「こーゆーところに来るのって、初めて?」  
大学生活以来忘れていた喧騒への気後れが、知らずと眉を歪ませていたんだろう。  
柚原と名乗る彼女は、仔猫をからかうような笑みを覗き込ませて、それから店員に二名分の空席を要求した。  
友人といえるほどの付き合いなんて決してなく、しかし、他人といい切るにはしがらみを残す私に、  
よくいえば鷹揚な、悪くいえば曖昧な態度で接してくる。  
同い年の筈なのに、横目で窺う彼女からは、姉御肌とでもいうんだろうしなやかさが醸し出されていた。  
「食べられないのってある?」  
「いいえ、…好き嫌いは…」  
案内されたカウンターの端に陣取るや否や、オレンジ色に染めた長髪を掻き上げながらタバコに火を点けて、  
さして充実している訳でもないメニューに目を走らせている。  
伏目がちに周囲を見渡すと、ネクタイを緩めたサラリーマンや早くも出来上がっている学生風の男女が目立って、  
女性の二人連れというのは、どうにも場違いに思える。  
「森ノ目さん、だったっけ。いつもはどんな所で飲んでるの?」  
「…同僚の部屋とか、ですけど」  
彼女はわずかにうなづいて、こんな場所もいいモンでしょ、と破顔してみせた。  
「こーゆー方が、意外と内緒話だって漏れないしね」  
背後の衝立の向こうの、辺り構わず怒鳴り散らすかのような乾杯の号令に、私も苦笑してみせる。  
 
偶然といえるのかは判らない。魚住くんのアパートの前で、捉まった、というのが正しいのかも知れない。  
時間空いてるんだったら、と半ば強引に、日の暮れつつある繁華街に連れ出されていた。  
受験シーズンの繁忙もようやく整理して、気が付けばそこに赴いていただけの私には、  
明確に断る理由もなかったんだし。  
 
「鳥カラとたこわさびとポテトサラダ、エリンギ、あと、この揚げ豆腐、それから中ジョッキね」  
彼女はカロリー計算なぞどこ吹く風といわんばかりに注文して、復唱を終えた店員に、  
なるったけ急いでね、と馴染みの店のように愛想を振る。  
「アハハ。今日は仕事が立て込んじゃってて、昼食満足に摂れなくって」  
たまたま依頼が重なって、今日一日に限って過密スケジュールだったという無名のピアニストは、  
しばらくは鍵盤を見るのもうんざりといった様子で伸びをする。  
「森ノ目さんはー…」  
「…シナ子でいいです」  
「じゃあ、アタシもチカでいいわ。シナ子さんは、教師やってるんだったっけ」  
初めて会った時もそうだったけど、彼女は人に対して不必要に構えるところがない。  
洒脱というべきか、なるほど、一度ふられた男の人でも心を許す筈。  
「え、はい。高校で」  
「んー、じゃ、若い子もよりどりみどりだねー」  
「はは…」  
だから、他愛のない会話を裏返して、澱みや曇りを一つひとつ嗅ぎ取ってみることもない。  
 
「だって、男が一番カワイイ時期じゃない。高校生なんて」  
可愛げのなかった特定人物を脳裏に思い浮かべて、止める。  
「そっから歳取るとさ、妙な智恵付けたり、変にガキに戻っちゃったりして、色々メンドーなんだよねー」  
斯く語る経験者と初心者以前の私の前に、アルコールと幾つかの小皿が運ばれてきた。  
中途でさえぎる手を無視して、彼女はなみなみとビールを私のグラスに注ぐ。  
「それじゃ、再会を祝して、乾杯」  
「…乾杯」  
こんな時間を過ごすのは何年振りだろうか。  
大学時代、週末になれば、決まったように皆んなで集まって莫迦騒ぎして、終電を乗り過ごせば、  
取りとめのないお喋りを続けながら甲州街道を歩いて帰って、そんな時、傍には魚住くんがいたんだった。  
もう郷愁の匂いを漂わせ始めている記憶。  
「ま、女も同じかな」  
「…?」  
「歳取っちゃうとさ、つまんない男あしらってる間にすれっからしになってたり、  
そーゆーのもメンドくさがってたらいつの間にか臆病になってたり」  
ふと顔を向けると、彼女が邪気のない眼差しを投げかけている。  
「アハハ、大人なんて、ロクなモンじゃないよねー」  
「ふふ、そうですね」  
だからといって、やり直せる人生がある訳もないし、始める前から後悔できる訳もない。  
つまづく毎に、未熟な自分を歯痒く思いながら歩くしかないんだ。  
 
「ね、魚住とは寝たことあんの?」  
唐突に、何かを思い出したように彼女が訊いてくる。  
「あ、あ、いや、私たち、付き合ってる訳じゃなくて…、その…」  
「…あー」  
二本目のタバコをつける仕草が妙に軽やかで、私は少し苛つく。  
どうして皆んな、そういうことには俄然と関心を寄せてくるんだろう。  
「ま、それもいいかもね」  
「え?」  
「男と女は寝なきゃ解らないことがある、っていうじゃない。でもさ、寝たら寝たで、  
解らなくなることもあるんだよね」  
そうなんだろうか。発言権のない私は、黙って聴く他ない。  
「人間なんて、どっかで誰かに寄りかかんなきゃ生きていけないけどさ、体の繋がりって、  
結構簡単に執着に転ぶから」  
「執着、ですか…」  
「自分にも相手にも、赤の他人にもね。気付いたら、周り全部根こそぎ失ってたりして。  
アタシ、そーゆーのってホント怖いからさ」  
執着というなら、私の湧くんへの想いこそそうだったんじゃないだろうか。  
もうこの世にいなくて、叱ることも反論することもない人に、後ろ姿しか思い出せない人にすがって、  
結果の出ることから逃げ続けていたんじゃないだろうか。  
今も東京にい続けているのも、きっと自分への都合のいい言い訳。  
「あ、あまり気にしないで。アタシが病気なだけだから」  
そんなに深刻な顔をしていたんだろうか、彼女が拭うように笑いかけてくる。  
 
「チカさん…」  
「何?」  
「男と女で、友だちでいよう、なんて、やっぱり卑怯ですよね」  
正直、傷つくのが怖くて、魚住くんにもずるく立ち回っていただけなんだ。  
「んー、一言友だちっていったって、色んな形があると思うけど。で…」  
「で?」  
「魚住は何て応えたの?」  
魚住くんは、私の子供のような我侭をできるだけ受け入れてくれた。  
どうしても気持ちが変わらないならお互いの為に去る、とまでいってくれた彼に対して、  
私は言葉をかけることもできなかった。  
「ま、アイツらしいっていうか。…ホント、昔から変わってないなー」  
彼女は、魚住くんのお人好しを嘲うでもなく、残酷な私を責めるでもなく、ただ溜め息を吐いた。  
「それでもさ、惚れた方の負けっつーの? 男でも女でも基本的に、そこんとこは変わんないじゃない。  
惚れられた方は、余裕持ってりゃいいと思うよ」  
「…でも…」  
「…そうねー、男と女に絶対はないし。だから、どんな関係でも、  
続けるには踏み出さなきゃいけない時もあるよね」  
その通りだと思う。自分だけの道を歩き続けるしかない私たちだから、  
自然に任せているだけじゃ、離れていくばかりでしかない。  
あれはショーペンハウエルの、ヤマアラシのジレンマ、といっただろうか。前向きに生きていこうと決めたなら、  
今更痛いのを怖がっていていい理由はないんだ。  
 
 
このボロアパートで何度目の春を迎えるのか、もう忘れた。  
季節も日々も、窓越しに覗く街路樹もネオンも移ろって、俺だけが残滓のようにたゆたっている。  
ここから引き返す理由などは幾らでも作れた筈なのに、何時からか、  
そんな行為にすらも酷く曖昧な意味しか見出せなくて、止めた。  
 
扉を叩く音がした。電気やガスの料金徴収には遅過ぎる、夜半を回った時刻。  
居留守を使った覚えはないと思いながら、あくびを噛み殺してこたつから脱け出す。  
明日は土日祭日ではないので、恒例の福田のお参りということもないだろう。  
「…何だよ…」  
しかし、元彼女という立場の人間は、こうも人を幻滅させるような登場しかしないものだろうか。  
「何よ、そんなあからさまに嫌な顔することないじゃない」  
呼気がやけにアルコール臭いのがより一層嫌な予感を膨らませることに、こいつは気付いているのか。  
「…で、宿を借りにきたって訳?」  
終電はもう発車した頃だろうか。冬を越したとはいっても、野宿しろ、といい放つには冷たい夜風だった。  
「さすが元カレ、話が早いわ」  
「ああ、…もう好きにしろよ」  
隣室が寝静まる時間帯にテンションのたがが外れた人間と玄関先で口論を続けるのもバカバカしいだけで、  
頭を掻きながら六畳間を片付けに向かう。  
「んじゃ、遠慮なくお邪魔しまーす。ほら、足許段差あるから」  
 
「何だ、…」  
連れまでいるのかよ、という愚痴を呑み込む。  
どんな手の込んだ悪戯というべきか、柚原が肩を貸して覚束ない体を支えているのは、  
視線も虚ろに泳いでいる酩酊状態のシナ子だった。  
「ちょ、おま…」  
「いやー、近くの居酒屋でさ。彼女ったら、まー、飲むこと、飲むこと」  
「そんなことじゃなくてだな」  
慌てて駆け寄ってシナ子の両肩を掴むと、途端に甘酸っぱい香りが、柔らかい肢体が、  
糸の切れた操り人形のように俺の胸板にしだれかかってくる。  
「シナ子、大丈夫か? おい、どんだけ飲ませたんだよ。って、おい」  
荷を預けた柚原は、勝手知ったる、とばかりに部屋に堂々と上がり込んで、  
押入れから寝具一式を引っ張り出している。  
「こんな時に何してんだ、おまえ」  
「あら、可哀想に。アンタってば、ふらっふらのお姫様を、こたつでごろ寝させるつもりなんだ?」  
そういわれてみればその気遣いは真っ当かも知れないが、  
ここまで前後不覚にさせただろう人間にいわれる筋合いも俺にはない筈。  
シナ子がお姫様だというなら、柚原はむらっ気の多い女王様だ。  
「おまえもな、ちょっとは相手の酒量を考えてやれよ」  
何年も干していない布団にシナ子を寝かしつけて、湯冷ましを作ろうとコンロを点けた。  
「ハハ、誰だって、思いっ切り飲みたくなる時くらいあるでしょ」  
「おまえを基準にすんなよ」  
「大体、注文続けたのはシナ子さんなんだし」  
 
それは、にわかには想像できないシナ子の弾けっぷりだった。  
「…おまえ、シナ子に何かいったんだろ」  
「判る?」  
「バカにすんなって」  
ちょっと先輩風を吹かしてみただけと応えて、柚原は視線を逸らしながらタバコの煙を不味そうに吐いた。  
「何だよ、それ」  
「アハハ、柄じゃないっつーのはアタシだって判ってるって。アンタも彼女も器用な人間だったら、  
こんなみっともない真似、こっちからお断り」  
俺はともかく、シナ子が不器用だという意味が判らない。  
死んだ幼なじみを何かで埋め合わせることもなく想い続けるのがそうだというのなら、  
それは余りにも無神経な物言いだろう。  
否応なく他人の手垢にまみれていく世俗と永遠に汚されない胸の中の思い出を天秤にかけるのが、  
そんなに愚かな様に映るのだろうか。  
「…さーて、後は若い二人に任せて、邪魔者は退散するとしましょうか」  
どこかで聞いた常套句を大袈裟にいって、柚原は玄関に向かう。  
「何考えてんだ、おまえ」  
「いった通りだって。こうなったら魚住のここ次第だから」  
含み笑いを浮かべながら二の腕を叩いてみせるこいつには、黒く尖った尻尾が生えているに違いなかった。  
「本気かよ…」  
「そんじゃ、よろしくー」  
 
「眠れね…」  
こんな状況でも動じることなく、日常の振る舞いを貫けるのが大人なのだろう。  
しかし、面と向かって拒絶されながら何時までもシナ子への想いを断ち切れずにいる自分、  
過ぎていく時間が関係を望ましい方向に打開してくれるのではないかと甘い期待を抱き続ける自分が、  
そうである訳もなかった。  
横で布団に埋もれながら微かな寝息を立てているシナ子に振り返っては、夜空に浮かぶ月に視線を戻す。  
それでも、自然と漂ってくる、うらぶれた部屋には不相応な女の匂いが鼻腔を問答無用にくすぐって、  
存在を忘れられる訳もない。  
「こりゃ、拷問だよな」  
知らずと鼓動は回転速度を上げて、頬も耳朶も熱く紅潮していて、何のこともなく、  
自分も理性の皮を一枚剥げばただの男でしかないことに、幻滅の溜め息を吐くばかり。  
かといって、洗練された狼に変貌するには、経験も力量も不足していることくらいは自覚できている。  
今頃は安穏と惰眠を貪っているだろう柚原の口先を、思いっ切りつねってやりたい。  
と、ふうと悩まし気な息が鼓膜に触った。  
「シナ子?」  
呼びかけてみて、後悔する。あと数時間もすれば、何事も起きずに明朝を迎えられるだろう筈なのに。  
「ん、ん…」  
視線を合わせた刹那、端整な双眸が明確に疑問符の形を描いて、それから鮮やかに見開かれた。  
 
「…魚住…くん?」  
もう、夢では済まされないと思う。  
結局、柚原がシナ子を連れ込んだ時点で、俺に逃げ場は残されていなかったのだ。  
酒が抜け切れていない人間を一人放りっぱなしにすることなどできないこの性格も、  
自称キューピッドのお膳立てには格好の材料だったに違いない。  
「頭痛くない? 吐き気は?」  
俺の問いも耳に届かない慌てぶりで、お姫様は布団を撥ね飛ばして四方を見渡している。  
「俺の部屋だよ。…覚えてないか」  
「…魚住くんの、部屋? 私…ん…」  
咄嗟にひたいとこめかみに指を添えるシナ子の為に、こたつから脱け出て湯冷ましを注ぎに行く。  
「ほら、柚原と飲んでたんだろ」  
「…うん」  
「珍しいな。こんなになるまで飲むなんて」  
回りくどいやり方だと思いながら、探りを入れてみる。  
それは、まだ自分の置かれた状況の把握も定まらないだろうシナ子から、  
隠された意趣が覗けるかも知れないという下心。  
俯いたままのシナ子の前に、グラスと鎮痛薬を二錠差し出す。  
「柚原さんは?」  
「…帰っちゃったよ。おまえ残して」  
昔に戻れない俺たちだから、それは到底、虚心ではいられない宣告だろう。  
「そう…」  
なのに、視線を逸らしたのは俺の方だった。  
繊細なガラス細工のような危ういものを見た予感が、知らずにそうさせていた。  
 
乾いた口腔に広がっていく、やや温い水が心地よかった。  
吐き気はないし、頭の痛みも大したことはない。そして、この部屋にくるまでの過程も今一つ思い出せない。  
ただ、こうして魚住くんと二人きりになってしまったことまでが偶然の産物じゃないことは想像できる。  
「薬飲んだら、朝まで寝てろよ」  
吐き捨てるようにいうと、魚住くんは私に背を向けてこたつにもぐり込んだ。  
ふと辺りを見回して、彼の枕元に目覚まし時計を見つける。針は午前二時を過ぎた頃を指している。  
「ありがとう」  
返答がない彼を横目に、苦い薬を口に含んで流し込む。  
「…怒ってる?」  
「まさか…。おまえ、明日早いんだろ。少しでも寝とけよ」  
素っ気ない口調に促されるままに、私も静かに布団を被った。  
繊維に染み込んでいる彼の体臭に全身を包まれながら、柚原さんとの断片化された会話を反芻してみる。  
自分は何も行動しない癖に、相手にはお預けをさせたままで付かず離れずの関係を願う、  
そんな態度の臆病さに気付かされて、私は恥じ入るばかりだった。  
見返りを要求することもない魚住くんに、都合よく甘えていただけ。  
湧くんが死んで八年、東京に独りで住み続けたし、自立しようと教師になった。  
でも、それは何も変わらなかった自分に見栄えのいい嘘を吐いていただけなんだ。  
「シナ子…」  
遠くない声に振り返ると、魚住くんが怪訝そうに私の様子をうかがっている。  
それでようやく、私は何時の間にか泣いていたことに気付いた。  
 
「ん、…何でもないから」  
強がってみせた私の枕元に、起き上がった彼が座り込む。  
「柚原に何いわれたか知らねーけどさ、気にするなよ」  
彼は青い月に顔を向けたままで、おまえはあいつじゃないからと諭してくれながらタバコに手を伸ばした。  
それでも、気にならない訳がない。  
彼は自分を私に見合わないといったけど、  
八年もこんな足踏みばかり続けている私こそ、誰にも見合わないんだ。  
それは、ずっと見て見ぬふりをしてきた、怖ろしい事実。  
「シナ子…、おい」  
どうしていいのか判らなくて、だから、白く光った感情が魚住くんの背中に寄り添わせていた。  
「おまえ…」  
昔から頼ってばかりで、それでも、こんなに広かったのを気付かなかった。  
頬から、胸から、指先から、シャツ越しに柔らかく伝わってくる彼の体温は、  
凡百の言葉よりも遥かに雄弁に慰めてくれる。  
「…このままで、いさせて。ちょっとでいいから…」  
唾を飲み込む音が聞こえて、それを勝手に承諾してくれたと解釈する。  
少しの間でも、許してくれればよかった。  
明日からは嘘を吐くのを止めるから、弱虫な自分から変われるように頑張るから、たとえ彼に蔑まれても、  
この温かい時間を許してくれればよかった。  
「魚住くん、ごめんね」  
 
シナ子と呼びかけて、そこから文句を紡ぐことができない。  
過ぎる言葉は、この思いも寄らなかった状況の全てを打ち壊してしまいそうな予感が確かにある。  
偶然と必然をるつぼに溶かし込んで作り上げられた、薄氷の上の楼閣のような、  
危うさと美しさを綯い交ぜにした状況。  
 
肩を叩いたこともあった。二の腕を引っ張ったこともあった。  
しかし、それはあくまで俺たちが友人で、それ以上でも以下でもなかった頃の話。  
否、シナ子を一人の女、特別な女として意識していなかった訳ではない。  
しかし、永遠に続くような錯覚さえ覚えずにはいられなかった安逸な学生時代の中で、  
俺は結局、曖昧な関係に結論を出すことを、別れが訪れるまで先延ばしにすることしかできなかった。  
 
夢と、酔いに因るシナ子の失態と片付けてしまうには、余りにもあざやかな背筋の体温と感触。  
端整な指先は鎖骨に、しなやかな頬はうなじに、そして、ふくよかな胸は肩甲骨に密着していて、だから、  
何故謝るのだろうかと考えることに意識を没頭せざるを得ない。  
反射的に血を集めて凝固していく下半身の生理を、ここまで呪ったことはなかった。  
男ってのはと密やかに独りごつ。このまま無言でシナ子を押し倒して襲ったところで、  
ことの終わりに残るのは、弱みに付け込んだという罪だけに違いなかった。  
「…私、面倒だったよね」  
貧弱な俺の語彙では、返す言葉も見付からない。  
 
「自分の都合ばかり考えて、…魚住くんを振り回しっぱなしで」  
「俺は…」  
それでもよかったのだ。シナ子は何時でも恒星のように煌めいていて、だから、  
煩わしきに煩わされずにいてさえくれればいいとすら思ってもいた。  
無論、随伴する惑星がその光を曇らせるようなら、去らなければいけないだろうことを覚悟もしてはいた。  
死んだ人間への想いに未だに葛藤するシナ子に対して、俺は一体何の手助けができただろうか。  
だから、寧ろ、その苦衷を茫洋とした想像の範囲に留めることしかできずに、  
時間が解決してくれることを願うばかりの不甲斐ない俺こそが、今、本当に謝らなければいけないのだ。  
ふと、シナ子が二の腕を掴んだ。  
「シナ子…」  
その指先が、頬が、胸が震えていて、耳をそばだてずとも嗚咽しているのが判ってしまう。  
おまえは何も厚かましくなんかないから。おまえは何も図々しくなんかないから。  
そう口の端に並べるよりも速く、シナ子の薄くやや冷たい手に手を重ねる。  
同情という陳腐な思いからではなかった。互いに距離を測りかねることしかできなかったからこそ、  
一人の男と一人の女として、露になって許し合うべき二人として触れた。  
体勢を変えて、シナ子と向き合う。別人かと思わせるほどに、その充血して潤んだ眼も濡れた頬も華奢な肩も、  
初めて見る脆さを湛えていて、思わず息を呑む。  
だから、壊れないように、この状況さえも壊さないように、その肩を抱いた。  
 
「俺は、…それでも、おまえが…」  
冗舌な言葉は要らないというかのように、微かな衣擦れの音と共に、  
シナ子の肢体が乳飲み子のように再び俺に寄り添う。  
女を主張する香りと肉付きが、全身の神経をくすぐるように刺戟して、堪らずに両腕で抱き留めた。  
「おまえが好きだ」  
何時かにもいった凡庸に過ぎる一言には、しかし、一点の嘘偽りもない。  
広大な世界で誰よりも好きな女性が、誰よりも近くにいる。ただそれだけの、  
そして途方もない幸福感が込み上げてきて、無意識にシナ子の頬へ手をあてがわせる。  
視線が合っても、最早、互いに逸らせることはない。  
躊躇なく、唇を重ねる。芳しく柔らかな粘膜がひしゃげるまで強く、その感触を味わう。  
 
どこかでかじった格言だった。手の上なら尊敬のキス、ひたいの上なら友情のキス、頬の上なら厚情のキス、  
そして、唇の上なら愛情のキス。  
でも、彼も私も求めたのはより深く、目には見えない互いの心を手探りするようなキス。  
少し乱暴で落ち付きがなくて、でも、割り切れそうで割り切れなかった私の苛立ちを鎮めて慰めてくれるような、  
切ない触れ合い。  
だから、魚住くんも、侭ならなかった私への感情を思う存分にぶつけて欲しかった。  
フィフティフィフティとはいえなくても、こうして分かち合わなければ、  
私は何時になっても同じところに独りぼっちで立ち尽くしているだけだから。  
 
唇を離した彼の手が、名残惜し気な私の髪をあやすように撫で上げていく。  
見凝めてくる視線が、覚えがないくらい温かくて、だから、私も彼の広い胸を抱き締める。  
「…と」  
体勢が崩れて、布団の上に仰向けに倒れ込んでしまう。次いで、私に魚住くんが覆い被さってくる。  
鼻先をかすめる吐息。体と手足で感じる男性の重み。でも、拒みはしなかった。  
腕力のない女だから、というのは理由にならない。後ろ向きな自分と決別する為、  
というのも今となっては筋の通らない理屈だった。  
多分、理性より感性がその答えを知っていて、だから、私はもう一回キスを魚住くんにせがんでいる。  
「…あ」  
互いに両手を絡ませたままのキスは、殊更に深く、私の内部を熱く抉っていた。  
芯に火を点けたような、えもいわれぬ感覚が私の四肢を、脳髄を貫いて痺れさせていく。  
これを情欲というんだろうか。脳裏に浮かんだ淫らという単語を打ち消す白い光が、彼の背中を掻き抱かせていた。  
「魚住くん、…魚住くん」  
彼の唇が、私の唇を、頬を、鼻筋を、涙のこぼれかかった目尻を、貪るように吸ってくる。  
そんな魚住くんに負けじと、私もところ構わずキスを繰り返す。  
子供の遊戯のような、温かい時間。  
でも、大人の私たちにはまだ先があって、だから、布越しに太ももへ押し付けられている彼の膨らみを、  
ふざけ半分でなぞってみる。  
不意に困った顔をする魚住くんに、得意満面の笑みを浮かべてみせた。  
 
もどかし気にひくついている、私に受け入れられたがっているもの。  
男性の生理なんて解らないけど、そこだけが別の意思を持っているみたいに、  
獰猛な息を凝らしているのが伝わってくる。  
なのに、怖さよりも先に安らぎを感じるのは何故なんだろう。  
「…いいか?」  
少し緊張した声と同時に、彼の指先が私の襟元に伸びてくる。  
月光以外に明かりのない中を、迫られたように這いながら、乱暴にボタンを外していく。  
「ん、…お風呂、借りていい?」  
昨日の早朝にシャワーを浴びたきりだから、体のどこもかしこも汗が残ったままで、裸にされるよりも、  
魚住くんにその体臭を嗅がれることにためらいがあった。  
自分の体型に自信がある訳じゃないけど、だからこそ、清潔にだけはしておかないと、  
ここまできて幻滅されるかも知れないから。  
なのに、気付いただろう私の意図を逆手にとって、開かれていく首筋に、胸元に鼻を押し付けてくる。  
「ちょ、ちょっと待って、魚住くん」  
「臭くなんかないよ、シナ子」  
嗅ぐばかりじゃなくて、舌を伸ばして肌をこそぎとるように舐めてくる。  
恥ずかしさで穴があったら入りたい私に、魚住くんは汚いところなんてないからと囁いてみせる。  
「シナ子の全部、知りたいから」  
思わず両手を胸の前にすくめる私を宥めるように、きざな言葉を投げかけて、  
服を脱がそうと再び指先を差し入れてくる。  
 
独占欲というんだろうか、征服欲というんだろうか。彼の目はぎらついている訳でもないのに、  
自然と顔を背けてしまう。  
怖いからじゃなくて、そんな魚住くんを拒めずに、腕を脱力させている自分が恥ずかしかったから。  
「手、伸ばして」  
シャツが脱がされる。春先とはいっても、夜更けの空気が刺さるように肌に冷たかった。  
男性の前で、組み敷かれてこんな格好になることなんて、今まで一度もなくて、でも、  
こうなるんだったら可愛いブラを着けておくんだったと思う自分が少し莫迦みたい。  
「シナ子…」  
彼の指先が、たなごころが、あやすように、確かめるように、私のうなじを、二の腕を、脇を撫でていく。  
くすぐったさと、伝わってくる彼の体温が切なくなるくらい心地よくて、声がこぼれてしまう。  
「もっと聞かせてよ」  
「…ずるい」  
魚住くんが微笑んでいるのが悔しくて、私も彼のシャツに手をかけた。  
子供じみた対抗意識というのは半分嘘。私だって、彼のありのままをちゃんと受け入れたいから、  
邪魔な物はもう要らないだけ。  
胸まではだけさせたところで、視線で訴えて、自分から脱いでもらった。  
「意外と筋肉質なんだね」  
細身で余分なところのない上半身が昂奮で火照っているのが、空気越しにも判る。  
 
「一応、肉体労働者だからな」  
拗ねたような返答に笑いかけながら、彼の背中に手を回す。魚住くんも私を真似て、改めて抱き締め合う。  
「はぁ…」  
触れ合った肌がそこで融けてしまうような一体感と、胸の中に男性が、  
自分じゃない人間がいてくれていることの充実感が、心を満たしていく。  
それは言葉の遣り取りだけじゃ与えられないもので、儀礼と呼ぶには割り切れないもので、  
とても深くて熱くて、掴みどころもない。  
「好きだ」  
「…ね、…もっといって」  
「好きだ、好きだ、シナ子、好きだ」  
感情が爆ぜたように、魚住くんも手と唇で私を撫ぜ回しながら、うわ言のように耳元で囁いてくる。  
ずっと私の傍にいてくれた人。ずっと私を想ってくれていた人。ずっと私を待ってくれていた人。  
そして、ずっと私を甘えさせてくれていた人。  
だから、私にはただ一言を除いてかける言葉はもうない。  
「私も、好き」  
またキス。咄嗟に彼の唇の間から舌先が滑り込んできて、私の前歯を割っていく。  
本能なんだろうか、神経の痺れ切った筈の私の舌が、それに応えていた。  
温かく濡れた粘膜が撥ねてつついて絡んで、その度に、脳髄が知らないものに真っ白に犯されていく。  
なのに、もっと繋がりを求めて、貪るように彼の唾をすすっている。  
 
眼下のシナ子は、こんなに間近にいながら、酷く小さく見えた。  
初めての、そしてそれっきりの、忘れようもない柚原の体と比べている訳ではない。  
何処が、と取り立てていえるものでもなくて、だから、たちの悪い錯覚と決め付けて振り払った。  
「シナ子、シナ子」  
唇を合わせながら、愛しい人間の名前を呼ぶ。ただそれだけのことが、  
こんなにも胸を熱く満たすものだとは知らなかった。  
シナ子も応えるように受け入れて、あまつさえ、空いた手で俺の頭を撫でてくれている。  
抱いているのに、抱かれているような、おかしな感覚。  
リードしなければいけないのにと気持ちが焦って、指先をシナ子の背中に回しても、ホックを外せない。  
「…脱ぐね」  
「悪ぃ」  
「ん…」  
軽く喉を鳴らすシナ子に自分のあるまじき失態を思い知らされながら、晒されていく乳房から目が離せない。  
推測だけはしていたが、やはり形のいい盛り上がりは透きとおるように白くて、  
誰にも荒らされたことのない未踏の雪山を思わせる。  
「…何か、おかしい?」  
「おかしくなんかないよ。綺麗だ。…何でさ」  
「だって、そんなにまじまじ見凝めるんだもん」  
曲がりなりにも男なら、こんなに魅力的な女の象徴に心を奪われない筈がないだろう。  
無言の反駁とばかりに手を伸ばす。  
 
「ふぅっ」  
肺を絞るように、シナ子が切ない息を漏らした。  
たなごころに吸い付くように柔らかくてしなやかで、それでいて内に張り詰めた肉を感じさせるそれは、  
名工によるガラスの彫刻に皮一枚を覆わせたように思える。  
少しでも理屈めいた言葉を脳裏に思い浮かべないと、その感触が獣に豹変させてしまいそうだった。  
それでも、男の習性にほぞを噛んだところで始まらない。シナ子の緊張ごとほぐすように、  
時間をかけて揉みしだいていく。  
「…んっ」  
「痛かった?」  
「ん、そうじゃなくて。…魚住くん、慣れてるのかな、って」  
そんなことはない。ただ、シナ子だから、誰よりも傷つけたくないおまえだから、  
これ以上独りぼっちにさせておいてはいけないおまえだから、  
何よりも優しくしないといけないと覚悟しているだけだ。だから、俺は知りたい。俺を知って欲しい。  
肌理の細かいそこに唇を、舌を這わせる。甘い体臭を嗅ぎながら、隠されていた部分を味わう。  
「んんっ、…魚住くんのエッチ」  
訴えに視線を上げると、恥ずかしさを打ち消そうとしているように、頬を赤らめた温かい笑顔が覗けた。  
俺も自然に釣られて笑う。  
この嬉しさを分かち合いたいから、ごめんねなんて二度といわせたくないから、  
シナ子と何処までも一つになりたい。  
 
「ふぅん、んはっ」  
「かわいいよ、シナ子」  
その手で、唇で、舌で、私の体が触れられるところから彼の体温で溶かされていくみたいで、でも、  
不思議と怖くはなくて、寧ろ、とても心地いい。  
だから、今まで知らなかった声が喉の奥からこぼれてくる。  
それだけじゃなかった。私は自分で胸を迫り出して、魚住くんを誘っている。  
私が私じゃなくなっていく。本当はそうじゃない。私の中のもう一人の私が悦びに打ち震えながら、  
浅ましく媚びている。もっとされたがっている。  
耳を噛まれるのも、その穴に舌を入れられるのも、昂揚で汗ばんだ脇の下を唇でなぶられるのも、  
全てが初めての経験なのに、貪欲に快楽として消化している。  
「ん、ぁはっ」  
魚住くんが、指の間で転がしていた乳首を、音を立てて吸う。  
もう止まらなかった。頭の中がめちゃくちゃに引っ掻き回されて、何も考えられなくなっている。  
「シナ子、いいか?」  
それなのに、彼の指先がスカートにかかると、喘いだままで腰を上げて協力している。  
だめ。脱がされたら、魚住くんに見られちゃう。いやらしい女の私を知られちゃう。見て欲しい。知って欲しい。  
澱のようにこびり付いた数え切れないごまかしの私を、思う存分に蹂躙して欲しい。押し流して欲しい。  
 
下半身もショーツを一枚残して露にされて、でも、太ももに力を入れられない。入れたくない。  
足だけじゃない。全身が悦びで掻き卵のように解きほぐされて、緩み切っていた。  
それを察したように彼の熱い手が両膝にかけられて、左右に割られていく。  
「あ…」  
私はこの先にあることを期待していた。女だから、男を迎える定めの生き物だからという妥協は、  
決して恥ずかしいことじゃないと信じて。  
そうじゃない。私が今この時に一番必要な人だから、私を一番必要としている人だから、  
これから今以上に強く結び合わないといけないんだ。  
足の間に体を滑り込ませた魚住くんが、指先を私の秘密の、最も女を示す局部に伸ばしてくる。  
「…そうっとして、お願い」  
自分でさえ用を足す時にしか触れない、聞きかじったような、独りで慰めることなんて一度もない箇所。  
「んんっ」  
頭の中に、何かが炸裂したような閃きが駆け巡る。  
ショーツの上から指の腹が、そこを調べるように丹念になぞっているのが判る。  
「…湿ってるよ」  
「バカッ」  
レディーに向かって口に出すのは反則だと思う。そんなことは、自分の体なんだから、  
私がとっくに判っているのに。  
咄嗟に両腕で顔を覆う。これじゃ、頭隠して何とやら。  
それをいいことに、魚住くんは執拗に、陰唇をあぶり出すようにこねくり回し続ける。  
 
ゆっくりとなぞるように這わせたり、そうかと思うと、掻き乱すようにさすり上げて、  
時折突き入れるような素振りを見せる彼の変幻自在な指遣いに、  
他の人と経験があるんだと解ってしまう女の直感。  
「ひっ、あ、あぁ」  
そこから脳髄まで、間断なく電流が襲いかかってくる。白くて優しくて、  
だから、決して逆らえない痺れと震えが私に広がって溶かして蝕んでいくのが判る。  
下半身が勝手にひくついて、彼の眼下であられもなく踊ってみせている。  
「…シナ子、かわいい声」  
「や、やあっ、やんっ」  
言葉にしないで欲しいのに、いたずらっぽく魚住くんが呟いた。  
自分が知っている自分じゃなくなっていくのに、知らない色に塗り替えられていくのに拒めないから。  
拒む理由がまるで見付けられないから。  
汚されているなんて、侵されているなんてまるで思えない。  
それどころか、恥ずかしいところを弄ばれて、なのに、甘い快楽にはしゃぐ仔犬のような声を上げて、  
口の端からよだれをこぼして、私は女に生まれたことを否応なく思い知らされてしまう。  
選んだ男に身を捧げて、その手に、舌に悦んで悶える女の機能を、私もちゃんと備えているんだ。  
「んんっ、はんっ、あ、あ、ひあっ」  
「そんなにいい?」  
だから、訊かないで、私に考える余地なんか与えないで、  
見栄っ張りでどうしようもない意地を通すばかりだった私を壊して欲しい。  
 
なのに、彼の指が唐突に止まってしまう。  
「おまえ、初めて?」  
「う…」  
喉がしぼんで返答に詰まる。恥ずかしくないことと思いながら、  
腕の間から覗き込んでくる魚住くんに視線を合わせられない。  
どうしてそんなことを、ここまでしておいてからいえるんだろう。  
処女がそんなにみっともないの。珍しがられることなの。嘲われることなの。  
湧くんが死んでから誰にも真剣になれなくて、一所懸命になれなくて、だから、男性とは溝を残すしかなくて、  
そんな私を好きになってくれたのに、こんなに深く触れているのに、関係ないことじゃないの。教えてよ。  
「悪ぃ、俺、がっつき過ぎた…」  
「え?」  
「ごめん」  
急にしおらしくなった魚住くんが、私に身を寄せてくる。  
添い寝するように上半身を並べて、バツの字に組んだ両腕が解かれてしまう。  
強引に思えた彼の目が熱く濡れているように見えたから、手が伸びて私の頭を抱きかかえても、為すがまま。  
そして、またキス。熱情に浮かされたようなものじゃなくて、温かく慰めるようなそれに、思わずまぶたを閉じる。  
それでも、言葉を交わさなくても、粘膜を通して伝わってくる彼の誠実な謝意が愛しくて嬉しくて、  
放そうとする彼の首に私も腕を絡めて、もっととせがんでしまう。  
 
背中に回された手が加減よく私を抱きかかえてきて、胸で感じる彼の体温と鼓動がとても心地いい。  
「…何か、久しぶりで、焦り過ぎた」  
久しぶりの一言だけがちょっと癪に触ったから、口を塞ぐように私から唇を重ねた。  
彼の頬が温かく緩んでいるのが判って、私もそのままで得意気に笑ってみせる。  
「…いいんだよ」  
「どうして?」  
「魚住くんの好きなようにしてくれて、いいの」  
彼の情欲のままに私を染め上げてくれるだけで、内実は空っぽだった時間が埋まっていくんだから。  
満たされていくんだから。  
断ち切らなかった片想いを隠れ蓑にしていた私の弱さを、あなたがこうして包んでくれるんだから。  
「ホントだよ」  
その言葉の通りに、本当は気付いている。  
私の中で惰眠していた女の性が、彼の挙動にうずいて頭をもたげ始めているのを。  
歓喜の産声を上げ始めているのを。  
だから、今止められてしまったら、私はくすぶり続けるまま。  
何もかも中途半端なんてもうたくさんだから、魚住くんに、私を想い続けてくれた人に、  
これ以上はないくらいに狂わせてくれないと、見たこともない彼岸まで連れて行ってくれないと嫌なんだ。  
彼の真摯な視線が痛いくらいに目に突き刺さるや否や、強く抱き締められる。  
胸板の間でひしゃげる乳房が、不思議と気持ちいい。  
 
腕の中で横たわっているのは、想いを寄せていた幼なじみが死んで以来、誰の手も受け付けさせなかった体。  
それでも、あの時の柚原とは違う、むせ返るほどに色香を溢れさせている女の肢体。  
処女を青臭く信奉するつもりはないが、それでも、好きな女が初めての男に自分を選んでくれたことに、  
感慨を隠し通すのは無理だ。  
少なくとも、顔も知らない人間の痕跡に嫉妬をつのらせる必要はない。  
そして、だからこそ、優しく抱いてやらなければならないと思う。  
シナ子の初めての夜を台無しにしないように。時間をかけて、  
ようやく開き合わせた心と体を、互いに隅々まで確かめられるように。  
好きなようにといわれたところで、抱いている女の性感を汲み取れるほどの経験などありはしないから、尚更だ。  
柔らかな髪を撫でると、シャンプーの香りがわずかなアルコールと煙の匂いを混じらせながら湧き立ってくる。  
「ん…」  
甘えかかる猫のように目を閉じて、シナ子は喉を鳴らした。  
初めてみせる、俺を許し切った表情に胸がうずいて、頬となくひたいとなく鼻筋となく、キスを浴びせる。  
「ふふ」  
含み笑いをこぼしながら、シナ子が唇を尖らせて、そこにもキスを要求する。  
触れさせると、今度はシナ子から舌を割り入れて泳がせてくる。  
大胆に口腔を跳ね回って俺を捕まえようとする、柔らかくてしなやかで温かい粘膜は、  
それだけで女の肉を強烈に想起させて、情欲を更に深い繋がりへ傾けて昂ぶらせていく。  
 
先導役は俺でなければいけない筈なのに、ためらいなく手を取って先に連れて行こうとするシナ子の姿は、  
大学時代のそれとダブって見えた。  
 
肝心なところは一線を引いて守りながら、何時も無防備な姉御肌に、惹き付けられずにはいられなかった。  
そして、その懐かしい時間から何千何万と時計の針が回っても、俺の想いは少しも揺らぎはしなかった。  
それは、輝かしいばかりの気丈ぶりが、そう健気に振る舞っていただけだと知った今も変わらない。  
 
「ん、ふうっ」  
シナ子の頭を抱え寄せたままで、空いた手でふくよかな乳房を揉み込む。  
昂揚で張りを増して、ピンク色の乳首を固く起こしたそれは、  
女の性を主張するように、更なる快楽を要求するように、たなごころに小気味よく吸い付いてくる。  
「ふっ、ふわっ、あ、あ、あぁん」  
「気持ちいいか?」  
指の間で乳首を転がしながら練るように、そして、綺麗なお椀形を整えるように。  
「あ、やぁ、やだ、訊かなくていいよ、あん」  
「隣、寝入ってるみたいだから、もっと声上げても大丈夫だよ」  
「ふあっ、あ、もう、エッチ、や、あ」  
火照ったシナ子の頬が、官能をしたたかに刺戟する喘ぎ声の中で、拗ねてかわいく膨れる。  
それでいい。殻を一枚いちまい脱ぐように、俺に見せたことのない姿を晒して欲しい。  
 

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