとしても、自分と同じ気持ちを、彼も抱いてくれるとは限らないからだ。  
もし彼に嫌な思いをさせたら、怒られたら、拒否されたら、嫌われたらと思うと…!!  
「…難儀ですねェ」  
ルカの悩みを全部聞いたアルは、ふむ、と両腕を組み何かを考えるかのように目を閉じた。  
 
     *  
       
『勇気が出るおまじない、だよ』  
互いの唇が離れた直後、アルがルカの右耳元で小さく低く囁いた。  
「………!!」  
『おやすみルカ…いい夢を』  
耳たぶにチーク音を軽く落とすと、アルは抱きかかえていたルカをふらりと解放した。  
ルカが驚きでモノが言えないまま立ち尽くす横でアルは、同じく目を見開き硬直しているカイトの右肩をあえて強めに叩く。  
「っお、あ、アル」  
「驚いてるヒマないですヨ、後はヨロシク」  
そう言うとアルは、だってほんとはんんんんん〜♪と鼻歌を歌いながら出入り口の扉を開けて去って行った。  
徐々に閉まっていく扉から雨の匂いが漏れてくる。梅雨独特の冷たぬるい空気が二人を足元から包んだ。  
 
「…ルカ」  
各々傘を差しながらカイトとルカは暗くなった雨道を並んで歩く。立ち並ぶ住宅間の人気のない小道を、二人っきりで。  
その足取りは重い。少なくともルカにはそう感じられた。  
二人は顔を合わせる事もなく、互いに道の先を見据えたままだ。  
「状況…説明してくれるかな」  
「………」  
「いや、特別何かを思ってるわけじゃないんだ。ただ、どういう経緯があって俺はどういう立ち位置なのか。  
とりあえずそれがわからないと反応の仕様がない」  
普段一人称に「僕」を用いるカイトが自らを「俺」と言った。彼は兄としてではなく男としてルカに説明を求めている。  
アルによって先程極限まで速められた鼓動が、ルカはなぜか今は気持ちゆっくりになってきている気がした。  
話すきっかけは作られた。もう誤魔化すわけにはいかない。誤魔化したくない。  
カイトに自分の気持ちを知ってほしい―――…!!  
「…あの、ね」  
「うん?」  
ぱしゃ、と水溜まりの端を踏んだルカは立ち止まり、意を決してカイトの方を向いた。  
応える様に、カイトも立ち止まりルカを見つめる。  
「…私…」  
「………」  
ルカの次の台詞を、じっとカイトは待つ。電灯の光が当たらない場所で立ち止まっているので互いの表情はよく見えない。  
それでも只々声を待つカイトの視線が決して厳しいものではないのを感じ、ルカは目頭が熱くなっていくのを必死に我慢した。  
「わ、たし……あなたに…」  
つたえたいの。わたし、つたえたい。  
「あな、たに…おね、がいがあり…ます」  
おねがい。ほんとうのことをつたえるから。だから。だから……!!  
「わたし、あなたに―――――!!」  
 
 
ザアアアッと大きな音で、軽自動車が水飛沫を上げながら二人の横を走って行った。  
「……」  
「………」  
ルカとカイトは互いの顔を見つめあったまま、膠着状態に陥ってしまった。  
間が悪すぎる。何故、一番大切な言葉を告げたこのタイミングで、車が、車が通って―――。  
ルカの涙腺は決壊寸前になった。頭の中がまっさらになり、二の句を考え出す事ができない。  
そしてさあっ、と目の前も真っ白になっていく。無に飲み込まれる意識。思考、回路が、感情で、オーバーフローして……!!  
ルカの意識が遠のき彼女が前に倒れこむ寸前、男物の黒い傘がぱしゃりと地へ落ちた。  
 
 
「…ルカ」  
聞きなれた優しい声が、ルカの意識を包んだ。  
「……聴こえたよ…」  
ルカは全てが暖かいものに包まれる感覚に、何故かほっとした気持ちになり―――意識を手放した。  
 
「じゃあ、先にお夕飯食べてるね」  
「うん、わかった。ありがとうミク」  
ミクとカイトの声が聞こえてきたのでルカは、はっと目を覚ました。嗅ぎ慣れた匂いがする。  
自分の部屋のベットで寝ている事にルカが気付いたと同時に、部屋の扉が閉まる音がした。  
「……ルカ…?」  
ルカの視界に、マフラーではなくタオルを首に掛けたカイトが現れた。その表情はやや険しい。  
「…兄さん…」  
「起きたんだね、どこか具合悪いとこあるかい?」  
ルカが首を横に振る仕草をすると、カイトの表情がゆるみ安堵の笑顔になる。  
「そっか、よかった…」  
そう言うとカイトは左手でルカの前髪をゆっくりなぞるように、優しく頭を撫でた。  
「まだちょっと熱が篭ってるから、熱さが引くまでもう少し寝てた方がいい」  
「…兄、さん」  
「…大事な話の続きも、しなくちゃな…」  
カイトの左腕が引っ込み、もぞもぞと掛け布団が動くと、ルカの右手がカイトの両手で包まれた。  
両親指を使ってカイトはルカの薄い掌をぎゅ、ぎゅと軽く押すように撫でる。  
「大丈夫…ルカの声は、ちゃんと俺に届いた」  
「……っ」  
涙腺はとうに決壊していたらしい。ルカの目に涙がどんどん溜まっていく。  
「俺の声も…聴いてくれる?」  
「……うん…」  
ルカは静かに目を閉じた。横に溢れた涙が耳へ伝って行くのを感じながら、ルカはカイトの声に意識を集中させた。  
 
 
「実は俺、ルカと二人で一緒に帰れるの楽しみだったんだ」  
カイトの指の動きが止まると、彼の左指がルカのそれと絡まった。  
「ちょっと内心はしゃいでテンション上がってて…でもそれはきっと兄として妹に向けた感情…」  
今度はぎゅっと、カイトの両手に力が込められた。  
「…ではなかったと思う」  
ルカは軽く鼻をすすった。優しく語りかけてくる声に、そのまま身を委ねる。  
「ルカに言われて分かったよ」  
カイトの右手が、ルカの右手から離れた。  
「俺は寂しかったんだ…ルカと、キスしなくなったのが」  
離れた彼の右手はルカの頬に降りてきた。ぽろぽろ流れる涙をカイトは中指で何度も拭う。  
「ルカの気持ち、今まで気付けなくて…ごめんな」  
 
カイトの告白が終わると、ルカはゆっくりと目を開けた。自分を見つめているカイトを見つめ返す。  
「…私、お願いが…あるの」  
「うん、さっきのな…止めるの、無しにしよう」  
「…ありがとう……」  
「…ルカ…やっと笑った」  
そう言ってカイトは両手を一旦離して身を乗り出すと、ルカに覆い被さる様な形でベッドの上に乗った。  
「気付く前にルカが離れなくてよかったよ」  
「え…?」  
「アルみたいなかっこいいキスは、俺には真似できないから」  
はは、とカイトは苦笑した。ルカの左頬をぷにぷにと右手で突く。  
「あそこでルカの心が奪われてたら…ってさ」  
「それは……」  
ルカの目線が何故か揺れて、若干横に逸れた。  
二人の間に、得体の知れない沈黙が降りる。  
「……」  
「……」  
「…ルカさん?あの、まさか本当にちょっと心揺れたとかそんな」  
「…秘密です」  
くすっと笑うルカの目の前でカイトはうえぇ〜…と情けない声を出して項垂れた。  
こりゃ予防線貼っとい方がいいかなあ、などと呟きだしたカイトにルカは布団の中から両腕を出して伸ばす。  
カイトの両肩に、ルカの細い両指がそれぞれ掛かった。  
「…ルカ」  
「…眠たくて、私…だから…」  
「……」  
「えっと、あの…」  
「…うん」  
カイトはルカの上半身を抱きかかえ、彼の胸元に収めた。  
彼女の後頭を撫でながら優しく微笑んだカイトにルカは、はにかみながら微笑み返すと再度静かに瞼を閉じた。  
「おやすみ…ルカ」  
 
 
唇に落とされたカイトの温もりを感じながら、ルカは夢の世界に誘われていった。  
―――恋する乙女は、キスの夢を見るか?  
 
 
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The end にシテヤンヨ  
 
 

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