「そうだね。これからいっぱいするんだから、僕も君も慣れないとね」  
「――い、いっぱいって……馬鹿っ!エッチっ!」  
 
 
 そんなやりとりから、一ヶ月あまり―――――――――。  
 
 堅牢たるエレボニア帝国。  
 法と秩序と、何よりも栄誉を重んじ、厳格なる国。  
 その中心部からやや離れた国境沿いに一番近い街の一角から、明るい声があがった。  
「明日か明後日には、帝国を出ちゃうのね」  
「うん。早めに出発すれば、十分明日に間に合うと思うから。今日は出来るだけ早く休もうか」  
 夕暮れというにはまだ日は高く。  
 しかし昼間だというにはだいぶ傾いた太陽を目の端にとらえながら、ヨシュアは隣を弾むようにして歩くエステルに頷いて答えた。  
 
 ハーケン門から故郷リベールを出発し、真っ先にハーメルの村跡に辿り着いて。  
 それから手近な帝国支部の遊撃士協会に足を運び、リベールのルーアンや、ツァイスあたりにいる受付係並の手際の良さでいいようにこき使われて。  
 帝国国内を点々と移動しながら、はや一ヶ月。  
 隣国といえども勝手の違うその国風は、生まれてからこのかた、リベールから出たことのないエステルが戸惑ったのは最初のうちだけ。  
 もともと順応性が高いというか、そんな戸惑いなどお構いなしに回されてくる仕事の量に悲鳴を上げている間に、何時の間にか慣れていっていた。  
 
「うーん。もうこの国を出ちゃうんだって思うと……ちょっと感慨深くなるわねー」  
「エステル、だいぶこっちの風習に慣れてきたみたいだしね」  
「何事かあるたびに、表彰だのお茶会だのっていうのには、まだ慣れないけどね……」  
 
 どんなことでも過大にしてしまうのがエレボニア帝国ともいえる。特に、感謝の気持ちといったものに関しては、地位のある者ない者に限らず、殊更大袈裟に行われるもので。  
 おまけにリベールとは違い、発言に気を付けなければならないことも非常に多く。  
 堅苦しいことにだけはいつまで経っても慣れきれない少女には、避けたいけれど避けられない出来事でもあった。  
 でも、それももう終わる。  
 もちろん、もう二度とこの国には訪れないなんていうことはないだろうから、ひとまずは、という言葉は付くけれど。  
 早くて明日、ゆっくりいけば、明後日。  
 仕事に一区切りを見つけて、エステルとヨシュアの二人は、この帝国から旅立つつもりでいた。  
 
「とりあえず、宿を取ろう。そのままもう休んじゃうのもいいし。何か買い物にでも行く?」  
「そーねぇ」  
 そう言ってエステルは少し考えるように視線を泳がせ、  
「どうせなら買い物行きましょっ。のんびりできるのって、今しかないだろうし」  
 弾む声に、ヨシュアは微笑んでその手を取った。  
「了解。行こう」  
「うん!」  
 
 
 すぐに見つけたホテルでチェックインして、荷物置いて、けれど万が一のために装備はそのままで。  
 先ほど辿り着いたばかりの街の中を軽く探索して、見つけたお店で・・・・武器屋やオーブメント工房はもちろんだが、スニーカーショップやアクセサリショップ。  
 雑貨屋に小物屋までに足を伸ばし、予想以上に買った物も、時間も多くかかり。  
 ホテルに戻ってきたときエステルは満足しきり、思うままに付き合わされたヨシュアは少し疲労気味だった。  
 それにちょっとだけ悪かったかな、とは思ってはいるけれど。内心の嬉しさを隠せずに、エステルは鼻歌を歌いながら買ってきた物をベッドの上に広げて眺めていた。  
 旅の邪魔になるような物は買っていない。万が一買ってしまったとしても、そういったものは故郷のリベールの家にまで送ってもらうように手配して貰っている。  
 広げてあるのは、髪飾りや珍しくも買ったちょっとした装飾品、あとは日用的に必要な物ばかりだ。  
 たったそれだけのことに何故、あれだけの時間がかかったのか。いつも思うが、ヨシュアには不思議でならない。  
 エステルが気に入ったように目を向けた品々は、何度も手に取ったり、店員に詳細を尋ねたり、とやけに執着したそぶりをみせたというのに、  
 実際会計の時にはそれらの品々は一つも含まれておらず。一度手に取ったか取ってないか、といった物のほうを購入していたのだ。  
 家族として暮らしてきたあのころに付き合わされた買い物でも、まったくもって似たようなことが起こっていた。あの時は今とは違い無駄な買い物も多く。  
 お陰でエステルの部屋には用途のわからないものが大量に転がっていた。  
 
 だいたい、この街にたどり着くまでの間だって、結構歩いてきたのだ。  
 自らの足を使って、自分が守るべき土地を歩く―――――。  
 準遊撃士となった時に教えられた言葉を、自分たちは今も実践している。  
 リベールとは違い、帝国では定期船や移動手段の発達の勝手が違うから、という理由ももちろんあるが、それ以上に、やはり自分たちの足を使い、目で土地を確かめ、身体に地形を馴染ませる。  
 そういった小さなことが大切なのだということは、準遊撃士だった時に十分学んでいた。  
 だから、今日は朝早くから前の街を出てほぼ一日中歩き通して、夕暮れ前にようやく辿り着いたばかりだというのに。あれから買い物のためにまた散々歩き通したはずなのに、エステルに疲れは一切見えない。  
 つくづく、女の子とはわからない生き物だ。  
 ……本人が喜んでいるのであれば、きっとそれでいいのだろうけれど。  
 
 
 実際、エステルはかなり喜んでいた。  
 いい買い物が出来た、というのももちろんある。  
 それよりも、ヨシュアと一緒に買い物が出来た、ということが、上機嫌の原因だ。  
 
 買い物の最中、ずっと手を握って歩いていた。  
 何でもないことだし、それくらいいくらでもあることだけれど。  
 
 何も言わないで、当たり前だというように手を差し出してくれて。  
 家族だということも、恋人だということも、もちろんわかっているけれど。  
 それでも普段はどうしても、遊撃士としての相棒という位置が強くて。  
 いつも一緒にいるけれど、いかに二人きりといえども、街道ではいつ魔獣が出てくるかわからず、ずっと気を張り詰めてきていた。とてもとても、甘い時間を楽しむなんてことは出来そうにない。  
 でも街にたどり着いて、張り詰めていた気を抜くことが出来て。  
 仕事が入っていなくて、ゆっくりできる時で。いわゆる、プライベートな時間、というやつで。  
 相棒から、家族から、恋人に切り替わる瞬間。  
 手を繋いでくれた時に、そんな瞬間を、他ならぬヨシュアの方から切り出してくれて。  
 
 それが嬉しくて、くすぐったくて、笑みが零れて止まない。  
 
「じゃ、先にシャワー浴びさせて貰うね」  
「お先にどうぞ」  
 
 よほどのことが無い限り、身体を流す順番はエステルが先だ。これは、家に住んでいたときから変わらない。  
 長い髪を乾かすための時間が必要、というのももちろんあるのだが、先に身体を休めて欲しい、というヨシュアの気遣いでもある。  
 うすうすとはそれに気付きそんなに過保護にならなくても、と思っているのだが、これだけは、とありがたくも思い。結局何も言わずにエステルはシャワー権を常に最優先に実行させる。  
 着替えとブラシと、予備のタオルとを持ち込んで。  
 脱衣所で服を脱ぎ、シャワールームに行く手前。  
 壁に立てかけられてある姿鏡に、まじまじと自分を映してみる。  
 腰にまで届く長い髪。  
 子供っぽさがまだ完全に抜けきれない顔。  
 少女特有のしなやかで柔らかな体躯は、日に当たっている部分と、そうでないところとでの色の違いがはっきりとわかる。  
 その中の、白い肌の、膨らみのある部分。そこに手を当てて、何かを確かめるようにゆっくりと撫でる。  
 
 首筋・鎖骨・二の腕の付け根・胸もと・膨らみの先端の側・胸の下・腹部・さらには下、と。  
 
 扉、一枚向こう。  
 シャワールームの隣。自分たちに通された部屋。  
 そこではおそらく、ヨシュアが武器の手入れでもしているはずだ。  
 指でなぞったのは、その彼が、口付けをもって印を付けた箇所。  
 初めて肌を重ねたその時に、彼のものだという証のように付けられたいくつもの印。  
 
「…………」  
 鏡で確認しなくても、エステルは顔が赤くなっていくのを感じた。  
 赤く、あれほどまでにくっきりと付けられたそれらの痕は、もう残っていない。  
 くまなく探してみたが、全て綺麗に消えている。  
 そして新たに付けられた痕も、ない。  
 
 あのボースでの夜以降、ヨシュアはエステルに触れていない。  
 
家族で恋人で  勝手に続き  その4  
 
 ヨシュアが求めてこなかった、というわけではなかった。  
 それこそ、エレボニアに入国したその日の夜に求められていた。  
 
 慌てて出発したその旅路は、少しばかり予定は狂っても無事にハーメルに辿り着くことができ。  
 廃村となったその寂しい場所で、しかしヨシュアはどこか誇らしげに、嬉しそうに、姉にエステルを「大切な女性」だと紹介してくれた。  
 幸せなこと、というのはこういうことをいうのだと改めて実感できたその日の夜。  
 
 急いで町にたどり着いたとき、もう時刻は遅く。見つけた宿に滑り込むようにチェックインして、夕食を食べ、早々に部屋に引っ込んだ。  
 汗を流し終わり一息ついた頃にはもう結構な時刻で。お互い、ちょっと大変だったね、と苦笑して。  
 
「エステル」  
「ん?」  
 
 少し、すっきりした顔をしたヨシュアが、琥珀の瞳を細めて言う。  
 
「ありがとう」  
「うん。―――良かったね、ヨシュア」  
 
 何に対しての礼であるのか、ヨシュアは言わなかった。  
 エステルもまた、それを問わなかった。  
 
 それは、口にしなくてもわかることで。そのまま抱き寄せられて、口付けを交わす。  
 幸せな気持ちの、長い長い口付け。  
 次第に、甘く唇を食むように触れていたその口付けが、少しずつ深いものに変わってきて。  
 息が乱れ、覚えたての深いそれになんとか応え、強く抱きしめられて。ふいに力の抜けた身体を押し倒され、もっと深く入り込んでくる舌に、一緒に思考も絡め取られていくようで――――。  
 しかし口付けが首筋に降りてきた瞬間、エステルはヨシュアを思い切り押しのけた。  
 
「だッ―――ダメ!!」  
「……エステル?」  
 
 まさか拒否されるとは思っていなかったヨシュアが身を押されるままに、素早く自分の下から回避したエステルを捕まえ損ねる。   
 
 全てが終わって、その中で心残りであったことをようやく終わらせることが出来て。最愛の姉に、最愛の少女をやっと紹介することが出来て。  
 その安堵感のままに、言い表せない幸福をもっと味わいたくて。昨日の今日というのはさすがにどうかとは思うけれど―――味わったばかりの熱を今だからこそ感じたくて、腕を伸ばすが、ベッドの端に逃げ込んだエステルには届かなかった。  
 
「エステル―――」  
「だ、だだだだ駄目!駄目ったらダメ!」  
 
 自身を庇うようにエステルは両肩を抱いて拒否する。  
 近づいてくるヨシュアに、  
 
「やだったら!ま、まだあたしは痛いのよっ」  
 
 今日一日中、身体はまだ熱を持っていて。  
 男を受け入れたばかりの身体は、なんだかまだ間に挟まっているような気がして歩きにくく、どう頑張ってもがに股に近い歩き方になってしまった。必死になってそれを押さえ込んで、どうにか一日乗り切ったというのに。そこにまだ追加しろというのか。  
 
「それにヨシュア、また痕を付けるつもりでしょっ」  
 
 服の上からは見えないが、寝巻き姿を剥いだその下には、赤い印が幾つも残されている。昨夜、思う存分にヨシュアが付けた痕だ。  
 しっかりと自分の身体を抱きこんで、涙目でエステルは断言した。  
 
「そんなの、しばらく禁止!」  
「エス――――」  
「痕が全部消えるまで、ぜーったいダメー!!」  
 
 フレイムジッポーあたりをうっかり装備し忘れ、氷付け状態にされたときのように。  
 腕を伸ばした形のまま、ヨシュアはしばらく動かなくなった。  
 
 エステルからしてみればそれは大きな照れ隠しで。  
 昨晩散々……一度だけならまだしも、というわけではないけれど、とにかく思い切り……しかも二度も連続での翌日に――――おまけに、今日は彼の姉に紹介してもらったばかりなのだ。そんなことがあったばかりのその日に、なんて。  
 あるわけではないがまるで彼の姉に見られている状態でするような気がして。恥ずかしくて恥ずかしくて、そんなの、非常識極まりない。  
 対するヨシュアからしてみれば、そんな後だからこそ、なのだが、この日は結局、ヨシュアはそれ以上触れさせてもらえないどころか、傍に寄る事さえ警戒された。  
 
 見るからに肩を落として、ひとり自分のベッドに戻るヨシュアにちょっと可哀相かな、と思いはしたけれど、痛い思いをするのはこっちなのだ。ちょっとの間ぐらい、我慢してもらいたい。  
 痛いのは最初だけだ、という知識ぐらいは、エステルにもある。でもだからといえども、その、やっぱり、嫌。  
 
 
 あの日が、痛いだけの夜だった、というわけではない。  
 思い出そうとすると火がつきそうなほど顔が赤くなるからあまり思い出そうとしないようにするけれど、痛みだけが記憶に残っているんじゃなくて。  
 痛くて、痛くて、切なくて、でも嬉しくて。ヨシュアの事はほとんど知っているつもりでいながら、まだまだ全然知らなかった事を思い知らされて、でも知ることができて。繋がったのは身体だけじゃなくて、心も同じで。  
 それだけで、あの痛みも、付けられた痕も、全てがその証拠のように思えてきて。それだけで幸せだった。  
 
 
 あの日の朝、いつものようにヨシュアに起こされて。  
 そしていつものように、盛大な伸びから一日を開始しようとしたけれど、身体を伸ばしかけた瞬間下腹部に痛みが走り、もんどり打つようにしてそのままベッドに倒れ戻ってしまった。  
 後から考えてみれば、それは痛みと呼べるほどでもないはささやかなものだったのだが、無防備すぎる寝起きに感じるものというのは、対比などなくとかく痛く感じてしまう。  
 何故ここまで痛いのかと疑問に思っていると、顔色を変えて心配したヨシュアが慌てて覗き込んできた。  
 
「大丈夫!?もしかして、昨日の……」  
「ったぁ……だ、だいじょーぶ、だいじょーぶ……。って、昨日って?」  
 
 痛みに涙が出てきた視界の向こう、長い間家族として暮らしてきた少年が思い切り固まったのを見つけて、寝る直前にあった出来事を思い返し、それを理解するまでにかかった時間は約1分ほど。  
 見守る前で、みるみるエステルの顔は赤く染まっていくが、ヨシュアが最初に受けた衝撃はあまりにも大きすぎた。  
 いくら寝起きだからといって、初めての夜を終えた朝一番に交わした台詞がそれというのは、あんまりではないだろうか。甘い会話を期待していなかったといえば嘘になるが、せめてもう少しあるんじゃないのだろうか。物覚えが悪いにしても程がある。  
 その後色々あって、結局最終的に全てがヨシュアの責任とされ、それも認めるのだけれど。これはしばらく忘れられそうにないだろうな、と少年が深く胸に刻んでいることなどエステルには知るよしもなく。  
 
 ただ、あの朝。  
 確かに色々あって、痛みも続いていて、はっきりいって体調的には好調とはいえなかったけれど。  
 自分が眠ってしまった後の話を聞きだしていく内に、寝ている間中、ずっとヨシュアが抱きしめていてくれたことがわかって。  
 先にヨシュアのほうが目を覚ましたから、その感触はいまいちわからないけれど。それでも、それを知って、やっぱり恥ずかしくてどうしようもなくて、でも幸せだった。  
 だから、言ったのだ。泣きそうな顔をしたヨシュアに、そんな顔はしないでほしい、と。  
 ヨシュアのそんな顔はもう、嫌というほど見てきた。これから先もまた見ることになるなんて、とんでもない。見るならもっとちゃんとした幸せな顔を。  
 自分がそばにいる事で幸せだと言ってくれるのだから、それに見合う顔を。もう、その幸せを陰らせる理由なんてないのだから。  
 そして求められるのなら、自分でいいのなら、応えてやりたい、とも思っている。  
 ―――翌日はなんというか、それだけは譲れずに思いっきり拒んだけれど。  
 
 宣言どおりに、付けられた痕が消えたら、そしてヨシュアが望めば、そのときによって変わるかもしれないけれど、一応、その望みをかなえよう、とエステルは思っていた。  
 いつも我が儘を言っているのは自分のほうで。ヨシュアの方から甘えてくるなんていうことは貴重なのだ。  
 甘えてしまうのは、つい頼ってしまうのは、もう昔からの癖のようなものになってしまっていて。どんなに甘えないようにと思っていても、やっぱり甘えてしまう。  
 ヨシュアは優しいから、いつだってこちらの我が儘も甘えも、全部受け入れてくれている。だから、滅多にみせない彼の甘えは、受け入れてあげたい。  
 
 それでもその夜以外、ヨシュアが求めてくることはなかった。  
 
 キスはある。甘く触れるものから、少し深いものまで。  
 抱擁もある。自分から抱きつくときもあれば、不意をついて急に抱きしめられるときも。  
 けれどどちらもそれだけで、彼はそこから先に進もうとはしなかった。  
 
 夜、眠る前。  
 強く抱きしめられたときに、これからまたあるんだ、と覚悟を決めたときだって、ヨシュアはただ優しく抱きしめ、額に口付け、おやすみ、とだけ言って身を離した。  
 
 
 ―――これから、いっぱいこんなことあるって言ったのに。  
 
 期待している、というわけじゃないけれど。  
 
 ―――痕が消えるまでって言ったのに。  
 
 確かに、慣れない国での生活と遊撃士の仕事に忙殺されて、それどころでなかったときもあったけれど。  
 
 ―――今はもう、消えたのに。  
 
 付けた本人なのだから、どれぐらいで消えるかぐらい知っているはずだ。  
 
「…………ばか」  
 
 鏡の前、エステルは朱色の瞳を潤ませた。  
 小さくつぶやいた言葉は、自身を映す鏡の中へと消えていくだけだった。  
 
 
 風呂からあがってくると、室内は真っ暗だった。  
「あれ……?」  
 まだ水気の残る黒髪をタオルで少し拭いて、ヨシュアは首を傾げた。  
「エステル、もう寝たの?」  
 ついさっきまで彼が使用していたバスルームの明かりだけを頼りに室内を見渡す。確かに人の入る気配がある。それは、抵抗なくなじんだ気配。姿を見るまでも無く、愛する少女のものだ。  
 けっして広い部屋ではないこの部屋の作りは―――別にこの宿に限ったことではなく、値段にさえ気を使えば大抵の宿はほとんど手狭で、一つの部屋の中に寝台だけが並べてあるものだ。  
 すぐに見つかる寝台を見れば、二つ並んだそれのうち一つが、人の形に膨らんでいる。  
 珍しいこともあるものだな、とヨシュアはバスルームの明かりを消さず、ベッドに近寄る。  
 どんなに眠たくてもエステルは眠らずに待っていてくれるし……たまに限界を超してしまって、眠ってしまうときもあるけれど、そんなときはいつの間にか寝てしまっていたものが多く、  
 布団も被らず横倒しで寝ている。わざわざ室内の明かりを消すようなことはしない。  
「エステル?」  
 彼女が潜り込んでいるベッドの枕元を見れば、毛布に包まっているのがわかった。  
 やはり寝ているのか、反応を示さない。  
 でも、どこかおかしい。  
 何がおかしいのかわからないが、違和感を感じてヨシュアはエステルの顔を覗き込んだ。目をつむり、唇を引き締めて。たてられる呼吸音は、眠っているにしては小さく、そしてやけに早い。  
 手を伸ばして頬に触れてみると、そこは熱を持っていて。  
 違和感の原因に気がついた。エステルの寝方だ。普段の元気から反するように、眠っているときの彼女は大人しい。そして丸まって眠るようなことは滅多にしない。  
 今彼女は、膝を抱えるほどに身を丸めている。  
「エステル、どこか具合が悪いの?」  
 昼間は別に、どこか様子がおかしかったようには見えなかった。一日終えて、疲れが一気に来たのだろうか。  
 声を掛けても反応はなく。頬に手を伸ばすと、ぴくりと瞼が動いた。ぼんやりと瞳が開かれる。いつ見ても思う、綺麗な―――澄んだ瞳。  
 けれど開かれた瞳はなぜか戸惑っているように見える。目の前にいるのがヨシュアだと確認すると同時、すぐに目を逸らされてしまった。  
「エステル?」  
 これはなんだろうか。  
 触れた頬は少し熱い。湯上りだといっても、エステルが身体を流してから少しばかり時間が経っている。  
 戸惑っているような、照れているような、どこか怒っているような。ちょっと推測の付けようがない。何しろ、風呂を交代するつい先ほどまではいたって普通だったのだから。  
 ようやくエステルが口を開いた。  
「なんでもない」  
 早口なそれは、照れているように聞こえて。  
「えっと、灯り、消えてたみたいだけど……」  
 それはどうして?と続ける前に、この薄暗い中でもわかるほどに少女の顔が赤くなった。まだ触れたままだった頬が急激に熱を持ち始めている。  
「なッなんでもないの!ちょっと眩しいなって思って消しちゃっただけよっ!ヨシュアがこんなに早く上がってくるなんて思ってなかったからっ」  
「僕?いや、いつもと同じぐらいだったと思うけど……」  
 普段どおりの手順で汗を流したはずだ。ついでにいえば、少し気を緩めていたので普段以上に長湯気味だったようにヨシュアは感じていたのだが……。  
「な、なんでもないったらなんでもないっ」  
 ヨシュアの手をはね除けるようにしてエステルは寝返りを打つ。  
 そして相変わらず丸まったまま、ヨシュアに背を向ける。  
「エステル?」  
 行き場の無くなった手を所在なさげに宙に浮かせたままに少女の名前を呼ぶが、再び反応が貰えなくて。  
 何故そうなったのか分からず、ヨシュアはただ首を傾げた。  
 
 ヨシュアに背を向けてエステルはぎゅっと自分の身体を抱きしめる。  
 顔が熱い。どうしようもないほど。  
 一枚だけじゃ頼りない毛布を必死にたぐり寄せて身体にまきつけて、きっと下手したらすぐに気が付いてしまうヨシュアに聞こえないようにとやけにバクバク言っている心臓に胸を当てて。  
(き……気付かれた?)  
 限界までたぐり寄せた毛布をもっと引き寄せ、身体を丸めながらエステルは様子をうかがう。すぐ後ろに立っている気配はそこから動く様子はなくて、不安と同時に安心もする、なんだか変な気持ち。  
 身体全体が頼りない。落ち着かない。毛布一枚だけじゃ、心もとない。  
 絶対に気付かれたくなくて。  
 恥ずかしくてどうしようもなくて。  
 毛布の下、治まる様子のない心臓を押さえつけて、エステルは改めて自分の状況を呪った。この下には今、何も付けていなかった。  
 寝巻きも下着も身に付けず、最後の砦のように守ってくれているのはちりちり肌に刺さる毛布だけなのだ。  
(あ、あたしのバカっ……!)  
 別に好き好んでこんな格好で丸まっているわけではなかった。それなりの理由があって、それなりの仕方のない手段で、結果としてこうなったのだ。  
 
 
 ヨシュアと交代してバスルームを出た後、エステルはしばらく物思いに沈んでいた。  
 スプリングのそれなりに効いたベッドの縁に腰掛け、ため息をつき。乾いていない髪をタオルで拭きつつ目に留まったのは、やはりこの部屋にも置いてある姿鏡。  
 そっと近づいたそれに映り込む自分の姿。先ほど風呂場で何度も確認したものと違って、お気に入りの寝間着にくるまれたそれは、明らかに消沈した顔をしていた。  
 
「あたしってやっぱり……まだ色気って足りてないのかな」  
 
 ぽつりとつぶやいたことで後悔が湧き上がってくる。その表情や仕草は、大抵の男なら一発で落とされてしまいそうなほどに保護欲をそそられる、なんとも悩ましげなものだったが、生憎とそれを証明してくれるものは今この場にはおらず。  
 もちろん自分でも気が付かぬまま、寝間着の上から胸、腰、尻、と押さえつけていってみる。体重とかスタイルだとか、そんなことを激しく気にしたことはないが、女の子としてそれなりには気にしているわけで。  
 その中で、決してスタイルだけは悪くないという自信があった。  
 鍛えてある分、全体的に引き締まっているし、だからといって筋肉質になっているほどでもないし。無駄な肉はないはずだし、くびれもちょっとはあるつもりだ。  
 胸だって、小さいというわけでは………………。  
 
「……だ、だめよエステル。シェラ姉を基準に考えちゃ。あれは規格外、規格外!」  
 ふるふると頭を振って、一瞬過ぎった姉貴分のボリュームをうち消す。  
 あれは結構反則だと思う。たいしてばかすか食べるわけでもないし(お酒は別物だが)、充分な運動だってしている。だからシェラザードも、エステルと同じく無駄のない均整の取れた体つきをしている。  
 違いがあるとすれば、年齢だとか経験とか、絶対そんなんじゃない。と思う。思いたい。  
 
 
 時折「肩が凝って困るわ」なんて口走るやたら大きく形のいい胸や、本当に同じ女性なのだろうかと疑問に思ってしまう腰つき。あの人はきっと、別世界の住人なんだから。  
 だからあれが魅力的な女性像だなんて、思ったりしたらオシマイのはずだ。  
 
 でも………。  
「胸……大きい方が、ヨシュアもよかったのかな……?」  
 一度考えたらもう奈落のループに迷い込んでしまう。  
 期待しているわけではなくて。自分から言い出すなんてことも出来そうになくて。でも、どうしようもなくて。  
 
 
 どうしてヨシュアは何も言わないんだろう。  
 どうしてヨシュアは何も訊かないんだろう。  
 どうしてヨシュアは何もしてくれないんだろう。  
 
 ぐるぐると回る思考の中、結論は自分へと向いていく。  
 姿鏡に映った自分の姿。  
 
 
 あたしの身体、ヨシュアが気に入らなかったから?  
 あたしの身体、ヨシュアの期待はずれだったから?  
 
 
 馬鹿なことを考えているという自覚はあったけれど、そんな自覚は一度はまった思考に全部端の方へと追いやられていってしまう。  
 鏡の前、泣きそうなほどにくしゃりとエステルの顔がゆがんだ。  
 さりげなく痕が消えたことを告げたことがあった。  
 ものすごく恥ずかしかったけれど、言い出したのは自分なんだからと言い聞かせて、胸元に付けられていたそこを見えるように、見えないように、でも見せながら。  
 それでもヨシュアはそれに気付いたか気付いてないのかよくわからない反応で、以後彼の言動にも特別変わったところは見えなかった。いつも通りの優しいキスと、優しい包容だけで終わる一日。  
 
 不安が一気に押し寄せてくる。  
 その不安に押されるようにエステルはさっき着たばかりの寝間着を脱いで、慎ましく身体を包んでくれる下着すらも脱ぎ、先ほどシャワーを浴びる前にしたように、鏡の前で自らの裸身をさらした。  
 室内灯の明かりの下で見たその身体はみずみずしさに溢れ、ただ静かにたたずんでいる。水気のある髪が肌にぴったりとひっついて、自分じゃない別の人の身体のようにも思えた。  
 今まで特別な不満を持ってこなかった見慣れた自分の身体に、幾度か見たことのある、シェラザードの体躯が重なる。  
 
「あ…………」  
 
 明らかな違い。あからさますぎる相違。  
 それにエステルは、行き着かないようにしていた答えに辿り着いてしまった。  
 
 …………だからヨシュアは、ずっと何にもしてくれないの?  
 
 そんなことない。ヨシュアはそんなの気にしない。  
 ヨシュアは自分の身体が欲しかったのではなくて、エステル自身を好きだと言ってくれたのだから。ずっとエステルを想ってきてくれたと彼はちゃんと言った。  
 エステルから拒否したといえども、ヨシュアはあの後もエステルに求めてきている。だからそんなことあるわけがない。……頭ではわかっているはずなのだが、そう思いたかったが、一度でも思ってしまった嫌な考えは消えてくれなかった。  
 
 
「……寒い」  
 ぶるっと身震いをして、両腕を抱く。衣服を脱いだことを思い出した。  
「湯冷めしちゃうな」  
 風邪をひいたりしたら大変なことになる。  
 体調管理は遊撃士として基礎中の基礎だし、何よりもそんなことになったら―――。  
「ヨシュアがめちゃくちゃ心配するものね」  
 風邪をひいたとき、自分の枕元で必死に看病してくれた子供のときの事を思い出して、くすくすと笑う。  
 熱が出て苦しいのはこっちだというのに、ヨシュアのほうが苦しそうな顔をしてずっとついていてくれるたのだ。そうしていつも彼に風邪をうつしてエステルは完治していた。  
 今思えば微笑ましくあると同時、そのときからも十分ヨシュアから想われていたのだ。  
(へ、変なこと、考えるのよそう……)  
 心配することなんてないはずだ。  
 自分達はもう、恋人なんだから。たまたま、ヨシュアがそういう気になれてないだけで……自分の思い過ごしでしかないのはずだ。そもそも、そんなに短い周期でやるようなことでもない、はず。  
「と、というか、なんかそれってあたしかなり期待してたみたいに……」  
 そのときだった。  
 服を着ようと脱ぎ捨てたばかりの服に手を伸ばしたエステルの耳に、シャワールームの扉を開ける音が聞こえてきた。  
「へ?」  
 耳を澄ませてみると、先ほどまで時々聞こえていたシャワーの音が完全に止まっていて。いつ頃から止まっていたのか思い返してみると……だいぶ前からのような気がする。それどころかシャワー室を出てくる人の足音さえ聞こえてくる。  
 ヨシュアが湯浴みを終えた音だった。下手をしたら着替えすらも済ませている可能性が非常に高い。  
「えっ、ちょ、ちょっと待った……!」  
 見下ろした自分の身体は、一切服を着ていない。慌てて下着を手に取るが…………服を着ている時間などあるのだろうか?  
「ど、どうしよっ…………!」  
 素っ裸で衣類を抱え持つ姿。そんなの、ヨシュアには絶対に見られたくない。ヨシュア以外にも見られたくはないけれど。  
 
 どうしようどうしようどうしようどうしよう。  
 焦れば焦るほど何もできないまま時間は経過していく。とにかく一にも二にも服を着ればいいということはわかっているけれど、体がうまく動いてくれなくて。  
 
 焦りに駆り立てられ立ち往生してしまったエステルは、泣きそうな顔で部屋の中を見渡した後、目に付いた室内導力灯のスイッチに飛びついた。部屋が一瞬で暗くなる。  
 それから急いで、明るいときの間に記憶していたベッドに潜り込む。  
 
 こうして、毛布にくるまっただけの姿が出来上がった。  
 
 
 背中から感じていたヨシュアの気配が動いた。  
 つい神経を張りつめてその様子を探っていると、かすかな音と共に目の前が明るくなって、エステルは目をしばたたかせる。  
 室内導力灯が付けられたのだ。  
「えっ?」  
「ゴメン、眩しかったんだよね。でも、ちょっと待って」  
 そうして突然の明るさに慣れていないエステルに近づいて、ヨシュアは彼女の顔を両手で挟み少しばかり強引に自分の方に向かせた。  
「顔色……は、大丈夫だね。目も大丈夫。冷えたわけでも無さそうだし……。でもエステル、髪はちゃんと乾かさないと、風邪ひいちゃうよ」  
「ちょ、ちょっとっ」  
 その手から逃れようとするけれど、寝転んだままの体制では難しくて。両手は毛布の端を掴むのに精一杯で、手放すことは出来ない。  
「どこも悪くないってば!」  
「なら、どうしてさっきから目を合わさないようにしてるのさ。何か隠し事でもあるの?」  
「な、ないないないないっ!そんなものない!」  
 余計に妖しい。  
 ヨシュアが顔を近づけると、エステルの目がさらに泳いだ。明らかに何かある。  
 無理強いしてまで聞き出そうとは思わないけれど……こうまで露骨に隠し立てされるとさすがに気になった。  
 相変わらず小さく丸まった状態のエステルを流し見て、ヨシュアはため息を押し殺す。  
「……僕には言えないこと?」  
「い、言えないっていうか……ヨシュアには知られたくないって言うか……」  
 実はこの下には何も身につけていないの、なんて絶対に言えない。  
 けれど一瞬曇った恋人の顔を見て、しまったと口を押さえてももう遅かった。  
 少し痛んだ胸の内を隠そうと、知らず微笑んでヨシュアは少女を解放する。  
「そっか。ゴメンね、無理に聞き出そうとしちゃって」  
「え、あっ。ち、違うっ」  
 押し殺したような寂しげな声にエステルは焦った。  
 頬を包んでくれていたはずのヨシュアの手を追ってエステルが慌てて手を伸ばす。片手だけじゃ足りなくて、両手を使ってその手を捕まえる。  
 
 そして、ヨシュアは目を見開いて固まった。  
 一瞬、何故ヨシュアがそこまで動きを止めたのか―――エステルにはわからなかった。一拍置いて、自分がどういう状況でいたのかを思い出す。  
 ヨシュアの腕を取るために離してしまった毛布は胸元から完全に落ちていて。  
 かろうじて肩からかかっていた端が、ぎりぎりで少女の胸の途中から下は隠してくれていた。  
 それでもかなりの大部分があらわになり、寝巻きどころか下着までを着ていないのは明白で。  
 そして手を伸ばし捕まえるには、上半身の力だけではバランスを上手くとれなくて、無意識に両足にも力を込めることになる。  
 その結果、まとって隠してくれていた毛布を大きく跳ね除けて、片足は大胆にも付け根の近くまで夜気にさらすこととなっていた。  
 いわゆる、あられもない格好という状況。  
 
「…………………え…………………?」  
 
 徐々に顔を赤らめていき、ヨシュアがそれだけ言う。  
 その声を聞いて、自分の状況を確認したエステルが、  
 
「ひっ…………―――きゃぁぁぁぁっ!!」  
「―――うわっ。ちょ、ちょっと、エステル!」  
 
 力の限り悲鳴を上げて掴んでいたヨシュアの腕を放り出して毛布をめちゃくちゃにたぐりよせて側にあった枕を手に取り、―――思い切りそれでヨシュアを叩きながら言う。  
 枕は柔らかいのに、必要以上に痛い。  
「見ないで見ないでぇー!!い、今の忘れてっ!!なんでもないから!」  
「何でもないって…………エステル、痛いからっ!ちょっと落ち着いて……」  
 むちゃくちゃに暴れる少女から距離を取り、枕を持った攻撃範囲からは脱することに成功。でもまだ、一瞬見た光景が忘れられない。しっかりと瞼に焼き付けられた少女の半裸姿に、高まった動悸を押さえつけられない。  
 枕をぶつける対象が遠のいたエステルが、ベッドの中央に座り込んで息を荒げていた。毛布をもう二度と離すものかというまでにきつく胸元で握り締めて、枕を盾にするように構えて、その影に隠れようとしている。  
「あの……その、エステル?なんでそんな格好、を?」  
 動揺するあまり上手く舌が回らない。  
 エステルは聞かれたくない事を聞かれたというように反応して、耳まで真っ赤になっていく。  
 
「ち、違うの。別に深い意味なんてないの。ただ鏡見てたら色々確認したくなってきてそれで……!」  
 
 だからといって服を全て脱ぐという行動は、色々と別の意味を想起させるには十分で。  
 そんなつもりはまったく無いけど、誘っていると誤解されてもおかしくないことぐらいエステルはわかってる。わかっているから、なんとかしてそんな誤解はされたくない。  
 
「ちょっとそれでぼーっとしてて!ヨシュアが上がってくるの気付かなかったのっ。それで慌てて、それでついおもわず灯り消しちゃってそれで」  
 
 相当混乱しているようで、ヨシュア以上に言葉がおかしくなっていた。  
 反面それを見てヨシュアはやや落ち着きを取り戻してきた。頭の中では先ほどの光景がちらついて離れないが、明らかに動揺しまくっているエステルのためにも表面上だけはできるだけ平静を装おうとしていて、  
 
「あ、うん。そう、そういう理由だったんだ」  
 
 あまり出来ていないようだった。  
 そのまま、どうしようもない沈黙が二人の間にしばらく流れていく。  
 
 
 口を開いたのはヨシュアからだった。  
「あの……その。エステル、」  
 相変わらず枕を盾にして隠れているエステルが目線だけを上げてきた。  
「とりあえず、服、着たほうがいいよ。本当に風邪ひいちゃうから」  
 盾にした枕だけでは少女の身体の全ては当然隠れきれていなくて。  
 毛布から伸びている妙になまめかしい脚や、おそらくエステル本人は気が付いていないであろう、上手く毛布を羽織れずにむき出しになっている肩の細さが嫌でも目に入る。  
 おまけにそんな状況で見上げてくる目は羞恥で潤んでいてどうにも危ない。  
 すみやかにこの場を離れないと、そのまま襲ってしまいそうだ。  
   
 いや、襲ってもいいはずだ、と囁きが聞こえる。  
 自分達はもう恋人で、彼女は一度受け入れてくれた。あの時特別に嫌がられたり、無理強いをした記憶はない。  
 だから躊躇する理由はなく、互いに合意が持てればいつだって許されるはずのこと。  
 今だって少女は否定の言葉を口にしたが、もしかしたら誘っているのかもしれないし。  
(いや、エステルに限ってそんなこと――――)  
 一度だけとは言えども結ばれた後も、少女の清純潔白な笑顔は変わらなかった。それどころか、よりいっそう輝いたものになった気がする。  
 一歩どころか何十歩も縮まった距離に酔いしれている。  
 それだけで満足できるはずなのだ。本来なら。  
 彼女は何もかも受けて入れて、全てを彼に捧げてくれたのだから。   
 だからあれから一ヶ月、耐えることが出来た。あの一夜があったからこそ、その後を必死に耐え続けた。  
 途中何度も押し倒しそうになって危なかったときもある。  
 未だに舌を絡めるキスに慣れない彼女が、それでもなんとか自分に習って舌を伸ばしてきてくれる時や、まだ湯気の香りの残る風呂上りに無防備に近づいてきたとき。  
 寝起きのとろん、とした眼差しや、エステルの方から擦り寄ってくるその肌の心地よさ。  
 抱きしめて、腕に閉じ込めて、安堵したように身体を預けてくる彼女の体温。  
 でもそれに少し力を込めると、途端に少女は身を強張らせる。  
 そうして結ばれた翌日に拒否されたことを思い出してしまって、それ以上何も出来なかった。  
 この一ヶ月間、ずっとそんなことを繰り返している。  
 
 
 冷静になって考えれば、あの日エステルはただ恥ずかしかっただけで、本気で嫌がっていたわけではなかったのだろう。  
 その証拠のように以後彼女は妙にヨシュアに気を使っていた。  
 付けた赤い印自体は一週間もあれば十分消えているはずだ。待っていたのか、それともどう言っていいのかわらかなかったのか、それからさらに一週間ほど経ってからエステルは少々大胆な行動にでてきていた。  
 寝間着の胸元のリボンをほどいて、胸の谷間…………一際大きく痕を付けていた部分が見えやすいような格好のまま、キスをねだってきた。  
 …………あの時は確かに誘われていたのだと思う。  
 けれどどうしても、照れ隠しにといえども徹底して否定されたことを忘れきれなくて―――我ながらいつまでもうじうじと、と思うけれどもヨシュアからしてみれば重要なことだった。  
 
 ―――エステルを傷つけたくない  
 ―――エステルを悲しませたくない  
 
 だからわずかでも彼女から否定の言葉や反応が出るのなら―――もうそれ以上何も出来ない。  
 
 それがそろそろ限界にきつつあるこの時に見た、先ほどの姿。  
 本当にやばいと思った。もう少しで枕を持って暴れる彼女の腕を押さえ、組み敷いてしまうところだった。いや、下手をすれば彼女が枕を掴む余裕さえもたせなかったかもしれない。  
 自制心を総動員させてぎりぎりのところで押さえ、そのことを悟られない言葉を探すのにも一苦労だった。  
 何をどう口を開いても、抱きたい、という言葉しか出てこなかったから。  
 
 
 当たり障りのない言葉がちゃんと出てきて良かったと安心したのは数秒ほどだけ。  
 エステルからなんの返事も返ってこないことに気が付いて、見ないようにしていた少女を盗み見てみると、彼女は枕から顔を出してまっすぐにこっちを見ていた。  
 
 先ほどまで羞恥と興奮で上気していた頬は妙に蒼白で。  
 柔らかな唇は何かを言いたそうに開いたまま止まっていて。  
 そして朱色の瞳は無表情に大きく見開かれ、ヨシュアが見守る前でじわじわと潤んでいき…………やがて大粒の涙が溢れ落ちていった。  
 
「―――え?」  
 
 
「ヨシュアの…………ヨシュアの―――――バカァ!!」  
 
 
 力いっぱいに盾にされていた枕が投げ飛ばされてきた。  
 避ける暇なんて無くて、けれど顔をめがけて飛んできたそれを腕でカバーする。戸惑いながらもエステルの姿を探すと、彼女は変わらずそこに座っていた。  
 盾にしていた枕がなくなって、くるんだ毛布以外に本当に身体を隠すものが消えて、かなりきわどいことになっていて。  
 胸元は何とか隠れているものの肩から落ちた毛布はそのままだし、今まで枕でよく見えていなかった脚は太ももの半ばほどまでめくりあがっている。  
 けれどそれよりももっと目をひきつけるもの…………涙をこぼし続けるエステルの顔。  
 血の気の引いていた顔は一気に熱が上がり赤くなり、柳眉を逆立て歯を食いしばっている。歯の音が合わないほど強くかみ締めているようで、小刻みにその小さな顎が震えていた。  
 自分のあられもない格好など少しも気にせずに、投げつけたままの姿勢でエステルはヨシュアを睨みつけていた。  
 変わらずに涙は次々と溢れ続けている。  
「エステル―――?」  
「バカ!バカ!ヨシュアのバカ!近寄らないでこっちこないでよ!」  
 そうは言われても、泣いている彼女から目を離すことは出来なくて。  
「見ないでったら!そんな―――そんなこと言うぐらいなら…………ひぐっ」  
「あ……エステ―――」  
「寄らないでっ!!…………お願い、もぅ、いいからほっといてっ」  
「いいからって……よくないよ、どうしたのさ急に―――」  
 エステルは顔を覆って泣き始めていた。  
 近寄るなと言われ側によるのは非常に躊躇ったけれど、今の彼女を放っておくことなどできそうにない。  
「いいからこないで!」  
 再度少女が拒絶する。  
 ヨシュアは足元に落ちていた枕を拾い、途方に暮れるしかなかった。  
 

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