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ゆかりさんと出会ったのは、僕が両親を亡くして一週間後の事だった。
まだまだ暑さの残る夏の終わり、その日も、葬式のために休んでいた部活に戻る気もせず
近くの公園の丘で一日ぼうっと空を眺めていた。
眺めていたはずだった。
でも、次に気付いたとき、僕の目に入ってきたのは、木造の古い家屋の天井だった。
後で、ゆかりさんから聞いたところによると、彼女達がたまたま通りかかった時
僕は丘で倒れていたのだが、一緒にいた医者(彼女の店のお得意さんらしい)の熱射病との判断で
とりあえず応急手当てをして、ゆかりさんのお店の控室に寝かされていたらしい。
もちろん、目が覚めた瞬間、僕はそんな事は知らず
まだ葬儀場にいるのか、それとも、とうとう僕も死んだのか、ここはもしかして天国なのか
あるいは地獄か、などと朦朧とした頭でまとまらない考えをめぐらせていた。
「目が覚めたのね。良かった……。」
ゆかりさんの、艶のある声をはじめて聞いたのはその時だった。
一瞬、母の声を思い出したが、声の艶の若さに、そうではない事にはすぐに気付いた。
葬儀からの疲れも出ていたのか動かない体を捩って、声の方を見ようとする。
はじめに飛び込んできたのは、白い、本当に白い手。
触ると折れてしまうのではないかと思うような細い5本の指が
落ち着いた紫色の袖口から伸びている。
体の線がきれいに浮き出る、暮れかけた窓からの明かりに薄く浮かび上がる紫の袖を追っていくと
二つにまとめた長い、これも綺麗な、どこか紫色を帯びて見える髪がまばゆい。
そして、はじめて彼女の顔を目にする。
暗くなり、窓からかすかに差し込む表通りの街頭とネオンにうっすらと照らし出された白い白い首筋。
薄く紫の紅の引かれた、わずかにほほ笑んだ唇。
強く主張はしないけれど、綺麗に通った鼻筋。
そして、紫を帯びて見える髪の下、長く伸びた睫毛の間から、こちらを眺めている深い紫色の瞳。
自分がなぜそんな場所にいるのか、を考える前に、こんな人が現実に存在しているんだ
僕が見ているのは人形ではないんだ、という驚きにとらわれて
僕は、しばらくその瞳に吸い込まれていた。
「もう、辛くはない?」
そう言いながら、その人は、白く細い指を僕の額へと伸ばす。
はじめて出会った人のはずなのに、なぜかとても懐かしい感じがして
僕は彼女の手が触れるがままに身をゆだねていた。
夕方になって冷え始めた部屋の中で、その指先は、少し冷たかったけれど
その芯にはとても熱いものがあるような気がしたのは、僕の体から日中の熱が抜けきっていないからだなんて考えたりしたけれど
そうではなかった事は、その後、幾度かゆかりさんに同じように頭を撫でられて気付いたことだった。
これが、僕がはじめてゆかりさんに出会った日の記憶。
それからも、僕はゆかりさんのお店に時々通っている。
両親を亡くしたばかりだと知ったゆかりさんが、時々食事を食べに来なさいと言ってくれたからだ。
世界に穴があいたような気がしていた僕は、ついついその言葉に甘えていた。
近所に兄夫婦は住んでいたけれど、二人は出張も多く、あまり頼るわけにもいかなかった。
ゆかりさんの誘いは、客としてではなく、夕飯ぐらい気軽にどうぞ、というものだったのだけれど
お店なのだから、食事の代金ぐらいは支払おうと思っていたら
「いつか、××くんが出世したらね」と笑って断られた。
こっそりお返ししようにも、このお店にはメニューもないし
たまに奥の方でゆかりさんがカードの処理をしているだけで、金額が分からない。
だから、少しでもお礼になれば、と、ときどき裏の片付けを手伝っているのだけれど。
ゆかりさんのお店は、旧市街地の外れにある。
ただの民家ではない事を示す小さな灯りはあるけれど、他に店舗だと分かる印は何もなく
知っている人でなければ、そこにお店があるとは分からないと思う。
実際、お店には、常連の客たちと、その知り合いしか見かけない。
良く見る顔は七人ぐらいだろうか。
ゆかりさんのお店にも一応カラオケの装置があるけれど、使われている所はめったに見ない。
でも、常連たちの一人がギターを弾いて歌っている所は、たまに見る。
そんなときは、ゆかりさんも声を合わせていたりする。
ゆかりさんの年齢が気になって、一度尋ねてみたのだけれど
「……いくつに見えるのかしら?」
「でも、××くんからしたら、もうおばさんよ。」
と誤魔化されてしまった。
帳簿を眺めながら真剣な顔をしているときは、他界した母と変わらないぐらいの年齢に見える事もあるし
少しお酒が入って歌っている時なんかは、僕とそんなには変わらない気もする。
夜8時半になると、いつも「もう子供は帰る時間。」と
「いいじゃないか」という常連さんたちをにらんで、ゆかりさんは僕を家に帰す。
そんな日々がしばらく続いていた。
その日は、再開していた部活も早く終わったので
頼まれていた片付けもあり、手早く家で着替え、ゆかりさんのお店に早めに向かった。
お客さん向けではない、お店の裏の入り口は、小さな路地を入った先にある。
早い時間だから、まだお客さんは来ていないと思ったけれど
念のため、呼び鈴が表にうるさかったりしないように
「表の方で手が離せない事もあるから」と渡されていた鍵で空けて中へ入る。
最初の日に僕が寝かされていた控えの部屋に荷物を置いて
表の方に向かうけれど、ゆかりさんはカウンターの中にいない様子。
まだ帰っていないのかな、と思ったところ
カウンターで伏せていたらしいゆかりさんが、顔をあげず
「……あ、××くん、いらっしゃい。」
と、かすれた声で言うのが聞こえる。
もしかして泣いていたのだろうか?と気付いたのだけれど
いつもしっかりとして、励ましてくれていたゆかりさんとは違う、その声の様子に
何かうまい言葉をかけることも出来ず、そちらに向かう。
そして、間抜けにも「大丈夫ですか?」と声をかける。
ゆかりさんは「……うん、大丈夫。ごめんなさい。すぐに支度します。」と言うのだけれど
カウンターに伏せたまま、顔を隠すように向こうを向いて、起き上がる様子もない。
暮れていく一日、暗くなっていくお店のカウンターで
いつも励ましてくれた気丈なゆかりさんの丸めた背中が
思っていたよりもはるかに小さいことに驚く。
どこかで、こういう時は抱きしめてあげなければいけない、と思うのだけれど
そんなことはしたこともなく、だから、していいのかも分からなくって
僕は近寄ったものの、何も出来ずにいる。
……でも、その小さな背中を見ていると、何かしてあげられずにはいられない気がして
ゆかりさんの頭に手を伸ばす。
そして、緊張でこわばってしまい、とても撫でているという動きではなかったけれど
ゆかりさんの薄く紫色に見える髪にゆっくりと手を這わせてみる。
自分の髪とは違う細くしなやかで、量感のあるゆかりさんの髪を手のひらに感じる。
そして、ゆっくりと撫でる。
ゆかりさんは、最初、何か言おうとしたけれど
少しずつ、その頭を、僕の手に預けるかのように、体を傾けていった。
そうしているうち、少し落ち着いてもらえたのかな、と思ったのだけれど
突然、泣きじゃくるかのようにゆかりさんの背中が上下して
そのまま、ゆかりさんは、急にこちらを振り向き
立っていた僕の胸に頭を押し付け、そして、両腕を僕の背中に回して
顔は見えないけれど、僕にもはっきりと分かる形で泣き始めた。
僕は、その時たちのぼるゆかりさんの髪のいつもの匂いを感じ
とても頼もしく見えていた彼女の身体の小ささを感じながら
どうして良いか分からずに、ただ、ゆかりさんの頭を撫で続けた。
その後、どれぐらい時間が経ったのかはよく覚えていないけれど
窓の外がすっかり暗くなった頃、ゆかりさんは
「ごめんなさい……。でも、ありがとう。」
と、僕の胸から顔をあげずに言った。
「お店の準備しなくちゃね。化粧を直してきます。」
と顔を隠しながら立ち上がって、店の奥に向かう。
少しして、戻ってきたゆかりさんは、いつものゆかりさんだったけれど
その日は、どこか無理をして陽気に振る舞っているようで僕は心配だった。
でも、僕は、いつものように8時半には家に帰された。
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その日は、貸切の都合で、急な買い出しが必要になって
どうしても手が必要なので手伝ってと言われ、ゆかりさんと数駅先の街まで買い物に出ていた。
二軒目の買出しを終えようとしている頃
電話がかかり、今晩の貸切はキャンセルとの事だとか。
二つ返事で了解したゆかりさんは電話を切って
「大丈夫よ。こんな時のために、沢山もらっているのだから」
と言うのだけれど、そのゆかりさんの裏のない笑顔が少しだけ怖かった。
一体ゆかりさんのお店の料金はどうなっているのだろう!?
せっかくなので、もう少しゆっくりして行きませんか?
という僕の提案に少し考えるようにしていた、ゆかりさんだったけれど
今日は、お店が貸切だけの予定だったこともあり
すでに買っていた荷物は駅のコインロッカーに預け、二人で街を歩く。
店の外で、こんなにゆっくりとゆかりさんと一緒に過ごしたことは初めてだった。
雑貨屋の何気ないアクセサリーに見せる、いつも大人だと思っていたゆかりさんの
意外に子供っぽい笑顔。
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……そうしていると、時間はすぐに過ぎる。
今、僕たちは、この大きな観覧車に乗っている。
陽がゆっくりと暮れていく。
いつもなら、お店の開店準備で忙しくしている時間。
そんな時間に、僕は、はじめて、ゆかりさんとデート(?)をしている。
観覧車は、とてもゆっくりと動いていく。
街の灯りが眼下に広がっていく。
突然沈黙を破るように、ゆかりさんは「……この前はありがとう。」と先日泣いていた理由を話はじめた。
そこで、ゆかりさんが話してくれた過去は、僕の胸を締め付ける。
ゆかりさんが結婚していた相手は、地元で良く知られる名家の一人息子で
新市街の新住民である僕も、名前ぐらいは聞いたことがある家だった。
ほとんどお見合い結婚のような形だったけれど
旦那さんは、優しくしてくれて、あのころは楽しかった、と、ゆかりさんは遠い目をしながら話す。
……でも、彼は長男だった。
だから、数年たっても子供が出来ない状態に、まわりがいらいらし始めた。
そして旦那さんも、ゆかりさんをかばいきれなくなったらしい。
昔だったら、こういう時にも色々融通が利いたのでしょうけれどね、と日が沈んでいった方向を眺めながら
自嘲的に笑うゆかりさんの横顔。
結局、旦那とゆかりさんは離婚し、元旦那は別の女性を迎えた。
その時に、彼が自分に渡してくれたのが、あのお店なのだとか。
彼の事も、新しい奥さんの事も憎んだりはしてないのだけれど、とゆかりさんは言う。
でも、先日は、買い出しに出ていた時、たまたま幸せそうな元旦那と新しい奥さんと、その子供の姿を見て
何とも言えない気持ちになってしまって、お店に戻ってああなっていたわけ、とこちらを向いて
ゆかりさんは笑おうとする。
笑おうとするけれど、笑えない目から一筋流れるもの。
僕は思わず身を乗り出してた。
観覧車が揺れる。
沈んでいく夜の街の空に浮かぶ観覧車が揺れる。
そして、はじめて触れるゆかりさんの唇の温度。
ゆかりさんは、一瞬驚いて、身体が硬くなるのがわかる。
何か言いかけようとしたけれど、やめて、今度はゆかりさんの方から唇を重ねてくる。
暖かな唇に、ゆかりさんの涙の味が混じる。
その塩辛さが、ゆかりさんの辛さそのもののような気がして、僕は思わずゆかりさんを抱きしめる。
……観覧車の不自然な姿勢のせいで、きちんとは抱きしめられなかったけれど。
観覧車は夜の中を地上へと墜ちていく。