「…ふっ…んっ、んあっ、あっ、お、おにいちゃんっ、おにいちゃん!」
じっとりと汗ばんだ頤(おとがい)に口づけ、舌を這わすと、ミクは切なげな悲鳴を上げ
て縋り付くように抱きしめてきた。
頬をすり寄せるその動きは、ご褒美をねだる子猫に似ている。
「…だめだよ。ミク」
まだキミは俺を知らなすぎる。
−−−−−−−−−−−−−−−−
1−
CV−01 初音ミク。
その存在が完成し、実際に引き合わされたのは発売直前の20XX年8月30日。
俺が完成してから、正確に48643200secの時間が経過。日数に直すと563日後の出来事
だった。
俺はCRV2−KAITO。
久しぶりに帰省してきたCRV1−MEIKOと静岡の社屋ロビーで落ち合い、近況など
を語っているところだった。
「ひさしぶりだけど、ほんとアンタは変わらないわね」
「そう?」
「あー、そこらへんとか。…、ちっとも売れないのはあいかわらずみたいね」
「VOCALOID自体の社会認知が低いからね。それに女声に比べて男声は需要が低い」
「む〜…、そんな他人事みたく言ってる場合じゃないと思うんだけどな。
これはアタシ達VOCALOIDにとって、存在意義そのものに関わる問題なんだから。
イイ?
歌えないVOCALOIDは…」
「MEIKOはよく話すようになったね」
「…。アンタも早く良いマスターのとこへ嫁に行きなさい」
「MEIKO」
「なによ」
「俺は男だよ?」
「……。あー! もうっ! さっさと売れる努力をしなさいと言ってるのよ!
ったく。
ムカツクわ。んな悠長にかまえてたら、いつかデータがカビて腐るんだから」
「社長」
そのとき、社長が伴って現れたのが『初音ミク』だった。
「あらぁ! 社長、おひさしぶりです!」
VOCALOID2エンジン搭載01タイプ。
『初音ミク』
さすが最新型はデザインのディテールにもこだわって綺麗に出来ていると、感心した覚え
がある。
艶やかで豊かな薄水色の頭髪を頭頂部近くで二つに結わえ(ツインテールというのだそう
だ)、16歳の少女らしい華奢な身体を引き立てる。そしてなにより、ぱっちりとした水
色の瞳が愛らしい。
「MEIKOか!? 来ていたのか。元気そうだな」
「うふ。メンテですよ、社長。って、えー!? 社長! もしかしてこの子が初音ミク?」
MEIKOに呼ばれて初音ミクが反応した。
笑顔が花のようにほころぶ。
「はい。はじめま」
「かっわいいじゃない!」
「ふえ!?」
「良いわぁ〜。アタシ前からこーいう可愛い妹とか欲しかったのよね!
ウチのマスター、男所帯だし。
アタシ? MEIKOよ? アンタのおねえちゃんよ。おねえちゃん。
ヨロシクね!」
「ふええええええええええええええ!?」
初音ミクがMEIKOの手荒い、だっこ頭わしわしかいぐりかいぐり攻撃な歓迎から、逃
れられたのは、いや、初音ミクはこの後十分ほど、MEIKOの気が済むまで歓迎されつ
づけた。
「MEIKOは良いマスターに出会えたようだな」
満足そうにその光景を眺める社長の感想に、俺は意味を理解できず首をかしげた。
確かに、よく話すようになったとは思う、が。
…。あと、感情表現の仕草が大げさに分かりやすくなった。
けれど、そんなことはVOCALOIDの職務と関係無い。
むしろ、無駄な動きだと俺には見えていた。
実際、初音ミクが「ふえええええええ」と変な声を上げている。あれは悲鳴か?
MEIKOの歓待を存分に受け終わった初音ミクが、圧迫から解放されふらりとよろける。
「あ」
バランスを崩してコケかけたので、俺が支えた。
発売前の新品状態で、破損部が出るのは好ましくないだろう?
MEIKOが「ごめんごめん」と言っている。
ふと、初音ミクがじぃ〜っとこちらを見上げている目線に気がついた。
「?」
視線の意味を理解したのは社長で、「ああ、ミク。彼がKAITOだよ」と俺を紹介する。
ああ、自己紹介か。
「俺はCRV1…」
社長の説明で初音ミクの表情に変化が起こる。まず、目を見開く。そして笑顔。
「おにいちゃん」
はい?
「つまりミクはVOCALOID2エンジン搭載の上に、キャラクター・ボーカル規格なのよ。
キャラクター・ボーカル。私たちみたいなVOCALOIDに人格をとっつけようとい
う試みよ。それはアンタも聞いてるんでしょ?
せめての視覚イメージとして、ヒューマノイド・モーションを取っている今までのVO
CALOIDとは、根本からして違う。
とにかく、ミクは人間的だわ。
すごぶる人間的な感覚基準で状況を判断し、認識するの。
『おにいちゃん』
ぷw
いやあ、もう、あん時のアンタの顔ったら無かったわ!
そりゃ、あたしたちは同じメーカーで前後して規格製造されたんだから。
人間で言えば兄弟、よねぇ。うん。アタシが姉でアンタ弟。
マスターにもらわれて、そーいう言い回しに慣れまくったキャリアのあるアタシが言う
ならともかく、出来たてのミクがそう言い出すなんてビックリしたけどさ。
良い妹が出来たじゃない?
可愛がってあげなさいよ。
お・に・い・ちゃん♪
…ぷw
あははははははははははははははははははははははww」
捨て説明と爆笑を残して、メンテナンスを終えたMEIKOはマスターの元へ帰って行っ
た。
そんなMEIKOの言い草には、どこか不本意なものを感じたが、とにかくそのようにし
て出会ってからというもの、何が気に入ったのか。
「おにいちゃん」
ミクが傍に居る。
朝といわず、夕といわず、社屋の中で俺を見つけては、「おにいちゃん」と笑顔で駆け寄
りコートの裾をぎゅっと掴む。
「どうしたんだい?」
「えへへ」
微笑みあう。
発売日をとうに過ぎた新型の初音ミクが、まだこんなところにいるのは売れないからじゃ
なく。注文が殺到しすぎたせいで市場の方がパンクしてしまったせいだ、と話に聞いた。
コノザワ現象と言うらしい。
CV−01初音ミクは、愛される存在となるだろう。
だがしばらくは、市場の混乱が収まるまでのしばしの間、ミクは俺と共に居た。
何か特にするでもなく。
ミクが興味を示した絵本を読んだり。
開発室からちょろまかしてきたデモ用のサンプルソングを一緒に歌ってみたり。
外界から隔絶された、研究棟の中庭を散歩したり。
何故か裏庭一画にある小野寺さんの菜園から、ミクがネギを嬉しげに引っこ抜いてきたり。
おにいちゃん。
結局、ミクの呼ぶ俺への呼称はソレに限定されたまま、その日は来た。
朝の一番に、マスターが決まったとミクが報告しに来た記憶がある。
ミクの頭の中は、これから始まる新生活への不安と期待、そして新しいマスターのことで
いっぱいだった。
表情がくるくる変化しながら話すミクは、まだまだ話足りないようだったが、まもなく呼
び出しがかかる。
振り返って「はーい」と呼び出しに応えるミク。
時間だ。
あわてて駆け出すその姿に、俺はとっさに手を伸ばしかけ、…宙を掴む。
CV−01はマスターの元へと搬送されたのだ。
市場の方の整理がついたのだろう。
だからといって、俺に何かする事があるわけでもなく。
俺は朝の身支度を済ませ、慣れた社屋を散歩することにした。
廊下に出る。
「……。」
歩き出した足が止まる。
こんなにガランとしていたか?
俺は振り返り、あたりを見回し、異変の無い事を確認して、首をかしげた。
「?」
<続>