夜の街。人通りのほとんど絶えた道の、闇に溶けこむように疾る影1つ。その背にもう  
ひとつ、影を負っているというのに、その足運びは乱れもせず、足音は完全に殺されてい  
る。  
 影は古びたアパートの、扉のひとつに密やかにたどり着き、素早く中に入った。  
 
 
 ふわり、と畳の上に下ろされて、篠北礼子は薄く瞳を開けた。  
「ここ、は……」  
「我ら影の者が使う隠れ場所のひとつにございます」  
 涼しげな声に視線を向けると、自分をここまで担いできた男が、戸口に戻って外の気配  
を伺っていた。  
 細身だが、鍛え上げられたしなやかな体躯が、小窓から射しこむ月明かりを受けてぼん  
やりと浮かぶ。普段は――一般の生徒に紛れ、『隠れて』いる時は――茫洋としている表  
情が、今は別人のように鋭く引き締まっている。  
 徳成家のお庭番にして、甲賀忍者の末裔。それが彼・各雲斎小鉄だ。  
「追っ手の気配はございません。念のため、明かりは点けずにおきますが、もう大丈夫で  
ございましょう」  
「……手間ぁ、かけちまったね…」  
 重い体を無理矢理引き起こして、礼子は畳の上に座った。といっても、正座はできない。  
両足を前に投げ出して、壁にもたれかかる。いつもの彼女からは考えられないほどの、だ  
らしない格好だ。  
 だが、いまはそれを気にする余裕もない。  
「まだ横になっていらした方が」  
 小鉄が心配そうな顔で寄ってくる。  
「いや…いい。こうしていた方が楽だ……」  
 
 壁に頭をもたせかけ、礼子は大きくため息を吐いた。  
 例によって転校した先で事件に巻きこまれ、相手方に探りを入れていたのだが、罠にか  
かって捕まってしまったのだ。  
「ったく、ドジっちまったねえ。小鉄にまで面倒を掛けて」  
 単身、敵地に乗りこんで礼子を救い出した男は、こともなげな微笑を浮かべている。  
「いえ。これで少しでもご恩返しができたかと思うと、嬉しゅうございます。……敵方に  
は忍びの技を使うのもがおりました様子。女史が不覚をとられたのも致し方ないことかと」  
 そうか、それで……と、ぼんやりする頭で礼子は考える。あんなおかしな香なんぞ使い  
やがったのか。  
 その『香』を吸ったおかげで、礼子は体の動きがままならなくなってしまったのだ。  
「やじさん、は……」  
 危地を脱すれば、気にかかるのは腐れ縁の相棒・矢島順子のことだ。礼子が捕らわれた  
と知って、単細胞の彼女が暴走してなければいいが。  
「上様と一緒に、白妙様のところへ」  
「そう、か……」  
 小鉄の告げた名前に、礼子はホッと安堵の息をつく。  
 上様とは小鉄の主で、名を徳成雪也という。お調子者だが、曲がりなりにも関東番長連  
合の総長だ。頭は回るし腕は立つ。  
 自分が抜けて、白妙の守りが手薄になった分は雪也が埋めてくれるだろう。相手が力任  
せに来るのならやじさんひとりで心配ないが、妙な小技を使うとなれば話は別だ。  
 白妙は、かつては礼子達の敵になったこともある相手だが、今回の事件では守らねばな  
らぬ存在。ガードを固めておくに越したことはない――。  
 礼子は、ギリッと奥歯を噛んだ。  
 自分が足手まといになってしまっている、その現状が苛立たしい。  
(ちぃっ。どうなってるんだい、あたしの体は)  
 
 ――全身がだるい。風邪の症状に似ているが、どこか違う。関節の痛みなどはなく、た  
だ、体が疼くように熱い。  
「具合はいかがでございますか?」  
「……ぁぅっ」  
 小鉄が右手を伸ばし、額に触れた。その瞬間、奇妙な痺れが全身に広がって、礼子は思  
わず身を竦めた。  
 思わぬ過剰反応に、小鉄も驚いて手を引っ込める。  
「……女史?」  
「なんでも……ない、だい…じょうぶ、だ……」  
 だが、そういう礼子の息はひどく荒い。  
 小鉄の眉がひそめられる。この様子はただごとではない。もう一度、今度は俯いた礼子  
の顔色を確かめるために、顔を上向けようと手を伸ばす。  
「さわる……なっ」  
 だが、その手は激しく振り払われた。バランスを崩し、礼子が畳に倒れる。  
「は、…ぁ……」  
 両腕で自分を抱きしめて、何かに耐えるように喘いでいる。その礼子の姿に、小鉄はぞ  
くりと身を震わせた。  
 いつもはきっちりとまとめられている髪が乱れ、貌にまとわりついている。白い頬は紅  
潮し、眼鏡の奥の怜悧な瞳が常にない熱をはらんで潤んでいる。沈着な言葉を紡ぐだけだ  
った唇は薄く開き、紅を差したような艶やかさで男を誘う。  
「女史! いったいどうされたというのです」  
「…こ…ぅ……香を、使われて……」  
「香!?」  
 小鉄は愕然とした面もちになった。これが香の効果だというのならば、心当たりはある。  
ひとつだけ。  
 
「淫蛇の香……」  
 小鉄の呟きを聞いた礼子が、視線で先を促す。小鉄は酷く苦い顔をして、絞り出すよう  
に続けた。  
「淫は陰、陰は蛇に通ず。蛇は体内を侵しその者を獣となす――平たく申せば、媚薬、で  
ございます」  
 一瞬、礼子の瞳が見開かれたが、すぐに自嘲の色が浮かぶ。  
「はっ……どうりで…おかし、な……ことに、なって…る…、と……っ」  
 礼子は言葉を途切らせると、また強く自分を抱きしめて、体を竦ませた。下肢がスカー  
トの下で艶めかしく動く。だがそれに、小鉄は気づかない振りをした。  
「こ…うか、は…っ、いつ、まで……だい……」  
 何という強靱な精神力だろうか。妖しの香に全身を蝕まれながらも、礼子は冷静な思考  
を失ってはいない。  
 しかし――そうであればなおさら、苦しみは深くなる。これはそういう香なのだ。小鉄  
は礼子から視線を逸らした。  
「3日。ですが、香はあらゆる刺激に対して神経を過敏にいたします。……ほとんどの者  
が、3日と持たずに発狂すると聞いております」  
「……なっ…」  
「もうひとつだけ、香の効果を失わせる方法がございます」  
 小鉄は礼子を見ない。ひどく苦しそうなその表情が、礼子は気にかかった。  
「なん、だって……いう、んだ…い。かまわない…から、言っとくれ……」  
「男女の、交わりをいたします」  
 
 
 礼子はわずかに息を呑んだ。体の熱さと変調から、そんなことではないかと予想はして  
いたが、言葉にされるとやはり衝撃は大きかった。  
 彼女に香を使った男の、下卑た笑いが脳裏に浮かぶ。  
「そういう…ことかい……」  
 あのエロオヤジが。心の中で毒づいて礼子はごろりと仰向けになる。  
 香の効果には波があるようで、いまは少し落ち着いてきていた。  
 礼子は軽く瞳を閉じた。  
「他に方法はないのかい?」  
「……はい」  
 小鉄の沈痛な声。忍びの技に精通している彼がそういうのならば、本当にすべはないの  
だろう。  
「3日、か……」  
 はたしてどれほどの苦しみであろうか。自分は耐えられるのだろうか。  
 深く呼吸を繰り返し、気息を整えながら玲子は思う。  
 ややあって、小鉄が躊躇いがちに申し出た。  
「もし、お許し下さるのであれば――」  
「バカをお言いでないよ」  
 ピシャリと礼子は切り捨てた。その選択肢は、はなから彼女の頭にない。  
「あんたが犠牲を払うことはない」  
「犠牲などと」  
「あたしの油断がまいた種だ。手前の尻拭いは手前でやるさ」  
 
「ですが、女史」  
「――仕方なく抱かれるなんざ、まっぴら御免だよ」  
 斬りつけるような鋭い視線で、礼子は小鉄を睨みすえた。  
 それは礼子の矜持であり、意地であった。例え自分の生命が危ういのだとしても、うべ  
なうつもりは全くなかった。  
 礼子の視線を静かに受け止めていた小鉄が、ゆっくりと瞬いた。柔らかかったその気配  
が変わる。それは、今までに礼子が見たことのない小鉄の顔だった。  
「お慕いしておりました……と申し上げたら、いかがなさいますか?」  
「な……」  
 礼子は絶句した。  
「何の…冗談だい」  
 呼吸がかすかに乱れる。体の中を、またじわりじわりと熱が侵しはじめている。  
「冗談ではございません」  
「あんた、宮脇の女帝にでも…毒されたの、かい?」  
 将来、雪也の継母となることが決まっているその女性は、俗っぽいことが大好きなお節  
介で、お気に入りのやじさんと雪也を娶わせようと、何かと画策しているのだった。  
「小鉄の言葉をお疑いですか」  
「ああ、信じ…られない、ね……。あたしゃ、それほど自惚れちゃ……ない」  
 小鉄の頬にごく微かに笑みがのぼる。  
「本当に、お気づきではないのですね」  
 
 他のことには聡明な彼女が、こと自分の色恋になると、これほどに疎くなる。  
 自分に懸想する男がいるなど、露ほども考えたことがないに違いない。  
 楚々と咲く花を好む男もいるだろうが、何ものにもとらわれない風に惹かれる男も、け  
っして少なくはないというのに。  
「いい…よ。こうして、話していれば……気が紛れる。無理に、ぁ……っ」  
 礼子の体が激しく震えた。  
 無意識に足がすりあわされる。熱い。熱い。  
「くっ……」  
 かつて、礼子はその本質が『少女』――女性の気質が少ない、と見立てられたことがあ  
る。それが真実か否かはわからないが、性に対して興味が薄かったのは事実だ。  
 だが、妖しの香は、自慰すらしたことのないその体に、恐ろしいほどの淫欲をかき立て  
る。  
「女史、どうか――」  
「小鉄、三璧鋒をお貸しっ」  
 ぐいと体を持ち上げて、礼子は叫んだ。  
 三璧鋒とは小鉄の持つ忍び武器だ。何に使うかなど、聞かずとも彼にはわかった。自分  
の体を傷つけて、その痛みで香から逃れようというのだろう。  
 邪に屈することをよしとしない、その貴き誇り。  
「――お断りいたします」  
「小鉄っ」  
 
 かろうじて体を支えている彼女の両腕が震えている。耐えがたい熱に苛まれながらも、  
しかし、その瞳はどこまでも毅く輝きを失わない。  
「香は神経を過敏にすると申しました。痛みは苦しみを増すだけでございます。……それ  
に」  
 小鉄はついと手をあげて、礼子の眼鏡を外した。  
「好いたお方が傷を作るとわかっていて、お貸しすることはできません」  
「……っ」  
 礼子が何か――おそらくは制止の言葉を――言いかける。だが、小鉄はそれよりも早く  
唇を重ねた。  
 
「…ぁ……う」  
 目が眩んだ。  
 ただ唇が触れているだけなのに、さざ波のように痺れが全身に広がっていく。  
 待ち望んでいたものが与えられる、その予感に体が勝手に悦んでいる。  
 それでも強く首を振って、礼子は小鉄の唇を外した。  
「お止め、小鉄っ」  
 だが、小鉄は礼子を抱きすくめると、さらに深く口づけを求めてきた。  
「……っ」  
 神経が灼かれる。  
 熱くぬめる舌が歯列をなぞり、上顎をくすぐる。逃げる礼子の舌をとらえて絡ませると、  
強く吸い上げる。  
 思わず閉じた瞼の裏に何度も閃光が散った。  
 震える両腕をなんとか動かして、押し返そうと小鉄の胸板に手を当てる。しかし、そこ  
までが限界で、気がつけば男の白いシャツをきつく握りしめていた。まるで、すがりつい  
てでもいるかのように。  
 だが、どれほどにしがみついたところで、昂る身体は鎮まるどころかますます敏感にな  
っていく。  
 ゾクゾクと絶え間なく走り抜けていくそれが快楽だと、うすうす礼子は気づいている。  
身を任せてしまえば、楽になれると頭のどこかで囁き声がする。  
「ぅあっ!」  
 新たな刺激に、身体が跳ねた。  
 いつの間にか制服の前がはだけて、小鉄の手が入りこんでいる。  
「っ……、…ぁ………」  
 灼かれる。何もかもが灼きつくされる。  
 
 戦慄が背筋をはいのぼる。  
 それは恐怖にも近い感覚だった。  
 常に冷静で取り乱すことのない女だと、これまで礼子は言われ続けてきたし、自分でも  
そう信じてきた。  
 どんな事態に陥っても自分を失うことはないと、その自負が礼子にはあった。  
 けれども――。  
 意識が霞む。  
 香は快感を何倍にも増幅する。身の内で猛り狂う熱が、体の奥を蕩かす痺れが、彼女か  
ら思考を奪う。  
 このまま続けられたら、自分は――。  
「やめ……こ、てつ……、やめとくれ……っ」  
 礼子の声に悲鳴に近い響きが混じる。  
 一瞬、小鉄の手が止まった。  
 けれども、彼はひどく哀しげな顔をして首を振ると、礼子の胸元に顔を埋めた。  
 
 
「――――――――――――っ!」  
 細い体が仰け反り、脚がピンと突っ張った。  
 胸の突起を吸い上げられて、軽く達してしまったようだ。  
 忍びの者として、小鉄は房術の手ほどきを受けている。女体の悦ばせ方も知りつくして  
いるが、それにしてもこの反応は大きすぎると言えた。  
 それほどに香が礼子を煽り立てているのだろう。  
 何が起こったのかわからぬ様子で、呆然としていた礼子の瞳に光が戻った。眦があがり、  
紅く色づいた唇がきりりと引き絞られる。  
 だが、その表情とは裏腹に礼子の下肢はゆるやかに蠢いている。この程度では満足しな  
いとばかりに。  
 
 小鉄はもう一度、唇を胸の頂に寄せた。小鉄が触れる前からそこは真っ赤に充血し、尖  
りきっていた。  
「……っ」  
 柔らかく押し包むように舌で転がすと、ビクンビクンと体が震えた。  
 右手でもう一つの膨らみを愛撫する。少年めいたスレンダーな体躯の礼子だが、衣服を  
解けばそこは小さいながらも女性らしいきれいな丸みを帯びていた。  
 いや……、礼子の中性的魅力に惹かれる女性は多いが、少なくとも小鉄は礼子を少年だ  
と思ったことはない。その線の細さも、肌のなめらかさも、どこまでも女性のものだ。  
「……ぅ、……っ」  
 礼子の唇から熱をはらんだ吐息が漏れる。声は必死に殺しているようだが、その甘さに  
小鉄はゾクリと身を震わせた。  
 常に凛として、何事にも動じない礼子が、自分の手の中で乱れている。  
 怜悧に整った顔が淫蕩にとけて、白い頬が情欲に染まる。濡れた瞳は時に霞み、時に輝  
きを取り戻し、不安定に揺らめいて艶を醸した。  
 香のせいとはいえ、その姿は小鉄の中の男をどうしようもなく刺激した。  
 同時に小鉄は切なく想う。  
 もしも――。  
 このような形でなく、婚礼の初床で抱くことができたのなら、どれほどに幸せであった  
ことか。叶うはずのない夢……身の程をわきまえぬ望みだとわかってはいるが。  
 体勢を変えようと小鉄が身じろぎすると、胸の辺りに引っ張られるような感触があった。  
視線を落とすと、礼子の手が血の気を失うほどきつく小鉄のシャツを握りしめている。  
 小鉄の胸に疼くような痛みが走る。  
 しがみつく指をそっと外して口づける。  
 
 せめて。  
 せめても優しく。  
「ぅ……ふ…………っ」  
 指先でさえ感じるのか、礼子の体が小さく跳ねた。  
 形のよい爪、指、手の甲へと、徐々に唇を滑らせていく。  
「こ…て、つ……」  
 潤む唇に名を呼ばれて、頭の芯がくらくらと痺れた。  
 抱き起こして口づけ、甘い吐息ごと言葉を封じこめる。これ以上名を呼ばれたら、己を  
失ってしまいそうだった。  
 
 
 闇の中で、白い肢体が艶めかしく揺れる。  
 なかに潜りこんだ小鉄の指がくちゅくちゅと水音を響かせると、うつぶせの礼子の体が  
大きくしなった。  
「ぁ……は……っ、……くっ」  
 手の中のものを礼子はギュッと握りしめた。さきほどから、彼女はそれを決して離そう  
とはしない。まるで自己を保つ唯一のよすがであるかのように。――それが小鉄が脱ぎ捨  
てたシャツだと、はたして彼女は認識できているのかどうか。  
 しっとりと汗ばむ背中を唇で辿っていた小鉄は、左肩に残る跡を認めた。それは礼子が  
小田原で受けた銃弾の疵痕だ。相手は違うが、同じものは小鉄の体にもある。しかし自分  
のそれよりも、礼子の傷は重かった。あと少し上に逸れていたら肩の骨が砕けていたであ  
ろうし、下ならば心の蔵を掠めていたはずだ。  
 もしや、ということもあり得た傷。  
 滑らかな肌に残る引きつったような赤い痕に、丹念に小鉄は舌を這わせる。何度も。何  
度も。  
 礼子の背が細かく震え出す。その時が近いのを察して、小鉄は下肢に潜った指の動きを  
早めた。同時に逆の手を前に滑らせて、もっとも敏感な場所を摘む。  
 
「あっ、――――っ」  
 きちんと切りそろえられた髪が乱れ、闇の中に舞う。一瞬、緊張した体が、ゆるゆると  
弛緩していく。  
 白く爆ぜた意識がゆっくりと戻ってきて、礼子は荒い息を吐いた。身じろぎすると髪が  
肩口をかすって、敏感になりすぎた体はそれにさえ反応した。  
 ――だが。  
 まだ、足りない。  
 もう何度達してしまったか数え切れない。なのに体の熱は高まるばかりで、いっこうに  
鎮まる気配はなかった。  
 秘所からあふれ出る蜜は小鉄の手をしどとに濡らし、何かを急かすように胎内が疼く。  
 もっと。  
 体の奥で、求めるものがある。  
 もっと。  
 これでは足りない。指では満たされない。もっと違う何かか欲しいと、獣の本能が告げ  
ている。  
 礼子は歯を食いしばった。どこまで、この体は――。  
「あなたのせいではございません」  
 俯く礼子の耳に優しい囁きが忍び入る。  
「これは妖しの香の力」  
 ――それにつけこんだのは、賤しい男。  
 自嘲の言葉を飲みこんで、小鉄は続ける。  
「あなたが恥じることは何一つとてないのです」  
 小鉄の腕が礼子を包み、彼女を仰向けに横たえた。  
 行為が始まってから、初めて彼が言葉を発したことに、礼子は気づいた。  
 
 熱に霞む視界に小鉄の顔が映る。女性とも見まごう――実際、女装すれば見事な美女に  
化ける――秀麗な容貌が礼子を見下ろしている。  
 そこに浮かぶ表情に、礼子は覚えがあった。切ないような、苦しいような、ひどく哀し  
げな、その顔。  
 あの時から、ずっとこんな顔であたしを――。  
 礼子の体から力が抜けた。小鉄のシャツがパサリと下に落ちる。  
 ゆっくりと腕を持ち上げる。  
 一瞬、瞳に翳りが走ったが、小鉄はすぐに表情を消して、審判を待つ罪人のように身じ  
ろぎしないで待っている。  
 あたたかな手のひらが、小鉄の頬に触れた。  
「そんな、顔して……女ぁ抱くもんじゃ…ないよ」  
 小鉄の瞳が見開かれた。  
 礼子は一度瞼を閉じて――そして、まっすぐに小鉄を見つめた。  
「いい、さ……小鉄。…おいで」  
 次の瞬間、荒々しく礼子は抱きしめられていた。  
 唇が重ねられる。長い長い、息もできないほどの口づけ。それは、今までとはまったく  
違う、感情をぶつけるかのような激しいものだった。  
「女史……あなたは…………」  
 小鉄の声が震えている。礼子は薄く微笑むと小鉄の背に腕を回した。  
 
 
「――っ、う……」  
 引き裂かれる激痛に礼子は呻いた。  
「どうぞお声を……堪えてはお体がなお辛くなりましょう」  
 なだめるようにその背を撫でながら、小鉄は動きを止めた。  
 指で十分に慣らし、できるだけ負担をかけないよう気づかってはいるが、破瓜の痛みだ  
けは取り除きようがない。まして香で鋭敏になった今の礼子は、快楽だけでなく苦痛も何  
倍にも感じるはずだった。  
 
 小鉄は抱きしめた礼子の首筋に舌を這わせた。  
「……っ」  
 ピクリ、と礼子が反応する。  
 舌先でくすぐりながら、透きとおる肌をゆっくり昇っていく。たどり着いた耳たぶを甘  
噛みして、穴の中に舌を差し入れた。  
「――ぁっ」  
 痛みで醒めかけていた肌がふたたび火照りだす。  
 小鉄の掌が乳房をおおって、優しく揉みしだく。5本の指がやわやわと動いて、ときお  
り先端を掠めるとビリリと背筋に電流が走った。  
 ぼんやりしかけた礼子の意識を、下腹部の痛みが引き戻す。  
 そろり、そろりと小鉄は進んでいく。その手の愛撫も止まらない。  
「く、……っあ…――――」  
 礼子は首を振った。  
 痛みと快感、両極の感覚が綯い交ぜになって、神経が引き裂かれそうだった。背中を絶  
え間なく走る電流がもはやどちらのものか、礼子にはわからない。  
 無意識に逃れようと体が上にずり上がる。だが、小鉄の腕が絡みついてそれを止める。  
その優しい軛から逃れようと体をよじった瞬間、今までに感じたことのない痺れが胎内に  
走った。  
「……っ」  
 身を竦ませた礼子に何かを感じたのか、小鉄が探るように腰を動かした。  
 ある一点で、またも切ない痺れを感じて、礼子は息を呑む。それは今度はすぐには消え  
ずに、じわじわと広がり礼子を包んだ。  
「うっ……、ぁ、…………や、やめ……こてつ…っ」  
 いっそもどかしいほどの動きで、小鉄のそれが内壁を擦る。そうかと思えば、一気に引  
き抜き、深々と抉る。特に『その場所』を重点的に責められ、礼子はたまらず声をあげた。  
 
 痛みはある。  
 あるけれども、今は胎の奥から間断なく生み出されていく痺れがそれを凌駕していた。  
 どうしようもない疼きに体をくねらせる。自分の中を行き来する熱が彼女を内側から炙  
りたてていく。  
 熱い。  
 獣のような短く荒い呼吸が耳を打つ。それが自分のものか、小鉄のものか、すでに礼子  
にはわからない。  
 熱い。熱い。  
 意識が霞む。神経がぐちゃぐちゃに掻き回される。体の奥から急速に何かが膨れあがっ  
ていく。  
 礼子の肌が粟立つ。見知らぬ感覚への恐怖。同時に肉体の圧倒的な歓喜。  
 焦がれに焦がれていたものが、今、与えられる――!  
「あ、あ、あ、あ……!」  
 いっそう深く貫かれて身体がひとりでに躍りあがる。しなやかで力強い小鉄の腕が礼子  
を抱きしめる。  
 息すらもできない。  
 焔が一気に全身を駆け抜け、礼子の理性の最後の一片を連れ去っていく。  
「あ、ああああ――――――――っ!」  
 抑制をはずれ、堪えに堪えていた声がついにのけぞる喉からこぼれる。  
 灼熱の塊が礼子の中で爆ぜた瞬間、彼女の意識は弾け飛んだ。  
 
 
 鼻をつく臭いに礼子は目を覚ました。  
 一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。  
 しかし、すぐに状況を思い出す。あわてて身を起こしてみれば、体はすっかり清められ、  
清潔な浴衣に着替えさせられている。下腹部の鈍い痛みがなかったら、あれは夢だったの  
かと思うところだ。  
 
 枕元にあったメガネをかけて、礼子は部屋の中を見回す。  
 狭いアパートの中だ、目的の相手は間をおかず見つかった。  
 戸口を入ってすぐに、ごく小さな流しとバーナーが1つしかないガスコンロが据え付け  
られている。台所と呼ぶには狭すぎるそのスペースで、なにやら作業をしているようだ。  
部屋に充満する臭いも、そこから生まれているらしい。悪臭とまではいかないが、奇妙に  
青臭い。  
 何をしているのかは少し気になったが、それより礼子は現状確認を優先させた。  
 軽く手をぶらぶらと振ってみる。拳を握ったりもしてみたが、もう問題なく動く。香の  
影響はどうやら完全に脱したらしい。  
 そろそろ夜が明けるのか、カーテンを引いた窓の向こうが仄明るい。  
 朝になったら――前髪を掻きあげながら、礼子は思う。  
 やじさんに連絡を取らなければ。きっと心配しているに違いない。それから貴子さんに  
手伝ってもらって情報収集を。剣望くんも協力すると言っていたからお願いしようか。  
 そして、もちろん例の香を使った忍びに、きっちりとお返しをしなくてはならない。  
(やるこたぁ、いっぱいあるね)  
 考えこんでいた礼子の鼻先に、小さな湯呑みが差しだされた。小鉄が戻ってきたのだ。  
 湯呑みの中には、何やら得体のしれないうす茶色の液体が入っていた。  
「これをお飲みください」  
「何だい?」  
「……精を殺す薬湯でございます。朝になったら病院にお連れいたしますが、取り急ぎは  
こちらを」  
 香の効力は、胎内に男の精を受けなければいつまでも続く。礼子の体を気づかいながら  
も、小鉄は彼女の中に吐精するしかなかった。  
 礼子が薬を飲むのを確認すると、小鉄は後ろに退いてぴたりと手をつき、深々と頭をさ  
げた。  
 
「いかに香を鎮めるためとはいえ、男として許されぬ無体をいたしました。詫びるとてお  
詫びのしようもございませんが、どうか」  
「よしとくれ」  
 小鉄の言葉を、ぴしゃりと礼子は遮った。  
「せっかくだから薬は飲んだけどね、病院にも行かないよ」  
「女史」  
 反論しようとして顔を上げた小鉄は、ひやりと冷たい、怒りを含んだ視線に晒された。  
 当然のことだ、と小鉄は思った。しかし、礼子の怒りの理由は、小鉄が予想したものと  
は違っていた。  
「病院なんざ必要ない。あたしに覚悟がなかったとお思いかい。――それとも、詫びるよ  
うなことだったのかい? 詫びて、なかったことにしちまえる、その程度のことだったの  
かい」  
 うなだれていた小鉄が、ハッと顔を上げる。  
「言ったはずだよ、仕方なく抱かれるなんざ真っ平ごめんだと」  
「決して」  
 大声ではなかったが、確かな強さで小鉄はいらえた。礼子の視線を今は真っ向から受け  
止めている。  
「決して、我が言葉に偽りなく――お慕い申し上げております」  
 礼子は言葉に射抜かれたような奇妙な錯覚に囚われて、思わず視線を逸らした。  
「……恥ずかしいことを言うじゃないか」  
「言わせたのはそちらさまでございましょう」  
 小鉄が苦笑する。  
 それは確かにそうなのだが、正面切って言われるとどうにも照れくさい。  
 所在なげに手の中で湯呑みを弄んでいたいた礼子を、小鉄の手がゆっくりと抱き寄せた。  
一瞬だけ身を固くして、すぐに礼子は身体の力を抜く。  
 
 ふと、彼女はあることに気がついた。  
(そういやあ……出なかったね)  
 ある一件で、極度の男性嫌悪症におちいってしまった礼子は、男に触れられると、それ  
が誰であろうと無条件でじんましんが出る体質になっていた。  
 香の効果で出なかったのかと思っていたが、いまだに大丈夫なところをみると、違う理  
由であるらしい。  
「そういうことかい」  
 礼子はくすりと笑った。  
「は?」  
「何でもない。こっちの話さ」  
 しばらく逡巡した後、礼子は気になっていることを聞いた。  
「いつから……と聞いてもいいかい」  
「女史らしくもないご質問を」  
「野暮は承知さ」  
 小鉄は少し思案する様子になった。  
「はっきりと区切れるようなものではありませんので、しかとはわかりかねますが……そ  
うと意識したのは、もうお逢いできないかと覚悟したときでございました」  
 小鉄がいつの話をしているのか、礼子にはすぐにわかった。同じ言葉をかつて聞いたこ  
とがあるからだ。  
 あれは礼子たちが尾張の宝生高校に転入したときのこと、小鉄はあわや邪険の生け贄に  
されそうになったのだ。  
 想い出はさらに追憶を呼び、礼子の脳裏にひとりの男の顔が浮かんだ。  
 自分が片目と未来を奪ってしまった――萩間剛。  
 外国で手術を受けて成功したと聞いたが、それからさっぱり音沙汰がない。  
 いったいどうしているのだろうか。  
 
 遠く思いを馳せている礼子を、小鉄はただ黙って胸に抱いていた。  
 礼子が誰のことを考えているか、彼は察していた。  
 正直に言って嫉妬を覚えないわけではないが、礼子にとって剛は特別な存在だ。  
 生々しくぱっくりと開いた、過去の傷。剛との和解を果たしたとはいえ、癒えるにはま  
だ時間がかかるだろう。  
 尾張での一件――邪険の一派に剛が関係していると知ってから、礼子は痛々しいほどに  
張りつめていた。あの時、小鉄は初めて礼子に脆さを感じたのだ。  
 己の感情を外に出さず、閉じこめてしまう礼子だからこそ、その感情に侵蝕されてしま  
うこともあるのかもしれないと。  
 いつだと問われれば、あの時だと小鉄は思う。  
 主持ちの身で、しかも実力も及ばぬのに守りたいなどと、不遜の気持ちを抱いてしまっ  
たあの時から。  
 誇り高い彼女には、決してうち明けるわけにはいかないが。  
「……何を考えているんだい?」  
「――何も」  
 穏やかな礼子の問いに、穏やかに小鉄は返す。  
 朝日が昇るまでのわずかな時間、2人は互いの温もりに包まれて、心地よい沈黙の中に  
たゆたっていた。  
                         (終)  
 
 

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