黒くざわめく水面と金色の月。船は闇の中を静かな軌跡を残して進んでゆく。
鉄板に樹脂をひいた甲板。湊航一は錆びた手すりにもたれ、影に覆われた海原
を眺めていた。郷愁、とでもいうのだろうか。出港からまだ半時間と経っては
いないのに…
実際、どこか実感が湧かなかった。
写真家になるために、日本を出る。そんなことはもう、何年も前から夢想していた。
しかしいざそのときが来てみるとどこか狐に摘まれているような気がする。「思う」
ことと「やる」ことは別物だ。
膝が浮ついたような、胃がせり上がるような落ち着かなさ。
湊は煙草に火を点けた。生まれて初めて買った煙草。もう三本も吸ってしまった。
暗闇に白くたなびく紫煙。
(ボクはどこへ行くんだろう?)
故郷を出、国を捨て、ハルへの想いも断ち切った。なぜ、自分はこんなことを…。
ハルはリクオに思いを寄せていた。なぜあんな男に…
一瞬、彼女がリクオに抱かれているシーンが脳裏をよぎり、心が切り刻まれる
思いがする。
(ハルをリクオにとられるのを、見たくなかったんだろうか? それもある。
でも、写真家になりたいのも本当だったはずなんだ…)
湊は自分が挑戦しているのか逃げているのかも分からなくなる。
…アテもない門出を泣きながら
祝ってくれた君がイトシイ…
そんな歌詞が胸に蘇ってくる。
あの最後の別れのとき、ハルが泣いてくれたこと。湊は振り返りこそしなかったが、
その涙を背中に聞いた。
そのとき、黒い海原に何かが顔を出す。湊は目を凝らした。
「ハルちゃん?」
昔、漁師たちが家族恋しさのあまり、ジュゴンを人魚に間違えたともいうけれど。
実際に湊が目にしたものが何だったのか、彼には確証は持てない。しかしそれでも
彼には満足だった。国を立つ前に、幻でも、もう一目だけでも会えたのだから。