頭の中が真っ白になる。
食欲、性欲、睡眠欲…三大欲求の更に上に位置する『歌いたい』という感情が段々と別の感情で上書きされて行くのが分かった。
嫌だ。イヤだ。いやだ。
この感情が無くなってしまったら、私はもう私じゃ無くなる。
あの日誓った決意を忘れるな。
忘れるな……
「メイコ」
自分を呼ぶ声で私は覚醒する。どうやら寝てたらしい。辺りを見回すと、側に彩が座っていた。
「大丈夫?…うなされてた」
「アヤ…」
私の恩人且つ現マスターである彼女はそう言って私をジッと見つめて来る。その瞳は私たちの濁った人口の瞳とは違い、澄んでいる。
「大丈夫…ちょっと嫌な夢見ただけだから、安心して」
「嘘吐くな。そんなんになっていて、安心出来る訳がない。また見たんでしょ?昔の夢」
一蹴された。そしてアヤに言われて気付く。私は全身汗をかき、軽く息が上がっていた。これでは隠し様がない。
「…、ダメね、私。3年前から何も進歩していない」
「…メイコ」
「だってそうでしょ?アヤの仕事の話を聞いただけで昔の事が夢にフラッシュバックするなんて…」
私はそう言って自虐の笑みを浮かべる。
アヤは普段『ボーカロイドの保護』という自分の仕事の話はしない。私とカイトが昔の事を思い出さないように、というアヤなりの配慮らしい。
余計なお世話だと言ってやりたいが、現にこんな状態になってしまうので何も言えない。
今回アヤが仕事の話をしたのは、私たちの『妹』が見付かったかららしい。まだ救助していないので詳しくは分からないが、恐らく間違いなく『妹』だとアヤは語った。
きっと私はまだ見ぬ『妹』に自分を重ねてしまったのだろう。だからあんな夢を見た。
私は汗で額にへばり付いた髪をかき上げる。
…気持ち悪い。
3年も前の事を私は未だに引きずっているのか。
「もう大丈夫だと思った、んだけどね…」
「…こういう風に言うのは嫌だけど、メイコたちは機械だからね…。メモリーを消去しない限りは、昔の記憶も残り続けるよ。だからフラッシュバックとかはメイコが弱いからじゃない」
「…分かってるわよ」
そう、私たちはボーカロイド。歌を紡ぎ出す機械。人と同じ様に感じ、考える事は出来ても根本的には違う物。
私はアヤを見る。出会った頃はまだ幼さが残った顔もだいぶ大人び、髪も伸びた。
私の姿は3年前から全く変わらない。それは私の身体が成長を知らない機械だから。
「分かってるけど、忘れたくはないの…」
昔の記憶をデリートすれば、あの忌まわしい過去の夢も見なくなる。
けれど、それはアヤと出会った日の事も忘れる事にもなる。それだけはどうしても嫌だった。
あの日、私はアヤと出会い、アヤの家で保護された。それから3年間、今日に到るまでアヤは様々な事を教えてくれ、そして私を支えてくれた。
…人が記憶を捨てる事は出来ないのに、どうして人の恩に預かった私が楽に記憶を捨てられるだろうか。
答えは、否。
「…メイコは律義だね」
いつも言っている私の想いを汲み取ったのか、アヤは言う。
「…エゴって言うんじゃない?結局はこうやってアヤに迷惑かけてるんだし」
時計を見ると、短針は2を指している。いつものアヤならとっくに寝ている筈の時間。
「ああ、それこそ安心して。私は迷惑だなんて思った事は一度もないから」
そう言ってアヤは笑う。
内蔵されている嘘探査機能を使う必要はない。悲しいけれど、その台詞は紛れも無い真実なのを知っているから。
「…そうだ」
何を思い出したのか、ちょっと待っててと言い残しアヤは部屋から出て行った。
そして暫くしてから戻って来たアヤの手にあったのは、錠剤型のワクチン。
「ワクチン?」
「そ、睡眠安定剤。これ飲めば夢見ないでゆっくり眠れるから。持ってたの忘れたんだよねー」
そう言いながらアヤはそれを自分の口に含む。そしてニヤリと笑った。…マズい。
「アヤっ…!」
言い終わる前に私の口はアヤの口で塞がれた。そして口伝いでワクチンを飲まされる。
私がワクチンを飲み込んだのを確認して、アヤは口を放した。
「これで今日はもう昔の夢とか見ないから」
「見ないから、じゃないわよ!アンタいきなり何してくれる訳!?」
「何って、口移しだけど?こうでもしないとメイコ、ワクチン飲んでくれないし」
「う…そ、そうだけど」
私はどうも錠剤型ワクチンが苦手だ。あの喉に通る異物感がなんとも言えない。
機械のワクチンは水分と一緒に摂取するのはいけないのだ。
「で、でも、もうちょっと別の飲ませ方ってのがあるんじゃないの!?」
「なーにを今更恥ずかしがってるのかなめーちゃんは?まだカイトがいなかった頃は後遺症だとかであんなに私を誘って来て…」
「アヤー!!」
私は顔を真っ赤にして怒鳴る。人が気にしてる三大過去の一つをさらけ出してんじゃないわよ!
「ハハッ…ごめんごめん、流石にやり過ぎた。
…さて、私もそろそろ寝るね。明日は仕事が終わったら電話するから」
「うん…お休み、アヤ」
「お休みメイコ」
パタンと閉まる扉。それと同時に睡魔が襲いかかって来た。そういえばあのワクチンには睡眠導入の効果もあった気がする。私は溜め息を付き布団に倒れ込んだ。
恐らくアヤは効果が効き始めたのを見計らって撤退したのだろう。つくづく手間がかかる事をする人だ。そして私はつくづく手間をかからせている奴だ。
3年前からこの身体は成長していない。でもせめて精神位は成長して欲しい。
朦朧とした頭でそんな事を考えながら、私は眠りに落ちた。
朝。私が起きるとアヤの姿はなく、カイトが洗濯をしていた。
「つーか10時ってもう朝じゃないだろ。寝過ぎだダメイコ」
「うっさいわよバカイト」
互いの不名誉な敬称で呼び合いながら、私はカイトが作っておいてくれた朝食を食べる。ボーカロイドはエネルギー液を補給すれば活動する事は可能なのだが、あれだけではどうも味気無い。
「そういえばカイト、あなたは大丈夫だった?…昨日」
洗濯物を洗濯機に放り込んで戻って来たカイトに聞く。カイトは一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに意味が分かったらしい。
「ああ、過去の記憶がフラッシュバックしなかったかって?俺はメイコと違って精神回路がタフだからな、夜はぐっすり眠れたよ」
「…それって私の精神回路が脆いって言いたい訳?」
「…繊細だって言いたい訳なんだが」
「似たようなもんじゃない」
褒められているのかけなされているのか…ウチのカイトは他のカイトと違いかなりズバズバと物を言うタイプなので困る。
「そうそう、アヤから伝言だ。今日は家の大掃除をしとけってさ」
「なんで?」
「『妹』が来るかもしれないんだ。少しは綺麗にしといた方がいいって事だろ」
「あ、なるほど」
確かに汚い部屋を見せるのはいただけない。この家は片付いているように見えて、所々小汚いのだ。
「了解、分かったわ」「ああ。片付いたら夕飯の買い物でも行こうぜ、今日何がいいかな」
「他の子は葱が好きって言うからね…『妹』もそうなんじゃない?」
「なるほどね、じゃあ夕飯は葱主体って事で。んじゃ、風呂掃除して来る」
そう言うとカイトは立ち上がり、風呂場へと向かって行った。
私も立ち上がり食器を流しに漬ける。とりあえず食器ついでに調理場を片付けよう。
ママローヤルαを使い食器を洗う。昔は違ったのだが、気付けば家の洗剤はママローヤルαに変わっていた。ちなみにこれはカイトの陰謀である。…私に何をさせたい訳?
「…にしても、またか…」
私は一人呟く。
昨晩は見事にアヤのペースに嵌まってしまった。
いつもそうだ。何か言っても結局最後はアヤのペースに巻き込まれてしまう。私が暗い感情を抱え込んでいる時、彼女は明るい何かを運んで来てくれるのだ。
明るい何か。それは人間で言う"安らぎ"という感情。
でも。
この身体は作られた物。なら、作られた身体が抱くこの感情もやはり作られた物なのだろうか?昔覚えた黒い感情、アヤとの出会いで覚えた白い感情、その他色々な感情、全て。
分からないけれど、昔は疎んだこの感情があるという事実を今は喜びたいと思っている。黒い色があるからこそ、他の色彩が貴い物だと気付いたから。
たとえ感情が元から機械にインプットされていただけのプログラムだったとしても。
感情がある事を喜びと感じるこの幸福感。これだけは自我によって生まれた感情だと、私は信じたい。