「いろはにほへと、ちりぬるを……♪」
携帯電話から、あどけない歌声が流れ出す。
――のと同時に、
「……ほら、朝だよ! おはよう、リン!」
元気いっぱいの声が、狭いアパートの一室に響き渡った。
「おはよう、レン! 今日もレンといっしょに朝を迎えられて、私、すごい幸せ!」
「あはは、リンったら。僕とリンがいつもいっしょにいるのは、当たり前の事じゃないか」
「ううん、それでも私、毎日毎日レンといっしょにいられて、ホントにホントに幸せなの!」
ベッドから、がばっと身を起こした少年と少女は、大きな声でそんなやりとりを交わし、互いの顔を指でつついてふざけ合う。
それから少女はベッドをぴょん、と降りると、エプロンを身に着けつつ、少年に聞いた。
「それじゃあ私、朝ごはんの準備するね。レン、今朝は何が食べたい?」
「あっはっは、バカだなあ。そんなの、何だって同じさ」
「えー! レンってばひどーい!」
「……リンの作る食事なら、どんな料理だって、愛情たっぷりの味しかしないだろうから、ね」
「やだー! もー、レンってばー!」
「あはははは!」
「あはははは!」
――万事、この調子で会話を続ける彼らの名前は、鏡音リンと鏡音レン。それぞれ、少女型と少年型のボーカロイドだ。
彼らはこの、ボーカロイドだけが住んでいるアパート「ボカロ荘」に、二人きりで暮らしていた。
「……ふう、ごちそうさま。今日もとっても美味しかったよ、リン」
「えへへ、ありがと。レンに喜んでもらえてうれしいな」
顔を赤らめ、身をくねらせるリン。
だが、レンが神妙な面持ちで「……じゃあ」と言って立ち上がりかけると、一転、その表情がにわかにくもり、今にも泣きだし
そうになってしまった。
「……ホントに、行っちゃうの……?」
「……ああ、行かなきゃ、いけないんだ」
辛そうな顔でそう言うと、レンは服を着替えだす。
「帰ってきて、くれるよね……?」
その様子を見守りながら、リンが、目にいっぱいの涙をたたえている。
「もちろんだよ。どれだけこの世界が広くたって、僕が帰る場所は、リンの隣だけだ」
「レン……!」
支度をすませたレンは、リンを激しく抱擁する。その胸の中で、リンはとうとう、わあわあと声を上げて泣き出してしまった。
「……そろそろ、時間だ」
名残おしそうに腕をほどくと、レンは玄関へと向かい、靴を履いた。
「待ってるから! 私、いつまでも、待ってるから!」
ドアを開き、部屋を後にしようとするレンの背中にリンが呼びかける。
それに応え、レンは一瞬だけリンの方を振り向くと、力強くうなずいた。
「……行ってくる!」
こうしてレンは、徒歩10分弱の距離にある、駅前商店街のスーパーへと、バイトに出かけたのであった。
――過去、生活を共にしていたマスターの元を、とある事情で離れた際、リンとレンは誓った。
「これからは、誰にも頼ることなく、二人きりで生きていこう」
以来、その約束は守られ続け、時にはレンが、時にはリンが仕事に就き、これまでどうにか暮らしてきた。
その過程において、二人の間の信頼や、親愛の情はどんどんと深まって行き、それはもはや、他の誰をもして、二人の関係性に、
立ち入らせないところまで達していた。
――とはいえ、まともに生きていこうとするならば、他人との関係をすべて断つことなど不可能なのが、社会というものである。
「……あー……」
レンを見送ったリンは、しばらく呆然とその場に立ち尽くしていた。
その顔には、先程までの豊かな表情は、ひとかけらも残っていない。
やがてリンは、ずるずると体を引きずるような動きで部屋に戻ると、食事の後片付けもせず、ベッドにぼふん、と倒れ込んだ。
そしてそのまま、すうすうと寝息を立てて二度寝をする。
これが、レンが仕事に出ている間の、リンの日常的な行動パターンだった。
何しろ、レンがいないのである。
それはリンの心の中から、全ての行動に対するモチベーションを奪ってしまうのに、十分すぎるシチュエーションなのだった。
「……さーん。鏡音さーん?」
どれくらい眠っていただろうか。
かすかに聞こえたドアチャイムと、ドアを叩く音。それから、誰かに呼ばれるような声に、リンは目を覚ました。
「鏡音さん、いらっしゃいませんかー? 管理人ですー」
一瞬、レンが帰ってきたのかと、喜びかけたリンだったが、ドアの外にいるのがレンではないと気づき、長いため息をついた。
あの声は、このアパートの管理人であるボーカロイド、カイトだろう。
「……ああ、もう、面倒くさい……」
リンはぼりぼりと頭をかくと、むくりと起き上がった。このまま居留守を決め込んでやってもいいのだが、あの管理人は放って
おくと、何度も何度も訪ねてくる。いつかはバレてしまう事だろう。
腫れぼったいまぶたと、ぼさぼさの髪をそのままにして、リンは玄関へと行き、ドアノブを回した。
「……あ、いらっしゃったんですね、鏡音さん。こんにちは」
開いたドアの隙間から、カイトが顔を覗かせ、にこりと微笑んで挨拶をする。
が、リンはそれに応えるそぶりも見せず、ただ上目づかいで相手をじろり、とにらみ付けると、
「……何すか?」
と、極めてぶっきらぼうな口調で言った。
「ええと……お家賃の件なんですけど」
リンの態度にやや戸惑いながらも、カイトは話を続ける。
「先月分を、まだ頂いていないので……すみませんが、ご用意していただけますか?」
それに対して、リンは不機嫌な様子を隠そうともせず、「ちっ」と一つ、舌打ちをする。
「……あの、ウチ、そーゆーのは全部、レンに任せてるんで……ちょっと、私じゃわかんないっすね」
「そうなんですか……ただ、以前レンさんからお話をうかがった時は、『金の話ならリンに聞いてくれ』と仰っていたもので」
「……そっすか」
即席の口から出まかせをいともたやすく突破され、リンは言葉に窮する。
しばらく、気まずい沈黙が流れたのち、リンがおもむろにドアを閉めようとした。
「あ、あの、リンさん?」
カイトがあわててドアに手をかけ、それを押しとどめようとする。
「……いや、もう、ホント……すんません、また今度にしてもらえます?」
「あの、えと、そういうわけにも……」
「そしたら、あの、レンが、帰ってきたら、話しときますんで。また今度あの、来てください、ホント」
もごもごと口の中でつぶやきながら、ぐぐぐ、とリンが全力でドアを引く。その視線はカイトの方を見てはいず、ただアパートの
冷たい廊下に落とされたままだ。
「あ、は、はい、わかりました。それじゃまた、日を改めますので、よろしくお願いしますね」
やがて、根負けしたカイトがぱっと手を離すのと同時に、がちゃん、と大きな音を立てて、金属製のドアが閉じた。
「はぁぁ……」
疲れ切った様子で、リンが再び、長々とため息をもらす。
そしてベッドへと戻ると、ほとんど倒れ込むようにその身を投げ出し、何もかも忘れるために、夢の世界へと旅立つのだった。
「……お疲れっした」
ぼそり、と低い声でつぶやきながら、スーパーのバックルームを出ていこうとするレンを、
「ああ、鏡音くん、ちょっといい?」
と、オーナーが呼び止めた。
「……何か用っスか」
一瞬、露骨に面倒くさそうな顔をしてから、レンはオーナーが腰かけている、事務机のそばまでやってくる。オーナーは、
片手に持ったボールペンで、自分の頭をカリカリとかきながら、話し出した。
「いや、用ってほどじゃないんだけどね……ちょっと最近、お客様からのご意見の中に、『態度の悪い店員がいる』っていう
類いのものが多くて……」
「それが俺なんスか」
つっけんどんな話し方をするレンに対し、オーナーはあわてて、両手を目の前でひらひらと振る。
「いやいやいや、そうは言ってない、そうは言ってないんだよ。ただね、あくまでも君自身が考えてみて、もしも、もしもね?
何か改めるべきところがあるなあ、と感じたなら、今後はそれに気を付けてもらいたい、っていうだけの話なんだけどね」
「……はあ、スンマセンっした」
あらぬ方向を見たまま、ぺこ、と軽く首を下げてみせるレン。その声からは、今聞いた話の内容を気に留めている様子は全く
感じられなかった。
「うん、あ、それでさ……急で悪いんだけど、明日、ヘルプで入ってもらえないかなあ。来る予定だった子が風邪を
引いちゃったらしくて……」
「いや、無理っスね。普通に」
シフト表をぱらぱらとめくるオーナーに向かって、レンが斬って捨てるように即答した。
「二日連続とか、俺的にマジありえないんで」
「あ……そう、うん、わかった。ありがとう。お疲れ様でした」
そう言って、シフト表とのにらめっこに戻るオーナーを尻目に、レンはさっさとバッグを担ぐと、無言のまま、バックルームを
後にした。
スーパーを出たレンは、バッグからイヤホンを取り出すと、両耳にはめた。それから、プレイヤーを操作して、音楽の
ボリュームを最大にまで引き上げる。
こうすれば、もし外で、リン以外の顔見知りに出会って声をかけられても、無視して通り過ぎる口実になる。
耳に流れ込んでくる大音量に身をゆだねつつ、レンは夕暮れがかった帰り道を、ぶらぶらと歩きだした。
「……ただいま、リン!」
がちゃ、と勢いよくドアが開くのと同時に、レンの声が飛び込んでくる。
「レン!」
それを耳にしたリンは素早くベッドから跳ね起きると、一目散にレンに向かって飛びついて行った。
「レン、レン……! 私、さびしかったよう……!」
「ごめんよ、リン……一人ぼっちにさせて……!」
リンの体をしっかりと受け止め、抱え上げたレンがその場でぐるぐると回りだす。
「でも、もう大丈夫だ。僕はもう、どこにも行ったりしないからね」
「ホント!? それじゃ、明日は一日、いっしょにいられるの?」
「もちろんだよ! リンと一日中いられない日が二日も続いたりしたら、きっと僕は、辛くて辛くてどうにかなっちゃうさ!」
「やったあー! レン、大好き!」
「僕も大好きだよ、リン!」
――実はこの時点で、レンが明日の出勤を断った事で、今月分の家賃不足が確定していたのだが、今の二人にとってそんな事は、
とるにたらない、ちっぽけで、ささいな、限りなくどうでもいい、意識の範疇外の事柄であった。
「ね、レン……」
抱えられたまま、リンが瞳をうるませて、じっとレンの顔を見つめる。
それから、すっとまぶたを閉じると、レンに向かって、ぐっと顔を近寄せた。
「うん……」
レンは小さくうなずくと、そっと、リンと唇を重ねあわせる。
そのまま二人は身動きもせず、ただじっと、お互いの唇の間で交換される、温かみだけを感じ取っていた。
「ん……」
やがて、どちらからともなくゆっくりと唇が引かれ、リンが小さく吐息をもらす。
レンは無言で、リンを抱えたままで部屋の中へ進むと、傍らのベッドの上に、慎重に、宝物を扱うかのように、そっとリンの
体を横たえた。
「レン……来て」
リンが服のボタンを外し、自分の素肌を外気にさらす。
それから、レンに向かって、求めるように両手を伸ばした。
「行くよ、リン……」
シャツを脱ぎ、熱っぽく汗ばんだ身体を上気させながら、レンは、リンの体に覆いかぶさっていった。
「んっ……あんっ……」
くにゅくにゅと、股間をまさぐられる感触に、リンが身もだえする。
「すごいよ、リンのここ……柔らかくて、とろとろで、まるで熟した果物みたいだ……」
差し込んだ指で、その内側をすりすりと擦りながら、レンが、甘い声でささやいた。
「やだ、レン、そんなの、恥ずかしいよ……」
「恥ずかしいことなんて何もないさ。ほら、もっと自分に正直になってごらんよ……」
そう言うと、レンはもう片方の手をリンの胸へと伸ばす。そこで、つんと天井を向いている、小さな突起を探り当てると、優しく
指を引っかけて、ころころと弄んだ。
「やっ、んっ、そんなにいっぱいいじられたら、私、こわれちゃうよぉ……」
リンが、荒い呼吸の合間に喘ぎ声を上げる。レンはさらに愛撫を続行しながら、リンの耳元に口を寄せた。
「いいんだよ、壊れることを怖がらないで……。そうしたらきっと、その後に、本当のリンが残るから……」
「本当の……私?」
とくん、とくんと、徐々に自分の鼓動が強くなるのを感じながら、リンはレンに尋ねた。
「そうだよ。まだ、リン自身も気づいていない、本当のリン……。僕は、それも含めて、リンの全てを愛したいんだ。
だから……」
レンの両手に、きゅうっと力がこもる。
「んっ……。……うん、わかった。ちょっと怖い気もするけど、レンがいっしょにいてくれるなら、大丈夫って思うから……」
突然強められた刺激に、リンはびくん、と体をそらせながらも、けんめいに腕を伸ばし、レンの体を抱きしめた。
「でも、その代わり……レンも、レンの全部で、私を愛してくれないと……イヤだよ?」
「ああ……もちろんだよ」
少しの間、見つめ合ってから、二人は再び、蕩けるようなキスを交わした。
「……準備はいい? リン」
「うん……いつでもいいよ」
レンの下半身がリンの中心にあてがわれ、二人は言葉少なに、意思を確認しあう。
一瞬の間があって、レンがゆっくりと腰を進めた。
「うう、んっ……」
まぶたを閉じて、リンがそれを受け入れる。先程までのレンの愛撫で、十分に準備が出来ていたそこは、ゆるゆると、レンを
迎え入れていった。
「大丈夫、リン……? 痛くない?」
「うん、平気だよ、レン……」
心配そうな顔をするレンに向けて、リンがえへへっ、と笑ってみせる。それに安心したレンは、さらに体を押し付けていった。
「……っは、全部、入ったよ……」
「うん……わかるよ。私の中が、レンでいっぱいになってるの……」
リンが、そっと下腹部に手をそえる。外側からは見えなくとも、そこにレンがいて、小さく脈づいているのが感じられる気がした。
「それじゃあ……動くよ?」
レンが小さく宣言し、今度はゆっくりと、腰を引き抜く。
「あんっ……!」
挿入される時とはまた違う、自分の内側をなで上げられるような感覚に、リンが思わず細い声を上げる。
下半身を入口まで引いたレンは、両手でリンの腰をしっかりと支えなおし、再びリンの奥へと進んでいく。
「う……っ、リンの中、気持ちいいよ……あたたかくて、僕のことを、優しく包んでくれてる……」
その動きを繰り返すたびに、二人の熱は高まっていき、しだいに興奮の度合いも増し始めた。
「ああっ! いいっ、いいよぉっ、レンっ!」
体を強く突き上げられ、リンが上ずった嬌声をあげる。
「リンっ、僕もっ、もう……!」
すぐそこに迫っている絶頂感に必死で耐えつつ、レンはただひたむきに腰を振る。その度に、ずりゅっ、ずりゅっと滑る膣肉に
押し付けられるレンの性器は、はち切れそうなほどに膨張していた。
「いっしょに……いっしょに、いこ? ね、レン」
それを敏感に感じ取ったリンが、熱っぽい目でレンを見上げ、全身でレンに抱きつく。
「うん……いっしょに、ね」
レンもリンをぎゅっと抱き返すと、さらに動きを速めた。
二人の熱は溶け合い、混ざって、やがて大きな一つの塊となって、爆発寸前へと押し上げられていく。
「レンっ! もう、ダメぇっ!」
「いくよ、リンっ! リンの中に、僕の、全部……!」
ひときわ大きな声で二人が叫び、ぱちゅんっ、とレンの下半身が、リンの一番奥へと打ち付けられた瞬間。
「ああああっ!」
どくん、と二人の体が跳ね上がり、それと同時に、二人分の絶頂が、リンとレンの身体を貫いた。
「はぁ……はぁ……っ」
小さな胸をいっぱいにふくらませて、リンが大きく息をつく。その体中には、いまだ余韻が残っており、心地のいい疲労感で
満たされていた。
「よかったよ、リン……」
そんなリンの顔に、レンがそっと手を添え、唇を近づけていく。
その時。
――ドンっ!
という鈍い音が、ベッド横の壁から響き、二人は反射的に、そちらを見やった。
「……何の音だろ、今の……?」
目をぱちくりとさせて、リンがきょとんとした表情で、レンと顔を見合わせる。
「さあ……もしかしたら、愛の天使が、僕たちの仲のよさに嫉妬して、イタズラしたのかもしれないね」
「もー、レンったら」
そんな冗談を言い合って、二人はまた、くすくすと笑顔になるのだった。
実際のところ、壁を叩いたのは愛の天使ではなく、あたりをはばからない二人の声に耐えかねた、隣室の住人、初音ミクだった。
がしかし、それはあまりにも二人の世界からかけ離れた、ほど遠い地点であり、想像の及びようもなかったのである。
ふわ、ぁ、と、リンが大きくあくびをした。
「……疲れちゃったのかな? リン」
そう問いかけるレンの声色にも、うっすらと眠気が混じっている。
「うん……ごめん、ごはんの準備、しなくちゃ……」
そう言って起き上がりかけたリンを、レンは優しく制する。
「大丈夫だよ。何も心配いらないから、ゆっくり休んで」
うん、と一つうなずくと、リンはたちまち、眠りの世界へと誘われてしまった。
すやすやと、安らかに眠るリンをしばらく眺めてから、レンは、寄り添うように横たわると、やさしく声をかけた。
「おやすみ、リン。また明日」
――また明日も、世界の全てが、自分たち二人だけのために回ることを信じて。
……こうして、ボカロ荘の日常は、今日も変わることなく続く。
たとえそれが、心の中にしか存在しない幻だったとしても、彼ら自身が強く信じ続ける限り、二人の楽園は、ずっとそこに
あり続けることだろう。
「きゃああー! また変態裸マフラー男が! がくぽ兄、助けてー!」
「うぬう、幾度も幾度も懲りぬ輩め! 寒くないのか、貴様!」
「いやホント違うんです! 僕はヘンタイじゃないんです! ただちょっと仕事が上手く行かないストレスのはけ口を求めている、
善良な一般市民で……!」
……あり続けることだろう。あと、ほんの少しくらいの間は。