東京都渋谷道玄坂一丁目――
JR渋谷駅のすぐ近く、深夜でも賑やかなこの街の一画に
ある不思議な店の存在を知っている者は数少ない。
四階までしかない雑居ビルの五階にある、その店の名は<うさぎの穴>。
当然、そこの常連客は普通の人間ではない。
今夜もまた、一人の女性客が店に現れた。
日本的な端正な顔立ちの美女で
ワンピースを優雅に着こなし勤め帰りのOLのように見える。
見かけは三十くらいの彼女の年齢が
実は千歳超えているなど誰が想像できるだろう。
「おや、いらっしゃい霧香さん」
カウンターの中にいた初老のマスターが顔を上げた。
「ちょうど良かった。連絡しようと思ってたとこだよ」
「私に?」
霧香は優雅な動作でスツールに腰掛けながら尋ねた。
「さっき、<かすみ>から電話があってね。
応援を頼みたいそうだ。あんたをご指名でね」
「<かすみ>から?」
霧香は眉をひそめた。<かすみ>は神戸にあるアンティークショップで
<うさぎの穴>と同じく妖怪たちの地方ネットワークの拠点として機能している。
同様のネットワークは日本中に点在しており
絶えず連絡を取り合っているもののいずれも基本的には独立した集団である。
その地域で起きた事件は大抵の場合、その地域の妖怪たちによって処理され
よほどの重大事件で無い限り他のネットワークに応援を求める事はない。
つまり、<かすみ>は大きな厄介事を抱え込んだわけである。
「放っておけないわね。」
「じゃあ、行くんだね。・・・誰か一緒に行かなくていいかい?
といっても今は大樹君しか空いてないんだけど」
「そうね。何があるかわからないからついて来てもらおうかな」
恐らく同朋である妖怪と戦う事になるだろう、その事を憂い霧香はため息をついた。
「・・・でも、今夜は飲ませてちょうだい」
街には多くの人がいる
仕事で急いでる人家に帰る人目的がない人
様々な人が様々な思いを抱えて街を歩く
ひとつひとつの音は人の音
重なればどこか無機質な街の音
街が奏でる雑踏の中
人々の間を漂うようにふらふらと徘徊する
目立たぬように遮らないように
周りの人も自分に気を止めるものはいない
それはとても平和な世界
人の群れに身を浸し誰も自分に気を止めない
望み通りの世界
幸福の時
だが、それは長くは続かない
幸せをかみ締めているとその幸福の時を乱す奴がいる
許せない
非常識である
排除せねばならない
そのような輩は指導し矯正せねばならない
自分の為ではない
そうだこれはあくまでも自分の為ではないのだ
みんなの為
みんなの為に
四月も終わろうとしている神戸の繁華街。
一見するとカップルに見えるような、人目をひく男女が歩いている。
男の名を龍宮寺 隆という。
端正な顔に細身で長身、若者にしては落ち着いた服装で
優男といった雰囲気の、普通の人間である。
だが、普通の大学生ではない。
それは隣にいる女の子が主な理由である。
女の名は龍宮寺 菜穂(なお)。
確かに人目をひくだけの美しい容姿に同性が憧れるような体形をしている。
しかし、今日の彼女が人の視線を集めているのは理由が違う。
明るい黄色のオーバーオールの上から赤いフレアスカート
インナーは白いYシャツという常軌を逸した服装をしているのだ。
しかし、それでも普通じゃないのは服装よりもむしろ素性のほうだ。
戸籍上は隆の従姉妹だが、実は人間ですらない。
隆よりも少し幼く見えるほどだが、彼女の年齢はまもなく四百を数える。
江戸時代初期に起こった鍋山の猫騒動と呼ばれる事件をご存知だろうか。
戦国大名の龍宮寺家の実権を鍋山家がのっとり
恨みに思った龍宮寺家当主は妻を殺害した後、切腹し果てる。
鍋山家に対する恨みの言葉を残して――。
ここまでは史実である。
龍宮寺家の飼い猫が主人の恨みの為に鍋山家を祟ったというのが猫騒動。
これはフィクションだ。いや、だった、というべきか。
劇作家が作ったフィクションだったのだが作者や鍋山家の関係者が
急死してしまった事から猫の祟りは真実ではないかと噂された。
そして、菜穂が生まれた。
龍宮寺家を守護し当主に仇なすものを祟る妖猫として。
佐賀から神戸へと龍宮寺家の住所が変わってもそれは変わらない。
一緒に引っ越してきて同居し現・龍宮寺家当主の隆を守っている。
実際のところは守っているかというと疑問である。
菜穂に助けられた事より菜穂のせいで窮地に陥った事の方が多いからだ。
それでも、隆はこの居候を迷惑と感じてはいなかった。
昨日から隆の母が旅行に出かけた。
なんとかという定期だか保険だかの特典の旅行らしいが
隆も正確には覚えていない。
とにかく料理を作ってくれる人がいなくなったため
朝から、二人で朝食を食べに<かすみ>に行ったのだ。
<かすみ>はアンティークショップだが一階はホームバーになっており
軽い食事ぐらいなら出して貰える。
妖怪達の憩いの場でもあるのでそれくらいは当然という事だろうか。
その<かすみ>で面白い話を聞いた。
三宮で妖気が感知されるというのだ。
<かすみ>の常連である大岩三衣からの話らしいが
微弱な妖気が三宮の繁華街に残っているというのだ。
<かすみ>の主人である和田夏樹によれば
「三衣ちゃんの話によれば弱い妖気の形跡があるだけで
発生源がわからないらしいしけっこう前からあるらしいけど
それらしい事件も全く起きてないのよ」
との事だ。
三衣というのは、<かすみ>の常連で蛇の妖怪。
今は人間の姿で看護婦をやっているが
元々は祟りをとりのぞくと信じられた蛇石である。
病気を治したり起こさせたりする能力があり
その能力に関与して妖怪のオーラを感知する事ができる。
その能力を持った三衣が感知したと言ってるのだから
”何か”がいるのは間違いないのだろうが何も起きてはいない。
事件になってなければ放っておいてもいいのだが
とにかく事件などの好奇心をくすぐられる話をきいて
菜穂は黙っていられる性格ではなかった。
なかば菜穂にひきずられるようにして
隆は三宮センター街までやってきていた。
まだ昼前だが三宮は土曜日と言う事もあり人が多い。
人ごみの中、菜穂は鼻をひくつかせた。
菜穂も妖気の匂いを感知する能力がある。
「なんかあった?」
菜穂は隆の方を向いて首を振った。
「ううん、何も…。もうちょっと付き合って」
隆としても別に異存はない。
夏樹が特に何の警告も発しなかった所をみると
感知された妖気には邪気は無かったようだし特に危険も無さそうだ。
隆も死にたくはないが好奇心を完全に押さえ込めるほど老成していない。
しばらく繁華街を二人で歩いていると菜穂が再度、鼻をひくつかせた。
「・・・なんかいる」
菜穂がつぶやいて周りを見渡すのを見て隆も周りを見た。
人ごみが鬱陶しいだけで変わったものは見えない。
「弱っちい妖気だけど隠してて弱いわけじゃないみたい。
元から弱い奴かな?」
特に緊張した様子もなく菜穂がつぶやいた。
迷惑にならないように、道の端によって人の流れから外れた。
きょろきょろと周りを見渡す二人の前に、一人の男が立ち止まった。
ひょろっと痩せていて、立派な紺のスーツが全く似合っていない。
七三分けの髪に骨ばった顔で銀縁のメガネをかけており
どことなく虫のような印象の男だ。
「あんた何者?」
菜穂の言葉が、目の前の男から妖気が出ていた事を物語っている。
しかし、表情に緊迫感もなく、隆に避難を呼びかけない事を見ると
目の前にしてもどうやら大した妖気を感じていないらしい。
「何者?とはなんだ。失敬な。」
妙に甲高い耳障りな声が男から発せられた。
声も、だがそれ以上に男の話し方は神経に障る話し方をしている。
「君、非常識だよ」
男の声に隆は菜穂の方を見た。
たしかに非常識な服装だな、と隆は思った。
「何が非常識だって!あんた八つ裂きにするわよ!」
菜穂の顔が怒りで紅潮した。
「ここに来ていいのは人間だけだ。
いや君も人間だったか、失敬」
男の口調は丁寧なようで高圧的だ。
「誰が!あんたあたしを誰だと思ってんの!あたしは――」
菜穂がイライラのつのった声で男に詰め寄ろうとすると
菜穂の言葉をさえぎって突然、男が大声をだした。
「なんだっていうんだ!?ええ!?ないんだ!!いない!
そんなのもの!ない!ない!ない!いなぁーーい!!」
男は体をぶるぶると震わせて必死の形相をしている。
突如として変貌した男の態度に隆は呆気にとられたが
はっとして、菜穂の方を見た。
何か妖術でも使ったのかと思ったのだが、菜穂は全く変わらず平然としている。
男が大声をあげたせいで周りの通行人がじろじろと三人を見はじめた。
その視線を感じ、男がそそくさと逃げ去ろうとする。
「待ちなさ・・いっ!?」
「菜穂姉!?」
菜穂が逃げようとする男を追いかけようとして――
転んだ。
信じられない光景だった。
揺れるロープの上でも平気で走る菜穂が転んだ。
猫の妖怪が転ぶなど、ましてや受身もできずにそのまま倒れこむなど
誰だって信じないだろう。
「菜穂姉!?」
隆が慌てて倒れこんだ菜穂に駆け寄る。
菜穂は自分に何が起きたのか理解できず
冷たい地面の上で隆の声が薄れていくのを感じていた。
受話器を置くと隆は急いで菜穂の部屋に向かった。
隆は倒れた菜穂を抱え家まで連れて帰ってきていた。
姿は人間にしていても妖怪の体は構造が違う事がある。
血液検査や、レントゲンなどで詳しく調べられると
ボロがでる場合があるので普通の病院に行けないと隆は聞いていた。
そうなれば隆には<かすみ>に事情を話し助けてもらう事しか出来なかった。
気を失ったままの菜穂を見ていると嫌な想像ばかりが浮かんでくる。
あの時、現場にいたにも関わらず
何が起きたかもわからない自分に嫌気がさした。
最悪の事態を想像してはそれを打ち消す。
打ち消しても、また湧き上がってくる。
菜穂の無事を祈りながらも
あの男に対する憎悪と自分の無力さに対する怒りがこみあげてくる。
もしもこのまま目覚めなかったら、という不安がそのまま恐怖に変わる。
今までは菜穂の正体がバレるかもという心配や
無関係な人を傷つけないかという不安はあっても
菜穂の無事を心配した事はなかった。
妖怪達の戦闘は自分が心配できる次元の戦いではなかったし
その中でも菜穂の戦闘力は相当に高いと(本人からだが)聞いていた。
だから身を案じたのは自分だけであった。
しかし、こうしてみると自分よりも体は小さく、華奢と言っていいほど細い。
妖怪だからと安心していた自分のうかつさが恨めしい。
いつも元気で強気な菜穂の姿がまぶたに浮かぶ。
目を閉じている姿からは
ほんの数時間前まで元気にしていた事が信じられない。
隆の願いが「完全に元通り」から「無事でさえあれば」に格下げされた頃
ようやく菜穂のまぶたが動いた。
「菜穂姉!」
菜穂の黒々とした瞳に隆の心配そうな顔が映りこむ。
ぼんやりと隆を見ていた菜穂が頭を起こそうとして顔を歪ませた。
とっさに隆の手が菜穂の背に伸び、ゆっくりと菜穂の上半身を起こす。
手を借りて上半身だけ起こした菜穂は
不思議そうな顔で自分の手を見つめている。
菜穂が起きてくれた事で、ひとまずは安堵したものの
その様子を見て隆の胸にまた不安がひろがって来た。
隆が見つめる中、菜穂は不思議な行動をし始めた。
拳を握ったり開いたり自分の頬を叩いたりしている。
「隆、悪いけどちょっと出てて]
それから、菜穂は隆を部屋から出した。
隆には菜穂の行動がさっぱりわからなかったが
仕方なく部屋をでて<かすみ>に電話した。
菜穂の意識が戻った事を伝えると夏樹も安心したようだったが
念のため三衣か古河をよこすとの事だった。
古河というのは<かすみ>の常連で正体は河童。
河童は一族に伝わる秘薬を持っているので治療に長けた妖怪だと言える。
内科の三衣と外科の古河といったようなものだ。
二人とも暇なわけじゃないので、すぐという訳にはいかないだろうが
とりあえず意識は取り戻したのだ、それでいいと伝えて隆は電話を切った。
冷蔵庫からお茶の缶をとり菜穂の部屋に向かった。
「入っていい?」
ノックして呼びかけると部屋の中から衣擦れの音がしてから返事があった。
扉を開けると菜穂はYシャツにスカートだけで部屋の中央に立ちすくしていた。
オーバーオールが部屋の隅で丸まっている。
「お茶持ってきたけど・・。どうしたの?」
隆の言葉にゆっくりと菜穂が振り向く。
「あたし・・・人間になっちゃったみたい・・・」
聞こえてきた言葉があまりにも突飛な発言だったため、
隆は菜穂の言葉の意味を理解するのに数秒を要した。
隆が近寄ろうとすると菜穂が隆をよけて無言で出て行こうとする。
「どこ行くんだ、菜穂姉ェ!」
お茶の缶が畳に落ちて鈍い音がする。
横を抜けようとした菜穂の腕を隆の手がつかんでいた。
とっさにつかんだ腕がまるで普通の女の子の腕で隆が驚く。
体形が変わったわけではない、
妖力があった時の運動神経や怪力のイメージとのギャップに驚いただけだ。
「だって、これじゃ守れないもの・・・。
隆を守れないんじゃここにいる資格なんてない・・」
普段から想像も出来ないほど菜穂の言葉は弱々しい。
「待ってくれよ。出て行くことないだろ!」
「駄目なの!あたしは龍宮寺家を守るために生まれたのよ!」
隆の言葉に、菜穂が泣きそうに怒鳴る。
腕を振り切ろうと暴れていた菜穂の動きが止まった。
「人間じゃ・・守れないよ・・・」
隆に背を向けたままつぶやく。
それでも出て行こうとする菜穂の腕を隆はグイッと引っ張った。
「菜穂っ!!」
小さな悲鳴があがり、柔らかい衝撃が隆の胸を叩く。
ボタンを留めてなかったYシャツが引っ張られたせいで脱げかかり
菜穂の白い肌が露わになっていた。
しかし、隆の目はそこに向いていなかった。
隆の腕の中で見上げている菜穂の瞳から涙が流れていた。
初めて見る菜穂の涙。
その光景に隆の秘めていた感情が染み出してきた。
戸惑う菜穂の顔と腕の中のぬくもりに隆の理性が決壊した。
隆は菜穂の後ろの髪をつかみ小さな唇を、自らの唇でふさいでしまう。
見上げていた大きなどんぐり目がますます丸くなった。
部屋に濃密な静寂が訪れる。
二人の間に挟まれている菜穂の腕が隆を押した。
しかし菜穂の腕はぷるぷると震えるだけで
隆を僅かですら動かせなかった。
菜穂はすぐに抵抗をやめ、されるがままに唇を合わせた。
凍った時間が動き出すと、隆はようやく我に返り菜穂を離した。
「ご、ごめん」
無意識にとった行動を認識し、隆は罪悪感に包まれた。
解放された菜穂がうつむいて首をふる。
そして、顔を上げると涙顔のまま微笑を浮かべた。
「ううん、いいの。
人間になっちゃったあたしなんか他に出来る事ないもんね。
隆がしたいようにしていいよ」
言葉が出なかった。
そんなつもりじゃなかった。
だけど、やったことはそうとられても仕方のない事だった。
「違う!!そうじゃない!ちがうんだ!」
ようやく出せた言葉は言い訳すら作れていない。
自らの行動を認識すると罪悪感が加速度的に増していく。
(まさかそう受け取られるとは思っていなかった)
(ならどう思われると思ったんだ)
(オレは一体何を―――)
心が心を苛み傷つけてくる。
傷ついた菜穂をさらに傷つけてしまった、
弱った隙に力づくで無理矢理せまってしまった、
犯してしまった事実が隆の心に突き刺さった。
そんなつもりでは無かった、など言い訳にならない。
自分の行為に対する謝罪すら思いつかない。
潰れてしまいそうな心に耐えきれず
隆はその場から逃げ出した。