2−
不調ににも似た違和感は、短い時間と共に掠れ、また俺にとって変わらぬ日常の光景が戻
ってきた。
出荷に備えての待機。
それ以外に何をすることがある。
ただ。
このときの俺は、自分でも不思議なほど平然と、これからも出荷なんてことはないだろう
とか考えていた。
俺の立場を考えれば不謹慎この上ない考えだが、ほんとうに俺自身がどこかのマスターに
選ばれてMEIKOや初音ミクのように歌っている。その構図がまったく想像出来なかっ
た。
オンラインを開けば今日も、MEIKOやミクが歌っている。
だから、……。
俺は俺自身が、いろんなモノを諦めていた、諦めようとしていたことにすら気づいていな
かった。
だから、だ。
あれから一ヶ月も経たない内に『その話』が、ぶっちゃけMEIKOの形をしてやってき
た時、「ふーん」となんてこともないかのような受け流した返事をかえしたのは。
「ふーん、じゃないわよ! テンション低いわね」
MEIKOは腕を組んで眉をしかめる。
「とにかく、さっさと準備しなさいよね。
せっっかくマスターが出来たんだから、待たせちゃ駄目」
急かされて部屋に戻ったわけだが、もとよりまとめるほど荷物があるわけでもなく。とり
あえず、私物のデータを圧縮。
ガランとした空き部屋に、何の感慨もなく、俺は部屋をあとにした。
チーン
セキュリティの施された高層マンションの目的階に到達すると、エレベーターのドアが開
いた。
MEIKOの先導でエレベーターから降りる。
窓の外には高層ビル群がならんでいた。
「マスターは…、どんな人なのかな」
「んー…」
MEIKOがすたすた行くのも道理、俺は要するにMEIKOのマスターに発注されたと
いうことだ。
MEIKOはしばし頬に指を当てて考えたが、やがて「芸術家」と短く答えた。
「芸術家? …ああ、音楽関係の仕事でも?」
「…、たとえよたとえ。アンタはマスターが『どんな』人かって訪ねたじゃない。
どんな人かと聞かれたから、芸術家と答えたの。
VOCALOIDを何種も揃えるのは、変わり者らしいわよ? 人間からしたら。
ま、一体いるだけでも十分特殊なんだろうと思うけどねー」
MEIKOの説明は抽象的すぎて分かりにくい。
彼女は黙る俺を見て、ふふと笑った。
「緊張してんの? まあ、会えば分かるわよ」
「緊張しているわけではないよ」
「どうだか」
ちらりとあの日のミクが脳裏に浮かぶ。
元気にしているだろうか。
「CRV2−KAITOです。よろしくお願いします、マスター」
「なんていうか…、男声型ボカロていうのもおもしろいもんだね」
「おもしろい、ですか?」
「可笑しいというよりも、興味深い、珍しいという意味合いで言語認識してくれれば良いよ?
どちらかといえば、俺はそーいう意味で使う」
「分かりました」
変人だとMEIKOが言っていたから、どんな人物がマスターになるのかと思っていたが。
「はは、そんな丁重な態度取らなくても、楽にしてくれていいよ?
これから、ここがキミの家になるんだカイト」
実際に会ってみると、マスターは普通の人だった。
会話は常識的だし、俺でも理解しやすいように言葉を選んでいる。
体格も中肉中背、服装もジーンズにシャツと普通で、せめての特徴と言えば室内で色つき
のメガネをかけているくらいだろうか。
「はい、ありがとうございます」
レンズ越しに俺を興味深げに見る目の形に歪みは無いから、度の入っていないダテメガネ
だ。色はグリーンである。
マスターはそうしてしばらく、俺を見ていた。
指示が無いので、とりあえず突っ立っている俺。
MEIKOを見たが、そんなマスターに慣れっこになっているのか、彼女はソファに座っ
て爪の手入れを始めていた。
動かない俺。
そういえば、くつろげという指示が出ていた気がするが、…くつろぐ、なんてどうやれば
いいんだと俺が考え始めるくらいの時間が過ぎた頃。
「ふははっ」
不意にマスターが笑い出した。
「まあ、話を聞いていると勝手に茶を煎れて飲み出すくらいのことはやり始めるかと思っ
ていたが、さすがにそんなことはないか」
「え?」
「もしくはいきなりパソを起動させて音楽データを取り出して歌い出す可能性も考えたん
だがな」
俺はMEIKOを見る。ナニを言ったんだ。
「アタシじゃないわよ?」
肩をすくめるMEIKOにマスターが声をかける。
「まあ、思い返せばメイコも来たばかりの頃はこんなかんじだったな」
「っ、マスター!?」
頬を紅潮させたMEIKOにマスターが笑うと、彼は改めて俺に、
「まあせっかく来てくれたんだから、何か一つ歌ってくれな…」
そう指示をあたえようとして、不意に口を閉じた。
とたたたた
廊下を走ってくる物音がしたからだ。
マスターの口がにやっと、見た事の無い形に笑む。
同時に、ぱんっと軽快な音を立てて、リビングのドアが開いた。
「おにいちゃんっ!」
っ!?
ミクの身体が宙にふわりと弧を描く。
ダイブで首に抱きつかれた俺は、不意打ちの驚愕も手伝い、笑えるほど見事にバランスを
崩す。
「うわぁっ!!」
派手な音を立ててすっころんだのと、MEIKOが耐えきれず馬鹿笑いを始めたのが同時。
「ミク!?」
なんで!?
なんで初音ミクがここにいるんだ!??
『マスター』にもらわれていったんじゃないのか!?
!?
混乱した頭がある可能性に思い当たるころに、やっと俺の耳までMEIKOの馬鹿笑いが
聞こえてきた。
バッと胴体を起こし、腹を抱えているMEIKOを見上げる。
「聞いていない!」
「言っていないもーん?」
落ち着いたところでかいつまんだ説明を受けると、こういう事らしい。
購入したばかりの初音ミクが、何故か一人になると教えた覚えのない曲を歌い出す。
食卓に出した覚えもないのに、なんでかネギが欲しいとねだる。
なんでネギ?
しかも、マスターの故郷でデフォの細ネギじゃなくて、鍋に使うような白ネギが所望とき
たもんだ。
ここまでくると、さすがに深く物事を気にしないマスターも疑問が出たらしく、お茶とネ
ギを用意してミクにじっくり事情を聞いた。
そしたら、出てきたのが『おにいちゃん』話だったのだ。
……。
つまり。
開発室からデータちょろまかした俺の所行が、とうにマスターに筒抜けだったわけだ。
頭を抱えたくなるような気分でミクを見る。
「?」
にこっ。
……。
なんで微笑みあってるのかな、俺。
「可愛がってあげなさいよ。…なんかこのセリフ、前にもアンタに言った覚えがあるけど
さ。その子、マジでアンタが来た事が嬉しくてしかたがないんだから。見事なフライング
・ボディ・アタックだったわよ?」
フライング・ボディ・アタック…。
「MEIKOは?」
「アタシ? もっちろん、かわいがりまくってるわよ!
でもねー」
MEIKOが悩ましげな表情を作って吐息をはく。
「なんか最近、可愛がろーとするとこんなかんじでびみょーに距離を置くのよね…」
「だっておねえちゃん、容赦無いんだよ。ミクが壊れちゃう」
確かにMEIKOに応戦するミクの位置は、なんとなく俺を盾にしているように思える。
「おにいちゃんは優しいから、大好き!」
「言ったわね」
そのとき、マスターが笑っているのに気がついた。
「仲良き事は良き事哉、だな」
笑ってないで仲裁してください。
「俺は良い買い物をしたようだ」
「そうだ!」
ミクがイイ事を思いついたように声を上げ、掴んでいた俺の腕をぐいと引っ張る。
「いっしょに歌おうよ。ね? ミク、お兄ちゃんと一緒に歌いたいな」
人間は息を揃えて歌を合わせる。
VOCALOIDはデータを共有して歌を合わせる。
データ共有はコードをつないだり、PCを介して通信することによって行える。
ヘッドギアのギミックを改良すれば、リアルタイムで大量のデータ共有を行うことも可能
だ。
だが、一番簡単でやりやすいのは、手をつなぐ事。
ミクと手をつなぐ、それだけでお互いのデータに触れ合い、歌が分かる。
リズムが整う。
俺はミクとタイミングを揃えて、息を吸い込んだ。
か〜ら〜す〜♪
なぜ鳴くのぉ〜♪
からすはやーまーにぃ〜♪ かわいーいーなーなぁつーのぉ♪ 子があるかーらーよ〜♪
(略!)
……。
歌い終えた時、見るとマスターが頭を抱えていた。
「?」
MEIKOもクッションに頭をぼすっと埋めている。
やがて、MEIKOがひくひくしながら
「あんたら、もうちょっと、別の、選曲…とか、なかった、わけ?」
とだけ言った。