「――坊っちゃま、はやくお帰りにならないと皆様ご心配されてますよ」
しんと静まりかえった中学校の廊下で、声を潜めて加護女が呼びかける。
しかしバケツの兜とモップで武装した少年は頑として首を縦には振らなかった。
「もうじき警備員が見廻りに来ます。それに――」
此処には良くないモノがいます。加護女の警告に、少年は膝を震わせながら頷いた。
「知ってるよ加護女、だから僕は来たんだ」
神隠しに遭った彼女を救いだすために。
わかりました、と加護女は優しく微笑んだ。
「けれど、アレは坊っちゃまの前には姿を現さないでしょう。
ここは加護女にお任せください」
薄暗い階段に上履きの足音がぺたぺたと響く。セーラー服姿の少女は周囲の様子を
慎重に窺いながら三階の踊り場へと向かった。そこには『第…回卒業生寄贈』の文字
も消えかけた古い姿見が置かれ、窓からの月光を受けた彼女自身の鏡像がぼんやりと
浮かびあがっていた。
「影男さま…影男さま…」
(月夜の午前零時、踊り場の鏡にむかってそう唱えるの。
影男さまが現れて、あなたの望みを叶えてくれる)
鏡の中に、うっすらと黒いシミのようなものが拡がりはじめた。
(だけど、気をつけて。もしも途中で月が隠れてしまったら――)
どろりとした漆黒の津波が、少女の全身を一瞬で飲みこんだ。
「……ん」
冷たい地面の感触が頬に伝わったのか、少女が小さく身震いした。荒涼とした暗闇に
姿見だけがぽつんと取り残されている。注意深く見たならば、鏡面に刻まれた金文字
の『第…回卒業生寄贈』が裏返しだと気付くかもしれない。
ねじ伏せられたときに何処かぶつけたのだろう、後頭部をさすりながら立ちあがった
少女は、ようやく自分が先程までのセーラー服姿ではなく籠目紋様を散りばめた和装
――彼女本来のいでたちに戻っていることに気付いた様子だった。着物の裾から覗く
すらりとした脚が、暗闇にまぶしく映える。
『貴様…タダノ人間デハナイナ?』
背後から湧きあがった不定形の闇が、彼女に語りかける。
「私は加護女。昨夜さらった女の子を元に返しなさい」
しなやかな指が空中に籠目の印を描く。しかし、何の不思議も顕現すること
はなかった。二度、三度とその仕草を繰り返し、小首を傾げる加護女。
『無駄ダ…貴様ノチカラハ俺ガ丸ゴト飲ミコンダカラナ』
ねっとりとした粘液質の闇が盛りあがると、齧歯類を思わせる醜怪な顔が浮かびあがった。
加護女のうなじに生臭い息を吐きかけながら、影男が次第に身を寄せてくる。淡い桜色の
着物にヘドロのような涎がぽたぽたとこぼれ落ちる。獣じみた鈎爪をそなえた両腕が、
やわらかな胸元を乱暴に揉みしだきはじめた。
「こらっ、やめなさ…ひゃッ!」
生暖かい舌にうなじを舐めまわされて、小さな叫び声があがる。脚をばたつかせ必死に
身じろぎしても、力強い鈎爪の抱擁から逃れることはできない。ただ一本歯の下駄だけが
乾いた音をあげて暗闇の底へと転げ落ちていった。
『……ガァァッ!』
首飾りがばらばらにちぎれ飛び、無惨に引き裂かれた着物から両の乳房がこぼれ出る。
透きとおるように白いそのふくらみが妬ましいとでもいうのだろうか、漆黒の舌先は
なめらかな曲線を圧し崩し、執拗に揉みしだいた。
「こ、この……っ!離しなさ……」
じたばたと抵抗していた加護女の貌が、次第に紅潮していく。荒い息遣いが唇から
洩れる。ずるりと体勢を入れ替え、得体のしれない質量をもった闇は華奢な身体に
のしかかった。影男は鋭い牙と鈎爪をたくみに操り、幾重にも固く締められていた
飾り帯を紙屑のごとく剥ぎとった。
『キレイダ…キレイダ…キレイダキレイダキレイダ』
あらわにされた白い裸身に涎を這わせていた怪物は、唐突にその口腔を際限なく
開けると、ぽっかりと広がる暗黒のなかに獲物を放り込んだ。腔内は無数の黒い
絨毛に覆われており、影男が咀嚼に似た動きをするたびにその一本一本が無秩序
に蠢めいては加護女の隅々までを凌辱した。籠目の守護印を甲に描いた右手だけが
ときおり影男の分厚い唇から這い出し、救いを求めるように虚しく藻掻いてはまた
引き戻されていた。やがて加護女の脚は、口腔の奥からひときわ巨大な触腕がせり
だしてくるのを認識した。
「……あァ、なるほど。のどちんこね」
僅かに残された理性を振り絞ったにしてはあまりにもくだらなすぎる戯言を口に
した次の瞬間、それは彼女の下腹部をむりやりに刺し貫いた。激しくのたうち回る
肢体を舌と上顎で押さえつけ、影男はさらに奥深くへと漆黒の肉塊をねじこむ。
やがて、肉壁の全てをこそぎとるような激しい往復がはじまる。
全身をくまなく漆黒に包まれながら、その身で闇の分身を包みこむ白い少女。
内と外との境界が曖昧になっていく。
途絶えることなく聴覚を辱めている淫らな水音は怪物の放つ粘液だろうか、それとも
自身から溢れでる悦楽の証だろうか。もはや加護女に判別がつこう筈もなかった。
どれほどの時間が経過しただろうか。影男はぶるぶると身を震わせ、涎にまみれた
加護女の身体を吐き出した。細身を反らせて痙攣を繰り返すたびに、両脚の奥から
どす黒い溶岩のようなものが溢れ出してくる。
けほけほと咳こんでいた加護女だが、やがてよろめきながら身体を起こすと黒い粘液に
まみれた指先で怪物の頬をいとおしげに撫でさすりはじめた。上目遣いの妖しい表情に
射すくめられる影男。その視線は加護女の泣きぼくろに惹き寄せられて離せない。
「ほら、あーんして」
おとなしい子犬のような従順さで、巨大な怪物が顎を開放する。口腔の奥から自分の腕
よりも遥かに太い異形を探りだすと、加護女はその尖端にそっと慈しむような接吻を与
えた。洞穴のような喉の奥から微かな唸り声が響いてくる。
加護女は脈うつ触腕を両手で丁寧に擦りあげながら、つややかな唇にその尖端を含んだ。
くちゅ…くちゅ…と音をたて、丹念な奉仕が続く。影男が陶然とした表情をみせる。
腐臭をともなう黒蜜が触腕の尖端にひらいた亀裂から湧きあがってくる。その部分に狙い
を定めた加護女は細い舌を亀裂に挿しいれ、その奥に流れるものを渾身の力で吸い寄せ
はじめた。ほどなく限界に達した肉棒から煮えたった漆黒がどくどくと放たれ、加護女の
喉を灼く。だが、それでも加護女の吸飲は終らない。唇の端からどす黒く染まった涎を
垂れ流し、さらなる奥底の闇を絞り出していく。やがて柔らかな異物感が伝わってきた。
漆黒の泉から僅かに姿を現したのは、栗色をした長い毛髪の束に見えた。
ず…ずず…ずずーっ
加護女の唇がそれを容赦なく引き摺りだす。べしゃり、と湿った音をたてて怪物の亀裂から
産み落とされたのは、意識を失ったセーラー服姿の少女だった。
「はい、この子の姿はたしかに返してもらったわよ」
いつの間にか着物姿に戻った加護女が、不味そうに顔をしかめて唾を吐き棄てた。
『ダ、騙シタナァ〜ッ!』
わなわなと影男が怒りに震える。軽快な下駄の音が遠ざかっていく。
『貴様ノチカラハ全テ奪ッタハズナノニィィッ!』
「あら、だって……」
指さした鏡の向こう側に、飴色の輝きを放つ菱形が浮かんでいる。
「籠のなかの鳥は、最初からあなただもの」
宙に浮かんだ籠目の印にこの空間の風景が切り取られている。
――うしろのしょうめん、だぁれ
籠目の影から現れた加護女がぱん、と手を叩くと、何もかもが消滅した。
やがて巡回の警備員が、行方不明の女子生徒を発見することだろう。
月光に照らされて、少女は穏やかな表情ですやすやと寝息をたてていた。