その頃は、まだ身の程も知らずに、自分にも真っ当な勤めが出来ると思っていた。
 動機の純不純はともかくとして、私は医者というものになろうと思っていたのだ。

 医者になるには学が要る。学を修める為には、学び舎に身を置くなり、師を拝するなり
して、物を習わねばならぬ。
 だが、私はどうにも人付き合いと言う物が得意ではなかった。いや、今も得意とは言え
ないが、その頃はもっと苦手だったから、なるべく他人と付き合わずに済む方を選ぶより
なかった。つまり、書生というものになったのである。
 既にその道を修め、その道で飯を食っていて、そして書生の一人ぐらい抱える余裕があ
る。縁者のつてを辿って、そんな(私にとって)都合の良い医者を何とか探し出し、頭を下
げたのだ。
 そう上手く行くとは思っていなかったが、丁度その医者も細々とした雑用だのをさせる
人間が必要だったらしく、私の弟子入りは却って歓迎された。そうして私は、何とか書生
と呼ばれる身分に落ち着いたのである。
 しかし、私の目論見は外れた。
 医者というものは案外顔が広いもので、あっちの寄り合い、こっちの会合と、あれこれ
出張らねばならず、そして書生と言う名の小間使いであった私は、先生の鞄を抱えてそれ
に着いて行かねばならなかったのである。
 着いて行けば、他人と顔を合わせねばならぬ。顔を合わせれば、仏頂面で押し黙ってい
る訳にも行かぬ。
 思えば、その時に覚えた愛想笑いとか、取り合えずその場を取り繕う物の言い方だとか
が、御太鼓持ちの闇医者という今の私の生業を支えているのだから、世の中何が先の役に
立つか分からぬものだ。

 その日も、医師達の会合であった。十数人の医師達が寄り集まって小難しげな話をして
いるのを、私や、私と同じ書生と思われる十数人が(つまり、集まった医師の数と同じだ
け鞄持ちも居たということだろう)、隣の部屋で所在無げに待っていた。
 こういうのは嫌だ。見知らぬ顔同士ひとつ部屋に閉じ込められて、何をしろというのだ。
その上、何時終わるともわからぬ時間を、じっと待つよりない。それは苦痛でしかなかった。

 それなりに社交的な要素のひとつでも持っていれば、誰かに話しかけることも出来るの
だろう。実際にそうしている者もいたが、私はそれどころではない。話す以前に、立って
いても座っていても、それが誰かの気に障るのではないかと思って落ち着かなかった。取
り敢えず本など開いてみても、まともに読めるものではなく、終いには息をするのさえ覚
束ないような気分になってくる。
 暫くして、今日はまだ長くなるから、外に出掛けて時間を潰しても良い、と言うことに
なって、私は心の底から安堵した。
 それは良い。外に行ってぶらぶらと本屋でも覗いて、飯でも食って来れば、それなりに
時間は過ぎる。その間は一人で居られるのも都合が良い。
 そう思って腰を浮かした所に、声を掛けられた。
 「女を買いに行かないか」と言うのである。
 言い出したのは、時間を持て余していた有象無象の中でも、割と年長の男であった。書
生と言う肩書きが似合わぬ、脂ぎって好色そうな顔をしていた。
 この近くに、花町があるのは私も知っていた。男は、みんなでそこに行って、女を買お
うと言うのである。
 男は相当遊び慣れているようで、西河岸の局見世なら自分達のはした金でも十分遊べる
のだとか、局見世と言っても羅生門河岸のように身包み剥がれるようなことはありはしな
いから安心だとか、そういう見世には顔は少々不味くても情の厚い女が居るものだとか、
そんなことを言って周りの連中を口説いている。おそらく、一人で行くのは嫌なのだろう。
何人かで連れ立っていけば、それが表沙汰になっても言い訳出来ると思っているに違いな
い。多分私も、その為に声を掛けられただけなのだ。
 それがわかっていて、男に付いていく気になったのは、私がまだ、女を知らなかったせ
いかも知れない。
 女に興味がない訳ではなかったが機会がなく、生来の人付き合いの下手さから色恋事に
も縁がなく、そしておそらく、これを逃したら、また当分機会はないような気がした。
 幸いなことに、懐には先日、先生から貰った小遣いがそのまま入っている。本でも買お
うと思っていたが、それを諦めれば済むことだ。
 断る言い訳を考えるのが面倒だった、ということもあったように思う。
 結局、私と同じように考えたらしい数人が、男と同行することになった。

 廓の老女は、金を受け取ると私達の顔をちらりと見、それぞれの前に木札を置いた。見
ると、札には女の名が書いてある。その女が、私の相手と言うことなのだろう。
 私はあまり、女に期待はしていなかった。私は見るからに貧乏書生で、二度目の顔見せ
があるとは思えないだろう。そんな客に上物をあてがうより、二度目三度目が期待できそ
うな顔にあてがう方が良い。私だってそう思うのだから、海千山千の遣り手婆がそう思わ
ぬわけがない。
 だから私は、この部屋だと案内され、女の顔を見て驚いた。
 まず、美しい女だと思った。それから、女郎にしては妙な格好をしている、と思った。
 乳房が半ば覗くほどの抜衣文にした緋襦袢は、確かに女郎のお仕着せのそれだ。それは
何も問題はない。
 妙なのは髪だ。豊かな黒髪は、結うことも前髪を上げることもなく、艶やかに流したま
まで櫛も簪も挿していない。
 しかし、それを訝しむことさえ忘れさせそうな女であった。
 異国の血でも入っているのか、世間の女達に比べたら上背が高く、白い肌は血の脈が透
けて見えそうだ。目は切れ長だが細くはなく、寧ろ大きい。そして赤い紅をひいた唇は、
どこか酷薄そうに見える笑みの形を作っている。
 妙だ、と思った。何故私に、こんな美しい女をあてがうのだ。そんなことをして、何の
得があるのだ。それ以前に、こんな場末の見世が、何故こんな、大店の太夫でもおかしく
ないような女を抱えているのだ。
 狐狸の類に化かされているのだろうか、と私は目を擦る。しかし、女の美貌はまるで幻
のようなのに、消える気配はない。
「兄さん、こっちへおいでな」
 女が笑いながら手招きをする。
「そんなところに突っ立っていないで、こっちへおいでな」
 その声の甘さに抗えず、ゆら、と一歩踏み出しかけたのを待ち構えていたように、抱き
しめられた。女の匂いが、柔らかい身体から立ち上ってくる。
「そうら、捕まえた」
 女を買って、ほんの一時の所有者になったのは私であったはずなのに、捕らえられたの
は私であった。

 立ったまま、唇を吸われた。この赤い唇に、食われるのだと思った。抗う間もなく滑り
込んだ舌に口の中を探られ、舌を吸われて、茫となった所を布団の中に引き込まれた。
 女の肌は滑らかで、しっとりと柔らかい。その感触に、やっと私の牡が目覚めた。
 男と言う性は、本来食われるものではないはずだ。それは、女という獲物を貪り食う性だ。
 女の身体を組み敷いて、豊かな乳房にむしゃぶりつく。重さは感じさせないくせに、み
っしりと肉の満ちた身体であった。
 舌を這わせ、口に含み、時には歯を立てる。それは性技というものではなかった。ただ
の欲の顕れだ。
 本気で吸い尽くし、噛み千切って食ってやろうと思ったのだ。それだけの欲情が、身の
内にあった。そういうことを思わせる、女の身体であった。
 指を伸ばせば、秘めやかな花は火傷をするのではないかと思ういうぐらいの熱を持って、
とろとろと蜜を零している。
 そこにも舌を伸ばした。蜜を啜り、その果実を甘噛みしては、花芯を吸う。その度に女
は身をくねらせ、その度に新たな蜜が溢れてきた。
 「おいでな」と女が言う。赤い唇で。誘いながら、すぐに掌を返しそうな、酷薄そうな
笑みを浮かべて。
 抗えなかった。
 一気に貫いて、私は、男の性こそ食われるものだ、と知った。
 女の裡に呑み込まれた場所から、凄まじい快感が押し寄せてくる。ひくり、ひくりと女
の裡が蠢く度に、潮が満ちるように快楽が押し寄せ、それが理性など砂のように崩してし
まう。
 女に食われてしまう。このまま熱い波に崩されて、女の中に熔けて消えてしまう。
 しかしそこに、恐怖はなかった。むしろ、早くそうして欲しい、と飢えるように願った。
 そして、潮が満ち溢れたその時、私は女の中に放ちながら、確かに一瞬、熔けたのだ。

 女を抱いたままま、一時喪神していたらしい。気を遣っていたのかもしれない。
 ほんの数秒の暗闇から浮かび上がって、私は気が付いた。
 女が居ない。
 いや、腕の中に、確かに女は居るのだ。だがそれは、先程のあの女ではない。
 薄暗闇の見間違えにしては違い過ぎる。髪は癖が強く赤茶けているし、肌は浅黒い。目
は細くて、鼻は潰れた団子鼻、唇はぼってりと厚いだけで品がない。正直に言ってしまえ
ば、ひどい醜女だ。
 幾ら私の目があまり良くないと言っても、見間違えでは在り得ない。
 腕の中の女が、別の女に化ける。そんな馬鹿なことが、と頭の奥の方で妙に冷静に考え
ながら、喉は正直に悲鳴を上げていた。
 女の方はと言えば、いきなり悲鳴を上げて布団を飛び出し、部屋の隅で腰を抜かしてい
る私に驚く風でもない。それがまた不気味だった。
「やっぱり、兄さんも見たのかよぅ」
 女は、いつものことだ、と言わんばかりの口調であった。
「時々いるんだよぅ。私が別の女に見えるんだってよぅ」
「別の……女……?」
「前にあたしがついた旦那方は、「自分の人生を変えた女」だって言ってたよぅ。「一生
忘れられずに、胸の奥で死ぬまで引き摺っていく女」「運命の女」なんだってさ。夜の間
だけ、そんな女にあたしが見えるんだってよぅ」
 だから、お客が付かないんだよぅ、と女は言った。
 ずっと昔の想い人だとか、涙ながらに別れた相手なら良いけどさ。人生を変えたっての
はそう言うことだけじゃないからさあ、と。例えば、何の事情か棄てちまった女だとか、
酷い時には死なせちまった女に見えることもあるらしくて、そういうお客は逃げちまうん
だよぅ。泣き叫びながら逃げちまうんだよぅ。
 その噂に、おまけにこの面相だからねえ。よっぽどの物好きか、度胸試しか、でなけりゃ
他の妓がみぃんな出払っちまった時じゃないと、あたしにつく旦那なんかいないんだよぅ、と。
 つまり、私はやはり、貧乏籤を引いていた、と言うことなのだ。

「だ、だがッ……俺はあんな女は知らんッ!! 知らんぞッ!!」
「それじゃあ、兄さんがこれから逢う女なのかも知れないよぅ」
 行灯の灯りの中に、女の後れ毛が透けている。それは、女がこの苦界で過ごす内に溜め
込んだ疲れをそのまま表しているようで、私はそこからついと目を逸らす。
「これから逢って、兄さんの人生を変えちまう女かも知れないよぅ」
「そ……そんな……馬鹿な話が……」
「良いじゃないか、変わる人生があるだけさ。あたしらなんて、それもないんだよぅ」
 せめて大店の花魁なら、いずれ何処かの大旦那に気に入られ、身請けされる望みもある
けれど、この苦界でも最下層の局見世まで落ちて、それでも満足に客も取れない女にどん
な人生があるのさ、と女は言う。それどころか、生きている気さえしないのに、と言う。
「あたしらなんて、普段はは生きていないも同じさ。日が落ちて、それまで顔も知らなかっ
た通りすがりの旦那に買われて、抱かれてよぅ。でもその間だけが、あたしらが生きてる
時間なんだよぅ。抱かれている間だけは、あたしらは女郎でなくて、一人の女に戻れるん
だよぅ。その時だけは、御客とか女郎とか無しで、只の男と女じゃないか。それなのに――
それなのに、その最中にあたしが他の女に見えているんだったら」

 あたしは何時、生きているんだよぅ。

 そう呟いた女は、ひどく悲しそうで、私はうろたえた。
 今なら不器用なりに慰めの言葉のひとつやふたつ言えたかも知れないが、若かった私は
それも出来ずに、幸薄い女に背を向けて、ただ逃げるように廓を出たのだった。

「眉間に皺寄せて、何を鬱々と思い出しているのだね」
 名を呼ばれて振り向くと、そこで女が笑っていた。
 結うことも前髪を上げることもなく、艶やかに流したままの長い髪。異国の血でも入っ
ているのか、世間の女達に比べたら上背が高く、白い肌は血の脈が透けて見えそうだ。丸
眼鏡の奥の目は切れ長だが細くはなく、寧ろ大きい。そして赤い紅をひいた唇は、どこか
酷薄そうに見える笑みの形を作っている。
 美しい、女だ。
 出会った時には気付かなかったが、もう十年近くも前になるあの時、廓で見た女の幻影
に眼鏡を掛けさせたら、それはおそらくこの女の姿になる。それに気付いたのは、何時だっ
たか。
 この女と出会って、私の人生は確かに変わった。
 この女に出会わなければ、何も知らなかっただろう。
 宵闇の奥に見え隠れする怪異も――
 あやかしの力のおぞましさも――
 その源となる、人の心の闇の深さも――
 そこから漂う、血の臭いも――
 そんな世界を覗き、其処で何度も死に掛け、それでも学習せずに新たな闇に首を突っ込
んでは、また死に掛けて助けられて。その繰り返しの内に、この女が私の中で忘れること
の出来ない女になったことは間違いない。一生胸の奥で引き摺りたいかどうかはともかく
として、だ。
 確かに、運命の女なのだろう。
 しかし、こいつ自身にだけは絶対にそれを言いたくない。知られたくはない。
 それでなくても、こいつには敵わない、歯が立たないと思っているのだ。それ自体はも
う、どうしようもないことだと諦めている。あやかしの世界を自由に歩き回る連中と、地
面を這いずって進むしかないしがない凡俗の我が身を、同列に置けるなどとは思っていな
い。それは高望みに過ぎる。
 だが、それでもそれを口にするのは癪だった。腹の底では認めていても、口に出して認
めるのは嫌だった。
 この女にぎゃふんと言わせてやろうとか、そういう腹づもりではない。ただ、凡俗であ
る私に出来る、唯一でささやかな抵抗はそれだけだったと言うことだ。

「お前には、教えん」
「おや、一丁前に口応えされちまったよ」
「悪いか」
「いや別に。悪かないがね――」
 扇で口元を隠して、女はそれが癖なのだろう。ふふん、と笑う。
「でもお前さん、あたしに逢って、退屈ではなかったろう?」
 いきなり何を、と言う私に構わず、女は続ける。
「痛い目にも大分遭ったし、死に掛けたりもしたけどさ。愉しかったろう? それなりに
愉しんだだろう?」
 反論は、出来なかった。
 この女と出会ったことをきっかけに踏み込んだあちら側の世界は、あやしく、それだか
らこそとてつもなく、甘美で魅力的であった。本来なら見えない「あちら側」を見る――
それは人の秘密を覗き見るのと同じ、背徳感を伴う、毒の痺れのような快感だ。
 私は、一度はこいつと、そして「あちら側」と縁を切ろうとして、結局出来なかった。
抗いきれずに再び引き込まれ、戻ってきてしまったのだ。そんな私に、反論など出来はし
ない。
「だから、さ」
 すぐに忘れてしまうような、名前も知らない他人であろうと。
 廓の女が言ったように、運命の女であろうと。
「愉しかったなら、構わないじゃないかね。あたしが何であろうと」
 そう言って、女は自分こそ愉しそうに、再び笑う。

 ――ああ、私の心の内など、ささやかな反抗など、とうに読まれていたのか。
 もう十年も前から、私はこの魔女の幻影と、「あちら側」の誘惑に捕らわれ続けている
のだと、やっと私は自覚した。



おわり

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