「はい、これが通行許可証になります」  
「ええ。ありがとう御座います」  
 地方都市ロレントと、交易都市ボースとを結ぶヴェルテ橋関所。嘗ては多くの旅行者が通ったこの関所も、リベール王国内に於ける定期船制度の定着によって人通りは激減し、今やわざわざ此処を通る旅人は珍しい人種になってしまった。  
 今この関所の守備隊長から通行許可証を貰った穏やかな学者風の男は、その『珍しい人種』の中でも輪をかけて珍しい人物と言えた。ノーザンブリア自治州と言う、リベール人にとって聞き慣れぬ遠国から来た考古学者である彼は、護衛の一人も雇ってはいなかった。  
 大都市を結ぶ街道はある程度整備されているとは言え、魔獣が出るのも珍しくは無い。護衛の一人も雇わないで無事に都市に到着出来る保障などは無い。此処の隊長がそう言うと、  
「情けない話ですが、私はお金のやり繰りが苦手でして……一応ある程度の収入はあるのですが、その殆どをつい研究につぎ込んでしまって、定期船のお金を払うのも惜しいのですよ。私は初めてリベールに来たものですから、宿の代金がどんなものかもわかりませんし……」  
 流石に野宿はしたくありませんしねと、はにかみながら答えるのだった。  
「くれぐれも魔獣には気をつけて下さいよ。何かあっても責任は取れませんからね」  
「ええ。これでも逃げ足には自信がありますから、多分何とかなるでしょう。狭い遺跡と違って、街道なら逃げ道もありますしね」  
「それでは、良い旅を」  
「はい。ありがとう御座いました」  
 
 学者は恭しくお辞儀をし、詰め所から出た。そして兵士に許可証を提示して、開け放たれた門を通って橋を渡る。東ボース街道には、人気が全く感じられなかった。歩いているのはこの男一人だ。  
 関所から充分離れた所で、男が不意に妙な所作をした。今まで人に見せていたのとは全く違う鋭い眼光で素早く、そして念入りに周りを伺い出したのだ。それはとても、素人のする所作とは見えない。  
 やがて周囲に誰も居ない事を確かめたのか、男はくつくつと笑い始めた。それは、ぞっとする程冷たい笑みだった。最早顔つきすら変わっている。  
 其処にあるのは、先刻見せていた学者風の男の優しい微笑みなどでは無く、冷酷無残な、爬虫類にも似た男の冷笑。もし傍に人が居たら、訳も無く震えてしまいそうな異様な迫力であった。  
「流石は私が一から造り直した最高の人形なだけはある。その報告は完璧……一つの間違いも無い」  
 男はずれた眼鏡を整えつつ、ロレントでの事を思い出しているらしかった。再びくつくつと、人を馬鹿にした様な笑い声を上げる。  
「ロレントの地理、遊撃士協会の情報、そしてカシウス・ブライトの情報……全く、良く働いてくれるものだ。カシウスを排除出来ぬ事には『計画』の成就はままならない……その好機を与えてくれた彼には感謝しておくとしよう」  
 そう言うと、男はおもむろに一枚の写真を取り出した。其処に写し出されているのは、まだ幼く、しかしひどく冷たい琥珀の瞳を……殺人者の瞳をした、双剣を構える少年の姿であった。その姿を見て男は微かな笑みを浮かべ、そして写真を懐にしまった。  
「……しかし、滑稽な事だ……」  
 そう言って、男はもう一枚の写真を取り出す。其処にあったのは、父親と二人の子供達の幸せそうな姿。悪戯っぽい砕けた笑みを浮かべる父親に、屈託の無い、明るい笑みを浮かべている少女。そして―――その傍で穏やかに笑っている、琥珀の瞳の少年。  
 
「ブライト家の人間に心を開く様『暗示』を掛けたとは言え、『化け物』が他人を愛するなどとはねェ……」  
 男の視線が少女に落ちる。『剣聖』と謳われたカシウス・ブライトの実の娘であるエステル・ブライト。『彼』が無意識下に潜伏した先に居た、同い年の少女。彼女が『彼』の想い人だった。兄妹同然に育って、徐々に培われて来た想い。  
 報告によって、男はその事実を掴んでいたが、実際に『彼』と接触してみて、その想いの強さを再確認した。  
「弱くなったな、ヨシュア・アストレイ。愛など、『化け物』には無用の感情だと言うのに。『化け物』が人と愛し合えると、本気で信じている訳では無かろうに……」  
 男が見たのは、無邪気に笑う娘と、それを複雑そうに、それでいて想いを込めて見つめる少年の姿だった。男に誰何の声を上げた時、彼はさりげなくあの娘の前に立ち塞がっていた。  
 万一男が娘を襲おうものなら、己を犠牲にしてでも護ろうとする態度。只、兄妹同然に育ったと言うだけではそんな行動はしない。その仕草は、明らかに愛する人を護ろうとするそれだった。その他の態度の端々からも、少年が如何に娘を愛しているかを感じ取る事が出来た。  
 男にとっては、そうした感情の機微など手に取る様にわかるのである。  
「想いが強ければ強い程、それが打ち砕かれた時の衝撃は凄まじいものだ。今の君が、その衝撃に耐えられるのだろうかね……」  
 
 一つの光景を思い描いて、彼はにやりと笑う。それは、ヨシュアと言う名の少年と初めて逢った時の事。  
 その時の彼は、愛した姉を眼前で凌辱されかけた挙句に殺されてしまい、その衝撃から失語症を発症して、自分では何もする事の無い魂の抜け殻と化していた。兄弟同然の付き合いをしていた銀髪の青年が保護していなければ、忽ち野垂れ死にしていただろう。  
「私の名はゲオルグ・ワイスマン。大いなる主が統べる魂の結社『身喰らう蛇』の者だ。『白面』とも呼ばれている」  
 ワイスマンと名乗った男の顔は、優しげなものだった。それでいて、決して相手を見逃さぬ鋭さと酷薄さも見え隠れしている。  
「……その『身喰らう蛇』の人間が何の用だ。返答次第では……」  
 銀髪の青年は懐に手を入れる。恐らくナイフか何かを握っているものと思われた。妙な事をすれば殺すと言っているのだ。その瞳は底無しの怒りに燃え、それでいて晴れる事の無い哀しみに沈んでいる様に見えた。  
「止したまえ。そんな物騒なものを持ち出すのは。私は君達に危害を加えるつもりは無いのだからね」  
 男は動かない。全く気にも止めていない様だ。彼は視線を幼い少年に向ける。少年はその男を見ようともしない。否、その琥珀の瞳には何も映っていなかった。恐怖も、怒りも、悲しみも無い。只、其処に在るだけの魂の抜け殻。人であって、人でない者の姿。  
 暫く見つめていると、青年が少年の前に立ち塞がった。殺気が一段と強くなっている。それでも、彼は笑みを絶やさなかった。  
 
「退いてくれないか? その様に立ち塞がれては、直せるものも直せなくなるよ?」  
「何を……」  
「この子の心を直して欲しくは無いのかね?」  
 男の言葉に、青年は言葉を失った。今までの殺気は消し飛び、動揺が彼を支配するのを、男は見逃さない。  
「私はある『術式』を研究している。それは人の心に関する術式だ。心を操る事も出来れば、破壊する事も出来る。無論、その逆も然り」  
 男の笑みの質が変わった。それは、冷血動物を思わせる様な、酷薄極まる笑み。人の弱みを握り、歓喜しているかの如き、醜悪な笑いだった。  
「―――私が、この子の心を直してあげよう」  
 未だ動揺が収まらぬ青年に、男がとどめの一撃を加える。青年の瞳には、一種の哀願が込められていた。既に、男の術式に嵌められている。男の提案……実質的な命令に逆らう事は出来ない。  
「但し―――『代償』は、支払って貰うよ……?」  
 青年には、選択の余地が無かった。少年は男の下に引き取られ、青年もまた、『身喰らう蛇』に身を投じた。青年は後に、『剣帝』レオンハルトと呼ばれる様になる。そして、ヨシュアと呼ばれた少年は……。  
 
「さあ、ヨシュア・アストレイ。これを殺したまえ」  
 ナイフを持って呆然と立ち尽くしている少年の眼前にあるのは、瀕死の重傷を負った黒装束の男だった。荒い息も、既に絶えようとしている。  
「この男は最早ものの役に立たぬ。手の施し様が無い。後は精々、楽に死なせてやる事ぐらいしか出来はしない……」  
「あ……あ……!」  
 ガタガタと震える少年を見て、男は低く笑う。  
「ふふふ……どうした? 早く息の根を止めろ。ほら、こんなに苦しがっているじゃないか。楽にしてやらなければ行かんだろう。慈悲の心があるのならねェ?」  
 男は瀕死の男を仰向けにする。その身体には幾つもの生々しい傷があった。素人でも一目見ただけで、手遅れと言うのがわかる程の傷だ。  
「―――だ……」  
「何か言ったかね?」  
「……嫌だ! 僕は人殺しなんてしたくない! こんな、こんな事……!!」  
 少年は頭を抱えて呻いた。人として、子供として当たり前の反応である。しかし、男はそれを許さず、子供の髪を引っ掴み、無理矢理瀕死の男の方を見させた。  
「あう……っ!」  
「……そんな事が認められると思うのかね? 言った筈だよ。『代償』は支払って貰うと。私は君のバラバラになった心を組み立て、直してあげたのだ。その『恩』に報いぬつもりなのか?」  
「あ……」  
 少年が急に大人しくなる。『術式』による認識操作だった。否、『暗示』と言った方が適切であろう。  
「それに、この男はもう助からない。君が手を下そうが下すまいが、どの道死ぬのだ。だが、このまま激痛に悶え苦しみながら死んで行くのと、君の手で一思いに生命を絶たれるのと、どちらが彼にとって幸せだと思うね?」  
「……僕が殺した方が、楽……」  
「そう。そうだ。ならば早く楽にしてやれ。一刻も早く、苦しみから解放してやるのだ」  
 男が少年を放す。少年はふらふらと、男の下に歩み寄った。そして首筋に狙いを合わせ―――刃を、突き立てた。  
 
 鮮血が、少年の身体を襲う。しかし少年は身じろぎもしなかった。彼の瞳は、嘗てのそれと同じ、何も映し出さぬ琥珀の瞳。人の死にも動ずる事の無い、悪魔の瞳が其処にはあった。  
 しかし、それも長くは続かない。  
「……あ……!!」  
 少年の瞳に光が戻る。それと同時に、少年は自分の手を、身体を見た。その小さな身体は、血に塗れている……。それを知った時、少年の中で何かが弾けた。  
「ううっ……!」  
 少年は、あらゆるものを吐き出した。吐き出すものが無くなっても、凄まじい吐き気は収まる気配も無い。どう仕様も無く、涙が溢れ出た。  
「ふっふっふっふっ……良くやった、ヨシュア・アストレイ」  
 男の酷薄かつ耳障りな哄笑が部屋に響く。少年はぎろりと男を睨んだ。その琥珀の瞳から、涙が滂沱の如く流れ落ちている。総身は震えていた。下手をすれば手に持っているナイフで男に襲い掛かりそうな気配だ。  
「何を怒っているのだ。君だろう? その男の息の根を止めたのは。何故私が睨まれなくてはならぬ?」  
「……ふざけるな……! 貴方だろう! 僕を唆して殺させたのはッ!! 何で、何で僕がこんな事をしなければならないんだッ!!」  
「二度も同じ事を言わせないで欲しいものだ。私は君の壊れた心を―――」  
「誰がそんな事を頼んだッ! ふざけるな! こんな人殺しをさせられるぐらいなら、いっそ死んだ方が―――」  
「では、死んでみるか」  
 男が異形の杖を少年の首筋に繰り出したのを、少年は見る事が出来なかった。それ程素早い手並みだった事もあるが、何よりもいきなりだった。少年としては絶句するしかない。  
 
「君が望むのなら、殺してやっても良いぞ。愛する姉の下に還れるのだ。本望だろう?」  
「あっ……!」  
 少年は、男の顔を直視した。男の酷薄な笑みの中に、強烈な殺気があった。思わず少年はへたり込んでしまう。それ程の迫力だった。男はすかさず、その杖を今度は眼に向ける。  
「おや、どうしたね? 死にたいんじゃなかったのか? そのままじっとしていろ。楽に死なせてやろう」  
 男の殺気が、更に強くなる。一種のオーラすら感じられる程に。最早少年は、動物的な恐怖しか感じる事が出来なくなった。訳も無く身体が震え、口からは歯の根が合わぬ様な、声にもならぬ声が出る。  
 そして、先程とは別物の涙が流れ、ズボンの周りは湿って行った。それに気付いた男は再び耳障りな哄笑をした。それと同時に、杖を収める。  
「怖かったかね? ふふふ……別に恥ずかしい事じゃあない。死ぬのは誰だって怖いからね……安心したまえ。殺しはしない。折角見つけて来たんだ。無駄にはせんよ」  
 少年は、応える事が出来ない。荒い息をつき、呆然とするだけだ。腰が抜けて立ち上がる事も出来ず、未だに止まらぬ『それ』の感覚に身を任せる他無かった。ズボンや湿った地面から、薄っすらと湯気が立ち込める。  
「―――死にたくないのだろう、ヨシュア・アストレイ?」  
 脱力した少年は、こくりと頷く。今更虚勢など張れる訳が無い。  
「ならば―――殺人の術を身につける事だ。一度は思っただろう? 自分に力があれば、姉を助ける事が出来た、と」  
「……」  
「レオンハルト……レーヴェも、殺人の術を学んでいる。彼はこう言ったよ。『俺は修羅になるが為に剣を振るう』と。彼の才能はずば抜けているな。これまでで見た事の無い剣の筋だった。鍛え上げれば、いずれあの『剣聖』にも劣らぬ技量を身につける事が出来るだろう」  
「……」  
「君も、力をつけたまえ。感情など忘れろ。力をつけるには、殺人の術を学ぶには邪魔な代物だ。私が、君に暗殺術の全てを教えてあげよう」  
「……」  
「心配は要らない。人を殺す事など直ぐに慣れる……慣れた頃には、何も悩まなくなっているものだ」  
 男の言葉は現実となった。男の命ずるままに人を殺して行く内に、少年の心の葛藤は消えて行った。やがて彼は本格的な暗殺任務に駆り出される。  
 いつしか彼は『盟主』に執行者―――『漆黒の牙』の称号を授かる程の暗殺者へと変貌を遂げていた。その琥珀の瞳には、既に光など微塵も残っていなかった。それはまさに、人を殺す為だけに生み出された人間兵器、人形、『化け物』そのものの姿であった。  
 
 そして、五年前。いつもの様に男は少年に暗殺任務を言い渡す。その相手は、『剣聖』カシウス・ブライト。百日戦役に於ける英雄にして、先日勃発したカルバード共和国の騒乱を解決した人物として、特にS級遊撃士に任ぜられた凄腕の男だ。  
 男は、少年ではカシウスに勝てない事を承知していた。本気で戦えば『剣帝』レオンハルトでも危ないだろう。それを敢えて押して派遣したのには、理由があった。  
 果たして、少年は敗れた。惨敗と言って良かった。少年はほうほうの体で逃げ出す。しかし、そこに男の放った追っ手が立ち塞がる。  
「く……『教授』の、差し金か……!」  
 吹き矢を持った男の一撃によって、少年の身体は言う事を聞かなくなっていた。吹き矢に、麻痺の毒が塗られていたのだ。立っている事も出来ず、そのまま倒れ込んでしまう。  
「……如何に『漆黒の牙』などと呼ばれていても、所詮は子供だな」  
 隊長らしき黒装束の男が、蔑む様に少年を見下す。  
「最早その傷では碌に動けまい? 大人しく狩られ、我等の血肉となれ」  
 男達は一斉に武器を構える。長剣に短剣、長刀、果ては鎖鎌。そのバラバラの得物が、彼等が暗殺集団である事を如実に現していた。  
「……っ! 勝手にするが良い……!!」  
 少年は死を覚悟していた。あの冷酷無残な『教授』が自分を許す訳は無い。何よりも、自分はカシウスに顔を見られたのである。当然、後始末として殺されるのはわかり切っていた。  
 嘗てあの男に迫られた時、自分は恐怖の余り我を忘れてしまった。だが、今は不思議と静かな気持ちだった。まるで、心の奥底で『それ』を望んでいたかの様に。  
「……やれやれ。坊主。お前さん、ちょいと諦めが良過ぎやしないか?」  
 
 不意に響いた声に、少年ははっとする。暗殺者達も動揺を隠せない。辺りを急いで見渡した。  
「誰だ貴様! 何処だ! 何処に居……」  
 最後まで言い終わる事は出来なかった。眼前に、恐るべき旋風がやって来たからである。  
 男はその旋風から長大な棒が自ら目掛けて襲い掛かるのを見たのを最後に、昏倒した。次々と、暗殺者達が旋風の攻撃に倒れ伏す。隊長の男だけ、辛うじてその凄絶な攻撃から転がる様に逃れた。  
「ほう……『太極輪』の一撃をかわすとはな」  
 いつか旋風は止み、その男の姿が露になる。隊長は思わず仰け反り、少年は驚愕の余り身動きも出来なかった。  
「か、カシウス・ブライト! 何故貴様が此処に!?」  
「ネズミが騒ぐ気配がしたんでね。様子を見に来たらこれだ。お前達だな? 俺の事をしつこく嗅ぎ回っていた連中は」  
「お、おのれ……! カシウス、覚悟!!」  
 男は長剣を構え、一気に飛び掛かるが、その一撃は届かなかった。カシウスの強烈な一撃が手首を強打し、長剣を吹っ飛ばしてしまったのだ。手首の痛みに呻く男の右腕を、彼の一撃は容赦無くへし折る。  
「ぐああああああッ!!」  
 男の絶叫が闇夜を切り裂く。男は激痛にのた打ち回り、少年はただただ呆然とその光景を見つめていた。  
「未熟な連中だな。退くべき時は退くのが本当の兵と言うものだ。もし俺が相手でなければ、お前達は今頃烏の餌になっている所だぞ。飼い主に逃げ方を教わらなかったのか?」  
 カシウスの言葉も、男には聞こえていない。否、本当は聞こえている。只、その屈辱的な話に応えたくないだけだ。  
「飼い主に伝えるが良い。この坊主の身柄は、俺が預からせて貰う。こいつに手を出したら、俺が貴様等の相手をする。その辺の所を良く心得ておけ、とな」  
 
 その言葉に、今度こそ少年と男の眼が見開かれる。  
「馬鹿な! 何で、そんな事……!」  
 叫びかけて、少年は激痛に顔を歪めた。カシウスとの戦いで負った傷が痛む。  
「馬鹿。怪我人が騒ぐな。傷が酷くなるだろうが」  
 カシウスの眼差しは優しいものだ。それはまるで、実の子に対して注ぐ様な眼差し。それでいて、悪戯を見つけられた少年の様な顔。  
「……ふっ、ふふふ……こ、後悔する事になるぞ、カシウス・ブライト……! この子供は暗殺の為に生まれ落ちた者と聞く。いずれ貴様の寝首を掻く事になるぞ」  
「構わんさ。もしそれで死ぬんなら、俺はその程度の男だったってだけの話だ」  
 カシウスの表情がすっと変わる。それは、少年ですらぞっとする、恐るべき鬼気。戦えば瞬時に皆殺しにされる。そう錯覚してしまう程の殺気だった。  
「今すぐ俺の前から消えろ。其処に転がっている連中を連れてな。二度は言わんぞ」  
 カシウスの気迫に押され、隊長は部下を叩き起こし、ほうほうの体で逃げ出した。少年はそれを見届けた後、意識を失った。彼はふっと息をつき、少年を勢い良く背負う。  
「さぁて、エステルの奴は何て言うのかな……あの耳年増に変な事吹き込まれてるみたいだから、隠し子とか何とか言われそうだな。はぁ」  
 カシウスは溜め息をつく。しかし、その表情は何処か晴れやかだ。  
「よぉし、坊主。俺の家に連れてってやるから、暫く我慢しろよ」  
 カシウスは足取りも軽く家路につく。それはまるで、遊び疲れた子供を背負って家に帰る父親の様だった。  
 
「……そうか。彼はカシウスの下に……」  
「は、はい……ワイスマン様。私はレオンハルト様をお呼びして、今すぐあの男の家に夜討ちを掛け、あの子供諸共に抹殺すべきかと存じ……」  
「その必要は無い」  
「は?」  
「必要無いと言ったのだよ。私にも考えがあるのだ。強襲の必要は無い」  
 ワイスマンは、皮肉混じりの笑みを浮かべた。それを見て黒装束の男はぞっとする。処分されると思ったからだ。  
「本来は君達も処分せねばならぬが……ヨシュア・アストレイと違って顔は見られていない。それに相手が悪すぎた。だから今度だけは特別に不問としておこう。退って宜しい」  
「は、ははっ!!」  
 男達は足早に立ち去った。ワイスマンの気が変わらぬ内に。  
「……ふふふ、そうか。彼がカシウスの下に……ふふふ……」  
 ワイスマンは、ずれた眼鏡を上げ直し、呟く様に言った。  
「全て、計画通り」  
 
 それから、五年。ヨシュア・ブライトと名を変えた少年は、嘗て生命を狙ったカシウスの養子になり、義理の妹(彼女の方は自分が姉と言い張ったが)のエステルと共に三人で幸せな生活をした。あの忌まわしき事件以来、一度たりとも味わった事の無い、温かい生活。  
「だが……」  
 男は冷たく嘲笑う。  
「それは全て、私が仕組んだ『夢』に過ぎぬ」  
 ワイスマンは、持っていた本をパラパラと捲った。『輝く環』に関する記述を通り過ぎた後にあったのは、延々と続く事務的な文書。報告の体裁を取った文章だった。  
 
「七耀暦一一九七年八月十日 教授殿に報告する。傷は既に完治した。カシウス・ブライトには一人の娘と、亡き妻が居る。娘の名はエステル・ブライト、妻の名はレナ・ブライト。妻についてカシウスは多くを語らないが、どうやら百日戦役の時に生命を落としたらしい」  
「娘はカシウスの真似をして棒術の訓練を行っている。自分から見て、筋はかなりのものと思われる。しかし、今は未熟である。また、遊撃士になりたいと言う志望があるので、遊撃士協会への接触、内偵は容易なものと思われる」  
「カシウスは奔放な所がありながら、思慮深くもあり、そして恐ろしく慎重な一面も持ち合わせている。それ故、自分が其方と連絡を取っているのを感付かれる恐れは多分にある事を警告する」  
「但し、今の所は事を荒立てる様子も無い。恐らくは気付いていないだろう。引き続き、カシウスに気取られぬ様慎重に潜伏を続ける。報告者 ヨシュア・アストレイ」  
 
 文章を読み上げ、再び男は嘲笑った。  
「……まさか、自分がこんな報告を私に寄せているとは、思いもしないのだろうな」  
 ワイスマンの笑みは二重の意味で酷薄だった。少年が養い親と妹を裏切っていると言う事。そして、その事実に本人が全く気付いていないと言う事。そうなる様、この男はカシウス襲撃前に入念な暗示を掛けておいたのである。  
 自分が解除しない限り、決して解ける事の無い残酷な暗示。例え兄同然の存在である青年が目の前に来ても、自分と言う存在が目の前に来ても、決して自分達の事を思い出さぬ様にする。  
 つまり、男がその気にならぬ限り、永久に彼はカシウス達の情報その他を『結社』に売り続ける事になるのだ。こんなふざけた話は無かった。  
「感謝するが良い、ヨシュア・アストレイ。君にとってこの『夢』は過分のものなのだよ? 君の様な『化け物』が人がましく生活出来るだけでも素晴らしい『夢』だ。あまつさえ、愛する娘を得たと言う事は、ね」  
 彼は再び写真を見る。その写真を見て、考え込んだ表情になる。  
「……好きになった相手が、よりによってエステル・ブライトだったのは少し残念だがね。他の娘なら、その娘を殺す事によって絶望感を煽る事が出来たのだが、カシウスの娘では自重せざるを得まい。それが残念だ……」  
 
 懐を探り、彼はライターを取り出し、それに火をつける。  
「―――まぁ、結局は同じ事だがね」  
 燃えて行く、家族の写真。燃えて行く、少年の笑顔。それを見て、ワイスマンは一種恍惚とした表情になった。  
「むしろ、此方の方が良いのかも知れないな。五年間家族として過ごして、その上想い人にまでなった娘。その娘を無意識にとは言え裏切っていたと知ったら、彼はさぞ絶望し、自分を許せなくなるだろう。その時どんな顔をするのだろうかねェ……」  
 自分が告げる、残酷な真実。そこから生じる、少年の深い悔恨。自分は結局『結社』から解放などされていなかったのだと言う、絶望の表情。その情景を想像し、男の恍惚は頂点に達した。自然、不気味な笑い声が聞こえる。  
 男は、再びあの写真を取り出す。そう、嘗て『化け物』だった時の彼の写真。そして再び、不気味に笑った。その様は、殆ど病気と言って良い。偽りの幸せを与えて、そこからどん底に突き落とす事を快楽と感ずる行為。それを病気と言わずして、何を病気と言うのだろうか。  
 
「……さて、ボースの街が近い。そろそろ戻らないと行かんな」  
 そう呟いてから程無く、ボースの街が見えて来た。男は『ワイスマン』から『アルバ教授』へとスイッチを切り替える。人畜無害で、少し抜けた、何処にでも居そうな、それでいてちょっと奇妙な学者。それが、彼の表向きの顔。  
 にこにこと微笑を浮かべ、ボースの街に入って行く。これを見る誰が、彼と冷酷な狂人『ワイスマン』とが同一人物である事を想起するだろうか。したたかなものだった。  
(今は精々、『夢』を見続けるが良い)  
 地図で琥珀の塔の場所を確認しながら、『ワイスマン』は心の中で呟いた。  
(しかし、『夢』からはいずれ覚めなければならない。残酷な現実を、直視せねばならない)  
 一瞬、その表情が『アルバ教授』のそれから『ワイスマン』のそれに変わる。見る人をぞっとさせる不気味な表情。  
(そして、君は思い知る事になる……)  
 再び『アルバ教授』に戻ろうとするワイスマン。しかし、その冷酷な瞳だけは変わっていなかった。口の端も、邪悪な微笑に歪んでいる。  
(君の様な『化け物』が幸せになる事は、あり得ないのだと言う事を、ね)  
 男は、眼鏡を調え直す。そのレンズの向こうにある瞳は、依然として病人のままだった。  
 

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