「今日はいい事をしに行くんです!」  
品川大地の顔を見るなり、足立花は元気に声を上げた。  
 
「……で? なんで俺を待ち伏せしてんだよ」  
校門を出てからの道を、肩を並べて駅の方角に向かいながら、大地は呻いた。  
「決まってるじゃないですか、品川君も一緒に行くからですよ」  
細いお下げとマフラーの尻尾を軽やかに弾ませながら、花が笑う。  
「毎日一つずつ善いことをするんです! あれですよ、ほら、えーっと」  
「……一日一善だろ?」  
「今カンニングしましたね、品川君」  
自分が知らねぇからって濡れ衣はやめろ、という声は心の中に納めて、大地は  
足を止めた。花も不思議そうに立ち止まり、前髪の下から大地を見上げる。  
「じゃ、俺はここで」  
「ちょっと待って下さい! そっちの方向じゃありませんよ!」  
マフラーを後ろから力任せに引かれ、窒息しかけながら大地は喚いた。  
「そんな標語みてぇなことやってられっか! 一日一善は学級委員には  
似合ってても、俺にゃ向いてねぇよ。分かったらさっさと手を放せっての」  
「そんな、困ります!」  
言葉通りの困り顔で花も叫んだ。道端で立ち止まり騒ぐ二人に向けられる通行人の  
視線が冷たい。大方、高校生カップルの痴話喧嘩か何かと勘違いされていそうだ。  
浮気性の横暴男と、健気な三つ編みの優等生といったところか。  
(だが、憑かれてんのは俺の方だ! つか、カップルですらねぇし!)  
マフラーの端を握り締めた花は、必死の形相で食い下がる。  
「今日行くって約束しちゃったんです! 相手だって待ってるんですから!」  
「……相手?」  
うっかり聞き返し、しまったと思った時には後の祭り。  
人目を避けて移動した公園の噴水の縁石に腰掛け、花は大地の苦手な上目遣いで、  
ぽつり、ぽつりと話し始めた。  
「昨日、電車の中で人助けをしたんです。具合の悪そうな人がいて――」  
 
さほど混み合ってもいない車輌の中、息を切らし、背後から花にもたれ掛かって  
くる男がいた。気分が悪いなら、座ったらどうですか? と勧めれば、男は  
『座席はお年寄りや妊婦さんのために空けておくべきだから』と言い、代わりに  
少しだけ花に凭れさせてくれないか、と頼んだ。  
いたく感銘を受けた花は『どうぞ任せて下さい!』と拳で胸を叩き、次第に  
呼吸の荒くなる男をベッタリとしがみつかせたまま山手線を一周したのだという。  
「で、降りた時にはぐったりしてたんですけどその人、もっといいことしないかって  
言われて、でもかなり体が弱そうだったから何かあったときに一人じゃ心配で――」  
「おいおいおい!」  
矢も盾もたまらず、大地は花の話を遮った。  
「そりゃ痴漢だろうがよ! なに好きに触らせてんだこのアホ!」  
「えっ?」  
アンバーのセルフレームの奥の目がきょとんと瞬いた。  
「大体なんで路線を一周しちゃってんの? おかしいと思えよ!」  
「で、でも……何だか死んじゃうようなことも言ってましたよ?」  
「何て言ってたんだよ」  
「『ダメだ、逝く』って――」  
大地はいつの間にかフィルタを噛み潰していた煙草を吐き捨てた。殊更時間を  
掛けて丁寧に踏みにじる。困惑した表情の花が、大地の足下にちらりと非難の  
眼差しを向けた。  
「……どうして品川君が怒ってるんですか」  
「さあな。別に怒っちゃいねえよ」  
「嘘です。怒ってるじゃないですか」  
どうして、だと? おまえが俺にそれを訊くのか。  
大地は無言で嘆息した。花が気遣わしげに大地を見遣る。最初の元気は跡形も  
なく、肩にかかるお下げすらしおらしげだった。  
「それよりおまえ、行くのかよ」  
花は一瞬視線を彷徨わせ、悔しげに唇を噛んで大地を睨んだ。  
「……大体、品川君は現場を見てないのに、本当に痴漢だったかどうかなんて  
分からないじゃないですか」  
 
「はァ?」  
思いもよらぬ反駁に、大地はぽかんと口を開けた。言い負かされることが  
悔しいのか、それとも痴漢に遭ったことを認めたくないのか、三つ編みメガネの  
エセ優等生は言い募る。  
「人を痴漢扱いするなら証拠を出して下さいって言ってるんですよ!」  
「んだとぉ?」  
大地の忍耐もここまでだった。ギリ、と奥歯が軋る。立ち上がった勢いに任せて、  
ぐいと花の手首を掴んだ。不意を突かれた花の膝から鞄が滑り落ちて、  
重たげな音を立てた。  
「だったらそいつが何したか、見せて貰おうじゃねえか。途中で嫌だっつっても  
聞かねぇぞ」  
花は怯む様子もなく、レンズの奥から大地を見返した。  
「上等です。最後に謝るのは品川君の方ですからね」  
 
茜色の残光が色を薄め、藍の帳が降りてくる。木立に囲まれ昼間でも薄暗い  
公衆トイレの裏は、一際濃い影を蟠らせていた。少し前までちらほらと聞こえた  
子供の声も散り散りに消え、今はもうない。  
向き合った花の表情は硬い。喜怒哀楽の素直に出る、どこまでも解りやすい女だと  
思っていたが、今の感情の在処は掴めなかった。  
――こいつにこんな真似、本当は。  
そう思いながら立ち尽くす自分が馬鹿なのだとは解っている。しかし、ここに  
来て後には退けなかった。売り言葉をまともに受けたのも自分なら、挑発に  
挑発で返した花にたじろいでいるのも自分だった。  
(冗談です、なに本気にしてるんですかって言えよ。……でないと)  
沈黙に耐えかねて手を伸ばす。恐る恐る頬に触れた手はすげなく払われ、  
大地は息を呑んだ。  
「そんなこと、されてませんよ。後ろからだって言ったでしょう」  
 
「……だったら、アンタが後ろ向けよ」  
花は黙って大地に背を向けた。拳を叩き付けたい程の不快とともに、ぐるりと  
腹の底で熱が蠢く。濃さを増す闇も下がり続ける気温も気にならなくなった。  
――いちど本気で後悔させてやる。  
肩に手を掛け、後ろから力を込めて抱き竦めた。細身の体が蹌踉めく。触れ合った  
部分に体温が移る。  
三つ編みメガネは声も立てない。電車のそいつも、同じようにしたのか。  
それでその相手に、のこのこと付いていくつもりだったのか。  
この、どうにもならない気持ちを、何とかしやがれ畜生。  
「言えよ、何されたのか」  
ダッフルコートの上から体の線を撫でる。まだ何も言わない。トグルを一つずつ  
外していく。初めて、花が腕の中で身動いだ。息苦しさから逃れるようにひとつ喘いだ。  
それでも、言葉はない。  
空いたコートの隙間から手を差し込む。内側は暖かかった。自分の手が相当冷えて  
いることに気付いたが、すぐに冷気が忍び込み、温度を奪っていく。  
制服の上から胸に手を当てる。エンブレムの硬い手触り、その下の確かな質感から、  
規則正しい鼓動が伝わってくる。  
ここまできて何も言わない理由など考えたくなかった。  
手荒くネクタイを弛め、シャツの釦を外す。小さく呼吸が揺れた気がした。  
このくらいで止まるか。服の隙間から手を突っ込み、下着に包まれた乳房を掴む。  
AVやエロ雑誌で妄想だけは幾らでもしたが、本物の柔らかさと弾力に、意識の  
どこかが少し呆けた。  
暖かく乾いて滑らかな肌には鳥肌が立っている。大地の手が、冷たいからか。  
掴み上げるように揉み、力を弱め、また掬い上げる。花が短い息を吐いた。  
下着の頂点をグリグリと指で押して窪ませ、すぐに盛り返す其処を抓むように  
刺激すれば、花は大地の腕の中で小さく声を漏らし身を捩った。  
心なしか、触れている肌の奥の熱が増した気がする。甘いシャンプーの香りが  
鼻孔を擽る。制服を乱され身を捩る姿を正面から想像して、それが誰かという  
ことも構わず、赤い布を振られたようにただ視野が狭まり、目の前が灼熱した。  
 
何も考えられず、太腿からスカートの中に手を這わす。性急な手の動きに花の  
腰がビクリと震えた。  
「や……」  
「言う気になったかよ、足――」  
「やめてください! ――品川君なんか……」  
 
キライです、と続いた筈の、その言葉は聞こえなかった。  
 
「あ……」  
頭の中が酸欠状態のようにぼうっとしている。自分の脈の音が煩い。  
力の抜けた腕から花はするりと逃れ、大地と向き合った。  
ネクタイは大きく緩み、はだけられたシャツの隙間から白いレースが覗いている。  
前髪が深く目元を覆い隠していた。唇を固く引き結んでいる。  
泣いているのかどうかは判らなかった。  
「……足立」  
押し出した声は喉の奥に絡まり、自分の耳にも奇妙に掠れて響いた。  
「悪かった」  
白い膝頭が薄暗がりにぼんやりと浮かんでいる。  
「俺がやりすぎた、……悪い」  
「……本当に、そう思ってますか?」  
花がようやく口を開いた。  
「思ってる。……謝って済む事じゃねえけど、反省してる」  
「本気で反省してるんだったら、私の言うこと聞いてくれますか」  
「ああ、何でも聞いてやる。だからよ、その――」  
 
「ほら、言ったじゃないですか。最後に謝るのは品川君ですよって」  
ヤンキーとしての見栄も意地も捨てて口から出かけた懇願は形にならないまま  
喉の奥に消え、大地はポカンと口を開けたまま、……花の笑顔を見てもう何も  
言えなくなった。  
 
やられた。完敗だ。もういい、どうでも好きにしやがれ。『途中で嫌だっつっても  
聞かねぇぞ』だと? 何そのダッセー科白。今時流行んねえよクソが!  
 
あれ以上やらなくて善かったという安堵と、ああやッぱりもっと触っときゃ良かったと  
今更の後悔が同時に吹き出して、ふわりと熱を帯びた胸郭で渦巻き、どうしようもない。  
ちょっと後ろ向いてて下さい、服を直しますから、と言われ、背中でゴソゴソと  
衣擦れの音を聞きながら、耳朶の熱さを自覚する。きっと空気が冷たい所為で、  
そう感じるだけなのだろう。  
「品川君」  
振り返れば、コートとマフラーできっちり着膨れた、いつもの足立花がいた。  
「言うこと聞いてくれるって言いましたよね」  
「……ああ、言ったな」  
肩を並べて歩きながら、さっきの不本意な出来事を思い返す。思い出すのも癪では  
あったが、シャンプーの香りとあの柔らかさは夢に出そうな気がした。  
「じゃあ、明日から一週間、毎朝三十分早く登校して下さい」  
どんな無理難題が降ってくるのかと思えば、一週間の早起きときた。普段なら  
即刻突っぱねるところだが、ノーと言えない弱みが辛い。  
「……で? 早く登校して何すんだよ」  
どうせろくでもないことだと思いつつ聞けば、花はニコリと笑ってメガネを押し上げた。  
「校内の美化運動です。全校一斉の『一日一善週間』の一環でですね、品川君は  
校門前の清掃の担当を――」  
「おい、メガネ」  
「はい?」  
「一日一善は止めろこの無神経!」  
濃紺の空から、乾いて冷え切った空気が降りてくる。明日は絶好の清掃日和に  
なるかもしれなかった。  
<了>  
 

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