「キミにはさ、あたしが大丈夫に見える?」  
 低く笑うように、横目で見据えられた。  
 気づいていた。  
 その額に浮かぶ汗と、どこか苦しそうな表情は、ここまで歩いてくるなかで、どうしたって  
目についてしまっていたから。それでも聞けずにいたのは、状況が状況であったのと、聞くこ  
とで彼女を辱めてしまうかもしれなかったからだ。  
「……少し、休んでいこうか」  
 思いがけず、とんでもない台詞を泉は口にしていた。  
「どこで?」普段であれば、キャラにそぐわぬ少年の言葉を揶揄するのだろう楼子は、しかし  
余裕の無さにかけてはもはや泉のそれとは比較にならないところまで達していた。考えをめぐ  
らせることなく、素で問いを返していた。「もう、あんまし歩けないよ」  
 マツバラに使われた媚薬は、楼子の肉体はもとより、精神の箍までをも侵蝕し始めていたの  
だ。強気な言葉で自分を保とうと努力した。だがそれも限界に近かった。霞がかった思考と発  
情した肉体は、まだ幼い少女がコントロールするには過ぎた代物だった。そう。心と体という  
両輪を失った木ノ下楼子にとって、いまや唯一の頼りは自分を救ってくれた深町泉だけであり、  
彼の指示に従うより他に選択肢はなかった。  
「大丈夫。すぐ近く――というか、店の前なんだけどね」  
「え……?」  
 代金を支払って、「濱虎」を出た。  
 ラーメン店の向かいの建物が、目に入った。  
「これって……」  
「入れ替え制がないところだから、落ち着くまでいられるよ。ただしちょっと、あ、いや、だ  
いぶ……その、汚いんだけど」  
 そこには映画館があった。  
 昭和の中頃に建てられたと思しきその建物は「場末」という表現が悲しいほどしっくりくる  
寂れた色合いを滲ませていた。ポルノ映画館だった。  
「ここ、入るの?」  
「はい、これ」  
 泉から、サングラスと野球帽を手渡された。  
「髪は服のなかに襟のなかに入れて隠せば、バレないと思う」  
 
 実際バレなかった。  
 受付窓口に座った中年女性は、俯き加減の明らかに不審な二人を前にしても、軽い一瞥をく  
れただけ。淡々と料金を受け取り、ぼそぼそとした声で館内へ入るよう促した。  
「こんなんで、いいんだ」  
 縁がないから知識がない。それは言われてしまうと全く当然のことなのだが、ポルノ映画館  
というものが、こんなにたやすく入れてしまうという事実は、楼子にとって新鮮な驚きだった。  
 コンクリートの壁を青色のペンキで塗装しただけの薄暗い館内は、まるで廃墟のようだった。  
一階にはトイレしかなく、階段を昇りニ階へ着くと、まず目に入るのはロビーだった。そこに  
は二〇代から四〇代くらいまでの男たちが五人ほど腰掛けており、それぞれのスタイルで時間  
を潰していた。  
 携帯をいじる者。スポーツ新聞を読んでいる者。文庫本を読む者。茫と虚空を眺めている者。  
――あからさまに楼子たちを見つめる者もいた。服装もバラバラで、Tシャツにジーンズとい  
ったラフな恰好の若者がいる一方で、きっちりとしたスーツにネクタイを締めたサラリーマン  
ふうの中年もいた。  
 街を歩けば風景と同化してしまいそうな、ありふれた男たち。それなのに、楼子の目に映る  
彼らは「異様」そのものだった。  
 場の空気が、重い。館外が澄んだ清水とするなら、館内は何ヶ月も放置された水槽のなかに  
等しかった。澱のような何かが、ここには沈澱しまくっている。そして彼らは、そのなかでこ  
そ活気を取り戻す生き物にほかならないのだ。曖昧な、それでいて奇妙な確信があった。  
「行こう」  
 
 泉に背中を押され、思考半ばに楼子は澱の底へと歩み出した。暗いなりに全体の把握は容易  
だった。まず座席は全体で五分の一程度しか埋まっていなかった。つまり、すかすかだった。  
泉は映写ホールの中央左側、周囲に誰も座っていない列を選び、楼子を誘導した。席に座る頃  
には彼女の目も順応して、指の長さほどもある黒い虫が床を這っている状況を視認できるよう  
になっていた。本当に、掛け値なしに汚い映画館だった。  
「こんなんで、営業できてるの?」  
「そうだね。普通に考えたら無理だと思う。でも、ここは違う意味で客が入るから」  
 そう言ってから、泉は背を屈めて視線を右手に向けた。楼子もそれに倣う。と、そこには不  
自然な光景が展開されていた。  
 寂れた旅館を舞台にした、未亡人の女将と押しかけ女従業員の織り成すチープな喜劇が、ス  
クリーンに映し出されていた。ただしそこにはポルノという味付けがなされており、全体のチ  
ープ感を更に加速させることに成功していた。  
 それを観ている男の客がいた。  
 大股開きで、ゆったりと座って、映画を観ていた。  
 客の入っていない映画館ではありがちな情景だった。  
 隣の席の男がしていることさえ抜きにすれば。  
「なに、あれ……」  
 楼子は思わず泉に問いかけていた。  
 わかっている。隣の男がどんな行為をしているかなんて、彼女にとっては一目瞭然だった。  
だのに、何故か声が漏れていた。泉だけに聞こえるボリュームではあったものの、それはすな  
わち楼子の動揺の証だった。  
 ――男の股間に、隣の男が顔を埋めていた。  
 
「木ノ下さん、ハッテン場って、知ってる?」  
 その言葉で、すべての合点がいった。  
「あ、そうか……」  
 同性愛者が人目を忍んで行為に及ぶ場所――。  
 この映画館は、まさにそこだったのだ。  
「ここでは、誰もが共犯者なんだ。だから誰が何をしていても咎めたり気にしてはいけないと  
いう暗黙のルールがある。木ノ下さんとぼくはもう成立していると周りから思われているから、  
誰も寄ってこない。安いおカネで休むにはもってこいかなって」  
「キミ、常連さんなの?」  
「……頻繁には来ないかな。こういうのを観はじめたのも最近だし」  
「そういう意味じゃなくて」  
「あ。そっちの気はない……と思う」  
「断言しないんだ」  
「見慣れた……ってのもあるんだろうけど、嫌悪感はあんまり感じないから。どうしてだろ。  
されたことがないからかな」  
「ちょっと意外」  
「真剣に映画を観ているせいもあるのかな? まともに映画を観に来てる客も勿論いて、彼ら  
のルールでは、そういう客に手を出しちゃいけないらしいんだ」  
 
「わかんないな。どうしてわざわざこんなところまで観に来るの」  
 もっともな疑問を楼子は口にした。同性愛者の密会場所に利用されているような、文字通り  
の社会の暗部たるここへ、身銭を切ってまで観るような作品があるなんて、彼女にはとても思  
えなかった。潔いほどにC調さ加減を貫いた旅館喜劇が終わると、次は淡い青春三文芝居の始  
まりだった。大学の構内とアパートの一室、それから都心の駅前らしき雑踏を主なロケ地とし  
て撮影された、時代郷愁漂う青臭いフィルム。将来に不安を抱く大学生と、親を探しに田舎か  
ら出てきたダンサー志望の少女の物語――。  
「かろうじて商業作品なんだよ。この手のものって」  
 視線をスクリーンへと向けたまま、泉は気恥ずかしげに語りはじめた。  
「最低限の男女の絡みをいれておけば、あとはかなり自由が利くらしいんだ。ほとんど制約が  
ないといってもいい。だからなのかな、もろに監督の個性が出るんだ。それに監督なんて恰好  
つけてみても、そのほとんどはまともな邦画を任されたこともない、映像の世界では底辺を這  
いずりまわってる人たちで……だけど本当に、情熱だけは持て余してる。彼らはそんなエネル  
ギーをフィルムに叩きつけてる。ぼくはそれを観ておきたいんだ」  
「『ビデオ撮影は嫌いなんだ』ってヤツ?」  
「何それ」  
「キミが自分で口にした言葉じゃない」  
「あれ。いつ、そんなこと言ったかな。……忘れてくれない?」  
「ダメ」  
 二人とも、顔は動かさない。スクリーンに目をやったまま。  
 肘掛けの上の右手に、隣の席から伸びた左手が触れても、二人の表情は変わらなかった。  
「軽蔑したでしょう」  
「こんなふうに、一緒に映画を観たかったんだ。ずっと、そう思ってた」  
「ああいったこと、ずっとやってきたんだ。なんか、やめられなくって」  
「言い出せなくて……。まわりくどいことばかりしてた。外せない用事ができたからって、日  
付と座席指定のされた映画の券をあげたことあったよね。あれ、嘘。ほんとは同じ回の、別の、  
離れた席をもう一枚買ってたんだ。それで、同じ時間を過ごした気になってた」  
「話、噛み合ってないよ」  
「いいんだ」  
 互いの手は、重なり合っていた。  
 

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