○ Adesso e Fortuna ○
風に砂が流される音。
聞こえるのはかすかにそれだけの世界。
メタリックな質感の「木」によりかかって、目を閉じる。
胸の中にわだかまる、あふれそうな何か。
ひざを抱えて、眠るでもなく。
ふいに、かすかな、それでいてこの静寂の中では聞き落としようもないほどの音。
少しずつ近づいてくるそれを聞きながら、少女は動かない。
やがて、それが間近で止まり、声を投げつけられるまで。
「おい」
腰に手を当て、呆れたような怒っているような表情でこちらを見ている少年。
「レオさん…」
赤みがかった金髪と白い肌が月の光を浴びて綺麗だと、少女はそれだけを思った。
「何をしてるんだ」
「……何も……」
レオの表情に苛立ちの色が濃くなる。
普段の彼女だったら、ここで謝っているかもしれない。
けれど、少女はそれきり一声も発することなく、またひざを抱えてそこに顔を埋めてしまう。
伝わってくるレオの戸惑い。
それでも、何もする気になれなくて。
決して感じ取れなくなったわけではないけれど、「察して」行動するのが、今はどうしようもなく嫌で。
だから、そばに来て刺激しないで欲しい。
戸惑ったままの気配が近づいてきて、隣に腰を下ろしたようだ。
砂が強く鳴ったのは、持ち歩いている剣を引き寄せた音だろうか。
それきり、また砂の流れる音しか聞こえない世界になる。
きっと業を煮やして、行ってしまうだろうと思ったのに。
いつまでも、風と砂のかすかな音だけ。
さっきまでわずらわしかったのに、ふいに気になりはじめて、少女はこっそり顔を上げた。
……
立てた片ひざと刀を抱え込んで、遠くを見ている横顔。
今、この人も自分と同じかもしれない。
そう思った瞬間、ずっと苛まれていた泣きたくて泣けない渇きがひいていく。
一粒、また一粒。
転がり落ちるそれを隠すように、少女はまたひざを抱えて顔を伏せる。
強く砂が鳴る。
腕を伸ばさなくても届く距離に近づいた気配。
そっと肩に触れてくる感触に、またあの感じが湧き上がってくる。
涙は止まらないのに。
「……放っておいてください……」
やっと言えたそれだけが本心。
「強がりでは…ないですから。本当に…放っておいてください」
そうすれば、朝にはいつもの自分に戻れる。
「お願いです」
弱みを見られているのが恥ずかしい。
「あんた、泣いてるだろう」
答えたくないから、答えない。
何かをためらっているようなわずかな間。
「……ほっとけるかよ」
声が、驚くほど近くで聞こえたのは、抱きしめられたからだった。
「強がりじゃねえのは、分かる。だから余計ほっとけねえ」
「……放して」
「断る」
こらえてもこらえても、涙が止まらなくて上げられない顔を強引にあげさせられる。
目許にくちづけ。
「……っ嫌!」
腕をつっぱって離れようともがくのを荒っぽく抱きすくめられて。
「…俺のこと、キライなら触らねえ」
気遣うようなささやきから伝わるやさしさ。
胸に抱き寄せて、髪や肩をなだめるようになでているのは、きっとこの人の無意識。
「……嫌…いです」
「嘘つけ」
苦く笑う声。
嫌いじゃない。でも、やさしさが理解できるほどに、怖いと思う。
矜持が崩れていく恐怖が、分かるだろうか、彼に。
はりつめて、自分で自分を支えていた力を奪われる感覚と、つなぎとめようと自我を抑えこむ無意識と。
同じと感じたのは、間違い。
彼には、男の人には分からない。
「……お願いします、一人にして」
自分でも、声が固く冷たくなっていくのが分かる。
「分かったよ」
根負けしたというようなため息。
そっと、離れていくぬくもり。
おそるおそる見上げると、決して怒ったりはしていないレオに、少女は安堵の息をつく。
しょうがないやつだ、というように笑ってみせる目許は少し寂しげではあるが。
「何かあったら必ず呼べ」
刀を拾い上げて、レオが背中を向ける。
これで、やっと一人になれる。
少年を見るとはなしに見ながら、少女はやっと体の力を抜いた。
泣いても、誰にも見られてないなら、泣いたことにはならない。
明日から、ちゃんと弱くない自分に戻れる。
心にふと余裕が出来て、「ありがとう」と言えると思った。
「ありが……」
レオが、足を踏み出す。
一歩、二歩……
「……どうした?」
そこで止まった足。それ以上進めなかったのは。
「え!? あ……私……っ」
信じられない思いで、少女は自分の手を見つめる。
身を乗り出して伸ばされた腕の先で、少年の長衣の裾をしっかりとつかんでいる手を。
「無理するな」
少年の声に、見上げる。
刀が落ちる音がした。
「痛いっ」
強い力で抱きしめられていて、思わず声をあげる。
はっとしたように腕をゆるめた少年の目が、驚くほど真剣で。
すくうように前髪をあげられて、額にくちづけられる。
思わず閉じたまぶたに。涙の跡の残る頬に。
「力、抜け」
無意識にかみ締めていた唇を指がなでて、ふ、と力の抜けたそこにも。
重ねるだけの接吻を何度もくりかえされて、胸に痛みのようなものが走る。
跪いたまま、交わされる口づけ。
「ん……」
息苦しさを感じてのどを鳴らす。
甘く噛まれて、切なさが四肢に感染して行くよう。
いたわるようなやさしさでそっと絡められる舌から逃れることも出来ない。
「……っ……」
角度を変える合間にもれる、吐息。
腰にまわされた腕のたくましさや、うなじをなでる手の剣士特有のざらつきに、気が遠くなりそうで。
この人は、きっと大切にしてくれる。守ってくれる。
心の芯まで届いてくる確信に、彼にすべてを委ねてしまいたいと、そんな覚悟が今なら出来る。
つたなく絡み合うキスの、濡れた、音。
穏やかな陶酔に身を任せ始めていた少女は、はっと我に返った。
「や……駄目っ」
力の抜けかけていた腕で突き放す。
急に自覚する体の熱。頬がのぼせたように熱い。
口元を少年の指先でそっとぬぐわれて、唾液を飲みきれていなかったことに気づく。
この淫らがましさ、先ほど心をよぎった甘えに愕然とする。
自分の中に、得体の知れないものがいるような、それは恐怖と同類の感覚。
少女の拒絶を羞恥によるものと思っている少年は、驚くでもなく今度は首筋に口づける。
熱く乾いた唇の感触と、きつく吸い上げる時の濡れた感触。
「あ……」
痛みと、別な感覚に小さな声が漏れる。
自分のそれを信じられない思いで聞く。駄目、耐えられない。
そう思った時にはもう、少女は手を上げていた。
鋭い音が響く。
手のひらの痛みと、少年の頬にわずかに赤い跡。
次の瞬間、手首を強い力で捕まれて「木」の根方に押さえつけられていた。
「いやぁっ!」
背中の鈍い痛みに悲鳴を上げる。
覆いかぶさるような体勢で見下ろされるのは、こんなにも怖いことだったのか。
力任せに握られている手首が痛い。
男の表情をしている少年が、見知らぬ人のようで怖い。
「レオ……さん……」
なんと言ったら分かってもらえるのか。
心細さに涙腺がゆるむ。
とめどなく零れる涙でぼやけた視界の中で、ふいにレオも表情を変えた。
「うわっ……す…すまん!」
泣き出した少女に我に返ったのか、あわてて押さえ込んでいた手首を放し、抱き起こしてくれる。
「乱暴する気はなかった。すまん」
「それだけじゃ……ないんです……」
感情を抑え切れなくて、少女は泣きながら訴える。
こんな子供みたいなみっともないのは嫌いなのに、もうどうでもいいような気もして。
「レオさん……怖…いしっ…体が…変……な感じ…っ」
泣きじゃくる少女をどうしていいか分からないというように、先ほどまでとは打って変わっておそるおそるさしのべられるレオの腕に、少女は飛び込んでいた。
「甘えるの……好きじゃないんですっ……自分が……っ……自分でなくなるみたいで……」
しゃくりあげながら言いたいことだけ言うと、レオの胸を両手で叩きながら泣いて、しがみついてまた泣いた。
「そうか」「……分かった」
とだけ繰り返しながら、レオは、少しずつ落ち着いてくる少女を驚かせないように慎重に抱きしめる。
物腰の穏やかさの中に、しっかりした所、強いところがあるのは知っていたけれど。
今の、誇りと頼りなさを同時にぶつけてくる姿に、ますます惹かれていく心地がする。
同時に、少女の抱えていた葛藤も垣間見えた気がして。
力任せに抱きしめたい衝動をこらえる代わりに、レオは少女の耳元にささやいていた。
「あんたが……すげえ…好き…だ」
「……レオさん……」
頬を紅潮させて呆然と見つめてくる少女に、やはりこらえきれずに強く抱きしめながら、
少年は言った。
「だから……いずれ、必ず抱く。……覚悟しててくれ」
また、泣き出すだろうかと顔色をうかがってくるレオの心のうちを知ってか知らずか。
少女は小さな声で、しかしはっきりと答えた。
「はい」
触れるだけのくちづけ。
抱きしめられた腕の中でぬくもりにまどろむ。
背中ごしに伝わってくる少年の体温が心地いい。
聞こえるのは、夢うつつの中届くささやきだけ。
少女の世界は、今、静かであたたかかった。
Fin