どこからか、声が聞こえる。私を呼ぶ声が。  
「…ル、エステル、さあ、目を開けてごらん?」  
 目を開けると、一瞬ここがどこだか判らなかった。遠くに聞こえるオーバルエンジンの駆動音。風鳴りの音。ああ、飛空挺か何かの中だ、と思ったけど、それきりだった。  
 先刻の声が、別の誰かと話している。正面に誰か立っているんだ。目は開いているのに、何も見えない。椅子に座っている私を取り囲んで、何人か人の立っている気配はするけれど、首を回して確認することもできない。  
頭が重い。ぼーっとして、何も考えられない。  
「…ええ。エステル・ブライト。あのカシウスのひとり娘にして、クーデターの一件の立役者。そして、“漆黒の牙”ヨシュア・アストレイのハートを射止めたシンデレラガールでもあります」  
この声には聞き覚えがある。教授、確かそう名乗ったような気がする。いつ、どこで出会った、どんな人なのかも思い出せないまま、「教授」の声だけが、心の底まで響いてくる。  
教授の口調がかわって、深い深い、でもかすかに厭味のこもった響きを帯びる。  
「そろそろ白馬の王子様とやらの登場かな…とはいえ、エステルを執行者に仕立てるには十分な時間だろう。無論、エステル次第だが…。「闇」を持たざる者は執行者に非ず、ってね…さあエステル、もし心に闇を持つなら、全て吐き出してしまうがいい。クックック…」  
ぱちん。  
指を鳴らす音が響いた。  
 
エステルの告白は、初めのうちあまり要領を得なかった。とりとめもないような話が、時間軸を往ったり来たりしながら続くので、ギャラリーは一人減り、二人減りして、いつの間にか室内はワイスマンとエステルの二人だけになっていた。  
「せっかちな事で…」ワイスマンが肩をすくめる。  
性格上、鬱屈を長々と溜め込まないタイプなんだろうが、確かにやりにくい。  
うつろに眼を見開いて椅子に腰掛けたままのエステルを見やって、にやりとする。眼だけは全然笑っていなかったが。  
「だが、手応えを感じるがね?大物が釣れそうな手応えを…ね」  
立てた人差し指を釣竿に見立てて、ピン、と釣り上げるような仕草をする。  
「そう思わないかね、エステル?世間話の中にもヒントはあるものだ。例えば…キーワードは『クローネ山道』。どうかね?」  
「…」  
エステルが、落ち着かなく身じろぎした。  
…?恥ずかしいのか?…ああ、ヨシュア絡みか。年端も行かぬ小娘の「闇」なぞ、その程度か?…いや…。  
他人ののろけ話を聞くのは、ワイスマンにとって苦痛の極みだが、しかしその先に必ず目指すモノが待っているという確信があった。  
「さあ、話してごらん…どんな茶番にだって付き合おうじゃないか…。」  
ちくり、とどこかが痛んだように、エステルが泣きそうな顔をした。胸に棘が刺さったような、小さな小さな痛みが、いつまでも離れなかった。  
 
クローネ山道の出来事を思い出すと、まだ少し混乱する。  
その後まもなくクーデター事件に巻き込まれちゃったんで遠い昔の事のような気もするけど、思い出にするにはまだ生々しすぎて。  
それでも、やっぱりあの頃は青かったかも。アーツも薬も使い果たすなんて初歩的ミス、やっちゃうんだもん…。  
 
「…丈夫、エステル、大丈夫!?」  
気がついたときには、ヨシュアが私を抱きかかえ、大きな声で私を呼んでいた。  
あ…れ?  
一瞬戸惑ったけど、すぐに状況が飲み込めた。あたし、崖から落ちたんだ。こんな山奥で薬もアーツも使い果たしちゃって、ちょっと焦ってたところに、魔獣の不意打ちにあって、それで…。  
辺りを見回すと、木陰になっていてちょっと薄暗く、道らしいものはまるっきり見えない。  
だいぶ道を外れちゃったのか、と思ってふっと上を見上げたら、木々の隙間から見覚えのある柵が覗いた。そこから下に向かって、何かが転がったような跡が続いていた。  
途中に、ヨシュアのウエストポーチが引っ掛かっている。  
…本当にあんなところから落ちちゃったんだ、と思って心底ぞっとした。  
よく見れば、ヨシュアは血と泥と落葉にまみれて、すごい有様だ。それでいて、そんなこと意に介さない風で私の肩を抱いて…え…抱いてっ!?  
急に、ヨシュアの腕の中だったのに気付いて、慌てて飛び退…こうとして、出来なかった。左足が痛む。ずきずきとした鈍痛に力が入らない。  
見たら、スパッツがさっくり裂けて、向こう脛の辺り全体がヘンな色になっている。むきだしの膝頭に、大きく魔獣の爪跡が残っていて、どろりと赤黒い血がにじみ続けていた。  
「ごめん、エステル、ごめん…」  
ヨシュアが消え入りそうな声で呟いた。  
「何よそれ」  
「その…守りきれなくって…」  
「私こそごめん…ヨシュア、怪我はない?」  
「ん。かすり傷だけ。エステル、立てる?」  
ヨシュアがあんまり心配そうにするから、空元気だけでも出さなくちゃ。…と思ったけど、やっぱり駄目だ。立つまでは何とかなったけど、歩くに歩けない。  
…困った。回復薬が何もないのが恨めしい。頼みのアーツも打ち止めだし。  
「…ん…ちょっと休めばアーツで治せるけど…」  
「とりあえず止血しなきゃ…エステル、足出して」  
言われるまま、スパッツをするりと脱いで生足をさらす。気恥ずかしくなって、ぽろりと減らず口が口をついて出た。  
「ちょ、っ…いいよ、こんなの舐めときゃ治るって」  
「…」  
不意に、ヨシュアが視界から消えた。見下ろすと、足元にヨシュアがうずくまっている。どうしちゃったのよ、とかがみ込もうとして、ヨシュアに止められた。  
「動かないで」  
反射的に身体が硬直するのが早いか、膝頭にぬるりとしたものが触れた。ぞくぞくとした感じが背中から首筋へと駆けのぼった。  
ヨシュアが、傷口を舐めている。片膝をついて、私の脚を抱きかかえるように、丁寧に泥と血を舐めとってくれていたのだ。  
 
駄目だったら。ヨシュアを押しのけようとして、彼の両肩に手を置いたものの、あまりの心地よさに手が止まる。  
ヨシュアが傷口に舌を這わせるたび、鈍痛が嘘のようにひいて行く。  
そのとき…。  
そのとき、それだけじゃない何かを確実に感じた…ような気がした。  
その感覚は、確かめようとするとするりと逃げていくようで、なんだか落ち着かない感じがして…。  
私は、どうしていいのかよくわからなくて、ただヨシュアの肩につかまったまま、立ちつくしていた。  
ヨシュアの舌遣いが、わずかに熱を帯びてきた。押し殺した呼吸が、不規則に聞こえてくる。  
どきどきする。何だか、そのどきどきも、気持ち良くて。  
あれ。どうしよう。立っていられない。  
「…っ、ふ…」  
吐息が漏れた。思わず、ぎゅっとこぶしを握ると、ヨシュアが顔を上げた。  
「大丈夫…痛むの?」  
呪縛がとけた。膝が痛むのにもかまわず、座り込んでしまう。ほっとしたら、無性に腹が立ってきた。今のは何?私、どうしちゃったんだろう。  
心配そうに見つめるヨシュアと、思い切り目が合ってしまった。  
こころもち赤くなったヨシュアが、かすかに潤んだような瞳をしているところに、急接近。急に恥ずかしくなってきた。  
あうー、自分でも顔が赤くなっていくのがわかる。  
「だっ、大丈夫だったら!」  
ぷい、と横を向いた拍子に、何か赤い物が視界をかすめた。…え?  
「…血!ヨシュア、こんなに怪我して!」  
「あ…はは」  
泥がついてよく見えてなかったけど、右肩のちょっと下、二の腕の辺りがぱっくりと裂けて、血が出ている。  
私の膝の傷と違って、こちらは鮮血だ。まだ溢れ出してくる。  
「大事なエステルに怪我させちゃって、天罰でも下ったかな」  
ヨシュアは、こともなげに小さく笑う。  
「なに馬鹿なこと言ってんだか…ほら、見せてみて?」  
「いいよ、こんなの…舐めときゃ治るよ」  
…ふふーん。語るにおちたわね。血の止まらない腕を掴んで軽く引くと、手の中でヨシュアがびくんと跳ねた。バランスを崩して、私のほうに倒れこむ。  
「い゛っ!!」  
「おはえひ(お返し)」  
傷口に舌を伸ばす。れろ、と味見するようにひと舐めすると、泥と、血と、ヨシュアの汗の味がした。  
ヨシュアが息を飲む。  
とりあえず外側から、泥を落としていこう。口の中に唾をためて、ちゅくちゅくっと音を立てながら吸い上げる。  
「…!」  
ヨシュアの戸惑いが、唇越しにでもわかる。  
ふんだ。私だってさっきはすっごく困っちゃったんだから。ヨシュアも少し困ればいーのよ。  
 
息を殺し、小さく肩を震わせ、何かを堪えているような感じのヨシュア。  
傷口の周りが少し綺麗になったところで、戦法を変えてみよっかな。  
さっきヨシュアがしてくれたみたいに、いっぱいまで舌を伸ばして、舌の腹でやさしく傷口に触れてみる。  
仕返し半分だけど、もう半分でヨシュアの痛みが少しでも癒えるように、精一杯思いを込めて。  
「…っ…」  
ヨシュアが何か言いたげな眼で私を見て、それからうろうろと視線を宙に泳がせて、やがてうつむいた。  
また「ごめん」って言ったら、噛み付いてやろうと思ったけど、無言だった。ただ、乱れがちの呼吸が、かすかに聞こえるばかりだった。  
…それにしてもちょっと息苦しいかも。口で息をすると傷口にしみちゃいそうなので、鼻で息をしてるんだけど、酸素が追いつかなくて呼吸が不規則になる。  
そういえばヨシュアもさっきは苦しそうだったなぁ、なんて考える。うっすら汗がにじんできて、ほつれた髪がはりついてくる。ちらりとヨシュアを盗み見ながら、髪をかき上げた。  
「…ぅぁ…」  
角度が変わったら、ヨシュアが辛そうに声を漏らした。やばっ、痛かった?  
「ごっ、ごめん!やりすぎた?」  
「…やりすぎって…あのね」  
「次は傷口に触らないようにするわね」  
「!!…いや、その、もう大丈夫だから」  
ヨシュアが、前かがみになろうとする私の両肩をつかんで押しとどめた。  
「もう大丈夫っていうか、むしろもう限界っていうか…とにかく、その、動かしても大丈夫そうになったんで、行こう」  
ヨシュアの動揺っぷりが可笑しくて、ささやかな復讐心はすっかり満足してしまった。おかげで「限界って何よ」って聞きそびれた。  
「行くって言ったって、足が…」  
「こうするの」  
いきなりお姫様抱っこされた。  
「こんなところで血の匂いをさせていたら、今度こそ魔獣の餌食だよ?」  
「だって…」  
何が「だって」なのか、自分でもよくわからない。いまだ治まらない胸のどきどきを悟られないか、それだけが気になって、上の空だ。  
「はいはい、少しは義弟を頼んなさいね。それよりエステル、斜面を登るときは両手使うんで、自力でぶら下がっててよ」  
いつの間にかヨシュアの口調が遊撃士の仕事をしている時みたいになっちゃったんで、私も「仕事モード」のスイッチが入ってしまって、それきりになってしまった。  
 
結局、元の場所に戻ったときには日も傾き始めていたし、ヨシュアの見立てでは、私の足の傷だと、今晩あたり熱が出るんじゃないかっていう事で、もと来た道を戻って、クローネ峠の関所で休ませてもらうことにした。  
関所の回復装置を使わせてもらい、あらためて気力も体力も充実する。これでまずは一安心。ちょうど軍医さんが巡回して来ていたので、骨に異常がないのも確認してもらった。飲み薬も1錠だけ譲ってもらった。  
 
 
案の定、ヨシュアの読みが当たって、夜には微熱が出た。飲み薬は抗生物質だから、熱は下がらないらしい。  
微熱だからいいって言い張ったんだけど、結局ヨシュアに冷たいタオルを乗せられてしまった。  
「…むー」  
「むくれないでよ…桃の缶詰でも食べる?」  
「…情けないなぁ、私」  
冗談も返せないくらい落ち込んで、布団にもぐり込む。  
「いくら準遊撃士になって日が浅いって言っても、ここまで傷に免疫ないなんてさ」  
「免疫付くまで怪我してたらたまんないよ…エステル、女の子なのに」  
「でも似たような怪我してるのにヨシュアは熱出ないんだもん」  
「僕は慣れてるからね」  
不意に、ヨシュアの周りの空気が固まった。ヨシュアがうっかり、昔のことに触れそうになったからだろう。恐る恐る私のほうを伺うヨシュア。  
訊かないわよ。寝たふり寝たふり。ヨシュアの気配を近くに感じながら、寝たふりがいつの間にか本当に眠ってしまった。  
 
誰かの冷たい手が、優しくおでこをなでたような気がして、眼が覚めた。少しだけ開けた窓から、気持ちいい風が入ってきていた。  
窓にかかっているカーテンがゆれて、一瞬ガラスに部屋全体が映って見えた。  
その中に、ヨシュアを見たような気がして、あれっと思って首を回してみると、やはりベッドにいない。呼ぼうかと思ったけど、見間違いで寝てるだけだったら悪いんで、眼だけでガラスの中を追った。  
ヨシュアは、ここからじゃ見えない、隣のベッドの向こう側に背中を預けて座っているらしかった。  
ああ、起きてたんだ。言おうとした唇が凍り付いた。  
ヨシュアが自分の…を握っている。そのぅ…おちんちん、を。  
包帯を巻いた右腕が、小さく上下に動いている。乱れた呼吸に混じって、かすかに衣擦れの音がする。  
どうしよう。まずいものを見てしまった、と思ってももう遅い。目も耳も、ヨシュアの一挙一動に釘付けだ。  
「…ふっ、く…」  
時折漏らすヨシュアの声にまぎれて、少しだけ頭をおこして、ガラスに映るヨシュアと、ベッドの端からはみ出た、ヨシュアの頭がどちらも見える位置に収まった。  
気付かれなくてほっとするのが半分、いつもなら私が夜中に目を覚ましただけでも気付く、あの勘の鋭いヨシュアが、私の起きた気配にも気付かないなんて、ってショックを受けたのが半分。  
吐息に混じって、ヨシュアの囁くような声。  
「…どうすれば…俺…っ…」  
…前言撤回。ショックの割合は8割かも。  
ヨシュアは自分のことを「僕」って呼ぶ。ヨシュアがうちの子になって以来、変わっていない。  
ヨシュアが「俺」を使うところなんて、寝言でも聞いたことはない。  
…。  
一瞬、ここにいるヨシュアが別人に見えて、思わずガラスの中とベッドの向こうを見比べた。  
ガラスの中のヨシュアのほうが本物で、冷たいガラスの檻に閉じ込められて、そこから出して欲しくて助けを求めているような、そんな錯覚に襲われた。  
 
ベッドの向こうのヨシュアが、いやいやをする子供のように、力なく頭を振った。  
「…っ…ぅ…」  
嗚咽のようなヨシュアの呻きを聞きながら、気付かれないように布団にもぐり直した。ヨシュアの方に背を向けて、丸くなる。  
ちょっと混乱している。  
本来なら決して覗いてはいけない物を見ている背徳感と、普段のヨシュアからは想像もつかないような「男」のヨシュア。頭がくらくらする。  
きっとヨシュアは辛い恋をしている。直感的にそう思った。  
ストレートに告白できない事情があって、でも思いを止めることなんて出来る筈もなく、わき上がる激情に流されて、眠れない夜を過ごしているのだ。  
「…エステル…エステル…っ」  
ヨシュアが私の名を呼ぶ。一瞬だけぎくりとして、そのあと胸がきゅーっと苦しくなった。  
息を殺して、右手をパジャマの下にすべらせてみる。  
…何であんなことをしたのか、今でもわからない。あのときはただ、もう夢中だった。こうすれば少しはヨシュアの気持ちがわかるかもしれない、と思った。  
ショーツの上を掌で撫ぜる。中指が中央の割れ目を探りあて、そこに沿って上下に動く。  
全身が粟立つ。指を止め、しばらくじっとして、ぞくぞくとわき上がるものを噛みしめる。  
昼間、崖の下での事を思い出す。ヨシュアに傷口を舐めてもらった時の、あの掴めそうで掴めないもどかしさを。  
ああ…あの時と同じだ…。  
再び動き始めた右手を、意を決してもっと中へ。ショーツの中は、驚くほど汗ばんでいて、驚くほど熱を帯びていた。  
…と。  
「エステル…っ」  
 切れ切れのヨシュアの声が鮮烈に耳に蘇って、びくっとした。はずみで指が跳ね上がり、一番デリケートなところをかすめてしまった。  
「!!」  
電気が走ったような、初めての感覚の中で、突然理解してしまった。  
今、私が抱いている、ヨシュアへの気持ちが何なのかも。  
ヨシュアの恋の相手が私だって事も。  
昼間あの時のヨシュアの事も、…私のあの時感じたものも。  
おずおずと再び指を這わせると、最初に感じた電気が走ったみたいな感覚は、甘い疼きに変わって爪先にまで染み透っていく。  
それでいて、頭のどこかはいつも以上に冴えわたっていて、ヨシュアを鮮明に描き出す。  
崖の下、私の脚にいとおしげに唇を寄せるヨシュア。私が傷口を舐めている間中、何かを堪えるようだった、辛そうなヨシュア。私を呼びながら、己をしごき上げるヨシュア。  
ドミノが倒れるように次々といろんな物が繋がってゆく。それにともなって、指の動きも少しずつ早くなる。指先に絡みつく、とろりとした液体の感覚が、さらに拍車をかける。  
私、感じてるんだ…。ヨシュアが私のことを想いながら自分を慰めてたように、私、ヨシュアのことを考えながらこんな事してる。  
出来ることならヨシュアと結ばれたいと思いながら。  
この指がヨシュアの指であったならと思いながら。  
腰が浮く。膝が震えている。思わずヨシュアの名を呼びそうになるのを、反対の手の甲を噛んでやり過ごした。そんな痛みさえも、甘く甘く痺れてキモチよさに変わっていくようで、ああ、もう止められない…。  
指の動きは激しさを増し、狙った場所を単調に、でも確実に擦りあげている。艶っぽい溜息が漏れる。少し離れた場所に、ヨシュアの気配を感じる。ヨシュアが傍にいる。  
切ない。  
こんなに近くにいるのに、ヨシュアに届かない。  
こんなにもヨシュアが欲しいのに、ヨシュアに触れる事さえ叶わない。  
「やだ…こんなのってやだ…」  
声が出てしまったのか、そう唇が動いただけなのかさえもう判らない。  
涙がにじむ。  
きゅーっと何かがこみ上げてきて、指先が擦り続けた突起を起点に、ぱぁっと熱い痺れが全身に広がってきて、自分の意思で動かしたことのない場所の筋肉が勝手にびくびくっと痙攣して、あっと思った次の瞬間、真っ白になって何もわからなくなってしまった。  
やっとの思いでショーツから右手を引っ張り出し、涙と、涎と、恥ずかしい液体とでぐちゃぐちゃになりながら、そのまま眠りについた。  
もっとぐちゃぐちゃだったのは、心のほうだった。  
 
 
「……」  
ワイスマンの眼が妖しい光を放つ。しんとした室内に、エステルのすすり泣きだけが続く。ブラインドの隙間から、柔らかな陽光が縞模様の影をエステルの足許に落とす。  
うつむいたままのエステル。  
涙が、あとからあとからあふれ続ける。  
ワイスマンが、エステルの頭に手を置いた。子供を諭すように、ぼんぽんとやさしく叩く。  
「さてと、エステル。君の話は聞かせてもらったよ。…ヨシュアのことを愛してしまったんだね。」  
ためらいがちに、小さな頭が頷いた。  
「ひとつ訊いてもいいかい?どうして彼に告白することができなかったのかな?ひょっとして彼から言い出してくれるのを待っているのかね?」  
答えが「NO」であることは分かりきっている。しかし、自分の口から言わせなければ「闇」は見えない。ワイスマンの口調はおどけているようにも聞こえるが、それでいて有無を言わせない響きを含んでいた。  
エステルがまた泣いた。わずかに間をおいて、かすれた声でつぶやいた。  
「ヨシュアは絶対に自分から告白したりしない。本当に姉弟だとか思ってる訳じゃないだろうけど…父さんに遠慮とかしてるんだと…思う…。  
でもっ…でもね…私からなんてとても言えない…。姉弟でいれば、いつまでも家族でいられるけど、告白しても…きっと恋人同士にはなれないもの…。」  
 
告白しても…きっと恋人同士にはなれないもの…。  
そこまで言ったとき、何かとても嫌な感じがした。予防注射の列がついっと動いた時のような、本能的に逃げたくなったのに逃げられないような感じ。  
駄目。ここから先は駄目なのに。この先には、この十年開けたことのない扉があって、「決して思い出してはいけないこと」が入っているのだ。  
教授が身を乗り出して、私の顔を覗き込んだ、口許にイヤな感じの笑みが貼り付いている。  
「『どうして?』…彼はあんなにも君の事を想っているじゃないか」  
教授の眼に射すくめられて、こころの中の最後の扉に手がかかる。見えない何かに後押しされて、唇がひとりでに言葉を紡ぐ。…あ…。  
 
「…あたしは母さんを死なせてしまった『悪い子』だから…ひとりだけ…幸せになる資格なんてないから…」  
 
ずっと胸につかえてたものが、ちょっとだけ動いた。もう涙は出なかった。一生分使い切って、もう涙なんて涸れ果てたかも知れない、そう思った。  
「クッ…ククク…ほぅ、母親をねぇ…。それは驚いた。レナ・ブライトの死に関しては報告が入っていたが、これは掘り出しものだ。」  
ワイスマンが喉の奥で笑う。その右手が、宙を揉みしだくように握ったり開いたりを繰り返している。  
「…掴んだ、掴みましたよエステル。貴女の闇は小さいながら心地いい。これで貴女をばらばらにするのも組み直すのも思いのままだ…。」  
教授が愉しそうに笑った。難解なクロスワードパズルを解ききったような、征服感に満ちた笑いのような気がした。  
そんな辺りの様子を他人事のように感じながら、心がきしみ悲鳴を上げ始めていた。  
思い出してしまう。大切な人を死なせてしまった、自分の浅はかさを。  
掌を優しく包んでくれた母のぬくもりがだんだん消えていく、その痛みを。  
助けを求めて、誰かの名を呼ぼうとして、その名を持たないことに気がついた。  
父さんを呼んではいけない。これはきっと、父さんから母さんを奪った罰で、それを今まで眼をそらし続けた罰なのだから。  
ヨシュアを呼んではいけない。彼の名を呼んだら、それだけでヨシュアが穢れて、彼まで闇に食われてしまいそうだから。  
もう駄目だ。現実感が音を立てて崩れ落ちていく。あとには底なしの闇が広がるばかり。  
その闇に、少しずつ少しずつ、こころが食われていくのを感じる。  
ふと、懐かしい少年の影が見えたような気がして、闇のその先に向かってぎこちなく微笑みかける。  
「ヨシュア」  
ごめんね。罪悪感に追い立てられて、身も心も闇に侵食されてしまった、こんな私だけど。  
夢の中だけなら、いいよね。想うだけなら、いいよね。声に出さないように、ヨシュアを穢してしまわないように、胸の中でヨシュアに呼びかけた。  
それを最後に、意識が闇の中に溶けていった…。   (完)  
 

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