● 再生のアルケミスト ● 
 
    1 
 
 さくっと入った。 
 名前など憶えるつもりもない中年の股間に、遠慮のない前蹴り。 
「調子に乗らないでね」 
 それだけ言って、うずくまる中年男を尻目に部屋を出た。 
 階段を足早に降りて、外に出ると、寒風が身に凍みた。 
「……うがい、したいな」 
 独りごちて、周囲を窺う。中年男が追いかけてくる可能性もあったので、駅のほうへと歩き 
ながら、休める場所を探した。手元には二万円ある。どこでも大丈夫だった。 
 土地鑑がないせいか、どの飲食店を見ても決め手にかけた。 
「まあ、別にどこでもいいんだけど」 
 とにかく、口のなかが気持ち悪かった。男の汚い精液の味が、舌に残っていた。 
 飲んではいない。出されたものはティッシュに吐き出した。それで、二万円。 
 普通ならそれでおしまいだ。少しばかりの雑談はするにしても。 
 今日の客はタチが悪かった。 
 興奮して箍が外れたのか、こともあろうに「やらせろ」と言ってきたのだ。 
 だから、キレた。 
 兄から教わって、弟で練習したキン蹴りを炸裂させたのだ。 
 ――カネなら上乗せしてやるからさ。口でやるだけで終わりなんて、冗談きついんじゃねえ 
か、ネエちゃんよォ。 
「あーもー、ざけんなっての」 
 小石を蹴る。やっていることの浅ましさは自覚しているつもりなのだが、他人から、それも 
女をカネで買うような男から指摘されると、どうしようもなく心に棚ができてしまうのだ。 
 いらいらした面持ちで彼女は歩く。日曜日で人通りの多いモール街なのに、前を見ずに行く 
彼女は、しかし誰ともぶつかることはない。 
 対向する通行人が、道を譲っていくからだ。 
 彼女は背が高く、実際の年齢よりも大人びており、何より華のある整った顔立ちをしていた。 
 そんな彼女がこわい顔で歩いてくると、見惚れながらも、一般人は道をあけてしまうのだ。 
(一息つける場所……。とは言ってもなあ) 
 気持ち悪さを抱えたまま、大きな書店の前の路地を曲がると、裏寂れた雰囲気の飲食店が軒 
を連ねており、その先に自動販売機を見つけた。 
 ウーロン茶を買い、それで口のなかをすすいだ。 
 道の端の下水溝に吐き出す。 
「ぺっぺっぺっ……っとね」 
 落ちつきを取り戻した彼女が振り返ると、そこにチケットカウンターがあった。 
「……?」 
 中年の女性が無愛想な面持ちで自分を眺めていた。 
 みっともないところを見られた。 
 照れ隠しに笑ってみたが、カウンターの女性はぴくりとも表情を動かさない。 
 小さな、窓口。 
 よく見ると看板があった。 
 「関内アカデミー」。 
(映画館……?) 
 場違いな印象があった。 
 どう見ても立地的に、映画館をやれる場所ではない。せいぜいがラーメン屋、よくて喫茶店 
だろう。 
 そこにA、Bと、二館もの上映施設が存在しているというのは、首を傾げざるを得ない。 
「……『デカローグ』に、『ポンヌフの恋人』? ……知らないなあ」 
 聞いたこともない作品を上映していた。 
 一定の評価を受けた過去のものではなく、比較的新しい、マイナーな臭いがするタイトルか 
らして、ここはいわゆる名画座とも違うらしい。少なくとも宣伝力のあるハリウッド作品、邦 
画は扱わないのだなと、何とはなしに彼女は見てとった。 
 興味が湧いた。 
 学割が利くところだったが、彼女は制服ではなかったし、つっこまれると面倒だったので大 
人料金でチケットを購入した。 
「もう始まってますよ」 
「ああ、構いません」 
 もとより目当てで観るのではない。ほんの休憩のつもりなのだ。 
 狭く、軋む階段を昇り、館内に入った。 
「うわあい」 
 小声でつぶやいた。 
 満員でも三〇人がいいところだろう。果たして、これで映画館と呼べるのだろうか。 
(まあ、いいけどね) 
 最後尾の席に座った。それでも十分スクリーンが大きく見えた。 
 映画はオムニバス形式で、どうやら聖書の十戒をモチーフにしたものらしかった。上映され 
たものは十篇のうちの三篇。一篇が三〇分前後もあるため、内容の長さから分割されているよ 
うだった。そのため、遅れて観始めた彼女にも、残りの二篇を楽しむことができた。 
 深い感動を与えるものではなかったが、しんと、心に響くものがあった。 
(……悪くはなかったな) 
 最後の章のスタッフロールが終わるまで、彼女は席に座っていた。 
 先ほどまでの気持ちの悪さが、きれいに拭えたような気がした。 
 やがて館内に照明が点り、席についていた客は出口へと向かい出す。 
「あれ」彼女を除けば四人しかいないそのなかに、見おぼえのある顔が一つ。「深町くん?」 
 ぎょっとするその顔は、間違いなく彼女のクラスメイト、深町泉のものだった。 
「木ノ下……さん?」 
 まだ幼さの残る、メガネをかけた少年は、何か信じられないものを見てしまったような驚き 
をあらわにし、その場で二、三歩と後退ってみせた。 
「な、なんで、木ノ下さんが、ここに――」 
「いちゃおかしいって?」 
「そうは言ってないけど」 
 少年――深町泉の言うことはもっともだった。 
 ここは横浜で、それもあまり人目につかない小さな映画館なのだ。 
「ま、東京の中学生が偶然に出会う場所としては、あまりにも確率が低すぎるかもね」 
 木ノ下と呼ばれた少女は自分で解説して、ハハハと笑って席にもたれかかった。 
「キミ、いつもこんなところまで遠征してるワケ?」 
 値踏みするような視線で、少女は少年を見つめた。 
 同じ年齢。同じ学級。同じ中学。なのに、こんなにも違う。 
 ――木ノ下楼子(タカコ)。 
 泉にとって、彼女は同級生でありながら、次元の違う存在だった。 
 そして、その感覚を同学年の男子生徒の殆どが共有していると確信していた。 
 彼女は、あまりに別格すぎたから。 
 たとえるならば、視点。 
 男子も女子も自分たちの年頃であれば、世のなかに浮かんでは消えてゆく流行モノに目を奪 
われ、移り気にキョロキョロと落ちつかないことが普通だというのに、この木ノ下楼子だけは 
いつでも超然として、そういったものを見下しているふうな印象を周囲に与えていた。 
 また、そういった姿勢が学校のなかで許容されてもいた。 
 颯爽とした、無関心。 
 同学年の男子のなかで木ノ下楼子に憧れる者は多数に上る。しかし、彼女の美しさは、ある 
意味「縛り」でもあった。彼女に対する憧憬は、そこで止まってしまう性質を帯びているから。 
そう。皆、ブロイラーのように等しく終わってしまう。告白までは考えないのだ。いや、そん 
なことをしようとするヤツは余程のバカか自信家であり、せめて、彼女と自分が釣り合うと本 
気で思いこんでいるような「痛いヤツ」にはなりたくない――。彼女の挑むような視線は、同 
学年の男子にとって、自身の価値を根底から揺るがすメデューサの瞳だった。だから、まとも 
に会話が成立する機会を得ただけでも、この日の泉は儲けものだった。 
「ふうん。映画か。まあ、悪くないよね」 
「そう……かな」 
「さっき観たような映画なら、ね。テレビのCMでやってるようなのはちょっと嫌いだな。キ 
ミはそういうの、楽しんで観られちゃうほう?」 
 唇の端が、薄く、笑みのかたちをつくっていた。 
 紅潮する頬を抑えるすべを知らず、泉は焦った。 
「……エ、エンターテインメント作品だからっていう区別は、特にしてないかな。割と、面白 
ければなんでも」 
「今までに何本くらい観てるの?」 
「本格的に観始めたのは小学校の五年あたり……だったと思う。自分の部屋のビデオじゃなく 
て、映画館で観るほうが、なんというか、気に入っちゃって。これまでには……うーん、三〇 
本くらいかな」 
「映画館で?」 
「うん。レンタルビデオも含めるんなら、一〇〇本は越えると思う」 
 何気なく口にしてしまった後に、泉は表情を硬くした。口が滑った。なんてこった。 
「深町くんってさ、……マニア?」 
「はは。そう言ってくれると、助かるな」 
 彼女が身のうちでどう考えているのかはともかく、口に出して「オタク」呼ばわりされなか 
ったことは、泉にとって感動に値した。 
 ――自分のような「人種」に対して、言葉を選んでくれるなんて。 
 それまで同じ空気を吸いながら、別次元の存在としか思えなかった木ノ下楼子が、泉のなか 
で急速に、血肉を持ったひとりの人間として再構成された。 
 
    2 
 
 木ノ下楼子は浪費家ではない。 
 月々の、与えられた小遣いで満足しているし、不自由を感じたこともない。 
 だから、それとこれとは、切り離して考えていた。 
 無償でやるのは、嫌だったから。 
 相手から余計な詮索や想像をされるのはもとより、自分のしていることを正当化するような 
行為も御免だった。 
 だから毎回、カネはきっちりと受け取って、できうる限り、その日のうちに使い切った。 
 後に残る物などはアシがつくから避けた。万単位のカネであろうが、ゲーセンのコインゲー 
ムや高級レストランの食事、帰りのタクシー代などで、ほとんどは消えてしまう。そして残さ 
れるのは肉体――心に蓄積されていく汚れだけ。しかしそれが、楼子にとっての目的だった。 
 自分は違う。 
 世間の大人たちとも、同世代の人間たちとも。 
 確認しなくてはいけない。 
 安心していたいから。 
 自分は汚穢をものともしない人間で、こんなことでは傷つかない、平気な存在なのだ、と。 
 
「あたし、十泉を受けるから」 
「へー。わが妹ながら、出来のいいことで」 
 男は、いつものように素っ気ない口調で聞き流しながら、抱えたギターの弦をいじっていた。 
 アパートの、一室。 
 畳敷きの六畳間に安物の絨毯を敷き、鉄枠の簡素なベッドとテレビ、CDコンポが置かれて 
いる、ギターの譜面や音楽関係の雑誌が山積みになった部屋。住んでいる者が恐ろしく不健康 
な生活を送っていることが、壁紙に浮かび上がったヤニの紋様から十分すぎるほど推察できて 
しまう、一人暮らしの男の部屋。 
 そこは兄の部屋――。自分と同じ髪型をした、栄養不良気味の痩せたギタリストは、かつて 
何を血迷ったか、音楽でメシを喰っていくなどと宣言し、チチオヤと殴り合いの喧嘩を演じた 
末、家を飛び出していた。 
「それだけ? 他に何か言うことはないの?」 
「ガンバレ、なんて言ってほしいのかよ。どうせおまえのことだし、あっさり合格すんだろ。 
ンなことよりさ、楼子……。おまえ、とりあえず脱げよ」 
 ギターを床に寝かせ、ベッドの下に追いやってから、木ノ下楼子の兄はベッドの鉄枠を背に 
して股を開いた。 
 だらしない、体育座りのような恰好。 
「……もう、するの?」 
「したくてここに来てんだろ」 
 恥じらいから発した質問は一刀のもとに切り伏せられ、楼子は脱衣を余儀なくされる。おず 
おずと深い紺色の制服のボタンを外していく。その手に躊躇は微塵もなく、これが――兄の前 
で肌を晒すという行為が、何度も繰り返されてきたことを明示していた。 
 白いブラウスの下には、白いブラジャーと、陶磁器のような白い肌があった。 
 楼子はこれといったスポーツはしていない。だからいわゆる体育会系の、健康的な魅力とい 
うものには縁遠く、線の細さも学年の女子では上位に入った。スレンダー。だがそこに、清楚 
な印象は微塵もない。 
 淡い色をした長い髪に、平均以上のバストがその存在を主張していたからだ。 
 大きくはなかった。楼子の年齢からすれば、やや大きい、そんな程度だ。 
 もっともそれは、サイズだけをとってみればのこと。 
 痩身の楼子に、その双つの乳は淫猥な翳りを色濃く落とした。 
 違うから。 
 同学年の女子の、自然に育ったものとは一線を画す、――それはまさしく、男によって揉ま 
れ、精を擦りこまれ、発育させられた乳房であり、実の兄が育てた乳だった。 
「おいで」 
 兄が妹を手招きした。 
 ――自らの、股間へ。 
 妹はそれに従った。 
 膝を、腹を、そして肘を、順番に床に着けていく。 
 正座した人間の背中を突いて前へ倒したら、こんなふうになるだろう。 
 それ単体で見れば、別にどうということはない。没入した状態の人間が、うつ伏せで床に寝 
転びながら本を読む時には、よくある姿勢と言えなくもないから。 
 ただし、二つが一つになったら――。 
 兄の股間に、妹が顔を押しつけていた。 
 唇でジッパーを挟み、ゆっくりと下ろしていくと、派手な柄のトランクスが現れた。 
「手ェ使えよ」 
 兄が苦笑して、妹の頭を撫でてやると、ふうん、と楼子は鼻を鳴らして応える。媚びている 
のか不平を漏らしているのか、判然としない。そういえば、と兄は不意に思い出す。手を使わ 
ず、口だけでやれるように命じたのは自分だった。なれば教えを忠実に守ろうとした妹の健気 
さは賞賛に値するだろう。褒美とばかりに木ノ下は、楼子の両脇から手を差し入れ、馴染んだ 
乳をやわやわと揉み始める。重さを量るように丁寧に手のひらで、かと思えば乳腺まで届けと 
ばかり大胆に指を埋没させて、女を主張する肉をこねていく。 
「フゥ……んくゥ……っ!」 
 いきなり何をするの、とばかりに楼子が上目遣いで兄を見上げる。しかしその瞳は既に情欲 
に潤んでおり、非難の意図は伝わらない。 
「相変わらず胸が弱いんだな、おまえは」 
「ひぁん……っ、む、胸はやめぇ……っ…」 
 拒めば拒むほどに、激しく胸を愛撫されてしまう。 
 足の指が突っ張るほどの快美感に弄ばれ、楼子の作業は難航した。 
 ようやくチャックを完全に下げると、バネ仕掛けのように先端が飛び出してきた。楼子は兄 
譲りの長い指先で布地に抑えられた陰茎を丁寧に取り出し、両手を添える。まだ完全な怒張に 
は達していない。にもかかわらず、兄の陰茎は楼子の手のひら二握り分もあった。 
「はぁ……アニキの……くださいっ」 
「ん? 聞こえないぜ、楼子」 
 乳首を引っ張られ、床に擦りつけられた。 
「ひぁっ……ち、ちんぽ……っ! アニキのちんぽ、舐めさせてくださいっ!」 
「うんうん。ちゃんと言えるじゃねえか。小声で誤魔化すのはダメだっていつも言ってるだろ」 
「ごめ……っんな……さ……んぅ」 
 大事なものを拝むように、両手で兄の陰茎を包む。手のなかに収まりきれず、はみ出した部 
位に、実の妹がその舌を這わせていく。手のなかのそれはいよいよ肥大していき、肉の威容を 
そびえ立たせていく。 
「あぁ……おっきぃよぉ……」 
 もはや我慢できず、楼子は兄の怒張をくわえこんだ。 
「おいおい、がっつくなって」 
「やだぁ……アニキのちんぽは……あたしの…っ…もの……だもん」 
 楼子は熱心だった。 
 たちまち口腔内が鈴口から漏れ出てきた精臭で満たされていく。だがそれすらもいまの楼子 
にとっては甘美な芳香でしかない。赤銅色のペニスを口いっぱいに頬張り、唾液を絡めた舌と 
口のなかの粘膜で、丹念に磨き上げていく。 
「……くぅ。楼子、おまえ、うまくなったな、ほんとによ」 
「ふぅん……っくぅん……」 
 褒められた。嬉しい。もっと頑張ろう。 
 ――実の兄の性器に奉仕している。その倒錯した感覚は、これまで何度も犯され、肉の交わ 
りを経た現在になっても全く慣れることなく、楼子の心をいつでも深く酔わせてくれた。 
 はじめて犯された時は、抗う間もなかった。 
 両親が仕事で留守にしていた午後、中学から帰宅した楼子は、例によって部屋でギターの練 
習をしていた兄を見てうんざりし、つい、なじってしまったのだ。 
 いつもなら、他愛のない口喧嘩をして終わるはずだった。なのにいったい、何が気に障った 
のだろう。いまではもう思い出せない。しかし経緯はどうあれ、そこで二人が引き返せない領 
域に踏みこんでしまったこと、これだけは確かだった。 
 激昂した男は、力まかせに少女を無理やり組み敷き、犯したのだ。 
 兄が、妹をレイプしたのだ。 
 痛みと恐怖で泣き喚く妹が沈黙するまで、兄は少女のからだを蹂躙し続けた。 
 楼子はオヤが帰宅する前に風呂に入り、その日は気分か悪いからと言って先に寝た。 
 悪夢の始まりだった。 
 両親が出勤し、弟が登校したのを確認すると、兄は妹の部屋を訪れた。 
 どこか諦めたような妹の顔を見て、兄は自分の罪深さを知ったが、一度おぼえた肉の誘惑を 
断ち切ることなどできなかった。 
 文字どおり、貪るように幼いからだを味わい尽くした。 
 当初は痛みを訴えてばかりいた楼子だったが、そのうちからだを震わせ何かに堪える仕草を 
見せはじめ、やがて牝として充実させられる悦びに悶え、はしたない声を上げてしまう女へと 
開発させられていった。 
「ああ……好き。好きぃ……。たくましいの、大好きなの……っ」 
 いきり立つペニスの裏すじを舐め上げて、再び喉の奥までくわえこむ。 
「可愛いな、楼子は」 
 木ノ下は乳をもてあそんでいた手を脇にスライドさせ、シミひとつない妹の背中をさすって 
いく。 
 楼子はその間も自らの口腔を膣に見立て、兄の陰茎を唇で、舌で、頬の内側の肉でもって包 
容していた。一心不乱に吸い上げ、唇をすぼませたまま喉奥までくわえ入れ、再び吸い上げる。 
さながらその様は意志を持った肉の吸引機か。 
 ただひたすら、精を搾り取ることだけに没頭していた楼子は、兄が上体をわずかに傾け、背 
中をさすっていた手を自分の尻へと這わせていたことに、だから気がつかないでいた。 
 脱がせずにそのままにしていたショーツのなかに、指を滑りこませた。 
「楼子」 
「……ふぁ? ――きゃうぅんっ!」 
 いきなり挿入された。尻の穴に。 
 右手の小指が、本来性交とは無関係な排泄器官に半ばまで埋まっていた。 
「あ……あふぁああっ……! お、お尻はぁ……っ」 
「楼子はこっちも好きだよな?」 
 埋めこまれた小指を、直腸内で鉤状に曲げていくと、楼子の表情がみるみる変わっていった。 
「や、やだぁっ! 何してるの? あたしのお尻のなかで何してるのぉ……っ!?」 
「別にィ。ただ、こうしたら楼子が気持ちよくなるんじゃないかと思ってさ」 
 小指を曲げたまま、尻の穴への抽挿を開始すると、楼子はもはやフェラチオをする素振りす 
ら不可能なまでに牝をさらけ出してしまう。 
「だ、だめぇ……っ、んっ……くふぅ……ひぁっ…や……っ、も……ぉ…ひぅ……ふぅぅんっ 
……あ、……っ、あ、あぁ……っ!」 
「中学生でアナルの味まで知っちまってさ、この先どうするつもりだよ、おまえ」 
 木ノ下が右手小指をアヌスに出し入れしたまま、左手で波打つ胸をすくい上げ、思うさま揉 
みたくってやると、それに応えるように楼子は髪を振り乱し、媚態を示してしまう。 
「そん…なっ……アニキが……あた…しを……こ…んな…ふうに……っはぁ……した癖にぃ」 
「そいつは悪かった」 
 一人の女を意のままに玩弄できる興奮。それが血を分けた妹であれば尚更なのか、木ノ下の 
男は最大時のエレクトを保ったまま、衰える気配を見せなかった。直接的な刺激などなくても、 
脳は怒張を保持する信号を発し、肉体はそれに忠実に従っていた。 
「んじゃ、ま、軽くイッとくか?」 
 小指が抜かれ、代わりに中指が付け根まで挿入された瞬間、楼子は背中を弓なりに反り返し、 
ひくひくとからだを痙攣させた。 
「ふぁ……っ、ひはっ……ふぅ…んぅ――」 
 焦点の合わない瞳で、だらしなく口を半開きにしたまま、楼子は言葉にならない性感の昂ぶ 
りを漏らす。垂れた涎は兄の肉棒へ注がれ、期せずして潤滑油となった。 
「おまえのイキ顔、まじでエロいぜ」 
 木ノ下は胸にやっていた左手を楼子の顎に添え、軽く上向きにし、深い口づけを求めた。 
 舌を入れると、まだイッている最中だろうに、楼子は無意識に舌を絡めてきた。 
 唾液を注ぎこめば躊躇なく嚥下した。 
 ――調教の成果だった。 
「もぉ……だめぇ…っ……。あ、あたし……変…っ…になるぅ」 
 一五才にして男の軍門に下ってしまった女の姿がそこにあった。 
 股間を擦り合わせ、少しでも快楽を得ようと煩悶している。八の字を描く眉根に刻まれた縦 
皺は、心からの従属証明だった。 
「よしよし。じゃあ、変になろうな」 
 木ノ下が両手で楼子の尻を掴み、自分のほうへと引き寄せると、自然、楼子の上半身は持ち 
上がっていき、対面座位の恰好となる。そのまま、腰を抱いて誘導してやろうとするが、楼子 
は木ノ下の意図を理解できない。からだを震わせ、息を荒くし、兄の胸板に顔をつけて駄々っ 
子のようにせがんでしまう。 
「はやく……はやくぅ……っ!」 
「慌てんなって。ほら、そんなに暴れちゃできるもんもできねえだろうが」 
 諭すように背中を撫でてやると、少し落ちついたのか、右へ左へと揺れていた楼子の尻が動 
きを止める。と、その時を待っていたのか、木ノ下は狙いを定め、馴れ親しんだ妹の肉壷に己 
の陰茎を突き入れた。 
「はうぅぅんっ!」 
 脊髄の直下から噴き上がる衝撃で、楼子の顔が天井を向く。木ノ下は目の前に晒された白い 
頸部にねっとりと舌を這わせながら、間断なく妹の胎内を掘削した。 
「はぁ……っ! ひぅ……っ! くぁ……っ! きゅふぅ……! あ、あぁ……、や…やだぁ。 
あたし……は、恥ずかし……っ! どうしよう……ねぇ、どう…したら…っ…いい……の……」 
 正常位と同じ、互いに向き合うことのできる体位とはいえ、男の打ちこみによってどうしよ 
うもない痴態を曝け出してしまう対面座位は、女にとって屈辱度が高い。正常位には愛がある 
ように感じられるのだが、対面座位にはそれがなく、挿入の充実感も他の体位と比べると薄く、 
男によって観察されているような、妙な恥辱感が先に立ってしまうのだ。 
 だが楼子のように芯から男に隷属している状態となると、また話は別になる。辱められれば 
その分だけ、性感はいや増すのだ。 
「うあっ……アニ…キぃ……。いいのっ……もっと、もっとぉ!」 
「まったく……この、スケベ女が!」 
 尻を固定され、激しく揺すりたてられると、楼子の二つの乳は重力から解き放たれたように 
宙をさまよい、躍動する。兄と妹は互いの視線を絡ませ、律動のなかで濃い口づけを交わす。 
「も……もう、もう……あたし、ダメ……ダメだよ、はっ…うぅ……」 
 楼子は視界がどろどろに溶けていくのをはっきりと知覚した。あまりの悦楽に、自分を保つ 
ことができない。何をしても無駄な気がした。だから兄の胸にしなだれかかり、すべてをゆだ 
ねることにした。 
「あぁ……アニキ…、お願い……。もう、とどめ……さして。アニキの…すごいので……、あ 
たしにとどめ、さして……っ!」 
 昂ぶった性感で磨耗した、切れ切れの声で訴えかける。限界はすぐそこまで迫っていた。 
「……だな。オレもそろそろやばい感じだし」 
 木ノ下は楼子のからだを一瞬だけ浮かせると、自らの肉棒を素早く引き抜き、うつ伏せにし 
て床に寝かせた妹の尻の穴にあてがった。 
「ひゃん……っ!」 
「楼子、わかってると思うが、脱力しとけよ」 
「あ……うん」 
 尻の穴を犯されるのは初めてではない。二人にとっての、これが結論だった。 
 近親相姦という禁忌のなかで、何よりの恐怖は妊娠である。通常の男女関係のそれとは全く 
意味合いの異なる、破滅への直下降――。どうあっても回避せねばならぬもの。 
 最初はそんな認識など皆無だった。 
 衝動の赴くままに、兄は妹という未踏の領域に土足で侵犯し、凌辱し、胎奥に精をぶちまけ 
ていた。その結果、楼子は牝として扱われる悦びを知り、一方で絶望を知ったのだ。 
 そこにはハナから愛などなかった。すべてに優先するものは肉の快楽なのだと教えこまれて 
いた。だから、この関係を失うことは楼子にとって何よりの恐怖にほかならなかった。どうす 
れば未来を閉ざさずに済むかを模索した。答えは明快だった。 
 じわじわと、肉の凶器が楼子の菊座を押し広げていく。 
「……ぁ、ぅぅぅっ」 
 腸内ならばどれだけ精液漬けにされても孕む心配はない。杞憂のないセックスは少女を淫婦 
へと変貌させた。 
「たまんねえな、この締めつけ!」 
 膣と直腸では、加えられる圧力が全く異なってくる。そして木ノ下は、そのどちらも好んだ。 
 楼子は――妹は、前も後ろも絶品だったのだ。 
「ほらっ、おらっ! ……鳴けよ楼子! 犬みたいに犯してやってんだから、おまえも犬みた 
いに鳴いてみろ!!」 
 十代に非ざるまろやかな艶を滲ませた尻を平手で叩き、激しく突き入れてやると、楼子は髪 
を振り乱し、性の虜囚にふさわしい猥語を口にしてしまう。 
「いいっ……! さ、最高ォ……! アニキのちんぽであたしのお尻、まんこ代わりにされて 
る……っ! 尻でおまんこされて、気持ちいいの! あ、あたし……も、もうダメっ! よす 
ぎて頭、狂っちゃうよぉ!!」 
「ケツ掘られてイクのか!? この変態娘が!!」 
「ああ……ぅぅっ! イイ……っ! 変態でもいいの! ふわぁんっ! も…イク……! あ 
たし、お尻でイッちゃう……っ!!」 
「くっ……楼子!」 
 木ノ下の全身が細かく震え、腸内に埋めこまれた陰茎から大量の白濁した子種が吐瀉される。 
決して子宮に届くことはない精子の群れの主は、妹の背中に覆い被さり、射精の余韻に浸って 
いた。 
 まるで時間が引き延ばされたかのような、浅い永遠。 
 不協和音の息遣いで描かれる世界。 
 幻視すらできそうな気がした楼子を現実に引き戻したのは唐突に発した兄の一言だった。 
「……おまえも来年は高校生なんだよな」 
「いきなり、何よ」 
「んー、その、なんつーか、感慨に耽っちまうなーと。おまえをこんなにエロくしちまった張 
本人としては」 
「……挿入したままかっこつけられても、どうリアクションしたらいいか困るんですけど」 
「そりゃま、そうだな。――よっと」 
「ん……ふはぁっ!」 
 引き抜かれる。ただそれだけの行為で声が楼子は声を漏らしてしまう。絶頂に達した後だと 
いうのに、からだはもう次の頂きを指向し、男を求め出していた。 
「……」自分が情欲に溺れ、犯し続けたその成果であり、結果だった。木ノ下はバスルームへ 
行き、かけておいたタオルで楼子の股間部位周辺を拭ってやる。からだはどうあれ、気をやり 
心地よい疲労にまどろむ楼子は、兄のされるがままになっていた。「高校に行ったら、おまえ 
も誰かとつきあうのかね」 
 楼子を抱き上げ、ベッドの上に寝かせてやり、毛布をかけてから、木ノ下はタバコに火をつ 
けた。 
「あたしは、誰ともつきあわないよ」 
「どうして?」 
「だって、アニキがいるじゃん」 
「――――」 
「アニキがいるから……彼氏は……要ら…な…い……」 
 やがて寝息を立てだした妹の眠るベッドを背にして、木ノ下は長くなった灰をビールの空き 
缶へと落とした。 
 
    3 
 
 六畳一間。 
 そこに二人の男がいた。 
 一人は小生意気そうな青年、もう一人はメガネをかけた幼い顔立ちの少年――深町泉だった。 
「まあ、飲め」 
「僕、ビールはあまり」 
「お子ちゃまめ。あー、んじゃ、冷蔵庫のサワーでやんべえよ」 
 かしゅ、とタブを開け、青年はビールを、泉はライムサワーを口にした。 
「深町少年の青春に乾杯」 
「茶化さないでください」 
「ああ、悪い悪い。――ま、なんだな。世の中には男と女しかいねえんだし、生きてりゃ、い 
ろいろあるもんだ」 
「師匠もやっぱり、こういうことで悩んだりしましたか」 
「当然。といっても、オレの場合はあんまし似た事例がないかもな。……って、オレのこたぁ 
どうだっていいんだよ。肝心なのは深町少年のほうだろ。――で、なんだっけ。また会ったん 
だろ」 
「ええ、まあ」 
「なんだよ、はっきりしねえなあ」 
「声、かけづらくて」 
「なんで?」 
「彼女、泣いてたんです」 
「はあ。いいカノジョじゃねえか。オレのは芝居なんかやってるせいか、醒めまくっちまって 
なあ。これっていう感動巨編に連れて行ってやっても、役者の演技とか、そういう細部ばかり 
に目が行っちまって、ちっともうるうるしねえ。ああいうのはダメだな、ほんと」 
 うんうんと頷く青年の頭に、蹴りが飛んできた。 
「あ痛たーっ!」 
「誰がダメですって!?」 
 年の頃は二〇代前半か、ショートの髪にスーツを着た女性が怒りに毛を逆立たせていた。 
「すずな!? おまえ、どっから入って来た!?」 
「ア・イ・カ・ギ。この前、貰ったんですけど。……忘れてた?」思い出したようにポンと手 
を叩く青年をはたいて、すずなと呼ばれた女性は疲れたような溜息を漏らした。「まったくア 
ンタは……。この子、未成年でしょ? 酒なんか飲ましちゃって」 
「あの、断らなかったのは僕のほうなんで」 
「深町泉くんよね? こいつから話は聞いてるわ。悪いこと言わない。こんなの師匠と仰いだ 
って、何も得るものないと思うよ」 
「おい、『こんなの』ってなんだよ」 
「あんたみたいなのは『こんなの』で十分よ。さっきの話だって、映画の料金、あたしが出し 
たんだから、ケチつけられるいわれはないわ」 
「男同士の話を盗み聞きするたぁ何事だコノヤロー!」 
「あ、あの……ケンカは」 
 泉の言葉に腕まくりをして臨戦態勢に入っていた二人はハッとなり固まる。ややあって、ば 
つが悪そうに咳払いをひとつ。 
「――で、泣いていた彼女を見て声をかけづらかった、と。別にいいじゃん。その映画の感想 
とかきっかけにして話しかければさ」 
「あの、でも、その映画……。スラプスティックなギャグが主体の、コメディ作品だったんで 
す」 
 泉の言葉は、すずなと青年の動きを数秒、停止させた。 
 
    4 
 
 ――今日の相手はテンパッていた。 
 落ち合う場所は横浜の桜木町。みなとみらい21地区の大観覧車前だった。 
 現れた男は道行く人々のおそらく百人中百人が「さえない」と断ずるだろう風体をしていた。 
 ぼさぼさの髪にずれたメガネ、なよっとした痩せたからだは、着古したジャンパー、ジーン 
ズでは到底、隠し切れるものではない。それに何より、負の相が顔を濃く彩っていた。 
 男は、まず楼子の容姿を見て唖然とし、本当に二万でいいのかと聞いてきた。楼子が首肯す 
るとニヘラと笑い、意味不明な言葉を口にした。 
 男と楼子は大観覧車前の総合ショッピングビル「ワールドポーターズ」のなかで少しばかり 
の買い物をした後、ラブホテルまで歩いた。男は道すがら、クルマがない理由をあれやこれや 
と言い訳したが、正直、楼子にとってはどうでもいいことだった。 
 なぜ自分を売るのか。 
 それは世の中に見切りをつけているから。夢を見なくて済むからだ。 
 どうしようもないことだらけの世界で、自分を確認するためだ。 
 汚れているのはわかっている。兄に犯され、あろうことか悦びをおぼえるまでになってしま 
った。性に溺れてしまったのだ。もうその時点で、他の女子生徒たちとは一線を画してしまっ 
ている。いまさら白くはなれない。だったら中途半端はいけない。とことん黒くなる必要があ 
った。 
 それはもしかすると、自傷行為と似ているかもしれない。 
 自分を棄てるようなこと。 
 その場限りの男と、ホテルの一室でする。 
 胸を触らせ、フェラチオをする。 
 それ以上はさせない。射精させたらそこで終了という取り決めだ。たいていの男は、大人び 
ているとはいえ明らかに十代な楼子に奉仕されたことで、罪の意識も手伝って納得するのだが、 
一部の者は調子に乗って、はたまた興奮し暴走して本番を――セックスを求めてくる。そうな 
った場合、楼子は有無を言わさず相手を叩きのめしその場から逃走する。布石として自分は脱 
がず、相手の下半身は脱がしておくのだ。その上でキン蹴りをかます。あとは脱兎のごとく。 
 ほぼ、これで乗り切ってきた。だから自信があった。まして今日の客のような、見るからに 
非力そうなタイプなら、一〇〇パーセント、あしらえる自信があった。 
 楼子は淡い色のセーターに紺のズボン、その上に革のジャケットを羽織っていた。 
 悠然とベッドの上に腰掛け、男を見やった。 
 男の挙動はぎこちなかった。 
 こういうところへ来ることに、慣れていないのは明らかだった。 
「おニイさん、ほら、こっち来て」 
 ぱんぱんと、楼子が自分の横のスペースを叩く。男は「あ、はい」と促されるままに座り、 
次の指示を待つように黙りこくった。 
「胸、触ってもいいよ」 
 苦笑する楼子の許可を得て、男はおずおずと手を伸ばしてきた。 
 セーターの上から、誰とも知らぬ男の手が乳房を這いまわる。それは遠慮がちに、やがて乳 
の重さを量るようにたぷたぷと持ち上げるように揺すってきた。 
「や、柔らかい……」 
 男は感動しているようだった。 
 見た目は二〇を少し過ぎた感じだろうか。 
 大学生? ――には見えなかった。 
 会社員? ――ありえない。 
 フリーターか、あるいは自営業といったところか。 
 楼子は慣れた手つきで男のズボンから陰茎を摘出すると、ポケットからハンドタオルを取り 
出し、肉棒全体に刺激を与えながら軽く拭ってやった。 
「う、うわ」 
 既に勃起していたそれは、ハンドタオルの刺激だけでも強烈だったのか、男に情けない声を 
出させた。 
「大丈夫。慌てなくてもいいから」 
 御しやすい相手。そんな認識は楼子に余裕を生じさせた。 
 男の性器に手を添え、じわじわとさすっていく。ふぐりを手のひらで包み、竿をしごいてや 
る。ぐっと歯をくいしばっていたのは最初だけ、徐々に男の表情はだらしなく崩れていった。 
 間を持て余したのか、指弄のさなか、楼子は男に名前を聞いてみた。 
 マツバラ、という答えが返ってきたのが契機、男は聞かれもしないことを喋りだした。 
 ツイてない人生を送っていること。もう何年も浪人生をやっていること。桜水さんという可 
愛い女の子とつきあっていた過去があること。予備校で暴れた武勇伝があること。等々。 
「今年こそ、合格するんだ。全国の予備校を渡り歩き、いまやオレの準備は万全となった。リ 
ベンジの機会は訪れた。今日はさ、だから、一時の休息。そう、戦士の休息なのだ」 
 マツバラと名乗った男は、熱っぽい口調で楼子に語りかけた。 
「ふうん。合格するといいね」 
「するって! もう決まってるんだ。これでダメならオレは、オレは……ッ!」 
 次第にテンションが高まっていく。楼子はそんな男の様子をちらりと見て、やれやれと心の 
なかで呆れ返る。どうでもいい。男のことなんてどうでもいいのだ。こんな場に、お互いの私 
的なことを持ちこむのはルール違反じゃないかとさえ思う。馬鹿らしい。こんな男、さっさと 
イカせて終わらせてしまおう。楼子は男の肉茎をしごく手を速めた。 
 いつのことだったか、楼子は兄からギター、もしくはピアノでもやってみないか、と誘われ 
たことがある。理由を尋ねると、「その長い指を遊ばせておくのは勿体無い」との答えが返っ 
てきた。短絡的な意見だが、つまりそれほど楼子の指はきれいだったのだ。しかし当の本人は、 
「そんなんで始めても続かないよ」と断った。他はどうだか知らないが、少なくとも音楽はそ 
ういった、些細な身体的特徴でどうにかなるものではないからだ。それは彼女がギターに打ち 
こむ兄を見て、中学時代の同級生を見て、自分なりに得た結論だった。才能は少しでいい。何 
より音楽を、ギターを、ピアノを好きであるかどうか。それが肝心なのだ。兄や同級生の柳川 
にはそれがあり、自分にはなかった。これほど明快な事実はない。 
 ともあれ、楼子のしなやかな指による摩擦は、マツバラを呆気なく昇天させた。 
 床に飛び散った精液をティッシュで拭き取り、後始末を終える。これでこの男とはさような 
らだ。ところがマツバラは、ベッドに腰掛けたまま、その場を動こうとしない。 
「――? どうしたの?」 
「き、君はさ、どうしてこんなことしてるわけ?」 
「はあ?」 
 何を言うかと思えば……。楼子は大きく溜息をついた。 
 こういうことを言い出す男は、はじめてではなかった。以前にも何人か出くわしたことがあ 
って、そのたびに楼子は吐き気を催してきた。彼らの行動パターンは共通している。やること 
はやるのだ。そしてそのうえで、こちらの事情に興味を示す。踏みこんでこようとする。理解 
してるんだというポーズをする。――ふざけるな。 
「悪いんだけど、そういうこと、言うつもりないから」 
「……へ?」 
「あんたの偽善に、つき合うつもりは毛頭ないってこと!」 
 猛然と言い放ち、きびすを返して楼子は部屋から立ち去ろうとした。ロックを解除し、ドア 
ノブに手をかけた。と、その背中に、硬いものが押し当てられた。 
 ばちんという音がした。 
「い――」 
 糸の切れた人形のように崩れ落ちる楼子の背後に、黒い大きな髭剃り機のようなものを握っ 
たマツバラが立っていた。 
「護身用のスタンガンだよ」 
「……っ」 
 痺れと痛みで声を出せない楼子を尻目に、マツバラは持参したリュックからゴルフボールと 
タオル、それから小さな瓶の容器を取り出した。にたりと笑う。どこか逸脱した笑みだった。 
「本当は、期待してなかった」 
 また語りだした。 
「どうせこんなことしてる女なんて、桜水さんよりも遥かに劣るブサイクに違いないって思っ 
てたからね。ところがどっこい、君はアレだ。当たり! ビンゴ! ラッキー! もう胸キュ 
ンってヤツ? あのさ、こうなったらさ、ちょっと逃せないですよ。手こきじゃ終われないで 
すよ。ここラブホテル! 邪魔者は来ない! 男と女が二人きり! オッケー! やるしかな 
いっしょ!?」 
 自分で自分を納得させてから、マツバラは作業に取りかかった。動けない楼子の脚を引きず 
ってベッドの下まで持っていき、ゴルフボールを無理やり口に押しこんだ。そうしてから、タ 
オルで口を縛り、声を封じた。 
「……っ! ――っ!!」 
 声を出せず、からだもろくに動かせない。いまの楼子は、もはや生きているダッチワイフで 
しかなかった。 
「安心していいよ。優しくしてあげるからさあ」 
 目が血走っていた。 
 レッドゾーンに突入した人間特有の表情が、マツバラの顔に貼りついていた。 
「う……」 
「勝手に動くなよ」 
 マツバラは、からだを起こそうとした楼子に平手打ちをかまし、返す刀で喉を押さえた。 
「おとなしくしてれば無茶なことはしない。……でも、君がオレをどうしても拒むっていうな 
ら、ここで殺しちゃうかもね」 
 ばちばちと、楼子の眼前で青い火花が飛び散った。スタンガンの空撃ち。問答無用の激痛の 
記憶は何より雄弁だった。楼子は顔を背け、怯えを露わにした。 
「そうだよ。それでいいんだ」 
 抵抗しない女体はマツバラにとって最高の玩具だった。服の上から発育の良い双乳を存分に 
揉み散らかし、その感触を堪能していく。楼子はそれに対し、嫌悪の表情をつくることで意地 
を見せた。如何な兄によって開発された肉体とはいえ、こんな変態にまで欲情するほど箍は外 
れていない。負けたくなかった。 
「なんだよその顔。つまんないぞ」 
 マツバラもそれを見て取ったか、不意に楼子の顎に手をやり、顔を自分に向けさせた。 
 反抗的な視線がマツバラを射抜く。 
「ふん……。ずいぶん意地を張るじゃないか。こんなこと、もう慣れっこってか? オッケー。 
それならこっちにも手段があるさ。その顔、ぐずぐずに溶かしてやる」 
 マツバラの手に、小さな瓶の容器があった。 
「これ、なんだと思う?」 
 きゅい、と蓋を開ける。たちまち、メンソールに良く似た、しかし独特の臭気が楼子の鼻を 
ついた。 
「伊達に関東近辺を渡り歩いてたワケじゃない。オレはその土地その土地で、いろいろと面白 
いブツを手に入れてきた。こいつはそンなかでも逸品と言えるだろうな。……ん? これが何 
かって顔してるじゃない。フフン、教えてあげないよ。そんなのつまらないからね。それに言 
葉で説明するよりも、自分で体験してみたほうが手っ取り早いじゃん。これは、そういうモノ 
だからさ」 
 ――媚薬。 
 楼子の脳裡に、メディアの世界でしか見聞きしたことのない単語が閃く。確信を伴って。 
「さあて、どこから塗り塗りしてあげようか。こいつは医薬品とは違うけど、用法容量を正し 
く守って使わないと大変なことになっちゃう。だから……」容器のなかに人差し指と中指を入 
れ、軽く掬い上げると、無色透明の粘液が絡みつき、糸を引いた。「おっぱいで試してみよう」 
 マツバラは楼子のセーターをたくし上げ、ブラを乱暴に剥ぎ取ると、それを塗りこみ始めた。 
 ひんやりと冷たい粘液が、楼子のきめの細かい乳房に満遍なく塗りたくられていく。 
(なに、これ――?) 
 タオルで縛られ、ゴルフボールを押しこまれた口のなかで、楼子は声にならない悲鳴を上げ 
た。乳のなかに粘液が浸透していく。それはさながら、スポンジが水を貪欲に吸収するがごと 
き貪欲さであった。まるで肌がその粘液を歓迎しているような錯覚は、楼子に自分が自分でな 
くなる――肉体と意思とが切り離されていくような絶望に転じていく。未知の感覚に襲われ、 
楼子の神経は明らかに狼狽し、拒絶の反応を肉体に指示するのだが、肝心のそれはスタンガン 
の衝撃からまだ立ち直ってはおらず、男の為すがままにされてしまう。 
「ひゃっこいのは最初だけ。そろそろ効いてくるんじゃないかな」 
「…………? ――っ!?」 
 いきなり、きた。 
 ほんのわずか前まで氷のジェルそのものだった粘液が突如としてマグマと化したのだ。ぶち 
撒けられたガソリン溜まりに火種が落とされ、瞬時に燃え広がるさまとよく似た、しかしそれ 
は恐るべき逆転現象だった。もはや、楼子の皮膚は淡い雪の塊に変質してしまったかのように 
頼りなく、圧倒的な火の感覚によって蹂躙されていく。溶かされていく。 
「――っ! ……っ……!!」 
 楼子の目が、見開かれていた。身のうちに起こった何かに抗うように、必死でかぶりを振っ 
ている。堪えている。ままならぬからだを、それでもどうにか動かして、手を――。 
「おいおい、自分でする必要はないだろ。ここにオレがいるんだからさあ」 
 マツバラは嘲笑い、せつなげに自らの乳を揉み始めた楼子の手を掴んで引き剥がした。 
(やぁっ――!) 
 おもちゃを取り上げられた子供のような目で、楼子はマツバラを見てしまっていた。ぼうぼ 
うと心の芯まで火で炙られ、築き上げた気概が消し炭になっていく。 
(ああ……こんなに……すごいなんて……っ) 
 初めて味わわされる媚薬の催淫効果は絶大だった。 
 先ほどの威勢は消え失せ、沸騰した情欲に瞳が潤んでしまう。誰でもいいから、胸を無茶苦 
茶に犯してもらいたくなる。何もかもが、どうでもよくなっていく。 
「ははっ! こわいくらいに覿面だな。おっぱいでこの有様だ。まんこにキメたらどれほどの 
バカになるやら、こりゃあ楽しみだぞ」 
 自分の言葉に昂奮したのか、ひとしきり地団駄を踏んでから、マツバラは次の工程に入った。 
楼子のズボンのベルトを緩めるや、おとなしくなってしまった楼子に尻を浮かせるよう命令し、 
そのうえで一気にずり下ろしたのだ。 
「へえ。もう準備万端じゃん」 
 マツバラは満足そうに笑った。 
 楼子にとって秘所を隠す最後の砦のはずだった白と青のストライプ模様のショーツは、既に 
溢れ出た愛液で下着としての体を成していなかった。湯気すら立ち昇っているようにも見えた。 
「おいおい、まんこのびらびらが『くてっ』となってるのが丸わかりだぞ。ハッ! やっぱし 
使いこんでるわけか?」 
 答えられないのを承知で、言葉で嬲り上げる。己の優位性を誇示する。そしてそれは確かに 
絶対だった。 
(ああ……っ) 
 見られてしまった。こんな変態に、自分が牝として発情している状況を。 
 屈辱や情けなさ、様々なものがないまぜになり、楼子は涙をこぼした。 
「さあてと、メインイベントだぞ。覚悟は出来たかなぁ」 
「――っ!」 
 いよいよマツバラが容器を片手に持ち、迫ってきた。身をよじって逃れようとする楼子のさ 
さやかな抵抗は、しかし右の膝頭を押さえられているため意味を成さない。 
 今度は容器から液体を掬い上げるようなことはしなかった。 
 直接、容器を傾けた。 
 中華料理の「あん」を思わせる、とろみのある液体がショーツ越しに楼子の秘所に注がれた。 
「っっっ!!」 
「こいつは用法には反するんだけど、まあ直接じゃないから大丈夫だろ。はっはははーっ!!」 
 その言葉が意味するものは、マツバラにとっての他人事、楼子にとっての恐怖だった。 
 下着越しとはいっても、愛液を吸い上げ、性器のかたちが浮かび上がるほど濡れてしまった 
ショーツでは、媚薬の浸透を防ぐことなどできない。これは性器に直で媚薬をぶち撒けられた 
に等しかった。 
(うあ……ああ……やだ……やだああっ!) 
 その効果は、迅速に過ぎた。まるで全身の血液が膣に、子宮に集まってくるような感覚。お 
ののきは得も知れぬ疼きを伴い、楼子の理性が漂白されていく。 
 ――マツバラの眼前で、触れてもいないクリトリスが勃起を始めた。 
(うう……っ! どうして、こんな……!) 
 ――ほしい。 
 釣り上げられた白魚のように、楼子は腰をくねらせた。じっとしていられなかった。からだ 
が、心が、とろとろに溶かされてしまうように思えたから。 
「いやあ、元気だね」 
 そしてマツバラは釣果に満足げな笑みを浮かべる。リリースはしない、この場でさばく。貪 
り喰らう。女は自分を馬鹿にしているから。自分という人間を侮っているから。これが復讐の 
第一歩。この女を滅茶苦茶にしたら、次は桜水さんだ。いや、梅丘さんにしようか。あの女は 
自分を置き去りにして一人だけいい大学に受かりやがったんだ。自分を見下していたに違いな 
いんだ。もしかすると自分を見る精神安定剤代わりにしていたのかもしれない。くそ。なんて 
ヤツだ。友達だと思ってたのに。女はみんなそうなんだ、男を品定めして、打算で付き合って、 
「用が済めばポイだと? ふざけるな。そんなのは御免だ。それなら、やられる前にやってや 
ればいい。そうとも。こっちがやってやる。男のほうが強いんだ。腕力だって男のほうが上な 
んだ。ちんぽだって付いてる! 生意気な女はちんぽで黙らせてやるんだ! おら、覚悟しろ 
よ! 中出ししてやる! 受精するまでやりまくってやるからな!!」 
 取りとめのない思考は暴走し、いつの間にかマツバラは声に出して叫んでいた。手のひらで 
乱暴にショーツの上から恥丘を摩擦する。単純な、愛撫ともいえぬ圧迫。だのに楼子はもはや 
それを快楽として知覚する以外のすべを持たなかった。否、遮断されていたのだ。 
「ふぅ……くうぅぅ……っ!」 
 救いは事前に噛まされていたゴルフボールだった。おそらくは悲鳴を、助けを求められるこ 
とを封じるために押しこまれたそれは、いまや楼子にとって唯一のダムだった。決壊しようと 
する自尊心を、危うい、寸でのところで支える防壁――。 
 楼子のなかにはルールがあった。 
 暴力による侵犯には断じて屈しないこと。 
 からだを暴力によって奪われようとも、心まで渡すつもりは毛頭なかった。 
 濡らしたという事実のみを取り上げて、その女が欲情して男を求めているとか、そんなふう 
に勝手な解釈をする男がいると聞いたことがある。それは違う。「受け容れなくてはならない」 
という宿命をもつ女のさがは、濡れることでからだを守るのだ。だから、男の行為によってど 
んなにからだが媚態を示そうとも、楼子は傷つかない。 
 こわいのは、心が折れてしまうこと。 
 肉体から湧き上がる快楽に負けてしまうこと。 
 綻びは、言葉から始まるだろう。言葉で男に媚びてしまえば、もう自分は壊れてしまう。口 
腔内のゴルフボールは、強制的に沈められた性感奈落のなかで、楼子に垂れた蜘蛛の糸だった。 
 ――ほしい。 
「あははは。そうかい、そんなにちんぽを入れてもらいたいかい? モノ欲しそうな顔しちゃ 
ってまあ」 
 涙が、止まらない。霞がかかった視界のなかで、楼子はマツバラの陰茎を兄のものであると 
置換しようとしている自分に愕然とし、妥協しようとしている自分に打ちのめされた。 
 いま、自分はどんな顔をしているんだろう。 
 きっと、陶然とした面持ちで、この卑しい男のちんぽを見つめてしまっている。 
 ほしくてほしくて。入れてもらいたくて。 
 ――ちんぽ、ほしい。 
 声にして言えたら、どれだけ素敵だろう。楽になるだろう。口を縛られてなければ、すぐに 
でも猥雑な言葉を並べ立てて、ちんぽを挿入してもらうのに。 
(……違う) 
 ――嫌だ。あたしは、もう嫌なんだ。自分を誤魔化すのは辛い。逃げるのは許せない。だけ 
ど現実を直視することなんて、とてもじゃないけどできなかった。 
 だから――。 
「よしよし、そんじゃ、ご期待に応えて犯してやるかね」 
 マツバラは片腕で楼子の両脚を抱えこむや、万歳をさせるように持ち上げてやり、尻に手を 
まわして限界以上の水分を含んでしまった下着を一気に引き剥がした。 
 未成年の少女を、無理やり犯す。 
 それはまず間違いなく、マツバラのこれまでの人生で一番のビッグイベントに違いなかった。 
スタンガンと媚薬による人間の無力化は、本人の予想を上回る効果を見せた。こんなにうまく 
いくなんて、マツバラ自身、思っていなかった。何をしても成功しない、失敗ばかりの人生だ 
ったから。桜水さんと交際していた時だって、結局、何もできずに終わった。デートでカネを 
遣わされただけだった。――それが、どうだ。普通に生活していたら、絶対に自分という人間 
なんかと交わることのない一線級の美少女を、孕ませられるほど犯してやれる状況にあるのだ。 
勇気と行動。これを実践するだけでこんなにも人生は好転する。ああ、ずいぶんとまわり道を 
した。最初からこういうふうにやればよかったのだ。はは。ははははは。 
 この時、マツバラは失念していた。自分の運命を。道程を。肝心な場面で足元をすくわれて 
きた己の過去を。 
「警察だ。動くな」 
 唐突にドアが開いて、三人の男女が踏みこんで来た。 
「な――!」 
 ノックも何もなかった。部屋のロックは、出て行こうとした楼子が解除したままだったから。 
たった一つのミス。なんて失念。マツバラはまともな思考ができず、少女の膝頭に手をやり股 
を開こうとした態勢のまま、白ヌキ状態で固まるしかなかった。 
 スーツを着た男が警察手帳を胸ポケットから警察手帳を取り出して、マツバラに提示する。 
ずいぶんと若い男だったが、不審に思う余裕などいまのマツバラにあろう筈がなかった。 
「時間」 
「はい。午後二時四七分、犯行現認!」 
 手帳を出した若い刑事が傍らの、これまたきっちりとしたスーツに身を包んだ女性を一瞥し 
手短かな指示を出すと、機敏な動作で彼女は腕時計に目をやり、現在時間を告げる。有無を言 
わさぬ迫力がそこにあった。 
「おい新任、ガイシャ保護!」 
 若い刑事はドアの前に立つ厚手のジャンパーを着た男に指示を与えた。 
「は、はい!」 
 目深に野球帽をかぶりサングラスをし、ジーンズを穿いたラフな恰好のその男は、どうやら 
この三人のなかで一番の下っ端らしく、ぎこちない動きで楼子のもとへと駆けよると、マツバ 
ラを押しのけ、着ていたジャンパーを脱いで彼女を包みこんだ。 
「ぼさっとしてんな。口のタオルほどいてやれよ」 
 若い刑事の鋭い叱責が飛ぶと、サングラスの刑事はおぼつかない手つきながらも楼子の口に 
巻かれたタオルを取り去った。 
「…………ッ」 
 ぷっ、と口からゴルフボールを吐き出した楼子は、よろよろとした足取りで起き上がろうと 
する。サングラスの刑事に肩を支えてもらいようやく立ち上がった彼女は、尻餅をついたまま、 
未だ茫然とするマツバラの顔面に、ムエタイ選手ばりのローキックを炸裂させた。 
「あ、まずいな。――新任、ガイシャはマルコー状態だ。先に署に連れてけ」 
「りょ、了解です」 
 被害者が被疑者に暴行を加えるのはよろしくない。若い刑事の判断は妥当と言えた。 
 
    5 
 
 当然のようにパトカー、それに準じる捜査車両など、ホテルの前には止まっていなかった。 
サングラスの刑事は何も言わない。楼子もこの状況について問いただすようなことはせず、彼 
の後をついて歩いた。 
「もう、いいよ」 
 疲れたように楼子が呟くと、サングラスの刑事は足を止めた。 
 もう少し先に行けば横浜駅が見えてくる。日ノ出町のホテルを出てからこっち、一駅分近く 
歩いたことになる。楼子は説明を求めなかった。だからサングラスの刑事も切り出す言葉を見 
出せなかった。 
 サングラスを外し、野球帽を脱いだ。 
「はい、これ」 
 引っ掛けていた彼のジャンパーの内ポケットから眼鏡ケースを取り出して、彼に渡す。 
「ありがとう」 
 ケースの中からメガネを取り出して、掛けた。 
 ――深町泉が、そこにいた。 
「どこから……?」 
「ワールドポーターズの中に、映画館があるんだ。関内アカデミーみたいなところとは違って、 
その時期の旬な作品を上映してる、いわゆる普通の映画館。今日は知り合いの人と一緒に『さ 
くや妖怪伝』を観に来たんだけど、その途中で、ね」 
「そっか。……遊園地しか目に入んなかったよ」 
 嘘をついた。 
 ――なんとなく、もしかしたら。そう思って、あの場所を待ち合わせに指定したのだった。 
 だけどこんな結末は想定外のことだった。 
「かっこ悪いところ、見られちゃったな。いつもちゃんと、うまくやってきたんだけど」 
「…………」 
 掛ける言葉が見つからず、泉は押し黙るしかなかった。 
 こういう時、自分がもっと大人であれば、気の利いた台詞の一つや二つ、すぐに出てくるの 
だろうか。そう、自分の師匠――すずなさんの彼氏のように。 
 肩を落として沈黙を守る泉を見て、楼子は思わず苦笑した。 
 変わらない。この少年は中学の時と何も変わっていない。 
 上映が終わった小さな映画館。 
 そこで初めて楼子は深町泉と出会った。 
 それまでは空気。クラスメートという、空気。 
 それが、変化した。 
 きっかけは、ほんの些細なことでいい。偶然という僥倖を、どこまで昇華させられるか。そ 
れは機会を与えられた人間それぞれが判断し、努力するべき事柄だからだ。 
 彼は誰にも自分のことを話さなかった。自意識過剰ではなく、当時も今も、楼子は周囲から 
浮き上がった存在であることを理解していたから、何か話の種にのぼるだろうといった見当を 
つけていた。 
 しかし彼は、楼子と横浜で会ったことを誰にも言わなかった。 
 泉は孤独ではない。 
 中学時代も現在も、傍目に見ても多くの友人に囲まれている場面によく出くわした。 
 この手の人間を楼子は知っている。人を惹きつける性質。望むと望まざるとにかかわらず、 
人の渦の中心に置かれてしまう者。 
 だから、話す相手がいないわけではないのだ。「そういえば」なんて具合に面白おかしく語 
る機会は幾らでもあった筈なのだ。 
 ――それなのに。 
 これまでの楼子の人間関係は、軽佻浮薄が当たり前だった。 
 細い線で結ばれた関係は、たやすくもつれ、ゆえにたやすくほどくことができた。 
 誰かの噂や失敗談、テレビや芸能アレやコレ。心に余裕をつくっておき、その空き領域のな 
かであれば、誰であろうと好きに詮索させた。それはひどく浅い、芝居じみた学校での自分。 
 そういう毎日を過ごして、本当のものなんて見つかるわけがなかった。 
 すべて、誤魔化しと暗示に思えた。 
 ああ、それならこの少年は何者だろう。 
 知り合ってから、きっかけを持ってから、それでも、中学時代はお互いに秘めた。 
 昼休みの廊下、掃除の時間の空白――。 
 わずかな、ほんの少しのアクセス。 
 何をするわけではない。こんな映画がある、あの監督の作品は面白い、そういった、一つの 
ジャンルについての、彼からの一方的なトーク。 
 ともすれば空回りしがちなそれは、しかし楼子という真摯な聞き手の存在によってエンスト 
を免れ、心地よい駆動音を奏で続けてきた。 
 やっと見つけた信じられる少年が、情熱を注ぐものがある。 
 虚勢と模造で構築された学校という空間のなか、楼子にとってそれはまさしく貴重な、何よ 
りも優先して耳を傾けるべき金言のように思えた。 
 楼子は、深町泉という異文化に触れることが楽しみになった。 
「キミに口止め料、払わなくちゃいけないね」 
「え……」 
「奢らせてよ」 
 それが息継ぎだと感じはじめたのは、高校に入ってからだ。 
 袋小路に追い詰められた自分にとって、ただ一つの拠りどころが彼なのだとわかってしまっ 
た。深く沈んで手足をばたつかせ、日常という沼をもがく木ノ下楼子は、いつの間にか、深町 
泉を酸素代わりにしていたのだ。それは生きていくうえで必要不可欠な、しかし多量の摂取で 
猛毒へと転じる矛盾――。 
 「濱虎」というラーメン店のカウンターに並んで座る。泉は会話の糸口を探そうとしたが、 
この状況でそんな都合のいい話題など、ある筈もなかった。ましてや彼自身、まだ本調子では 
なかったのだ。 
 木ノ下楼子というピースが、深町泉という人間の盤面には収まらない異質な形状をしている 
ことは、もとよりわかっていた。彼女の行動に問題はない。いや、あるにはあるのだろうが、 
今回は芝居の衣装や道具を持参していたすずなさんたちの機転で大事に至らなかったのだから 
これで良しとすべきなのだ。自分の動揺は端に置いておくべき瑣末事であり、真に問題とすべ 
きは彼女が――木ノ下楼子がどうしてこういうことをしていたのかという、その行動の動機だ。 
 泉が考えをまとめきらないうちに丼が運ばれてきて、二人はヘルシーとは縁遠い、カロリー 
の高い遅めの昼食に箸をつけた。 
 楼子の丼の中身は減らなかった。少なくとも泉の目には減っているようには見えなかった。 
「木ノ下さん、大丈夫……ですか」 
 実に、ようやく、泉は楼子を気遣う言葉を紡ぐ機会を得た。 

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