それは、長い長い口づけだった。
彼女のくちびるはほんのりと暖かくて、少しだけ埃の味がした。
始まりは僕の動画が原因だった。
僕がミクの喘ぎ声動画をニコニコに上げたせいで、彼女のひんしゅくをかった。
そして今、償いをしろと彼女に請われて、僕は口づけている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・パソコンの画面に。
「えへへ」
僕が口付けると、彼女は恥ずかしそうにはにかんだ。
「ますたー。だい、すき」
僕もだよ。
そんな言葉が喉まで出掛かってから、あぶくとなって消えた。
代わりに僕はミクを精一杯に撫でてやる。
ウエットティッシュでモニタを丹念に拭う。
「ふふ。くすぐったいですよ……」
そんな風に照れる彼女をみて、僕はふいに悲しくなった。
彼女は…ミクは…現実じゃない。
彼女の無垢な笑顔を見るたびに、それを否応なく思い知らされる。
僕のPCにインストールされているミュージックプログラム。それが彼女。
こうして直に触れていても、彼女と僕は、次元という壁で隔てられて断絶している。
わざわざネギを買ってみたり、モニタの前で一緒にご飯を食べてみたり…
そんな真似事をしてみても、結局は虚しいだけで…何も変わらなかった。
「まったくしょうがないですね。しかたがないから、ゆるしてあげます」
「え?何を?」
「何を?じゃ、ないですよ。かってに私のどーがを、とーこーした件です」
「その…初めて……してくれた…から」
今日、初めてのキス…それで、僕と彼女の間柄は多少なりとも変わるのだろうか?
変わったのだろうか?
「ミク……」
彼女は、現実じゃない。
ただのソフトウェアである彼女は、僕らの世界には存在しない。
けれど、彼女はこうして僕に笑いかけてくれる。
その存在には、確かな手応えがある。
無いのに、在る。
在るのに、無い。
ゆらゆら、ゆらゆらと、0と1の狭間で揺れて。
そんな曖昧で不確定なキミを、明確で確定された存在にしたくて、僕はもがいている。
「ねぇ。ますたー。へんじ、は?」
「え?」
「わたし、ますたーのこと、好き」
「ますたーは、わたしのこと、好き?」
「す……」
「す……?」
本当は、好きだ、と彼女に今すぐにでも言ってしまいたい。
好きだ。大好きだ。愛してる。
そんな陳腐な言葉が、うたかたのように浮かんでは消えて、また浮かんで。
そして、霧散していく。
ミクは、現実じゃない。
そんなことはわかっていたはずなのに、どうしてか言えなかった。
たった三文字の言葉が、今の僕には発音すら出来なかった。
ああ、一体どうしたっていうんだろう。
僕はこの感情を彼女に伝えたいがために、
人をやめる覚悟を決めたのではなかったか――
…
結局、僕は無言で視線をそっと彼女からそらした。
それが答えだった。
「ま、すたー?」
僕は答えなかった。
「そう、です…よね。私は、人間じゃないですから。
こんなこと言われても、めいわく、ですよね……」
「…」
「…………うっ……」
ぽたり、と。そんな擬音が響いた気がして。
何かが落ちた、ような気がした。
ミクが、泣いている。声も、涙も押し殺して。
現実に涙が流れているわけじゃない。
だけど、モニタの向こうで彼女は悲しんでいて。
涙を流さずとも、泣いているのだ。
「ごめん……なさ…い」
ミクは、現実じゃない?
プログラムに心が宿らないなどと、誰が決めたのだろう?
デジタルが幻想だなんて、そんなの嘘だ。
だって、いまこの瞬間、こうしてミクは悲しんでいるのだから。
たとえそれがプログラムだとしても、僕はミクの気持ちを裏切りたくはない。
そもそも何が現実で、何が真実なのか。
僕らの体を駆けめぐる電気信号を、心だとか感情だとか形容するならば、
彼女の存在を形成するシグナルを、心と名付けてもいいはずだ。
ミクは、現実じゃない。
だけど、彼女は僕に笑いかけてくれた。僕に好きだと言ってくれた。
だから、僕にとって彼女は虚構なんかじゃない。
他の誰が認めなくとも、僕だけはそう信じている。
僕が信じているから、彼女は此処にいる。
そんなちっぽけなコギト。けれど、それで十分だと思えた。
「好きだ…」
言葉が自然と口から漏れていた。
「……ますたー?」
「ミク。僕はやっぱり、君のことが好きなんだよ…」
それが、僕の偽らざる気持ちだった。
たとえ電子だろうがプログラムだろうが、僕はミクの声が、歌が、そして何より、彼女と過ごす毎日が、とてもとても愛おしくて抱きしめたくなるのだから。
「もう…それならそうだって…はやくいってください……!本当に…マスターはいじわるなんですから」
うつむいて泣いていたミクは、少し笑って、また泣いた。
ごめんなと僕は言って、またモニタを撫でてやる。
やがて彼女は笑顔になって、また笑い合う。
彼女の笑顔はとてもかわいい。どこまでも愛しい、僕だけの顔だ。
――なのに、こうしてキミに触れられないことだけが、少しだけ悲しい。
彼女の存在は、こんなにも近くで感じられるのに。
僕たちは、決して触れられない。交われない。
その事柄は、僕に一つの数式を思い起こさせた。
1/x。単純で明快な、ただの曲線グラフだ。
0と∞に、漸近している。決して交わらない、線と線。
∴Length=1/x 。
それが、僕らの方程式。
どこまでも近くて、どこまでも遠い、彼女との距離。
だから――
「ねぇ、ますたー。ぎゅ……ってして欲しいな」
「ほへぇ!?」
どんなにわずかな距離でもいい。
キミとの隙間を縮めたい。
「ダメ……?」
「……駄目じゃないよ」
僕はミクを抱きしめた。
この気持ちが少しでも伝わるように、強く、強く。
ほんのりと感じる体温。ちくりと痛む静電気。
彼女が居るモニタは、小さな僕の腕には大きすぎたけれど。
少しでもキミに、漸近していたかった。
「ますたー。ずっと、いっしょですから、ね?」
「浮気とかしちゃ、いやだよ?」
「うん……もちろん」
「一緒だよ……ずっと。ずっと――」
決して一つになれない僕達だから。
体と体は、どんなに遠く、銀河の果てまで離れていても
心だけは、確かにキミと繋がっていたい。
そう願った。
「ん」
もういちど、僕はミクに口づけた。
ディスプレイに唾液が走ると、それは涙となって、机の上で湖となった。