季節はだんだん春へと近づいていく時期が訪れる。  
今年は例年よりも暖冬でスキー場は大打撃だとか花の咲く時期が早いとか言われているが、  
それとは全く関係ない行事、愛する男の人に対して女の人がチョコをあげる儀式が待ち構えている。  
…まぁ本当の意味は違うし、世のお菓子業界の戦略にまんまと乗せられてる人々の何と多い事か。  
 
そして彼女もそのひとり、台所に立ちながらチョコレートを刻むその姿はどこから見ても恋する乙女だ。  
彼女の名は佐々木美奈。  
大手コンビニチェーン『サイガマート』の経理課に勤務する22歳の女性である。  
年の割には幼い目の顔つきとウェーブが掛かった栗毛のバランスが良く、いわゆる「美少女」と見ても  
差し支えない顔立ちだ。  
実際に「黙ってさえいれば」彼女の評価は高く、社内には彼女に好意を持っている男性は少なくない。  
 
しかし彼女には好きな人がいる。  
そう、同じ会社の7つ上の上司、しかも彼には別の好きな人がいるのにも関わらず、だ。  
 
「ふー…」  
少し溜息をつきながら刻んだチョコを湯煎にかける美奈。  
時計の針を見るともう深夜の2時を回っていた。  
「もうこんな時間か…。今回の作品はいつもより小さいけどものすごく手間ひまかけたから仕方ないけどね」  
そして温度計とにらめっこをしながら慎重にチョコを溶かしていく。  
そんな作業をしながら彼女はふと去年の事を思い出していた。  
ああ、去年も同じ様に気合いを込めてチョコを作ってたんだっけ。  
自分の身体にコーティングして、等身大のチョコ作って…。  
あの時は猪突猛進してたわよねー、と一人ごちる。  
いや、今でも十分猪突猛進してると思うが。  
 
そして自分の作ったチョコを思い出して手がぴたりと止まる。  
そうだ、確か…松崎主任の顔を形どったチョコを作ったんだっけ。  
「あれは自分でも何だか悲しかったなぁ…」  
結局「佐々木美奈」のチョコじゃなくてあの人は「松崎みお」が好きだから受け取った、という事が容易に想像できる。  
だからあんな優しい笑顔になったのだろう。  
「でも、今年こそは…必ず」  
気を緩めるとこぼれそうになる涙を必死に抑えながら彼女は再び手を動かすのであった。  
 
ピピピピピ…!  
「う〜ん、何…もう朝?」  
けたたましく鳴る目覚まし時計を止める為にベッドから這いずり出し、寝ぼけ眼のまま止める。  
「昨日はチョコ作るのに夜遅くまで作業してたからなぁ…」  
そして目をこすりながら時刻を見た瞬間、彼女の身体の毛が一気に逆立った。  
「ち…遅刻だー!」  
お約束というか何というか、慣れない夜更かしをした為に思いっきり寝過ごしてしまったのだ。  
慌てて会社に行く準備をする美奈。  
その様子は知らない人が見ればどこぞの修羅場に見えたに違いない。  
すったもんだの末、何とか準備を済まし、駆け足でアパートを飛び出していく。  
しかし彼女は一気に襲ってきたパニックの為、すっかり自分の作ったチョコレートの事を忘れていたのだ…。  
 
サイガマート本社の経理課。  
美奈も机の前でパソコンとにらめっこをしながら山のような伝票や書類を消化していた。  
不意に時計の方をちらりと見る。  
「11時…もうすぐお昼よね、その時に営業一課に行ってこのチョコを…!」  
そして自分の鞄から昨日徹夜して作ったチョコレートを取り出そうとするが、鞄の中にその欠片すら無い事に  
気づき、みるみるうちに顔色が青ざめていく。  
「あ、あれ!?チョコが無い…ひょっとして!」  
そこでやっと気づいたのだ、朝のドタバタに巻き込まれてラッピングされたチョコの存在をすっかり忘れてしまったと  
いう事に。  
 
どうしよう、確か今日は中野さん出張で昼過ぎから居なくなるって高沢から聞いたし。  
かと言ってまだ残ってる仕事を放っておいて取りに行くなんてもっと最低な事だし。  
「昼休みまであと45分…。家から往復して1時間弱…こうなったら」  
頭の中でなにやら計算したのだろうか、パソコンの打つ手がいきなり速くなる。  
他の事には目もくれず、目の前の書類の山を凝視しながらキーボードを叩き、30分も経たないうちに書類が減っていく。  
 
全ての業務を終えると、課の主任の机の上に纏めたデータとフロッピーディスクを置いて一言。  
「主任、本日中に必要な書類と伝票整理の方、終わりました!あと少し私用で昼まで外出致します!」  
そして美奈は主任の言葉を待たずして一目散に部屋を出て行ったのだった。  
 
上着も着ずにそのままの格好で電車に乗る美奈。  
幸いな事に暖冬のおかげで昼間は春並みの陽気になっている為、そんなに寒くは無い。  
むしろ中野に無事チョコをプレゼントするという気合いが勝っていて暑さ寒さなど問題にならない、というのが正解だろう。  
駅に着くと猛ダッシュで自分の住むアパートに駆け込む彼女。  
部屋の鍵を開け、靴を脱ぎ散らかしてそのまま台所に向かう。  
「あ、あった!」  
テーブルの上にちょこんと置かれた可愛らしいラッピングの小箱を発見し、美奈は安堵の溜息を漏らす。  
「中身もちゃんと入れたし…よしっ、今度こそは中野さんに受け取ってもらうぞーっ!」  
拳を突き上げ、まるでどこぞの格闘家の様なポージングで臨戦態勢に望む美奈である。  
「黙ってれば美少女」の意味がよく分かる。  
 
すぐに飛び出し、駅に向かう彼女。  
「早く戻らないと…昼休みが終わっちゃう」  
焦る気持ちを何とか押さえ、ホームで電車が来るのを待つ彼女。  
そして空を見上げる。  
「あ…天気やばいかも」  
そう、会社を出た時には爽やかに晴れてた天気が今は雲ががり、今にも雨が降りそうな状態になっている。  
電車に乗った時に彼女の嫌な予感は的中する。  
雨はぽつりぽつりから次第に強く降り、下りた時にはかなり強い雨が足元を濡らしていた。  
「しまった…傘を持ってくるんだった」  
後悔しても始まらない、そう思った彼女は会社までの道のりを急いで駆けていくのであった。  
 
降りしきる雨はますます強くなっていく。  
彼女の髪も服も、冷たい雨によって濡れていく。  
しかし両手に抱えた小さな箱は雨から守るように、しっかりと抱きかかえていた。  
「私が濡れてもいいけど…このチョコレートだけは綺麗な形で中野さんにあげないと」  
箱が壊れないように、それでもきゅっと抱きながら雨の中を駆けていく。  
 
その時である。  
舗装された歩道のタイルの出っ張りに足を取られてしまったのだ。  
「あっ…!」  
その瞬間、手にしていた箱が宙を舞う。  
さらに彼女自身もバランスを崩し、前のめりに倒れこんでしまう。  
 
そして目の前には大きな水溜りがあった。  
 
べしゃあぁぁぁっ!  
 
視界が真っ暗になる。  
全身を襲う不快感、そして冷たさ。  
「ぷぁっ、ちょ、チョコは!?」  
それでも何とか起き上がり、自分の手を離れていったチョコレートの小箱を探す。  
 
「あ…」  
チョコは見つかった。  
しかし水溜りの中で二転三転した箱は凄惨な状況になっていた。  
綺麗にラッピングされた包装は雨水と泥で汚れ、リボンは半ばほどけていた。  
「中野さんに渡すチョコレートが…」  
まるで掴み掛けた幸せがするりと離れていくように。  
目の前の現実を受け止めるだけの心は今の彼女には無く、水溜りの中でへたり込みながらただ無表情でじっと見つめていた。  
 
「ど、どうしたの佐々木さん!?」  
とぼとぼとした足取りで会社に戻って来た美奈を一番に発見したのは昼食を終え、会社に戻って来たみおだった。  
が慌てて彼女の元に駆け寄る。  
「…」  
目は虚ろ、身体は雨に濡れたため震え、会社の制服は転んだ拍子に泥塗れになっており。  
どう見ても普通の状態じゃない。  
「と、とにかく着替えましょ!このままじゃ風邪引いちゃうわよ!?」  
「うん…」  
まだ途方に暮れている彼女を引っ張ってみおは女子更衣室に向かう。  
 
「ほら、服脱いで、風邪引いちゃうわよ」  
「…」  
明らかにいつもの佐々木さんとは違う。  
みおはまだ混乱する思考をそのままに、彼女の服を脱がせていく。  
「一体どうしたの?こんなにずぶ濡れになるまで何してたの…?」  
無論彼女は何も答えない。  
その時、みおの視線が彼女の右手に入る。  
元は可愛らしくラッピングされたであろう小箱は、今や無残な姿に変わり果てていた。  
「それって、ひょっとして…」  
何となくだが、みおにも今の美奈がこんな状態になった原因が分かったようだ。  
「佐々木さん、その箱ちょっと貸して」  
その言葉に彼女はまるで子どもの様に首をふるふるさせて拒絶する。  
しかしみおは優しい笑みを浮かべながら、  
「その箱、中野に渡したいんでしょ?大丈夫よ、綺麗にしてあげるだけだから…」  
ちょっと無理矢理気味に美奈の手に握り締められていた汚れた小箱を取り出し、包装を外す。  
「うん、中身は無事みたいね。汚れは包装紙で止まってたみたい」  
そしておもむろに自分の鞄からチョコレートの包みを―多分部下の高沢に渡すつもりなのだろう―丁寧に剥がし、  
美奈のチョコレートの箱に包んでいく。  
そんなみおの姿を美奈はただじっと見つめていた。  
彼女の心の中はいろいろな感情が渦巻き過ぎて、浮かぶ表情はまるで能面の様な感じになっていた。  
「はい、出来たわよ。これなら中野も受け取ってくれるわよ」  
みおは相変わらずいつもの表情だ。  
 
「どうして…」  
美奈は思わず呟いていた。  
どうしてあんたはそんなに優しいの?  
中野さんは…あんたの事が好きなのよ。  
恋のライバルなんだからもうちょっと敵意持ってよ。  
お願いだからそんなに優しくしないでよ。  
 
そんな顔、私に見せないでよ!  
 
「佐々木さん…?」  
少し困った表情になりながらも両手に乗っかってる綺麗になったチョコレートの箱を彼女に渡そうとする。  
「どうしたの、何で泣いてるの?」  
美奈の目から大粒の涙がこぼれる。  
嫉妬と自分の情けなさと彼女に対する感謝といろいろな思いが渦巻いて。  
言葉にならない叫びは嗚咽になって出てくる。  
「うっ…えぐっ…うあぁぁぁんっ!」  
 
美奈は、ただ泣いていた。  
まるで子どもの様に。  
「さ、佐々木さん…」  
みおは何故彼女が泣いているのか理解できず、ただおろおろするばかりであった。  
 
「…ありがとう」  
一頻り泣いた彼女は少し俯きながらその箱を貰う。  
「私も応援するから、頑張ってね!」  
みおの優しさに、まだ少し心が痛む。  
それでも、中野さんに受け取って貰いたい。  
その気持ちを胸に、美奈はチョコをしっかりと抱いて更衣室の扉に手をかける。  
「…あんたも高沢にその思い、伝わるといいね」  
美奈の言葉に思わず顔を真っ赤にさせるみお。  
彼女はそんな様子のみおを見て少し微笑みを浮かべ、扉をそっと閉めた。  
 
「あの…中野主任は」  
営業一課の部屋に入るなり彼の机に向かう美奈だったが、居ないのを確認するとすぐに周りの社員に所在を尋ねる。  
「あー、さっき用事がある、って言ってたなぁ。もうすぐ戻られると思うけど…用件を伝えておこうか?」  
「いえ、いいです!大した用事じゃないですから!」  
そこまで言って彼女は懐から取り出したチョコレートの箱と手書きのメッセージカードを中野の机にそっと置く。  
 
中野さんに自分の思いが伝わって欲しい。  
例え貴方が松崎主任の事が好きであっても…。  
 
美奈はそう思いながらメッセージカードを彼の目線に見える様に置いた。  
 
「おい、そこで隠れてる奴」  
中野の声にびっくりする美奈。  
結局置いたものの、ちゃんと受け取ってくれるのかが心配で廊下の植木の隙間から営業一課を覗き込む状態になっていた。  
もちろん丸見えの為、まったくカモフラージュになっていない。  
中野は少し頭を抱えた後、つかつかと歩み寄り美奈の首根っこを掴むとそのまま廊下に放り投げ、扉を閉めた。  
「あいたた…」  
こんな乱暴な事をされても怒らないのは愛ゆえなのか。  
腰をさすりながらふと美奈は足元に何か小さな紙が落ちているのに気づいた。  
「あれ…何だろう?」  
それを拾い上げ、書いてある文字を見つめる。  
 
「チョコレート美味かった。次はあまり甘くないので頼む」  
 
その下に小さく「中野」の文字。  
「な、中野さん…!」  
受け取ってくれた、そして食べてくれた!  
喜びのあまり思わずそのメモを抱きしめてしまう。  
 
そして美奈はその状態で後ろに倒れた。  
そう、寝不足と雨に打たれすぎた所為で風邪を引いてしまったのだ。  
今までは緊張で何とか持っていたが、実のところ限界だった。  
周りから驚きの声と担架の音が聞こえてきたが、美奈の意識はそのまま暗転していった…。  
 
結局、美奈は一週間会社を休む羽目になってしまった。  
ベッドの上でうんうん唸る美奈の横には中野から貰ったあのメモ用紙が大事に残されていた。  
それは彼女の大事な宝物。  
 
「中野さん、ありがとう…」  
 
澱んだ意識の中で美奈は小さく呟くのであった。  
 

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