ミクが目の前の男を、そういう対象として見始めたのはいつからだっただろうか。  
始めは自分とおなじヴォーカロイドの年上の異性として彼を「兄」として慕い、  
それなりの敬意と、妹視点からの甘えを持って接していたのだが、最近になるとそれはずいぶんと難しくなった。  
 
 彼の喉に見える自分にはない出っ張りや、見上げなければ目も合わせられない身長差。  
普段は、トレードマークの青マフラーに隠れているが、しっかりとした首とそれを支えるそれなりに広い肩。  
そして何より自分には到底出せない、低くよく伸びる声。  
日常の会話でも歌唱でも稀にしかその低い(だが、決して低すぎない)声は聞かないが、  
その声はミクと彼の共通の弟である、声変わり寸前のレンを悔しがらせるだけのものがある。  
声を美しく伸ばすことに関してはミクは多少なりと自信を持っていたが、  
それは自分の高く、少女らしい愛嬌のある声に対する自信で、あの心地よく低い伸びやかな声は兄だけのものだった。  
あれで、カウンターテナーやミクや姉のMEIKOの声真似もお手の物なのだから、納得がいかない。  
それでも、ミクは兄であるその男が時折洩らすその声と共に上下する喉仏から目が離せなかった。  
ミクは、兄であるKAITOに男を感じていたのだ。  
まぁ、兄といっても血の繋がらないヴォーカロイド同士、背徳感はあまりなかった。  
が、このシュチュエーションはいかんともしがたい。  
 
「……くッ。」  
 
 スタジオ内の薄暗い空間にKAITOの苛立った低い声が、響く。  
狭いスタジオの中にはミクとKAITOが向かい合って座っているだけで、他の姉妹弟の姿は見えない。  
今日は、それぞれ別の仕事を終えてから全員参加のライヴの合わせのためにこの簡易スタジオに集合する予定で、  
比較的早くに仕事が終わったミクとKAITOだけが照明の薄いこの部屋にいるというこの状況は、  
ミクにしてみれば、喜ぶべきか悲しむべきか戸惑うべきか、感情回路に下す判断に悩むものだった。  
 
 しかも、いつもなら深くは聞かずともこちらの雰囲気を読み、にこやかにその場を和ませてくれるKAITOが、  
珍しく苛立たしく眉間にしわを寄せて口をつぐみ、時折先ほどのような言葉にすらならない低い吐息を洩らすものだから、  
ミクは、居心地悪くどこを見るともなしに大人しくしている他にない。彼女の小さな手には重いマイクが握られていた。  
 
 対する彼の手の中には、2本のカラーシールド。  
ワイヤードマイクやエレキギターをスピーカーやアンプに繋ぐためのそれは、兄の髪の様な青とミクの髪の様なミントグリーン。  
それぞれが、ミクの持つマイクとKAITOの背後にあるスピーカーに繋がっていた。  
 
「ミク、マイクに向かってなんか言って。できるだけ長く。できれば唄って。」  
 
「うん。」  
 
 妹に唄えと言った兄は、頷いた彼女が唄い始めると同時に視線を、妹と同色のシールドが繋がれたスピーカーの方に向けた。  
スピーカーは、がががぴぴぴ、と、彼の鼓膜センサを打つ妹の生の歌声とは到底比べられそうもない雑音を吐く。  
彼はまたチッ、と小さく似合わない悪態をついて手中の2本のシールドの接合部分を抜き差しする。  
すると雑音はぷつりと消え、彼がまた角度を変えてもう一度2本の線を繋ぎ合せると、微妙に音を変えて叫ぶ。  
先ほどから、この繰り返し。  
 
 青いものか、緑のものか、はたまたただ単に接触が悪いのか、スピーカーがマイクからの音を拾わないのだ。  
もともと彼女ら姉兄妹弟が、自分たちで資金を出し合い作った簡易スタジオだ。機材は少ない。  
できれば、使える機材は長く使いたいし、捨てたくない。しかし、こうやって調子が悪くなる時はある。  
しかし、大概はただの接触不良でこうやって角度を変えて抜き差しを繰り返すうちにきちんとした角度に行きつくのだが、  
今日はなかなか、その角度にたどり着けない。KAITOは、あーでもない、こーでもないと先ほどから抜き差しを繰り返す。  
 
 青シールドの凸端子を緑シールドの凹端子に角度を変えて何度も繋ぐ兄の手元を、妹は唄うのをやめ、ぼんやりと見ていた。  
その眼はだんだん、とろんとした、何かしらを夢想するような、イメージするようなものへとシフトしていく。  
寸でのところで正気に戻り、彼女は自分で自分を戒めた。頬が赤く染まるのが判る。でも、あんなものを見せられたら……  
 
 エレキ系楽器演奏経験者や放送関連サークルに所属していた者なら、ご存じだとは思うが、  
シールドや、マイクやヘッドフォンのコードの先のジャックの凹凸端子には、俗称がある。  
音楽にかかわるソフトウェア系アンドロイドであるヴォーカロイドのミクも、今までの仕事現場でその俗称を何度も耳にした。  
その俗称自体は、何のひねりもなく明解な上に短く、ミク自身も何の疑問も嫌悪も羞恥も感じなかった。  
しかし、この、気になる異性と狭く薄暗い防音設備のついた部屋に二人きりという状況では、  
その俗称が、妙に生々しい意味をもって感じる。要を言えば、いやらしい。  
 
「だめだ、絶対どっちか死んだなぁ。青か? 緑か? ミク。何色でもいいから、これに合う奴のオスメス取って。」  
 
「う、うん。」  
 
 シールドの凸端子ジャックをオス、凹端子をメス。  
オス端子に関しては、皆さん見たことがあるだろう。お手元のヘッドフォンやイヤフォンのコードの先を見て頂きたい。  
それが、オス端子だ。まっすぐ伸びた太めの金属が先端近く一度こけしのようにくびれ、緩やかなラインで切っ先へ向かう。  
この形故に凸ジャックは、オスと呼ばれる。そして、そのオス端子ジャックが納まる凹端子はメス。  
これほど端的で明快な俗称の成り立ちも珍しい。……きっと、最初に思いついた人間は助平に違いない。  
 
 ミクは、手元の両端がそれぞれ凸端子、凹端子になっている緑のものをKAITOに手渡す。  
手渡した際に少しだけ触れた、自分のものよりずっと大きい掌すら、何かしらのいやらしさを感じた。  
また、マイクとスピーカーを繋ぐコードの太さは小指ほどあり、当然ジャック自体も大きくなる。  
そうなれば、細いイヤフォン端子よりそういう風に想像しやすくなってしまう。  
今回はそれに加え、接続部分がオスがKAITOのイメージカラーである青で、メスがミクの緑である。  
何度も何度も角度を変えて、KAITOがそれらを出し入れする様は、ミクにとってイケナイモノをイメージさせてしまう。  
 
 だめよ、ミク! はしたないわ! でも、でも……  
 
「……これで、どうだ!」  
 
がががぴぴぴ。  
 
 KAITOが端子同士の接続をいじり、角度を変えて抜き差しする度、スピーカーは不規則に叫び声をあげ、  
手元のマイクがスピーカーからの僅かな電流を不規則に得て、緑色に一部発光する。  
それが、今のミクには喘ぎ声のように感じた。  
稀に混ざる、兄の低いクッ、だの、ん……、だのという声がますますその妄想をリアルにする。  
 
「これでだめなら、青か? ミク、テキトーでいいからマイク繋げられるオス取っ……て……」  
 
 ミクは堪りかねず、新たなコードを求めて自分に手を差し伸べた男の手を取った。  
KAITOは、突然の妹の行動に目を丸くする。目の前には今までになく真剣な眼をした一人の少女。  
ついさっきまで大人しくパイプ椅子に腰掛けていたはずの妹のような存在の少女が、何故か彼をまっすぐ見つめている。  
 
「兄さん……、私、わたし……」  
 
「ミク……?」  
 
彼女と出会ってから、彼は幾度となく彼女を可愛らしい、とは感じてきたが、  
こんなにも彼女を美しいと思ったことはなかった。彼女の眼は、彼のそれをとらえて何故か離さない。  
二人は互いの目を見つめ合うことにより、物理的距離感を失い吸い寄せられるように近づいていく。  
互いに流されているというのは承知だった。しかし、体が勝手に動いてしまう。そんな魔法。  
あと少し、あと少しで互いの機械仕掛けの吐息すら感じられるであろう距離まで近づいた時……  
 
「遅れてごめんねー! 新曲の収録長引いちゃってさぁ〜!」  
 
「こっちは、リンが何度もNG出してさー。ドラマって言っても端役なのに緊張しすぎなんだよなー」  
 
「レンこそ! キレーな女優さん目の前にしてカチンコチンに固まってセリフ噛んだくせに!」  
 
「……あんたら、そんなに近づいてどうしたの?」  
 
「……いや、全然何にも! なぁ、ミク!?」  
 
「う、うん! 全然!! あ、でね、兄さん。いっそもう新しいシールド買おうよ! マイクとかも!」  
 
「そ、そうだな! もうずいぶん使い込んだしな! うん。そうしよう!」  
 
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