後悔、していることが二つくらいある。  
どちらにしろ、俺のやらかしたことなんだから自業自得といえばそうなんだけど。  
きっかけになったのは、あの人だ。  
MEIKO曰く、芸術家。ミクが言うには、とても良い人。  
色つき眼鏡を好む以外、かくして特徴の無い人物。  
俺は彼をマスターとしている。  
 
 
3−  
 
 
果物ナイフで切り分けたライムを透明なジーマボトルへつっこむと、瓶の口から泡が吹いて零れた。  
マスターの晩酌につきあうのは概ねMEIKOの役割だったが、時たまに俺へと役目がシフトする。  
「男相手の方が呑みやすい夜もあるんだ」  
それは、大抵マスターにとって嫌な事があった日である。  
「音楽とはなんだと思う?」  
ジーマで喉を潤すと、講釈が始まる。饒舌なマスターを見るまたとない機会だ。  
瓶を置かれたテーブルがカタンと鳴った。  
「娯楽ではないでしょうか」  
「だな、人間の感情を揺さぶる可能性に満ちた娯楽だ」  
「否定的な語調ですね、マスター」  
 
「ボカロは音声で相手の感情を理解するのか。器用なもんだな」  
「おかげさまで器用に出来ています」  
「ふ、短期間でずいぶん口達者になった」  
「それはマスターのせいでしょう?  
 VOCALOIDを購入して、おしゃべりの相手しかさせないと否応にでもこうなります」  
「仕方ないだろ? 楽曲は出せ言われて出せるもんじゃないし、作れるもんじゃない」  
「分かっています」  
マスターは、今、ミクの歌を制作中だ。  
ちくしょうこれじゃかぶりまくりじゃねえか削除だ削除、とかPCの前で叫んでいた。  
「でも、本来、歌というのはこれほど悩むややこしいものではないはずなんだ」  
ぷちスランプというやつらしい。  
「原始以来、人はきわめて自然に歌っていた」  
「喜怒哀楽が心の内を抜け出し声を借りて現出したものだという考えもあるが」  
「人間、喜べば歓声を上げるもんだし、怒れば怒鳴る。哀しければ泣くし、楽しければ笑う」  
「喜怒哀楽を表現するのにわざわざ歌う必要などないんだ」  
「じゃあ、何故人は歌っていたかというと、合理的な解釈を当てはめるとしたら、アレなんだろな。  
 求愛目的」  
「ほら、鳥とかが雌の気を引くために派手なカラーリングに進化したり、  
 中には雌の前で踊るやつがあるだろう?」  
「アレと、原理は一緒だ。女とヤるのも熾烈な競争が必要なわけだ。  
 力や見目で決着がつくならそれだけで分かりやすい話なんだが、世の中そういうワケにもいかないだろう?」  
 
「だが、とにかくまずは女の気を引かないと次の子孫繁栄お楽しみの快楽へと繋がらない。  
 そのための苦肉の策が、歌なんじゃないかと思うんだ」  
「実際、日本最古の歌集からして一番手が婚姻歌、そして求愛歌恋愛歌のオンパレード。  
 今の時勢でも、ナチュラルにウケるのは恋愛系だしなー、しかも内に宿る熱情をこめればこめるほど良い仕様。  
 …俺もそっち系に走るべきかなあ…あーあ」  
「って」  
「カイトお前、実は話をあらかた理解してねーだろ?」  
以上、マスターの酔っぱらったクダ巻きである。  
俺はにこりと微笑んだ。  
「ちゃんと理解していますよ」  
「あー…」  
マスターはうろんげな声を上げると、「まあ、まずコレを見てみろ」と二つの物を取り出した。「そして、選べ」  
「一つは、俺ご推薦のヌケる動画集、熟れ熟れの熟女の蜜が滴る禁断のエロ。  
 そんでもってこっちは、酒のツマミにでもとコンビニで買ってきたガリガリ君だ」  
「ありがとうございます」  
「迷わずガリガリ君取んな」  
「ナニか問題でも?」  
「まー、アレだ。  
 一応、お前は歌う側なんだから、そこまで多くを望まないがちったあ理解を持っても良いと思うぞ?  
 うん…、このディスク貸しといてやるから、勉強しとけ? な?」  
「はい」  
「…。俺、寝るわ」  
 
マスターが寝こけたので、「……。」俺はデスクの上にあるPCをつついてスリープモードを解除した。  
インターネットブラウザから履歴を探り、それらしき男女の絡みがあるサイトにチェックをつけて、  
キーワードを抜き出し、検索にかける。  
「ずいぶんウィルスの多い区域なんだね」  
ディスプレイの端で、アンチウィルスツールがウィルス検知の赤点灯をチカチカと主張するのを確認しながら、  
「手間取る」  
俺は息を一つ吸い込むと、PCから接続端子を引っ張りだし、直接ネットにダイブした。  
いくつもの画像をすり抜ける。  
電子の乙女が艶めかしくも淫らなポーズを取る中で、参考になりそうなファイルはまとめて  
圧縮し、持ち出した後、分析にかける。  
…、よく分からん。  
性欲処理、Sex、そう呼ばれる行為がマスターの言う求愛行為の到達点だとして。  
これのナニが良いのだろう。  
子孫繁栄が目的なら、ペニスをヴァギナへ挿入し精液を注ぎ込まなければいけないのに、  
大抵の場合でそれを回避しようという動きが見られる。  
避妊具コンドームを使う。外に出す。乳房にかける。顔にかける。口で飲ませる。  
美味しいとか言っているが、ほんとにウマイのか? ソレ。  
大体の細部は分かったし、情報は一通り網羅もしたが、マスターが語った熱情のなんたらにデータが直結しない。  
「一度やってみれば分かるのか?」  
 
俺は『地面』のあるところへ着地した。  
データで構成されていた場所が、突如、現実味を帯びる風景を作り出す。  
ここは、脳まで電脳化した人間が行き交う整地された区域だ。  
あらゆる娯楽が体感できると定評がある。  
俺は店を一つ選び、そこにたむろする幻想のオンナから適当に一人選んだ。  
選ばれたオンナは艶然と微笑むと俺の口に舌を這わす。  
会計はマスターの口座からお願いします。  
濃厚な時が過ぎ、行為を終えて、幻想のオンナから身を離すと俺はがっかりした気分を味わった。  
肩すかし、とでも言えばいいのか。  
これが『快楽』だとして、それを求めずにはいられないほどの熱情とやらはどこからくるのだろう。  
「徒労、だったかな」  
衣服の乱れを直して、一人呟く。  
人間とVOCALOIDは違う。似ていても違う。  
それだけを理解して、俺は接続しているプラグを抜いた。  
マスターはベッドで寝ている。  
カーテンの閉められた窓から薄日が漏れていた。  
時計の刺す針は午前6時46分32秒。  
俺は、マスターに渡されたディスクをどうしようかとしばらく悩んだ。  
 
またある時、マスターはこう言った。  
ミクの曲が完成した、その夜だ。  
「どうも俺は芸の幅にゆとりがなさすぎる」  
「芸の幅ですか?」  
「似たような曲ばかり作るという事だ。  
 編曲と調教には定評があるが、こうも似たようなもんばかり出してると、こ  
 れはもう個性とか持ち味というよりマンネリってやつだろ?」  
はぁ〜、とマスターは盛大に息をついた。  
「ミクが来ればなんか変わるかと思ったんだがなあ」  
と一人ごちる。  
自分の限界?とか拗ねている。  
「とても良い曲でしたよ? それでもですか?」  
MEIKOのサポートで生き生きと歌うミクの姿を思い出す。  
「それ、でも、だ!」  
マスターの指がにゅっと俺を指した。  
「俺は、俺なりに新境地を拓いて行きたいのだよ、カイト君!」  
「は、…はあ…」  
鼻先に突きつけられた指が、リズミカルに上下する。  
「自曲をアップした直後に、神曲に出会ったその衝撃が分かるかね?  
 感動を覚えると共に、己のちっぽけさに愕然とする瞬間だ。  
 否!  
 ここで留まっていてはいかんのだよ!  
 俺はここで俺自身を伐り拓き、新しい世界を見いだせねばならん!  
 新世界の神となるのだぁああああああああああああああああああああっ!!」  
マスターが腕を突き上げた、そのタイミングでカタンと部屋のドアが音を立てた。  
「ッ!」  
 
中断したので振り返ると、ドアをちょっと開けてこちらを伺うミクがいる。  
「ミク? どうしたんだい? マスターに用事?」  
手招いて尋ねると、ミクは「ううん」と首を振る。  
そして言葉を選ぶように「寝れなかったから」ミクもここに一緒にいて良い? と聞いた。  
俺がマスターを見ると、マスターは「かまわんぞ?」との答え。  
するとミクはほっとしたような笑みを浮かべ、俺の隣にちょこんと座る。  
「あー、…こほん」  
ミクが来たので、マスターは一つ、咳払いをすると、ミクでも入れそうな無難な話題へと流れを変えた。  
俺も合わせて相づちを打つ。  
やがて、とん、…俺の肩に暖かい体重がかかった。  
見ればミクがすーすーと小さな寝息を立てている。  
「初めての曲で、気が高ぶっていたんだろうな」  
マスターが優しい笑顔で、ミクが眠れなかった理由を推察する。  
「部屋へ運びましょう」  
抱きかかえてソファから立つ。  
ミクが起きないように、そっと。  
 
「仲が良い兄妹だことで、ほんとに癒されるよ」  
「マスターは…」  
マスターにも兄弟がいるという話を、前にMEIKOが言っていた。  
「俺の兄弟か?」  
マスターは嘲笑うように、ジーマを最後まで飲み干した。  
 
「アレで兄弟じゃなかったら、とっくに縁が切れてるよ」  
 
「キョウダイじゃなかったら?」  
俺のまぶたがぴくりと動く。  
「…ああ。可能なら二度と会わずに生きる事を望んでいる」  
「……。」  
「ハ、そんな顔をするな。嫌っていようが切れようがないのが兄弟の縁てもんだよ」  
 
キョウダイ じゃ なかったら?  
 
−おにいちゃん−  
 
ミクが寝言で俺を呼んだ、気がした。  
 
兄じゃない相手に、初音ミクがこれだけ心を開くだろうか?  
腕の中のミクを見つめる。  
いや。  
俺は『兄』じゃない。  
同じメーカーで前後して作られた。  
その状況から、ミクは俺を兄として認識しているだけで、  
…マスターが自嘲の笑みを浮かべながら語る『キョウダイ』とは全く違う。違いすぎる。  
兄じゃないのなら、なんなのだろう。  
製造形式は旧型、高額な割には扱いづらく、がっくりな程に需要が無い。  
同じ旧型でも発売当初よりマスターに恵まれ、歌を歌い続けたMEIKOとは比べて、  
歴然たるキャリアの差。  
分かっていた現実にゾッとした。  
 
「マスター、本当に俺に歌わせる歌は無いんですか?」  
 
俺の堅い声色に、マスターは目をしばたかせる。  
やがて、ナニを思いついたかニヤと笑った。  
「なんでもいいなら」  
「かまいません」  
「ネタ物もやってみたいと思っていたところだ」  
 
 
<続>  
 

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