: 140%"> 夜の歌  

 黒い男が闇の中に立っていた。黒い帽子、黒い手袋。長い外套に至るまで、  
身に付けたものは全て黒一色。  
 男の周りには、たくさんの身体が折り重なり、倒れていた。立ち上がる力  
どころか、指一本動かす事も出来ない相手をつま先でひっくり返しては、い  
まだ死にきれていない者の頭部を踏み拉き、あるいは刃物よりも鋭い指先を  
喉に突き立てる。  
 黒い手袋と見えたのは、濡れては乾き、またその上から染められた赤い色  
だった。  
 彼は、今手にかけた男がただの物体になったのを無感動な目で確かめると  
立ち上がった。  
 男は振り返った。この凄惨な光景にあまりにも場違いな表情。  
 男は笑っていた。この上も無く優しげな微笑み。  
「沙夜子さん」  
 名を呼ばれた少女は、その笑みから目を離すことが出来なかった。身動き  
ひとつ出来ずに、立ちすくんでいる。  
「…ぃ」  
「どうしたんですか?」  

 男は、少女の方にゆっくりと歩み寄った。触れようと伸ばした手は直前で  
止められた。  
「すみません。沙夜子さんが汚れてしまいますね」  
 男はごしごしと両手を服に擦りつける。しかし、いくら拭いても余計に赤  
く染まるだけだ。  
「おかしいなあ、少しも綺麗になりませんね」  
 男は訝しげな顔をして、自分の両手を眺めた。まるで見せつけるように差  
し上げられた両手は赤黒く染まり、ぼたぼたと雫を滴らせていた。  
「いやです…いや…」  
 少女は掠れた声をあげ、小さな子供がするように首を横に振る。艶やかな  
黒い髪がさらさらと流れた。同じ黒であるのに、男のものとは如何に違うこ  
とか。  
「どうしたんですか?」  
 男は不思議そうに首をかしげた。そこだけ切り取れば、ごく普通の地味な  
青年の仕草だった。それが余計に少女の恐怖を煽る。  
「さ、さくやさん…」  
 小さな声で少女は男の名を呼んだ。男は嬉しそうに目を細めて笑った。  
「なんでしょう?」   
 男は近づくと少女の頬を撫ぜた。  
「ひぃ…っ」  
 少女の喉から、引き攣れた音が漏れる。男はそれに構わずに、何度も頬を  
拭った。  
「どうして泣いてらっしゃるんです?」  
 少女の滑らかな白い頬に、赤い筋が幾本も描かれる。男はそれを綺麗にし  
ようとしては余計に汚していく。少女の顔は血の気が失せ、大きく見開かれ  
た瞳からぽろぽろと涙がこぼれる。  

「…ぃ…や、来、ないで…」  
「大丈夫、もう安全ですよ」  
 少女は細い悲鳴を上げて、男から遠ざかろうとあとずさった。  
「来ないで…」  
「どうしたんです?」   
 男は苛立ったように言うと、少女を引き寄せようと細い手首を握った。血の  
べとりとした感触が、少女の恐怖と嫌悪感を一気に煽った。  
「いや、いや、いやぁ!」   
 咽喉も裂けよと叫ぶ声に男は眉をしかめた。手を振り回し、髪を乱して暴  
れる少女の体を片手で軽々と抱き寄せると、男はその顔を少女に近づけて囁  
いた。  
「何が、いやなんです、沙夜子さん?」  
「……嫌っ!」  
 血の匂いと感触に少女は目を閉じ、必死で顔をそむける。黒髪の間から、  
白いうなじが顕になった。  
「ああ、沙夜子さんは綺麗だなあ」  
 男は感に堪えかねたように呟いた。自分とはまるで違う滑らかな肌。それは  
人形が持つ陶器の肌のように白かったが、人形などとはまったく違った脆さを  
秘めている。  
「離してぇっ、いやあ!」  
 少女が叫ぶたびに、血が戦慄き脈動するのが肌を透かして見える。男はうっ  
とりとした顔で、少女の頬に指を滑らせ、首筋に触れた。  
「ああ、汚してしまった…」  
 男は自分の手と、白い肌にのった赤い色を見比べると、首筋に顔を近づけた。  
舌を伸ばして血を舐めとる。  
「いゃぁぁぁぁっっ!!」  
 少女は閉じた目を見開き、先ほどまでとは比べ物にならない力で、身を振りほ  
どこうとする。  
 しかし、どんなに少女が暴れようとも、男の腕はぴくりともしなかった。  
 一見するとただの文士にしか見えないこの細い身体の、どこにそのような力が  
蓄えられているのか。  

 ちゅ…れろ…  
「今、綺麗にしてあげますからね」  
 男は嬉しそうに言いながら、少女の抗いを意に介さずに、その咽についた赤い  
色を舐めとっていく。  
「…ひっ…ぃ・・・ぁ」  
 少女は既に逆らう気力もなく、さりとて意識を手放すことすらできずに、ただ  
男のなすがままにされていた。時折悲鳴とも嗚咽ともつかない声が漏れる。  
「さあ、綺麗になった」  
 男は言うと満足げに顔を離した。少女の身体を開放すると、少女はその場にへ  
たり込んだ。  
「…どうしてっ、どうして、削夜さんっ…!」  
 少女はしゃがみこんだままで言葉にならない言葉を投げつけた。男はその目の  
前に膝まづくと、笑って答えた。  
「貴女のためですよ、沙夜子さん。僕は貴女を守らなければ。誰も貴女に触れな  
いように…」  

「いや…っ、違う、こんなのは違うわっ…!」  
 男は少女の言葉を聞くと泣きそうな顔をした。途方にくれた、少年のような顔。  
「どうしてですか、沙夜子さん…」  
「…寄らないで、化け物…!」  
「…化け物?」  
 少女の投げつけた言葉に、男の顔が強張る。少女はそれを知らずに叫ぶ。  
「来ないで、二度と目の前に現れないで、化け物、怪物!」  
 男の纏う風が変わった。ゆらりと立ち上がり、泣き伏せる少女を見下ろして呟く。  

「ばけもの」  

「…っ、きゃぁぁぁぁっっ?!」  
 少女は悲鳴を上げた。男は片手一本で少女の身体を持ち上げ、後ろから抱くよう  
にして彼女の顔を覗き込んだ。  
「そんなことを言う子は悪い子ですよ、沙夜子さん」  
「…ぁ、ぁ…っ」  
「悪い子はどうなるか知っていますか?」  
 ぐいと胸元に手を差し入れる。柔らかい乳房を握り、わざとゆっくりとこねるよ  
うに揉んだ。蒼白になった沙夜子がうろたえたように、首を振る。歯の根が合わず  
にカタカタと音を立てるのを聞いて、男は唇の端を吊り上げた。  
「お仕置きされてしまうんですよ?」  
 言うと、親指と人差し指に力を入れる。  
「きゃああっっ!!」  
 飛び出した乳首に爪を立てた。ぷつりとした感触がして、鼻に甘い匂いを感じる。  
この血臭の中でわかるはずもないのに、それが少女の血の臭いだということを、男  
は知っていた。  
 着物の袷に手をかけて左右に引っぱる。誰の目にも触れたことが無いだろう双乳が  
まろび出た。小ぶりだが、形良く前に突き出した乳房の乳首が飛び出し、その先か  
らは血が滲んでいた。男は背後から手を伸ばし、その乳房を軟らかく包み込んだ。  
 じんわりと爪を立てる。ねっとりと指を包み込むようなその感覚に男の脳は沸騰  
した。  

 ――どんどんどんどんどん!  

 突如脳裏に割り込んできたその音に、削夜秋平は目を開いた。  
 目に入るのは、安さだけが取り柄の共同住宅の薄汚れた天井。自分の体と同じ形に  
へこんだ寝床の中、削夜は両手を目の高さに上げて、眺めた。裏、表、と確かめるよ  
うにひっくり返してから、鼻に近づけて匂いをかぐ。  
「……あー……」  
 夢でよかったと小さく呟いてから、手探りで枕もとを探す。  
「削夜君!今何時だと思っておるんだ!」  
 業を煮やしたのか、はた迷惑なだみ声が薄い扉の向こうから聞こえてきた。  
「待ってくださいよぅ、今眼鏡を探して…」  
 削夜がもごもごと言い訳する間にも、まるで破ろうとする勢いで扉が叩かれる。  
 これで壊れたら、修理代は出してもらわなきゃなあ。削夜はぼんやりと思いながら、  
なんとか探し当てた眼鏡のレンズを寝巻きの裾で拭いた。  
「ええい!女性を待たせるなぞ言語道断だぞ削夜君!」  
「あの、わたしなら大丈夫ですから」  
 控えめな女性の声が聞こえた。聞き覚えのあるその声に、削夜は寝床から飛び出した。  
「え、あ、うわ、ちょ、ちょ、ちょっと待って下さい、なんでまた一体――」  

 パキッ  

「うわあああああああ!!」   
   
 その朝彼が見たものは、ヒビ割れた眼鏡と、壊れた蝶番と、桜色の娘。  

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