結月ゆかりは背中に思いっきり衝撃を受けた。  
 酷い落ち方だ。あんなところに穴があるなんて。  
 電子の箱庭の住人になって間もないゆかりは、点在する音楽フォルダを見学がてら散歩して  
いた。先人たちが唄った音に聞き惚れていると、突如足を踏み外してバランスを崩した。かと  
思えば己の身は既に宙を泳いでいた。一瞬視界に映った黒い穴の入り口へと身体は吸い込まれ  
て行き、暫くの落下の後、穴底と思われる場所に背中を強烈に叩きつけられたのだ。  
「痛……」  
「いたいた」  
 ゆかりが背中の痛みに耐えながら起き上がると、誰かの声が近づいてきた。  
「あ、ゆかりだった」  
 見慣れた桃色ポニーテールと猫耳。ゆかりと同じ AHS 製の VOCALOID、猫村いろはである。  
「いろはちゃん……?」  
「びっくりしたよー、すっごい音がしたから。大丈夫?」  
 いろはの背後に広がるのは、白だ。というよりこの空間全体が真白い。左右には他に物も無  
く、上を見上げても白色が広がっているだけだ。自分が座る所には影すら見当たらない。視界  
は明るいのに光源の在りかが全く分からない。  
 ゆかりは自分が来てしまった場所に気味悪さを覚えた。  
「ここ、なんだか変よ……?」  
「え?」  
 いろはは一瞬ゆかりの言葉に驚いたが、直ぐに納得した様子で手を叩いた。  
「ああ! うん、始めて来たら真っ白だもんねココ」  
「?」  
「こっちこっち」  
 いろはに右手を差し伸べられたので、ゆかりはそれを左手で掴んだ。引っ張り上げられなが  
らゆっくり腰を上げ、そのまま手を引かれて歩き出す。背中の痛みは続いていたために、歩み  
は酷く遅くなってしまう。俯き気味の体勢で足をゆるゆる動かすゆかりが、十数歩進んだ所で  
いろはに訴える。  
「ごめんなさい、背中が痛くてちょっと上手く歩けない……」  
「おかえりー」  
 返ってきた声はいろはの音ではなかった。顔を上げたゆかりの前には鎮座する青白、そし  
て横たわる黒赤の人影があった。  
「ゆかり、おはよう。今日はボッシュ―ト被害者多いなあ」  
 青いマフラーに白いコートを着た VOCALOID、カイトがにこやかに声を掛けてきた。  
 先程見回した周辺には何もなかったというのに、彼らはどこから湧いたのだろう。目を見開  
くゆかりの横で、いろはが左の人差し指で上方向を指した。  
「ボッシュートって言うの? これ」  
「いや、僕の勝手な呼び方だけどさ」  
「あの……そちらは」  
 マフラーと猫耳が話す横で、ゆかりは寝そべっている黒髪の男を指差す。  
「ん、勇馬かい? ゆかりと同じ様に落ちて来たみたいでね」  
「なんか頭の打ち所が悪かったらしくて、再起動が遅れてるみたい」  
 背中を打つだけで済んだのは不幸中の幸いだったのか。  
 ゆかりは背の痛みに耐えながら、赤いジャケットを着た男の正体、勇馬に同情した。  
 
「ゆかりは初めてだから真っ白だって」  
「わーそりゃあ辛いなあ」  
 話の内容がまるで飲み込めない。  
 しかし口を挟めるほど状況を理解していないので、ゆかりは黙って二人を見つめた。  
「あ、ココがどういう所かっていうのは説明が難しいんだけど」  
 会話に置いてきぼりのゆかりに気付いたいろはが、くるりと顔を向ける。  
「箱庭には常に余分な場所みたいのが生まれてるらしいのね」  
「余分?」  
「んー、例えば私たちが唄うと一時的に使用する領域みたいのが裏に有って、ココはその  
 残りみたいな場所で……言っててよく分かんなくなってきた」  
「箱庭には僕らの使わない部屋も余分にあるって事だよ」  
 目を瞑って唸り始めたいろはに代わって、カイトが言葉を足す。  
「で、たまにその部屋のドアが開きっぱなしで僕らが知らず知らずの内に入っちゃう訳だ」  
「部屋と言うには殺風景すぎると思います。私は穴に落ちたと思ったのに」  
「呪い穴とか? 恥ずかしい時に使う穴だったりして」  
「いやむしろ恥ずかしいから穴じゃなくて穴に入れるのが恥ずかしいと共に気持ちい゛」  
 カイトの頭が勢いよく横へ吹っ飛んだ。吹っ飛ばしたのは下方から伸びてきた黒い足だ。  
 今度はそれが降りる代わりに、むくりと勇馬の上半身が起き上がった。  
「……おはよう」  
「うん、おはよー」  
「おはようございます」  
 寝ぼけ眼の勇馬が隣に座る猫と兎の方を見遣り、意識が未だふわふわした状態で話しだす。  
「……なんか足に引っかかった気がする」  
「気のせい気のせい」  
「いや全然気のせいじゃないよ!?」  
 右手をひらひら振るいろはに向かって、カイトが靴跡の付いた頬を摩りながら抗議した。  
「女の子の前で変なこと言うからバチが当たるんだよ」  
「セクハラはいけないと思います」  
「うっ、笑顔で怒られた」  
 しょんぼり萎縮するマフラー男の向かいで、天罰遂行者がきょろきょろと辺りを見回す。  
「……白い?」  
「あーまた説明しなくちゃいけないのかー。えーとココはね……」  
 
「ココが普段はいらない余分な場所だって事は、なんとなくわかりました」  
 ゆかりは小さく息を吐いた。  
 白くて何もない空間に居る辛さが増してきているがための溜息であった。  
「背中はまだ痛むかい?」  
 カイトの問いかけにゆかりの眉がゆがんだハの字になる。意識せざるを得ない程の痛覚が、  
未だ背中をずくんずくんと走っていた。  
「まだ痛みます、先程よりはマシですけど」  
「じゃあここから出られないな」  
 ――衝撃の発言だった。ゆかりの顔に更なる苦渋に満ちる。  
「で、出られないって……」  
「ココで経験した事は持ち帰れないからね」  
 怪我を負った者はココから脱出できないという事か。白く遠近の取れない視界がぐわりと  
歪んだ気がした。ゆかりの紫頭がツインテールと合わせてゆっくりと前方へ垂れる。  
「勇馬は、頭どう?」  
 いろはが勇馬の頭のてっぺんを右掌で撫でる。  
「……後ろがじわじわ痛い」  
「あ、こっちか」  
 小さな掌は上からそのまま後頭部へと降り、触れる箇所を優しく摩った。  
「私……もう、帰れないんですか?」  
「え? あ、いやいや!」  
 ゆかりに落胆の様子を見て、カイトは慌てて取り繕う。  
「ちゃんと帰れるよ、痛みが無くなったらね。ちゃんと起きてないと駄目だけど」  
「……精神的に受けているダメージは?」  
 低いトーンでゆかりは呟く。  
「大丈夫。物理的な情報は持ち帰れないってだけだから。記憶には残るけど記録には残せない  
って考えてくれればいいかな。辛いのは判るけど、痛みが引くまでもう少し待とう」  
 微笑んでくれるカイトに説明されても、ゆかりは安心できなかった。何もない真白い世界に  
居るだけで気が滅入ってしまっていた。傷が癒えるまでの時間も、あとどれだけ掛かるのか判  
らない。何もない空間で自我を保とうと意識すればするほど、痛みは強く主張を始めるのだ。  
「なんだか上手く出来てるなあって思う」  
 脈絡の見えない発言をするいろはに視線が集まる。  
「二人がココに落っこちたのを助けるために、私とカイトでもう二人って事」  
「うーん、そういう考え方もあるか。どちらにせよほっといて帰るわけにいかないしね」  
 カイトは頷くと、胡坐を掻いた姿勢のままゆかりのすぐ傍にぴたりと寄った。  
「それじゃあ、ゆかりの事は任せてくれ」  
「なんでゆかり?」  
「そりゃ女の子の世話の方が楽しいに決まってるでしょう」  
 力の篭った輝きのサムズアップ。この男、とても楽しそうである。  
「家族の目の前でそれを堂々と言うかなー……別にいいけど」  
 いろはは呆れた顔で一息吐く。しかし同じく楽しそうな雰囲気を持ついろはに、ゆかりは尚  
も困惑した。  
「それじゃまた後でね」  
「い、いろはちゃん!」  
 ゆかりは自分の家族がこの場から去る事を危惧し叫んだ。その意を知ってか知らずか、いろ  
はは叫びに答えず背を向け、ぼんやりしている勇馬の顔を覗き込む。  
「もう説明も面倒だから、ぱぱっと治して帰っちゃおうね」  
「……どうやって」  
 勇馬の問いは遮られた。  
 いろはが跳びつく猫の如く、全身で被さる様に勇馬に抱き着いたからであった。  
 
 ゆかりは青空の下に座っていた。  
 清涼な風が足元の草を撫でて走ってゆく。  
「おーい」  
 はっと我に返ると、立ち上がっているカイトがゆかりの顔を覗きこんでいた。  
「どう? まだ白いかな」  
 彼の後ろで、はためくマフラーが空の色と混ざる。  
「……私が変でないのなら青空が見えます」  
「よし、第一段階成功!」  
 笑顔を零すカイト右手には、いつの間にかゆかりの左手が握られていた。広がる草原の中、  
ゆかりは辺りをくるりと見回す。いろはと勇馬の姿が見当たらない。確かいろはが勇馬に突然  
抱き着いて、それに自分は呆気に取られて、気付いたら青空が広がって――  
「二人はここにはいないよ」  
 目を真ん丸にしているゆかりの前へ、カイトがしゃがみながら言う。  
「たぶん、いろはが見る景色の方に移っただろうから」  
「景色に、移る?」  
「さっき説明したココのことなんだけど」  
 ココというのは、先程落ちた白い空間の事だろうか。  
「ゆかりに見えてた何もない白い世界と、この草原は一応同じ所なんだ」  
「白い場所とこの場所が?」  
「というより、厳密には僕にはこう見えるようにしてるんだけどさ」  
 ゆかりは目を閉じながら右手でこめかみを抑えた。情報を懸命に整理してみる。  
「ココは本当は白い世界で、カイトさんが私に青空と草原を見せている……?」  
「僕らはボーカロイドだよ」  
 その言葉が、瞑っていた目を見開かせる。  
「本来ココは白紙の世界なんだ。しかも本来存在する必要も無かった世界だ。そんな所に迷い  
込んだら寂しいに決まってるじゃないか。だから」  
「唄った……?」  
「そう、唄った。青空の下に広がる草原とそこを駆け抜ける風を」  
 繋いだ手が引かれ二人が一緒に立ち上がると、カイトは深く一息吐いた。  
 ざあっと音を立てて草たちが揺れ、風の在りかを伝える。二人は横一列に並び、特別示し合  
わせもしなかったが、揃って地平線の向こう側へと視線をやった。  
「後は勢いに任せて最後まで唄えばいい。この場から過ぎ去っていく風の音をね。でも今は、  
それだけじゃあ駄目だ。この歌だけだと僕しか帰ることが出来ない」  
 青いマフラーが棚引き、垂れた黒い兎耳に触れた。揺れて肩に掛かった二房の髪を前に戻し  
ながら、ゆかりは今度は手を繋ぐ隣を見つめた。その視線がこそばゆかったのか、あははと破  
顔しながらカイトは頭を大袈裟に掻いた。  
「いや、とどのつまり、出口の歌を唄えばあっさり出られるんだけどね」  
「それでもいいんですか」  
「まあね。でもそれだけじゃつまらないじゃないか」  
 本来存在し得なかった筈のない狭間に落ちた。そこは白紙の世界。  
 ならば歌を紡ごう。音であふれた色とりどりの世界に変えてしまおう。  
 大いに世界を掻き回し楽しんだ後は、詞を結び静かにそこを立ち去ろうではないか。  
 カイトの右手が握っていたゆかりの左手を離すと、兎耳フードの垂れている箇所に移った。  
「まだ痛むかい?」  
 骨張る手に優しく支えられた背中の事を、ゆかりはすっかり失念していたのに気が付く。  
「……治ったみたいです」  
「よーし」  
 
 存在が定義されない世界からは何も持ち帰れない。  
 箱庭の管理者の手に触れない限りココから新しい何かが生まれる事はない。  
 痛みは引いた。ココとの因果は文字通り白紙に戻った。  
 さあ、帰ろう。何もない場所に、跡も残らない音の幻を映して。  
 風の音が止んだ。カイトが左手をゆかりの前に差し出す。  
「君の番だ」  
 ゆかりは歌い手としての場数が未だ少ない。持ち歌も数えるほどしかないが……しかし。  
 自らの右手を差し出された手に添える。若干の苦笑を浮かべながら。  
「ありきたりでごめんなさい」  
 ふっ、と腹に息を溜めると、ゆかりは空に向かって声を放つ。青い空が濃い藍色に染まり、  
透き通る光が辺りを包む。紫兎の背後に浮かぶのは、まるで迫り来るかの如き大きな満月だ。  
「おお」  
 カイトは感嘆の息を飲んだ。草野原は、いつしか黒い大理石に置き換わっている。心地よい  
冷気が音声エンジンを流れてゆく。薄いレース状の光が舞う夜空に包まれ、世界には静かな沈  
黙が落ちた。  
「……」  
「うん?」  
 歌が終わっていないにも関わらず、唄う事を止めたゆかりにカイトは首を傾げる。  
「どうした?」  
「……あの」  
 ゆかりが俯き気味に呟く。  
「私、まだあまり経験が無いんです」  
「この歌が?」  
 こくりと頷き視線を下げたまま、ぽそぽそと小声で羞じらう。  
「それに、その、最後はいつも声が固くなってしまって、緊張して」  
「気にする事はないよ、今ちゃんと唄えてたじゃないか」  
「……」  
 ゆかりは目を伏せ暫し黙していたが、意を決してカイトに向き直った。  
 その頬は、ほんのりと赤い。  
「下手だけれど、呆れないでくださいね」  
 ――これは、極々ありきたりな恋歌だ。月の下で逢瀬を重ねる男と女。  
 月は徐々に地の向こう側へと沈み、恋人たちは最後に別れの挨拶を交わす。  
 コツ、と大理石に歩が刻まれた。揺れる兎耳と二房の纏め髪。二人の間には、薄い空気の層  
だけが残された。ゆかりの頬は更に照ったが、今度は視線を相手から逸らそうとはせず、静か  
に歌を続けた。  
「――また、玉桂の下で」  
 それは、細やかな触れ合いであった。  
 
「……帰ってきた」  
「おかえりなさーい」  
 ゆかりたちが元の音楽ファイルに帰還すると、いろはと勇馬が何やら板を立てていた。  
「ゆかりが落ちたのってこの辺り?」  
「ええ、たぶんそう」  
 穴があったはずの場所には既に何の跡も残ってはいなかった。  
 その代りに【落とし穴多発! 自己責任でどうぞ!】と書かれた看板が刺さっている。  
「うーん、この辺一帯落とし穴が増えちゃってるみたいだなあ」  
「マスターに言って箱庭の掃除してもらわないといけませんね」  
「……言っても中々やらないから、マスターは」  
「面倒臭がりのズボラ野郎だからねーマスターは。あ、ところで」  
 井戸端会議の途中でいろはが話の矛先を変える。  
「ずいぶん遅かったね、帰ってくるの」  
「えっ!?」  
 いろはの言葉に、ゆかりの肩が一瞬跳ねた。  
「あれ、そんなに時間掛かった?」  
 カイトがあっけらかんと返すと、猫耳頭はふるふると左右に振られる。  
「ううん、全然。だから驚く必要も無い筈なのにね、ゆかり?」  
 によによと笑ういろはを前に、思わず兎耳フードを被っていたゆかりが眉を吊り上げた。  
「いろはちゃんっ!」  
「えっへへー、ゆかりは素直だよねぇ」  
 姉妹の仲睦まじいせめぎ合いを見守りながら、男共も語る。  
「……食った?」  
「さてね。言葉を返すのも芸が無いけど、そっちは?」  
「いろはと屋台で蕎麦食った」  
「あ、そのままの意味ですか」  
 色気ではなく、食い気満点の歌を唄った様だ。非常に健全である。  
「押し倒されといて勿体無いなあ、その実、あのまま屋台の椅子直行だった訳か」  
「……どうでもいいけど、口紅」  
「おっと」  
 カイトが左手の甲で口を拭い、そこに擦れたラメ入りの朱が付着するのを見て首を傾げた。  
 物理的な経験は持ち帰れないはずだが――?  
 そこまで考えて、カイトは浮上した疑問をあっさり無視した。どうせ考えても、理屈など分  
かりはしないのだから。  
 兎にぽかぽか叩かれている猫が、佇む男たちに声を飛ばしてきた。  
「ゆかりは大事にしてあげてよねーまだ新人さんなんだから」  
「任せとけー。優しく接する用意は何時だってバッチリですから」  
「……こちらも吝かじゃない。不束者ですが」  
「ど、どういうノリなんですかボカロの皆さんっていうのはっ!?」  
 独特のノリに不慣れなゆかりが慌てふためく中、今日という一日が和やかに過ぎていった。  
 
 ――ちなみに、カイトに『月が綺麗ですね』と歌を褒めて貰えたと、いうゆかりの報告に、  
アホ毛娘は「へー、よかったねえ」と素直な反応を返し、キティラーは腹を抱えながら笑いを  
堪え、幼女は「その意味知ってる!」と顔を輝かせ、AHS 唯一の男手は眼鏡を外すと携帯電話  
でクリプトンの女声全員に『貴女のためなら死んでもいい』というメールを送ったとか。  
 意外にもメイコから『ちょっとどうしたの!? 何なら相談乗るわよ?』と返信がきてまた一  
悶着あるのだが、それは別のお話。  
 

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