菊地秀行著『夜叉姫伝』より
ゆらゆらと揺れる水面に、一艘の小船が浮かんでいた。たぎるような陽光に照らされながら、一人の青年がそこに横たわっている。四方を峨々とそびえる山脈が多い、そこに見える銀の筋は滝だろう。
青年は美しかった。いや、美しすぎた。美しいと言う言葉が陳腐に聞えるほどに。青褪めたその肌に触れるたびに風は光をまとい、鬱屈とした光を宿す瞳に見つめられるたび、大自然の産物たちは羞恥に身悶えた。
その、美の神と造形の神が合力の果てに生み出したような奇蹟の美。
普段は春爛漫、のんびりとした雰囲気が漂う美貌には、今は背徳的でさえある、暗い暗黒の美が漂っていた。青褪めた肌、気だるい雰囲気、首筋にのぞくうじゃけた二つの小さな穴。
それは正しく伝説の妖魔吸血鬼の犠牲者の姿ではないだろうか。
吸血によって重く感じる体を横たえながら、青年が黒瞳を青空に向けた。
そこにぽつんと浮かんだ黒点が見る見る内に大きくなり、やがて女の姿になって青年のすぐ前に降り立った。
純白の単衣を纏った中国風の女だ。船は揺らぎもしない、重力と言うものを無視した動きだ。
そして女が青年の前に立った瞬間、世界の全てが絶叫した。青年さえ上回る女の美貌に。絹糸の様に風に流れる髪にも、青年を見つめる瞳にも匂いたたんばかりの気品があふれ、
雪さえも黒ずんで見える肌に鮮やかに浮かぶ赤い唇は愉悦に歪んでいた。
クレオパトラの故事が話にならぬほど完璧な鼻梁、時代や人種、すべての美の基準を一蹴する完全なる美貌の女。
単衣を大胆に押し出す乳房を揺らしながら、女は、青年の体にもたれかかった。青年が鬱陶しそうに
「こっち来るなよ。あっち行け」
としっしと手を振る。吸血されたとはいえ、されきってはいなからある程度自我は残っている。
もともと超人的な精神力の主ということもある。女は気にした風もなく青年に体を預けた。二人の体の間で二つの肉がぐにゃりと潰れる。
「ふふ、今だそのような口を聞けるとはな。殷や周、夏でも時の天子が我を忘れてむしゃぶりついてきたものだが」
この台詞も、古代中国の三王朝を滅ぼした悪女その人であるこの女吸血鬼ならではの台詞だ。
女はいとおしげに、その触れる者が恍惚と蕩ける指で、青年の顔を愛撫する。青年はあくまで鬱陶しそうだ。
女がその気になれば指先一つで男を性の快楽に陥れる事もできるが、今は純粋な愛玩の動きだった。
単衣の裾から零れ出る女の太腿にはどっしりとしたあぶらが乗り、そこに滲み出すような官能が詰まっていた。
すべての毛穴から滲み出すような、麻薬などよりはるかに効果的で淫靡な、色香と言うな物質。
「憎い男、愛しい男。私をここまで虚仮にした男はいなかった。また執着させた男もいなかった。
せつらよ、お前が、愛してもいない私に愛していると言うまで、私はこの世の全てが恐怖に陥る責め苦を与えるのを厭わぬぞ。ほほ、世界の全てが私を呪おうとも、その声のなんと心地良いことか」
女の唇がにいっと吊り上り、神々しいほどに輝く純白の歯が覗いた。誰もがその歯に自らの咽喉を食い破られる様を思い、限りない背徳の快楽に身を悶えるだろう。
その歯に頚動脈を咬み破られたい、荒々しくでもそっとでも良い、血を吸って欲しい、この女の一部になりたいと、心底思わせる歯だった。
「マゾヒストめ。サディストかと思ったら両方か。いい病院を紹介しようか? 一生そこで療養するのが世の為だ」
例外はどこにでも居るらしかった。せつらと呼ばれた青年は、人の良さそうな茫洋とした口調のままで、女を罵る。
女のこめかみに青筋が浮かぶも、それを悟らせぬ笑み浮かべた。
「その口も何時まで聞けるか楽しみよ。お前はこれから私の下僕となって永劫の時をさまようのじゃ。
好きな時に吸い、好きな時に舞い、好きな時に眠り、好きな時に起き、私の好きな時に抱かれてな。第一、お前の紹介する病院の主、さしずめメフィストは劉貴に咬まれて、我が下僕の下僕よ」
偽りのこの世界の陽光に身を晒しながら、女は唇をせつらの首筋に這わせ、自らが噛み付いた吸血の痕を、口かたら伸ばした赤い舌でねっとりと舐めた。傷跡を円を描くように舐め、穿たれた穴に差し込んではぴちゃぴちゃと舐め啜る。
その音だけで、性に長けた男と女が狂いそうな淫らさだった。
「んふ、お前が自ら血を吸わせるようにするまで随分てこずらせてくれたの。お前の血の味も一塩じゃ」
吸血痕から舌を離し、銀の糸を結びながら、女が欲情と憎悪を交えた瞳でせつらをねめあげる。
串刺し公の脳髄を焼いたあの魔眼の光こそないが、そこに宿る凶念は負けず劣らずだ。
「くすぐったいよ、お前はネコか。<新宿>だけでもお前のせいで数百人は死んだ。吸血鬼になったものはもっと多いだろう。
責任をどうやって取るつもりだ? この考えなしの無責任女」
「さて、吸血鬼でさえ生きる権利があるのがこの街であろう。長老が守ろうとした二百人の夜の一族どものようにな。それに私は好きなように生きると申したはず。
私以外のものの意など、ふん、どうでも良い」
「長老はお前が滅ぼしたし、戸山の人達(?)は自衛隊の核爆弾で吹っ飛んでしまったよ」
つまらぬことをいうなと、唇を寄せてきた女を、顔を背けてやり過ごし、せつらはぼんやりと木立の向こうを向いた。
木陰からこちらを見ているのは、中国伝説にある白虎だろうか。
せつらの鼻をかぐわしいにおいがくすぐった。血の産湯に浸かって生れ落ちたようなこの女吸血鬼にも、身だしなみと言う概念はあるらしかった。
女はすっと膝立ちになって指で縦にまっすぐ単衣をなぞった。指の跡にしたがって、単衣が名刀に切られたように二つに分かれ、女の膝にわだかまった。
「それこそ私の知ったことではない」
「四千年、いや六千年以上か、長生きすると碌な事にならないらしい」
「私はこの世に呪われながら生れ落ちた時からこうじゃ。時の流れでは私を変えられぬ。不死者にも、永劫の生にあきる軟弱者はいるようじゃがな」
女は一糸纏わぬ裸体をせつらに晒していた。音を立てて揺れ動く大きな乳房も、その先に色づく朱鷺色の乳首も、妖しくヌメヌメと艶光る肌も、風にそよぐ黒い茂みも。
何もかもを。膝立ちの姿勢から、せつらに秘所さえかまわず見せつけて、自分の指で乳房を押しつぶした、指の間から、白い肉がぐにゃりと零れでる。
「ふふふ、あと二度お前の血を吸えば、お前は脈打たぬ心臓に変わる。ふふふ、どれほど待ち焦がれた事か、せつらよ、誇るが良い。
この私をここまで焦がせた事を、私が血を吸いたいと願ったわずかな男たちの新たな一人である事を」
「頼んでもないのに送りつけてくるダイレクトメールだね」
せつらののほほんとした皮肉を無視して、女は自分の指を秘所にあてがい、大胆にもぐりこませて蠢かす。
ああっと桃色の吐息が、女の唇から盛大に零れ出した。その吐息だけでも性に狂わせる麻薬の成分が色濃く大気に混じった。
重くかぶりつきたくなる乳房を思う存分こね回し、快楽の源泉たる秘所に、自分の指を何度も出し入れさせながら、愛しい犠牲者の上で悶える。
せつらはぼうっとした眼でそれを見ていた。生まれたときからこうなんじゃないかという茫洋ぶりだ。
女の体から官能の汗が滴り落ちて、白い肌は桜の花びらのような色に染め上がる。女が自分の技巧と、せつらに見せつけていると言う状況によっているのだ。いまやぐちゅぐちゅと粘性の高い水音を立てて、秘所をまさぐる女の指はねばい雫を滴らせている。
しなやかな柳腰は逞しい男のものを求めて動き、大きな乳房をこねる指は意思を持った生き物のように卑猥に動く。
せつらの黒い衣服にポタポタと汗と淫らな液体が染みを作ってゆく。せつらが秀麗な眉を寄せるが、クリーニング代を気にしているのだろう。この青年なら。
乳首をつまみあげ擦り、思う存分淫楽にふける女の指が、今度は背中の側に回された。あてがわれたのは、白くて大きくうまそうな、白桃のような尻の菊門。戦車の複合装甲すら貫く指を二本そろえて躊躇う事無く尻穴に差込み、ああ、と大きく悶え狂う。
両手で前と後ろの性穴を自らの手で貫き、悦楽にふける女。
「ああ、はああ、もっとじゃ、もっと抉れ、せつらよ、目をそらすな、そらすでないぞ? ああ、これが私じゃ、この私が求めるのがお前じゃ、離さぬ、決してはなしなどするものか、貴様は未来永劫私のものじゃ。
あっんんん! たとえこの星が死そうとも、荒廃した大地を当てもなく彷徨うもまた一興、ああふ、んああ。ああ、せつら、せつら」
「人を勝手に使うな。訴えるぞ」
せつらの迫力に乏しい訴えを無視して、女は快楽の頂き目掛けて燃え上がっていた。
天を仰ぎ、体のうちから溢れ出る性の快楽を逃さんとしていた女が、不意に、首を垂らし、ぐわっと牙を剥いた。
せつらの目が、はん? と少し動く。
ああ、見よ、女の神々しいまでの白い歯が、今は赤に染まってる。杭の様に競出た二本の犬歯のように鋭く延びて、求めるものの如く鮮烈な赤に変わっているではないか。
吸血鬼としての性をむき出しにした女の顔が、せつらの目を引いた。
月光に揺れる月下美人も、爛漫と咲き誇る白百合も、大輪の薔薇も恥じらいに枯れ果ててしまいそうな美貌が浮かべるその邪悪。
夜の魔の、根源的な邪悪を一身に集めて体現したのがこの女なのだろう。
この世のものならぬ美とは、すなわちこの世ならぬ邪悪に等しいものか。
そして女は自ら掬い上げた乳房に、自分の牙を突き立てた。杭の代わりに突き立てられた赤い牙は、タラタラと女自身の血を零してさらに朱に染まる。
乳首を濡らし、吸い付くような柔肌を赤い帳で覆って、か黒い茂みを通ってせつらの服に新たな染みを作った。
性に昂ぶりその果てに自らの血を求めて牙を突きたてる。なんという女か、なんという魔物か。
ごくりごくりと、赤い血が、女のまばゆい咽喉を鳴らして流れ込み、女の唇から同じ色の筋が流れ落ちる。
唇を、首筋を、体を自分自身の血に濡らして、ようやく女が満足そうな吐息と共に牙を離した。
腹を満たした餓虎のように満足げな吐息を、赤い唇から零し淫液に濡れた両の手で、それを顔になすりつけ、体中に赤いものが塗られていく。
自らの血の匂いと香水と淫臭の混じりあう船の上で、妖しく女はせつらを見下ろした。
「どうした? 物欲しそうな目をしておるではないか。私の血が欲しいか、私が欲しいか? くくく、まだなりかけとはいえ、数千年の時が醸造した我が血の美酒、さぞや甘美であろうな」
「さてね。どうすれば斬れるか考えていた。試してもいいかな?」
強がりとも取れるせつらの台詞に、女はあっさりと首を縦に振って見せた。古代中国の三王朝を滅ぼしただけ合って、ここらへんは剛毅なものだ。
しかし、幾ら自分の下僕になりかかっているとはいえ、どうすれば滅ぼせるか考えていたと答えるせつらの精神はどうできているのだろう。ましてや、女の答えは
「ふむ、やってみよ」
だった。言い終えると同時に、女の体に縦に一筋の朱線、さらに首を輪切りにする線が走った。
数瞬、それは赤く留まっていたが、女の唇が笑みを浮かべるやたちまち消え去った。
朱色の線が走る前に、せつらの指がミリ単位で動いていたのを、女は確かに認めていた。
魔人秋せつらの妖糸だ。千分の一ミクロンの、チタン鋼の糸。最大射程数万キロ、錬金加工や特殊電磁加工、マクロ細胞処理を施された糸は、せつらの意思に従ってあらゆる敵を斬殺する。
不死の再生能力を誇る夜の一族さえも、その分子レベルの再生を許さぬせつらの技と糸だが、今回ばかりは相手が悪かった、体調の不備を差し引いてもこの女を滅ぼせないのは実証済みだ。いかんせん、核爆発の直撃でも死なない、いや滅びない女だ。
「満足か? 無駄じゃ無駄じゃ。お前の糸は、関羽の剛剣や義の霞み刃より数等上、私を斬る事はできても滅ぼせはせぬ。私がこの世から滅び去るのは私が真に絶望した時のみ。この世に生きていたくはないと真に心から願ったときのみよ。
そして私ほど生を謳歌するものはおらぬ。それが不死者とは皮肉よな。さて、せつらよ覚悟せい」
百万度の粒子ビームやレーザーでも断てぬせつらの妖糸を、指先一つで断ち、女がまたせつらの上に倒れ掛かり、首に顔をうずめた。
「がぶり、ちゅうか。蚊の親戚め」
ちくりとした二つの痛み。唐突に体から熱が奪われ、更に根源的な生命が吸い尽くされてゆく感覚。澱の様にかさなる不快な何かが、
呪いとなって体に蓄積し、生命を死せる呪われたそれに変えてゆく。せつらは、うっと呻いた。
やがて、せつらから離れた女の唇は、新たな血潮に濡れていた。せつらの。
「せつらよ、次じゃ、次でお前は私の下僕と成り果てる。屈辱と恥辱と苦痛、汚穢なる泥濘に塗れて、その魂を私に屈するが良い。あっはははははははははははは」
天上の神さえ戦慄に襲わせる天魔の哄笑とは、きっとこれだろう。静謐な水面は波しぶきを上げ、天はどよめいて曇り、地は唸りを上げて震える。
女は、重力など知らぬとばかりに軽やかに船を蹴って宙を舞った。より一層気だるさを増したせつあは黙ってそれを見送っていたが、やがてこう呟いた。
「滅びるのは絶望した時、か」
それはせつらの声であり、せつらの声ではなかった。そこにいたのはどこか春のような雰囲気の青年では無く、鬼哭の様な風の吹く冬の荒野の如き青年だった。
姿かたちはそのままに、人間性だけが変化したような。
「世界の全てに絶望しても生きねばならぬのが<新宿>だ。それを、絶望すれば死ねる、か。姫よ、お前が呪われるのも道理。そして忘れるな、ここが魔界都市だと言う事を」
それは秋せつらと言う青年を慕う人形少女が、かつて姫と呼ばれし女を評した言葉と瓜二つであったと、誰が知ろう。
そして、確かに姫はこの世に絶望して、せつらにその首を落とされるのだった。
<おしまい>