・  陽炎奇譚  ・  
 
 
「防人、アラン・イームズ」  
玲瓏と響くその声を、忘れられるはずがない。  
アランは、その長い指で銀縁の眼鏡の位置を直し、ゆっくりと振り返った。  
破壊された機械の残骸の中に凛と立つのは、二人といない美しい人。  
「ヨキ先生……いや、賢者ヨキと呼ぶべきですか」  
「知っていたのか」  
苦笑するヨキに、アランも少し困ったように笑い返す。  
「私、察しはいいんです。旅してるうちにいろいろなものを見て、聞いて、知って。そうするうちに、おそらくそうだろうな……と」  
例えば、古代語すら読みこなす類まれなその知識。癒しの「力」。防人以外のほとんどの人間が手も足も出ない機械に立ち向かうことの出来る数少ない人間の一人でもある。  
そして何より、たった今、気配もなく自分の背後に現れたことで結論は出ていた。  
「七の村は、もういいんですか?」  
「もう、役目は終わったよ。今度は次の役目がある」  
まなざしが、少し冷たくなったような気がする。これが、賢者のまなざしなのだろうか。  
まだアランが防人になったばかりの頃、医師として出会ったヨキは、もっとやわらかい表情をしていたはずだった。  
 
「赤い血の神が、現れた」  
冷然とした声が、アランの鼓膜を震わせる。  
それは、選ばれた者にのみ下される「神託」。  
「殺しあえ、神を手に入れ願いを叶えよ」  
「それが、防人の真の役目……ですか」  
世界が、決められた終末を迎えるための布石を整え、真実の姿を見せようとしていた。  
 
※※※  
 
砂塵が舞い上がり、壊れた機械たちを覆い隠していく。  
見るとはなしにその光景を見ていたアランは、己の中に湧き上がる不思議な高揚感を噛み締める。  
他の防人を倒すことは、その者の願いを背負うこと。今こうして護神像を所有していることで、歴代の防人たちや機械たちの願いをすでに背負っている身ではあるけれど。  
自分以外の防人たちは、一体どんな願いを持って戦っているのだろう。  
それを知る機会を、彼は与えられたのだ。  
「先代でも次代でもなく、今この時にあらわれた神に感謝しますよ」  
知らずこぼれる不敵な笑み。  
そんなアランに、ヨキは苦笑したようだった。  
「知への欲求ほど貪欲なものはないというが……お前を見ているとそれがよく分かるような気がする」  
 
言うだけ言って、その美しい人は無造作に背中を向けた。もう、用は済んだのだろう。  
ゆら…と影がゆらぐ。  
行ってしまうのだな、と思った時、アランは無意識に動いていた。  
 
※※※  
 
「アラン?」  
いぶかしむような、ヨキの声。  
気付くと、その細い体を後ろから抱きしめるようにして引き止めていた。  
「最後に…賢者ヨキではなく…ヨキ先生、あなたを知りたい」  
己の中に潜んでいた渇望を知る。  
「誰でもない、あなたを……」  
髪に頬をすりつけるようにして、腕に力をこめる。  
厳然と、ただそこにいただけのヨキの体がふと強ばった。  
「本当に、貪欲だね」  
声が、頼りなくかすれる。それはまぎれもない「女」の声。  
「ヨキ…先生」  
その黒髪のかおり。  
耳朶を軽く食んで、吐息の甘さにもう酔わされていた。  
 
寛衣をくつろげ、重ねられた衣のいくつかを滑り落ちるに任せる。  
痛々しいほどの白い肌。  
崩れ落ちそうになるのを支えて、指で確かめ唇でむさぼる。  
「キス…してもいいですか」  
答えを待たずにあわせた唇は、熱くて。  
たまらずこじあけて、絡めとる。  
「ん……んっ」  
あらがうように、すがるように。ヨキの指。  
まるで護神像をまとっている時のような血の滾りに、アラン自身が翻弄される。  
もどかしさと、高揚。理性の自由落下。  
本能のままに体を合わせる己のあさましさが心地よい。  
「あ……ああっ!……も……アラ…ン…」  
悲鳴のような高い声。  
どうしてこんなに甘く切ないのか。  
この声はどこまで切なくかすれ、この肉体はどこまで甘く絡み付いてくるのか。  
もう力を失って、ただ嬌声を上げるだけのヨキの体を抱え上げては、その深奥を追い求める。  
そして、彼が知り得たことは……。  
 
※※※  
 
「恋で身を滅ぼす者の気持ちが、分かる気がしました」  
余韻すら名残おしくて、その人を手放したくなくなるような。  
「あなたは…果てがない」  
汗にぬれたこめかみにくちづけるだけで、体の中の残り火がまた燃えるようで。  
「男は、みんなそういうものだよ」  
そう言って小さく笑ったヨキが、以前より遠く見えて。  
「私の全てを知りたければ、勝ち残って蜘蛛の糸に来るのだね。肌でしかわからないこともあるけれど、肌では分からないこともあるよ」  
つかの間見えた「女」の顔は影を潜めて、すでに「賢者」に戻ったその麗容。  
けれど、いつにもまして艶やかでもある。  
それは謎めきという、誘惑。  
「ええ…必ず」  
先ほどまでの気だるさを脱ぎ捨てたようにアランの腕から抜け出したヨキが、振り返る。  
「待っているよ」  
風もないのに、視界がゆらぐ。  
逃げ水に溶けるように、ヨキはそこから姿を消していた。  
 
「賢者ヨキよ……私はあなたたちから、この世界の秘密を奪ってみせよう」  
つぶやきを聞くのは、ただ陽炎だけ。  
アラン・イームズは足を踏み出した。己の願いをかけて。  
 
Fin  
 

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