クロスベル市長選挙より、数週間後のある日。  
 
「はぁ。」  
 
特務支援課ビル一階のテーブルに、彼女は腰掛けていた。  
眼前に並べられた支援要請の案件を一枚一枚確認し、全部に目を通すと、再びため息をもらす。  
 
「確かに大きな問題があるわけではないみたいだけど…。」  
 
エリィ・マグダエルは憂鬱な朝を迎えていた。  
原因は、臨時でリーダーを任されたことでも、案件の枚数の多さでもない。  
そっと髪をかきあげ、耳に手を触れる。そこにはセピスの深い輝きがあった。  
選挙が終わる頃に、彼がエリィの部屋を訪ねてきて、一そろいのイヤリングを手渡した。  
常に身につけておいてほしい、という言葉と共に。  
デザインはシンプルながらも、おちついた時属性の黒が、エリィのまだ可憐さの残る表情に  
女性としての美しさを気付かせる。  
突然のプレゼントに、動揺しながらも頬を赤らめ、素直な反応をかえしてしまう彼女に対し、相手の行動は淡白なものだった。  
 
(――あんな夜に訪ねてきておいて、渡すもの渡したらそれまでってのは、さすがにどうなの?ロイド。)  
 
件の夜以来、二人にはいまだ進展が見えない。  
事後処理の多忙な日々をおくるにつれ、だんだんと気恥ずかしさが浮き出てきたのか、あの時の出来事も風化しつつあった。  
だがそれは、はたから見れば二人のはがゆい距離を演出しており、周囲をおおいにやきもきさせる原因にもなっている。  
当然そのことに本人たちは気付くはずもなく。  
そんな中、特務支援課のリーダーにしてもう一人の当事者、ロイド・バニングスは、一人だけ早く朝食を終えたあと、支援課を留守にしていた。  
 
「あーあ。ほんとなんで私、あんな人のこと…」  
 
三度目のため息をもらし、エリィは頭を抱えた。  
 
***  
 
「本当に助かっちゃったわあ。ロイド君によろしくね。」  
「はい。お役に立てて良かったです。また何かありましたらいつでもお気軽に。」  
「失礼します。」  
 
西通りのアパルトメントにて、大量に山積みにされた新刊書籍との格闘を終え、エリィ、ティオ、ランディの三人は、玄関まで見送りにきたレイテと挨拶をかわし、帰路についた。  
 
「っかあぁー!しっかしとんでもない量だったな。部屋の半分が本でうまってたぜ。」  
「腰が痛いです…。」  
「二人ともありがとう。一番重そうな案件だったから最初に片付けたかったの。」  
 
首をならし、腰をさすりながら、三人は報告を済ますべく、支援課へと足を運ぶ。  
 
「こりゃあの弟貴族が帰ってきたら、うんと嫌味をいってやんねえとな。」  
「そうですね…共和国議員との会談、ガイさんに関する情報を含めたものだそうですから、仕方ないですけど。」  
「んー。そうだな。」  
「…でも、いくのは構いませんが、せめて朝食は一緒にとってほしかったです。」  
「お、なんだティオすけ。あいつと一緒じゃなかったからすねてるのか?」  
「ちがいます。ミーティングくらいはリーダーこみでやるべきだと…。キーアも寂しがってましたし。」  
「はっはっは!まあ今日の当番はティオすけだったしな。そこんとこの感想も欲しいところだよなあ。」  
「…!?」  
 
振りかざした魔導杖をひらひらとかわしながら、ランディがけらけらと笑う。  
エリィはその光景に、ひと仕事を終えた充足感と、静かな安堵感、そしてどこか、かすかな虚しさを感じていた。  
彼がここまで心を掻き乱されるほど大きな存在になっていたことに、驚きを隠せなかった。  
 
「お嬢?大丈夫か。」  
「…エリィさん…?」  
 
いつのまにか二人がエリィの顔をまじまじと見つめている。  
 
「あ、ううん。大丈夫よ。重いものは率先してランディが持ってくれたし、私も体力はついてきたみたい。あまり疲れは感じないわ。」  
 
微笑むエリィに、ランディはおう、と返す。  
 
「ああいう仕事は野郎の本分だからな。ところで残りはどうするよ。もう日はかなり高いみたいだが。」  
「そうね、時間も時間だし、報告もかねて昼食を済ませましょ。  
 あとの仕事はこまかいものだけど数はあるから、しっかり食べておかないとね。」  
「…そうですね。ではお昼は…」  
 
裏口につながる階段を下り、三人は支援課へと到着する。  
そしてそれぞれの希望を交えつつ、昼食のメニューを決めながら、一階へと降りてきた。  
 
「あ、かえってきた!おつかれさまでした〜!」  
「おーうキー坊!今かえったぜ。」  
「ただいまです。」  
「ただいまキーア。ツァイトもお留守番ありがとうね。」  
「グルル…」  
 
屈託のないキーアの笑顔に、一同は疲れを吹き飛ばされ、部屋も一気に賑やかとなる。  
 
「さーてメシだメシだ。ほらきなツァイト、お前もたっぷりくっとけ!」  
「キーア、昼食の準備また手伝ってくれますか?」  
「うん!あ、そういえばさっきゆうびんのひとがきて、てがみをとどけてくれたよ!」  
「まあ、ありがとうキーア。受け取ってくれたのね。」  
「えへへ。キーアえらい?」  
「ええ。とっても。」  
 
頭を撫でてもらい、ご満悦のキーアがキッチンに入っていく。  
エリィは応接用の机に、お礼にとレイテに押し付けられた日用品とお菓子を置くと、郵便を手に取った。  
 
「あら?」  
 
何通かの手紙に混じり、一通の、無地の手紙に目がいった。  
どれも宛名が特務支援課となっている中、これだけが個人名になっていた。  
 
「私宛だわ。誰かしら。」  
 
封を切り中を確認する。  
余白の多い、短い文章だったが、その内容に彼女はおもわず声を漏らした。  
 
「え…?」  
「おっ、なんだお嬢、妙な手紙でもきたか?」  
 
はっと振り返ると、ランディがテーブル向こうから身を乗り出していた。  
その足元で、ツァイトが猛烈な勢いで昼食をとっている。  
 
「あ、その、いえ…ジョアンナからみたい。」  
「ははっ、みたいってなんだよ。まあいいや、ちょいと俺は部屋に戻るから、出来たら呼んでくれい。」  
「うん。わかったわ。」  
 
ランディの鼻歌が二階に消えたあとも、エリィはしばらく手紙を持ったまま、立ち尽くしていた。  
 
***  
 
昼食後、エリィは休憩時間を設け、自分は出かけることを伝えた。  
 
「このあとに備えてゆっくり休んでてね。戻ったらすぐに仕事にとりかかりましょ。」  
 
キーアが少し顔を曇らせたが、それに気付かないほどに、エリィは平静を装うのに必死だった。  
玄関を出ると、自然と小走りになり、駅通りへと向かう。  
 
(あの手紙…。)  
 
先ほどの手紙には、タイプでこう打たれていた。  
『会談はおもってたより早く終わりそうだ。戻る前にエリィ、一度話しておきたいことがあるんだ。  
 午後に、駅通りのジオフロント入り口で待ってる。』  
そして送り主は…。  
 
(ロイド…話って何なのかしら。)  
 
まっ先に浮かんだのがあのIBCの夜のこと、そして自分の耳に輝くイヤリング。  
『続き』、あるいはこれを贈るときに言いそびれた甘い言葉を、改めて伝えてくれるのかもしれない。  
 
(まさか…まさかね。)  
 
はたして彼にそこまでの甲斐性があるかとの疑問を感じながらも、淡い期待を感じずにはいられなかった。  
一方、彼女とて旧市長の孫娘である。このタイミングに、しかも自分だけに伝えることの重要性を考え、  
政治に関わる事を想定していないわけではない。  
あの事件によって帝国派閥がなりをひそめた今、共和国の議員の鼻息が荒くなっているという噂はそこかしこで聞こえる。  
いずれにせよ、彼女は冷静を欠いていた。  
しまいにはほとんど全速力で、ジオフロントA区画入り口にたどり着りつく。  
 
「はぁっ・・・はぁっ・・・」  
 
息を切らし、辺りを見るがそこに人影はなく、駅構内と通りのざわめきがわずかに聞こえるだけだった。  
壁に背をつけ、呼吸を整える。  
 
(まだ、きてないみたいね。)  
 
仰ぎ見れば、目を細めるほどの快晴の空、昼食時のせいか、人通りは穏やかだった。  
徐々におちつきをとりもどし、乱れた髪を整えると、くすりと笑みがこぼれる。  
姿を目で追うようになったのを自覚したときから、彼女はペースを崩されていた。  
その視線も、ロイドが他の女性に好意的に接するたびに、温度を失っていく。  
そして今もまた、予想外の手紙に、なりふりかまわずここに来ている。  
まるでせせらぎに落ちた一枚の花びらのように、彼の流れに弄ばれているようで、静かな苛立ちがちくちくと胸を刺した。  
こんなに悩ましい日々を送る自分に対し、ロイドはいたって平静であり、はっきりとした態度も示してはくれない。  
 
(それなのに…。)  
 
彼を好きな気持ちは変わらないどころか、日増しに募っていく。  
 
(ほんとバカみたい。)  
 
ツン、と鼻が痛くなり、うなだれる。  
そこには、今にも不安に押しつぶされそうな少女がいた。  
特務支援課ビルの屋上で、夜のクロスベルを眺めた、あの時のように。  
あの時と同じ救いを、彼女は待っていたのかもしれない。  
人の気配を感じると、開口一番その名を呼んだ。  
 
「ロイド?」  
 
顔を上げた瞬間、両脇を押さえ込まれ、エリィは小さな悲鳴をあげる。  
 
「な、何?あなたたち・・・ングッ!」  
 
口元を強く押さえ込まれたかと思うと、急激な眠気が彼女を襲う。振りほどこうとした腕も、しだいにぐったりと力を失っていった。  
 
(…なん……で?……ろ……い………)  
 
混乱する暇もなく思考は途絶え、意識は深淵にへと吸い込まれていった。  
 
***  
 
「よおティオすけ。なんだ、キー坊も一緒か。どうした。」  
 
一階でくつろいでいたランディが、降りてきた二人の面持ちがどこか暗いのに気付く。  
 
「どうした?…お嬢のことか。」  
「はい。少し気になりまして。」  
「エリィ、なんかヘンだった。」  
 
グラビアのページをめくる手がとまる。  
 
「俺もちょっと気になってな。さっき見たんだが、この封筒。」  
 
雑誌を放り出し、机の上に残っていた空の封筒を手にとり、くるくると両面を確認する。  
 
「どうやら出かけるってのはコイツのことらしいが、妙なことに宛名だけで、切手が貼ってねえ。どうやって届いたのか不思議なくらいだ。」  
「…たしかに変ですね。誰かが郵便受けにいれたのならともかく。」  
「ああ、それに差出人の名前も書いてない。これじゃ中を見るお嬢以外に、誰から届いたかもわからねえぜ。実家のメイドからとか言ってたが、こいつはひょっとすると…。」  
 
便箋をトン、と机に立て置き、ランディがつぶやく。  
 
「やばい手紙だったのかも、しれねえな…。」  
 
三人が囲む机に、緊張が走った。時計の秒針が、大音量で時を刻む。  
 
「―――なーんて思ったりしてな!」  
 
ぱっとランディが顔を緩ませ、雑誌を手にとると深く椅子に腰掛けた。  
 
「お嬢もいい年だ。ラブレターの一つ二つあってもおかしかないし、この白昼堂々、サツにカマかけるバカもそうそういねえよ。  
いるとしたら今ごろブタ箱でくさいメシ喰ってるあのルバーチェの連中ぐらいなもんだ!」  
 
豪快に笑いながらグラビアのページをぱらぱらとめくっていった。キーアがティオの袖を、きゅっと握り締める。  
彼女達の敏感な知覚は、エリィの混沌とした心境を、正確にではないが捕らえていた。  
 
「…ランディさん、雑誌が上下反対です。」  
「……。」  
 
ランディが足を組んだまま固まる。  
 
「わたしも…おかしいとは思ってました。朝からへんにそわそわしてましたし…でも、それは臨時リーダーを任されたからだとばかり…。」  
「でも、でもさっきエリィがでてくとき…。」  
「ええ、あの時のエリィさんは、焦りを感じていたように見えました…。なにかおもいつめていたような・・・。」  
 
ランディが上体を起こし、ガシガシと髪をかいた。  
 
「まったくなあ、行き先くらい言えばいいのによお嬢も。」  
「そうですね…それも気になります。なので少し無神経ですが…」  
「あ、かえってきたよ。」  
 
器用に玄関の扉を開け、ツァイトが入ってくる。  
 
「ツァイトに足取りをつかんでもらいました。」  
「グルル…。」  
 
キーアに胸元を抱きしめられながら、ツァイトが喉を鳴らし報告する。  
 
「グル…ウォン!」  
「…なるほど。ありがとうです。」  
「どうよ。」  
「駅通りのジオフロント入り口で、完全に途絶えていたそうです。本人は居なく、中に入った様子も無いと。」  
「おいおい、なんだってあんなとこに一人で行く用事があったんだ?」  
「…ランディさん、思い出しませんか?前もこんなことが。」  
 
ランディが顎に手をやり、確かに似たような場面があった事件を思い返す。  
 
「コリンを探したときか。」  
「はい。ロイドさんはあのとき車両の中に入ったと推理しましたが…。」  
「あそこは車が入れる場所じゃないしな。こりゃだんだんキナ臭くなってきたぜ。」  
「どうしますか?課長と本部に連絡をいれるべきでしょうか。」  
「ああ、それとロイドも呼び戻したほうがいいな。」  
「わかりました。」  
 
ティオがエニグマを取り出す。  
ランディは、以前ロイドが言っていた事を思い出していた。  
 
――議長が失脚し、ルバーチェが解体した今、なんらかのひずみが生まれる可能性がある。報復という意味では、この特務支援課も物騒な事がおきるかもしれない。  
そしてその後、ティオとランディを呼びとめ、こう付け加えた。  
――市長との繋がりがあるエリィには、特に注意してあげてくれ。  
 
「ロイド、お前の予感が的中しちまったのかもしれねえぞ。」  
 
食後の休憩は、すでに一時間を越えていた。  
 
***  
 
闇に包まれ、少女は佇んでいた。前方に、女性と男性が、並んで立っている。  
 
(お父様…お母様?)  
 
少女は二人に問いかけた。だが返事は返ってこず、背を向けたまま、それぞれ反対の方向へと、歩みだす。  
 
(待って!お父様なんでしょう?なんで応えてくれないの?お母様、私です、エリィです!)  
 
エリィの言葉は、届かないというよりも声として存在していなかった。二人は次第に闇に溶け、視界は霞んでいく。  
 
(そんな…なんで…)  
 
彼女が心の奥底に封じていた、両親のぬくもりに対する渇望を、無理矢理引きずり出される。  
―ヒトリニシナイデ。  
人影は完全に消失した。どちらを追う気力もなく、その場にぺたりと座り込む。  
 
何故あれほどに幸せだった日常が、壊されないといけなかったのか。  
裏切り、腐敗、欺瞞。魔の都、クロスベル。自分を奮い立たせてきたキーワードが、今は重く、容赦なくのしかかってきていた。  
ティオやキーアに心配させるまいと強がってはきたが、彼女もまた、人の子なのだ。  
やがて闇は彼女自身をも包み、次第にその輪郭をも侵食していった。  
 
「…私も……きよ……」  
 
ふと、女性の声が聞こえる。エリィの、かろうじて残った眼に、寄り添う女性と青年が映る。  
その女性がセシルであることが分かると、彼女はうっとりと青年を見つめ、告白する。  
 
「私も好きよ。愛してるわ、ロイド。」  
(え…?)  
 
目を閉じたセシルを抱き寄せ、背を向けたままの青年が、静かに顔を近づけていく。  
 
(だめ、そんなのだめ!)  
 
エリィはもがいたが、手を伸ばすことすら叶わない。  
 
 
「――――〜っ!!」  
 
突然全身の感覚が戻り、にぶいランプの光と、がらりと変わった景色が、エリィの目に飛び込んできた。  
広さこそ支援課の一室並だが、まったく見覚えがなく、自分が横たわる簡素なベッドと扉一枚以外、窓すらもない。  
体を起こそうにも腕を後ろに組まれ、両足ともどもきつく縛られていた。  
 
(…そっか、私駅通りで…)  
 
彼女の意識を奪った薬のせいか、軽く頭痛がする。  
 
(なんて悪夢だったのかしら。)  
   
エリィは本日四回目のため息をさるぐつわの隙間からもらし、仰向けの姿勢をとると、低い天井を見つめた。  
耳が痛くなるほどに静かで、ひんやり冷たい空気と湿り気を肌で感じる。どこかの地下倉庫だろうか。  
ぼんやりと、正面から押さえつけてきた男を思い出すが、それは黒月でも、ルバーチェの残党でもなかった。  
 
(少なくともクロスベルでは見ない格好だったわね…新勢力か何かかしら。)  
 
エリィは落ち着いて現状を把握していた。ここまで平常心を保てるのも、どこかこの事態を予測していたからかもしれない。  
ロイドの読みが、彼女の日常に警戒心を与えていた。  
 
(それなのに、あなたのせいで油断しちゃったじゃない…。)  
 
ぽそりと八つ当たり。子供っぽいと思いながらも、そうせずにはいられなかった。  
 
(セシルさんかあ…。ロイド、今でもあなたは、彼女のことを?)  
 
やや場違いの疑問を浮かべていると、ドアノブが音を立てる。エリィが反射的に身を屈め、ベッドの隅へ体を寄せた。  
 
「おや?お目覚めでしたか…。」  
 
入ってきたのは全身黒ずくめの、ひょろりと細長い男だった。短髪に、壮年にしてはくたびれた顔をしているが、目つきは鋭く、その眼光は彼が平凡な人生とかけはなれていることを語っている。  
 
「フフ、そんなに警戒されなくとも、とって喰ったりはしませんよ。…おい。」  
 
背後からさらに二人の男が現れ、エリィの背後に立つと、さるぐつわと、足の枷を外す。  
 
「いーー目をしていますな。流石はマグダエル議長のご令嬢といったところですか。」  
「貴方たち、クロスベルの住民ではないわね。一体何者なの?」  
「それに度胸もある。なるほど、女としておくのがもったいない。」  
 
男は、ぶらりと下げた両手を、ゆっくりと、きつく握り締めては、開く動作を繰り返していた。  
 
「ここは少し暗すぎますな。お嬢様を客間にご案内しろ。」  
「つっ…。」  
 
強引に立たされたエリィは、三人の男に挟まれたまま、ドアの外へ押し出された。  
長い階段を上ると、そのまま広い部屋へと出る。中央に大きなソファーがあり、ズラリと、黒装束に身を包んだ男が、壁を背に四方に並んでいる。窓の外をみると、草木の茂る地表が近く、やはり先ほどは地下に居たことが分かる。  
乱暴に座らされ、エリィは顔をしかめた。  
 
「さて、質問にお答えしましょう。いかにも我々は魔都の民ではありません。」  
 
コツ、コツと男がエリィの正面を横切る。そのまま壁に掲げられる旗の前で立ち止まると、それを仰いた。  
灰を基準にした、目の無い顔が描いてある不気味なデザインだった。  
 
「エンジシ運輸…まあ共和国ではちょっと名のしれた会社なのですが、さすがに貴方はご存知ないでしょうな。私はその総取締りのセギンと申します。どうぞお見知りおきを。」  
 
セギンと名乗った男は、旗を背に、うやうやしくお辞儀をする。  
 
「目的は、何?」  
「目的ですか…フッフ。」  
 
男は、お辞儀の姿勢で含み笑いを漏らすと、頭をあげ、胸にあてていた手で、再び癖の動作をする。  
 
「警察には警察、遊撃士には遊撃士、社会には社会の法があるように、われわれの稼業にもルールというものがありましてね。  
商売への干渉もほどほどならかまいませんが、いきすぎるのは困るわけですよ。」  
「…」  
「いやあーー、その点あなた方はとても困ったお方たちですね。懇意にしていたルバーチェを、いとも簡単に解体してくださるのですから。」  
「ルバーチェ…そう、ということは貴方たちも。」  
「端的にいうとマフィアですな。」  
 
セギンは眉をひそめた。  
 
「ま、ですから、貴方達、つまりは魔都の連中にはけじめをつけていただく必要がある。  
 そのはしりとして、お嬢様をここにご招待した次第です。」  
「人質として、お爺さまと交渉する材料にする、といったところかしら。」  
「察しが良いですな。現議長となったあなたの祖父には退いてもらい、共和国議員をその後釜にしていただく。簡単な話でしょう。」  
「はたしてお爺さまが聞き入れるかしら。」  
「いれますとも。氏は貴方に対して罪の意識がある。この上また貴方を不幸にする真似はしないでしょう。」  
「…。」  
 
(ずいぶんと調べてるじゃない…。)  
 
エリィが奥歯をかみ締める。父を失脚させたのも、こうした弱みにつけこんだ姑息な手段だった。  
セギンが懐中時計を取り出す。  
 
「そろそろ市長のところに伝がついたところですな。」  
「伝?」  
「クロスベル市庁舎へ直々に、本社の導力車でね。手紙や導力メールでもよかったのですが、我々は運輸業者ですから。」  
「ずいぶん無用心ね。社名まで明かして、足取りをつかまれるわ。」  
「ええ、そして共和国方面への検問は徹底されるでしょうね。かの高名なソーニャ司令の指揮のもと。だが、帝国側はそうはいかない。十分に暗くなるのを待って、我々は悠々と西を目指させていただく。」  
「帝国側にもアジトがあるというわけ?マフィアにしてはずいぶんと手広いのね。」  
「そのようですな。」  
 
セギンが時計をしまい、手を顔の横に掲げ、手首から上を前に折る。男たちが列をつくり部屋を出て行き、セギンと二名の見張りが残った。  
 
「日が完全に落ちるまでまだ時間がある。それまでどうぞごゆっくり。」  
 
セギンが豪華な装飾の施された机に腰掛ける。携帯型の導力通信機をとりだすと、兵隊に指示を出し始めた。  
 
(脱出は難しいわね…。)  
 
自分に向けられた二挺の銃は、エリィの愛用するそれよりも正確性にはかけるが、どちらも殺傷能力は高い。  
彼女は先ほどのセギンの言葉から、いくらか状況を整理していた。帝国側に向かうということは、ここは西クロスベル街道方面なのだろう。  
確かに国境を封鎖するというのは、強国に挟まれた自治州の特性上、それ相応の理由が必要だ。短時間で共和国、帝国、双方をふさぐのは難しい。しかも帝国側は、司令の更迭によりまだ情報系統が固まっていない。  
そして、彼らには、細工をしてまで、まだここにとどまる理由があるということだ。  
 
「さて、これでしばらく時間ができましたな。お食事でもどうです?いまのうちに体力をつけておいていただきたい。」  
「結構よ。」  
「いけませんな。美は食にあり、ともうしますよ。簡単なものを用意させましょう。」  
 
セギンが目配せで男に指示をする。エリィは窓の外で、日がかなり高度を下げているのに気付き、焦りを感じる。  
 
(暮れるまえに、なんとかしなくちゃ…。)  
 
***  
 
「国境の封鎖、完了しました。各員これより、主犯の関係者と思われる車両を追跡、確保し、被害者の捜索にあたります。」  
「報告ご苦労様。下がっていいわ。」  
「はい、失礼します!」  
 
敬礼とともに警備隊が部屋をあとにすると、ソーニャは通信機を手に取る。  
 
「ミレイユ?そちらの状況はどうかしら。…そう。そうね。せめて検問を厳重にして頂戴。向こう側の議員から文句が来ない程度にね。また何かあればすぐに連絡を。」  
 
通信を終え、ソーニャは組んだ手に額を落とした。ノエルが部屋に入ってくる。  
 
「司令、ただいま戻りました。」  
「おかえりなさい。どうだったかしら?」  
「アルモリカ方面に怪しい車両は見かけられませんでした。やはり例の輸送車両が手がかりかと思われます。」  
「でしょうね…んー、ノエル、貴女はどう思うかしら。あの脅迫状。」  
 
さきほど市庁舎に直接包みを届け、エンジシ運輸のトラックは今、東の街道をのんきに走り続けている。  
 
「そうですね、露骨すぎます。」  
「いかにも自分がこちらに逃げてますって伝えるようなものだもの…。本当なら帝国方面も封鎖したいところなのだけど…。」  
「あと、何でこのタイミングなんでしょうか。すでに国外に逃げている可能性もありますが、それにしても早すぎます。」  
「確かに何をしても逃げ切る自信を感じるわね。それに…」  
 
ソーニャは目を細め、届けられた脅迫状のコピーを見つめる。  
 
「理屈では分かっていても、杓子定規にしか動けない私たちを、あざ笑ってるかのよう。」  
 
ノエルが無言でソーニャの横顔を見つめる。  
 
(共和国への封鎖すらも長くは続けられない…。忌々しいわね。本当になんの為の警備隊なのかしら。)  
 
政治体制が動いた今も、相変わらずしがらみにとらわれ続けている現状に、自嘲の笑みが漏れる。  
 
(私たちに出来ることはおそらくここまで…セルゲイ、やっぱり貴方のチームの力が必要みたいね。)  
「ノエル、私たちも検問に向かいましょう。混乱を防がないと。」  
「アイ、マム!」  
 
二人が一階のゲートへと向かう。司令室の机には、脅迫状に加え、いくつかの写真のコピーもおかれていた。  
そこには、拘束されたマグダエル旧市長の娘、エリィの姿が映っていた。  
 
***  
 
エリィがあれこれと知恵をめぐらすほどに、脱出の可能性が無いことに気付かされていた。  
立地は良く分からないが、街道からはほど遠いようで、導力車はおろか、鉄道の音すら聞こえない。  
この包囲網をくぐり、逃走に成功したとしても、逃げ道が分からないのではどうしようもない。  
 
「強情なお方だ。召し上がってくださらないのですな。」  
 
スプーンにすくったスープをエリィの鼻先で揺らしながら、セギンが残念そうに言う。  
 
「この縄を解いてくれたら、自分で食べさせていただくわ。」  
「フフ、仮にそうしたところで何の支障もないのですが、遠慮させていただきます。」  
 
食膳を戻し、セギンが再び机に戻るべく立ち上がる。  
 
「そろそろ国境の封鎖も完成したころですかな。」  
 
まるで他人事のように言う。エリィはその不気味な余裕に、疑問を口にする。  
 
「ずいぶん悠長なのね。いいのかしら、国境もまだ越えないうちからこんなに時間をかけても。」  
「ん、まーーそうですな。普通この様なプロセスは踏みませんね、こういったミッションは。」  
「相当な自信があるみたいね。」  
「自信ですか、くっくっく。」  
 
セギンが顔を押さえ、歯を鳴らす。  
 
「自信といいますか、不可能なのですよ。我々を見つけ出すことは。」  
「不可能?」  
「例え双方の国境を封鎖したところで、我々の国外逃亡は阻止できないでしょうな。クロスベルが出来るずっと前から、帝国、共和国における我々の動向を押さえることが出来た組織は、一般には存在しませんから。」  
 
彼の癖が再び出る。  
 
「一般…ただのマフィアじゃなさそうだけど、貴方たちも元猟兵なの?」  
「おお、そうか、お嬢様はガルシアをご存知でしたな。」  
「肯定、なのね。」  
「フフ、いかに情報網が発達し、警察が有能になろうと、そんなことは関係ないのです。  
 魔都の領内にあるこの支部でさえ、過去五十年、誰一人気付いてはいない。人の虚をつき、闇に生きる我らを見つけだすことは絶対不可能。  
 この「インビジブル(不可視)」である我々を、ね。」  
 
セギンが両手で目を隠すしぐさをする。  
旗のデザインの意味を理解すると、エリィは質問を続けた。  
 
「共和国派の議長をバックにして、何が望みなの?」  
 
その問いかけにしばらく沈黙が流れる。  
やがて目を隠したままのセギンが、静かにその言葉を口にする。  
 
「戦争、ですよ。」  
「!?」  
 
にやり、とセギンの口角がつりあがる。  
 
「我ら猟兵にとって、もっとも商売となるんですよ、このイベントは。それを起こしやすい環境を、内部から作っていただく。もっともこの計画は、ルバーチェを介して我々が打診する予定でしたが。」  
「でも不戦協定が結ばれた今、そんなにうまくいくかしら。」  
「うまくいきます。そのための貴方ですから。マグダエル氏の発言権は想像を絶する大きさだ…その口ぞえがあれば、無能な帝国議員の怒りを買う事など、わけはない。」  
 
(こんな男に…!)  
 
かつての父のように、祖父が利用されようとしている。家庭と両親を奪った、あの裏切りのように。  
 
「分かりますか?平和など所詮、薄い氷のようなものなのです。手さえ届けば、触れるにまかせて溶けていく。」  
「下らないわ…そんなことの為だけに、無実の人を何人巻き込むというの?」  
「さぁ、どれだけでしょうな。」  
「あなたのような…あなたたちのような稚拙で姑息な人達に、お爺様が屈服するはずないわ。」  
 
エリィが怒りにまかせ、はき捨てる。セギンの眉がぴくりと動いた。彼の目を隠していた手が下げられ、胸の前で組まれる。  
 
「お嬢様、私はあくまで貴方の立場を理解したうえで、丁重に扱っているのです。したがって、あまり刺激していただきたくはありませんね。」  
「本当のことじゃない。猟兵だかなんだかしらないけど、こそこそと隠れてうごきまわる、ネズミそのものだわ。」  
「…ふふ。言いますね。しかし何度も…」  
「いいえ、ネズミのほうがまだマシかもね。女を盾にしないと自分の本望も満足に果たせないような集団なんですもの!」  
「黙れと言っているっ!!」  
 
突然の怒号に、エリィは一瞬たじろぐ。  
 
「貴様のような小娘に何が分かる!引きずり落とされた栄光の舞台に戻るべく、水面下で念密な計画をねってきたのだ。  
 それなのに貴様らのせいで、その計画網の一端が崩れたっ!」  
 
椅子から勢いよく立ち上がり、セギンが旗の前に歩み寄り、手を大きく広げる。  
 
「だからこそ、もはや一切の妥協はしない!我々は再びあの戦慄の地に足を踏み入れ、血生臭い歴史を、多くの死体と共に山と積み上げる!  
 それが人という獣として生まれた使命なのだ!」  
 
ぐりんと捻り返ったセギンは、表情が崩れ、見開いた眼は、狂気と殺意に満ちていた。  
 
「ふーっ、ふーっ…我々には我々の正義があるのです。理解しろとは言いませんがね。」  
 
荒げた息もそのままに、エリィの眼前に、セギンがぐいと近づく。  
 
「しかしお嬢様も対した剣幕ですな。その勇気、よほどの根拠がある様子だ!」  
「…。」  
「フフッ、当てましょうか。ロイド・バニングス。彼の存在ですな?」  
 
エリィが顔を背けると、セギンに満面の笑みが浮かび上がる。  
 
「ハァーッハッハッハァ!そうでしょうなあ、あんな手紙一つでいともたやすく…クック。しかしその頼みの彼も、今頃は貴方の事など考えもつかないでしょう。」  
「どういうこと?」  
「面会を頼んでおいた議員には、あらゆる手で彼を足止めするように伝えてあるのですよ。そのうちの一つがこの薬です。」  
 
机の裏に備えられた引き出しから、錠剤のはいったビンを取り出す。  
 
「まさか、私に使った…。」  
「いいえ、もっと面白い薬ですよ。これ一錠で、精力を数十倍に強めることができるのです。ま、いわゆる媚薬ですな。」  
「び、媚薬?」  
「クク、彼が優秀な捜査官とはいえ、弱冠十八の青年。たまらんでしょうなあ。こんなものを飲まされ、裏通りに招待された日には。」  
「やめて…。」  
「彼は今やクロスベルの英雄。英雄といえば好むは色。さて何人の女性にのしかかっているのやら。」  
「やめてえっ!」  
 
エリィが上体をおこし、セギンに体当たりをする。が、ひらりとかわされ、髪を掴まれると、そのままのけぞらされた。  
白く、艶やかな喉をさらされ、エリィは苦痛の声をあげる。  
 
「あうぅっ…」  
「クククッ!いい声ですなあ。ちょうど時間もころあいですから、我々の趣向も始めるとしましょう。」  
 
セギンの手がエリィの襟首をわしづかみ、鍛えられた握力で一気に引きちぎった。  
 
「!!」  
 
質の良い繊維が無残に引き裂かれ、エリイの豊かな上半身があらわになる。清楚な白の下着に包まれた肌を眼前に晒された屈辱に、彼女は思わず唇を噛んだ。  
 
「おおっと、暴れていただいては困ります。まだ宴は始まったばかり、怪我でもされては面倒です。舌を噛もうなどと物騒なことは考えないことです。」  
 
手早く、再びさるぐつわをかまされ、顔を強引にセギンの前に向けられる。  
 
「いろいろと資金繰りも大変でしてねえ、貴方も組織の上を知っているのなら良くご存知でしょう。  
 部下の忠誠を保つために、様々な“施し”を与えないといけないことを。」  
「むううぅっ!」  
「目的の一つに落とし前、とあったでしょう。これを報復の一つとさせていただきますよ。  
 あなたの希望の光が別の女を抱いているこの瞬間、我々は同じこのクロスベルの地で、貴方を犯させていただく。  
 ああ、ゾクゾクしますなあ。空の女神も目を背ける悲恋の物語というわけです。」  
 
エリィをソファに放り投げ、セギンは二人の見張りに顎で指示した。  
 
「まずはこの二人の相手をしていただきましょう。満足いただけなくとも、ご安心ください。  
 まだ沢山、この者たちのあとに控えておりますから。」  
「〜〜〜!!」  
 
二人の男がエリィを押さえ囲む。彼女ははらはらと涙を落とし、顔を激しく左右に振った。  
両耳のイヤリングが、チャリチャリと音をたてる。彼に繋がるかすかな感触も、今は冷たくぶら下がっていた。  
 
(ロイド!…ロイド……!!)  
 
声無き叫びで、何度も愛しい人を呼ぶ。だが心に浮かんだ彼のその隣には、セシルの姿が、数多くの女性の影があった。  
 
「良い眺めですな。」  
 
乱れた自らの装束を整え、セギンが椅子に腰掛けるべく、手を掛ける。  
 
男達の手が、エリィの衣類をさらに引き剥がそうと伸びていった。  
 
タタ…タタ…タ!  
 
「む!?」  
 
部屋の時が一瞬止まる。耳を澄ましたセギンに、再びその音は聞こえた。  
 
タタタタタタ!カッシャーン!  
 
「何事だ!」  
 
エリィに襲い掛かっていた男達が、あわてて銃を手に取ると、入り口と窓側にそれぞれ陣取る。  
やがてけたたましい足音が聞こえ、ドアが勢いよく開けられる。  
 
「どうした、今の銃声はなんだ!」  
「侵入者です!見張りによれば、十近い車両が見えるとのことです!そのうちのいくつかは、ベルガードのものと!」  
 
報告をうけ、セギンが開けた口をふさぐのも忘れていた。やがて思い出したように、手を振りかざし怒鳴りちらす。  
 
「ええい、蹴散らせ、不可視の我らが、視えるものすら捕まえられん警備隊風情に遅れを取るものか!」  
 
男が部屋を出た後も、セギンは歯軋りをし、机に拳を叩きつける。  
 
「どういうことだ。何故だ、何故わかった。どういう魔法を使ったんだ!」  
 
彼は混乱していた。五十年、彼が生まれる前から、概念として存在していた不可視の要塞。それがたった今、看破されたのだ。  
それは今まで狂気の中生きてきた彼が、人としての理性を保つ最後のタガだったのかもしれない。  
エリィも何が起きたのかわからず、頑丈に鍵をしめられた扉を見つめていた。  
 
「く、おのれえ…。」  
 
セギンがエリィに歩み寄ると、そのしなやかな肢体にのしかかる。  
 
「むぐっ!?」  
「もはや順序など関係ない!私自ら貴様を辱めてくれるわ!フハハハ、みせしめだ!」  
「んんーっ!」  
 
完全に錯乱状態におちいった彼は、もはやその瞳に人の光を失っていた。エリィの首筋に舌をはわせ、内股へと手を伸ばす。  
 
「んうーっ!」  
「ははっはははっ!やつらを皆殺しにした後、帝国につれていった貴様は我らの永遠の慰みものとなるのだ!」  
 
ドオオォッ!  
 
「うおっ!?」  
 
突然の爆音とともに、扉が吹き飛び、側に陣取っていた男がもんどりうって倒れる。大量の土埃がまきあがり、部屋を包み込んだ。  
 
「ゴホッ、ゴホウッ!ぐっ…!」     
 
もやの中に、影が映る。  
 
「何をやっている、撃て、撃ち殺せ!」  
 
むせながら、窓側で待機していた男が銃を構えた。カチャリ、と金属音が響いた瞬間、セギンの真横を風が切っていった。  
 
(え…?)  
 
背後で男のうめき声が聞こえ、ソファの上の二人が振り向く。猟兵であるセギンにすら捕らえられない一瞬の出来事、だがエリィには電光石火の正体が解かった。  
それは、彼女が心で求めてやまない存在だったからかもしれない。窓が煙をすいこみ、その後姿が、薄暗くなった部屋にゆっくりと浮かび上がる。  
 
「なっ、貴様、何故ここに!」  
 
(ロイド!)  
 
勇壮なる突進、その残心を取ったまま、ロイド・バニングスが立っていた。セギンが机の下に手をやり、火薬式の大型ショットガンを取り出すと、エリィの首を腕で絞め、顎に銃口を突きつけた。  
 
「んむぅっ…!」  
「動くな!」  
 
ひゅう、ひゅう、と、セギンの食いしばった歯から呼気が漏れる。まるで虎に対峙した狐のように、彼はおびえ、だが自分の優位を確信していた。  
 
「フフ、動くなよ。そのままそこに突っ立っていろ。」  
 
じりじりと扉にむかって後退する。ロイドはゆっくりとこちらに正面を向け、構えを取った。  
 
「ひっ!?う、動くな、見えないのかこの銃が!死ぬぞ!この女が死ぬぞ!」  
 
ガチガチとセギンの歯が鳴っている。エリィも、いかなる場面でも冷静さを失わなかったはずの、ロイドの怒り一色に染まった顔を見て、背筋に寒気が走った。  
 
「…はなせ。」  
 
落ち着いてはいるが、伝わる空間を焼き尽くさんばかりの怒気を含んだ声が、彼の口から発せられる。  
深く大きく息を吸い込むと、ロイドが眼を見開き、咆哮をはなった。  
 
『俺のエリィから手を離せぇっ!』  
 
「ひっ!く、くははっ!いいだろう離してやろう!!離してやるともっ!」  
 
エリィを突き飛ばし、その眉間に銃口を押し付け、セギンが引き金に指をかけた。  
 
「これでこのゲームは、私の勝ちだああああっ!」  
(―――!!)  
 
ズン、と鈍い音をたて、ショットガンの薬莢が飛び出す。だが、硬く眼をつぶったエリィの顔に、銃弾は届かなかった。  
 
「なにぃ!?」  
 
放たれた弾が、すべてエリィに達する前に、勢いを失い、空中で止まっている。そしてビデオの再生ボタンを押されたように、ぱらぱらと床に落ちた。  
 
(こ、これはアダマスガード?)  
 
そのまま室内はスローモーションに移り、彼はロイドのほうにゆっくりと首を戻す。  
宙を駆ける彼の腰に、光を放つエニグマがあった。  
 
(何時の間に詠唱を…!)  
 
「うおおおぉぉ!!」  
 
すでに飛び掛った虎は、哀れな犠牲者に襲い掛かると、二本の牙で、瞬時にセギンの人中、喉、肘、肋骨、みぞおち、膝を砕き、最後に全身の体重をのせた体当たりを食らわせた。  
 
「ぶらぇっ!!」  
 
強烈な連打と一撃を受け、きりもみに吹き飛んだセギンは、扉の前に倒れる男に派手に衝突し、がくん、と糸の切れた人形のように倒れこむ。  
 
(…このスピードと破壊力……ロイド・バニングス………これがかつて………  
 ……あらゆ…る……組織をおびやか…した……しゃくね……つ……の………)  
 
彼の思考はそこで途絶え、眼球をのけぞらせると、そのまま完全に気を失った。  
 
正常な時の流れが戻り、白目を向いたセギンをぼんやりと見ていたエリィが、我にかえる。  
室内の制圧を終え、ロイドが構えを解き腕を下げると、トンファーが重心を下へと半回転し、するりと落ちた。半身をずらしエリィの姿を確認すると、彼女に向かって地面に叩きつけるように膝を落とし、戒めに手をかけ、解いていく。  
その顔は今にも泣きそうで、あどけなさを残す顔が、よけいに幼く見えた。  
 
「ぷはっ…」  
 
開放された口で、エリィが救い主の名を、今度は肉声で呼ぼうとするのを、ロイドが遮るようにまくしたてた。  
 
「エリィ、無事か!ひどい扱いは受けなかったか!」  
 
彼女の肩を強く抱き、ロイドが正面から見据えてくる。眉は急降下し、その間に深いしわをたくわえ、先ほどの殺意をたぎらせる彼とはまったく正反対だった。  
エリィは一気に全身の緊張が解け、安堵のため息とともに、優しく応える。  
 
「ええ、大丈夫よロイド。乱暴な事はされてないし、傷一つないわ。」  
「そうか、良かった…本当に…。」  
 
ロイドが力なく笑うと、肩を掴んだ手の力が抜け、エリィに崩れかかりそうになる。あわててエリィが、その上体を支えた。  
 
「ロ、ロイド、大丈夫?」  
「あ、ああ…反動がきたみたいだ。でも問題ない。ちょっとクラっときただけ…。」  
 
体を起こそうとしたロイドが、ぴくりと止まる。エリィが彼の顔を覗き込んだ。  
 
「どうしたの、やっぱりどこか怪我を…」  
 
はっと、彼女は自分の格好を思い出した。  
ロイドの顔面間近に、彼女の下着姿が、めしあがれとばかりに披露されている。迫力ある双丘に、ロイドは瞬きも忘れ見入っていた。  
 
「ちょ、ちょっとロイド、そんなにまじまじと見ないで!?」  
「ごごごごめん!つい、その、あまりに綺麗で柔らかそうで…!」  
「や、柔らかそう?…綺麗?」  
「あ、いや違っ!そういうつもりじゃ…!」  
 
顔を離し、あたふたとしながら、ロイドが上着を脱ぐ。あさっての方向を向いたまま、それをエリィの肩に掛けると、ロイドがばつの悪そうに頭をかく。  
 
「とにかく!無事で良かったよ。うん。ハハ…。」  
 
正座をしながら、必死に取り繕う彼に、エリィがくすりと微笑む。今日一日、あれだけぽっかりと空いていた心の隙間が、彼の仕草、言葉、労りに、満たされていく。あまりに単純な自分に、呆れるほどだった。  
彼のぬくもりを感じながら、ふと、エリィは質問する。  
 
「そういえば、よくこんなに早くこの場所が解ったわね。」  
 
セギンは、この場所を不可視の要塞と言っていた。それを、半日とかけず見つけ出した、まさに魔法のタネが気になったのだ。  
 
「ん、ああ。あまり不安にさせたくなかったから、黙っていたけど…。」  
 
ロイドがエリィの耳に手を伸ばす。  
 
「カラクリはこれだよ。」  
「え?」  
「このイヤリングには、情報のクォーツを、そっくりそのまま逆の構造にしたものが入ってるんだ。身に着けた人の位置を、周囲にばらまく特性があるらしい。  
 さすがに位置の特定をするのには時間がかかったけど、露骨な誘導があった共和国側の逆方向にしぼりこんで、なんとかここにたどり着いたという訳さ。」  
 
キラリと、傾けられたイヤリングが淡く光を反射する。  
 
「前に旧市街の様子を見に行ったとき、ナインヴァリの店主から貰ったんだ。要人護衛に使えるものは無いか、と聞いたら、珍しくタダで譲ってくれたよ。  
 たぶん、例の一件の、彼女なりの評価なのかもしれないな。」  
「じゃあ、あんなに前から…。」  
「でも、ツメが甘かった。肝心の本人から、目を離すなんて。」  
 
――そこまで、私のことを心配して?  
 
それなのに自分は、素っ気無いな彼を恨みもした。  
満たされた心が、今度は一気にあふれ出す。  
 
「でも、捜査一課と、ベルガードの警備隊がすぐに行動してくれたのが大きかったかな。IBCのスタッフも全面的に協力してくれたし。  
 結局は、いろんな人の助けがあったからこうして…っと、どうしたんだ?」  
「うん…ふふ、ごめんね。安心して、気が緩んだみたい。」  
「エリィ…。」  
 
エリィが目じりを拭う。ロイドが彼女ににじり寄り、優しく、力強く抱きしめた。  
 
「ごめん。君にこんな怖い思いをさせたのは、俺のミスだ。支援課を離れて、君と離れて、行動すべきじゃなかった。どうか許してくれ。」  
「ロイド…。」  
 
突然の抱擁に、ぱちくりとさせた目を伏せると、エリィの頬を光が伝った。彼に身を預け、その背中に手を回す。  
うずめたロイドの胸に、情愛で満ちた魂の鼓動を感じながら、いつまでもこうしていられたら、どれだけ幸せだろう、とさえ思えた。  
そんな満ち足りた心の中、隅に引っかかる不安の欠片を、彼女は無意識に口にしていた。  
 
「ロイド…貴方はまだ、セシルさんの事が、好きなの?」  
「へ?」  
「…。」  
「ランディに聞いたのか。」  
 
エリィがロイドの胸の中で、首を横に振る。  
 
「なんとなく、そうなのかな、って。」  
「そうか。ハハ、解かっちゃうか。」  
 
ズキン、とエリィの心が痛む。  
 
「そうだな、好き、かな。」  
(ああ…。)  
 
さーっと、全身の血の気が引いていく。耳に入ってきた返事を、エリィは拒否しながら後悔した。  
聞かなければ良かった、と。  
 
「でも、今までの俺は、子供だったんだな。女性としてじゃなく、家族としての愛情を、恋と勘違いしてたんだ。  
 絶対に守りたくて、同じくらい大事で、同じ『好き』でも、こんなに違うんだって、こうしてここに来て思い知ったよ。」  
「え…?」  
 
エリィがロイドを見上げる。  
 
「それって…。」  
「ああ、うん、ま、そういうわけでセシル姉は変わらず好きだけど、つまり、大事な家族っていうか…」  
「じゃあ、もう一つの『好き』、の相手は、誰?」  
 
うるんだ上目遣いで、じっと見つめてくるエリィに、ロイドはたじろぐ。  
 
「うっ…それはだから、いつも俺の側にいてくれる人で、俺に大事な事を気付かせてくれた人で…。」  
「さっき、叫んでくれたよね。お、俺の…って。」  
「や、あれはいろいろはしょっちゃったっていうか!とっさの事で!」  
「お願い、はっきりと、貴方の口から聞きたいの!」  
 
いじらしくねだるエリィにクラクラとしながら、ロイドが口をもごつかせ、やがて意を決したように視線を真っ直ぐ彼女に注ぎ、その顔に片手を添える。  
 
「あ…。」  
「俺は、エリィ、君の事が…。」  
 
ゆっくりと迫る顔に、エリィは目を閉じた。再び、瞳にたくわえた涙が落ちる。  
ロイドもそれにならい、二人の距離はやがて零に近づく。  
 
「あー。お取り込み中のところ申し訳ござんせんが。」  
 
びく、と二人が同時に目を開き、声のほうに向き直る。  
 
「ちょっとどいてくれませんかね。証拠品の弾ァ、とりたいんで。」  
 
しゃがみこんだランディが、ススけた顔に悪戯な笑みを浮かべ、二人を眺めていた。  
 
「ラ、ランディ?いつのまに…!」  
「いつのまに、じゃあねえよ。周りを良く見てみろよ。」  
 
顔を上げると、部屋にはぞろぞろと警備隊と一課の人員が踏み込んでおり、気絶した男の確保、証拠品の押収にいそしんでいた。  
 
「…ずいぶんと迂闊ですね。残党が来ていたらどうなっていたことか。」  
 
聞きなれた声がしたかと思うと、ティオが押収した書類を手に、いつも以上に嫌味全開でスタスタと歩いていく。  
 
「その余裕を突撃前に見せて欲しかったところです。」  
「まったくだ。独りで突っ込んで、この司令室まで一直線だからな。フォローするのがやっとだったぜ。  
 ま、この暴れようを見たら、あのガルシアも驚くだろうがな。」  
「ご、ごめん。」  
「しかもそのあと二人の世界全開だもんなあ。こりゃ猟兵もかたなしだ。」  
 
エリィが顔を湯気の出るほど沸騰させ、うつむく。  
 
「単独行動が目立ったっていうガイさんと兄弟なのも頷けますね。まったく本当に…うちのリーダーときたら…。」  
「ハハッ、そう言いつつゼロ・フィールドちゃっかりかけてやるあたり、ティオすけもこいつの馬鹿に呼吸があっちまってるな。」  
「…!?」  
 
わざわざくぐりかけた扉から戻ってきて、手にもった書類で殴りかかるティオを片手でいなしながら、ランディが弾丸を回収する。  
 
「ま、ほんとに良かったよお嬢。無事でよ。」  
「ごめんね、心配かけて。」  
「ははっ!お嬢の為なら火の中水の中ってな。おっと、ロイドにとっちゃお姫様だったか?」  
「…!」  
「おい!?」  
「エリィ、俺は、俺は君のことがぁ〜!」  
「ラ、ランディ!」  
 
笑いながら走り出すランディを、ロイドが立ち上がり追いかける。それはさながら、からかう兄とその弟のようだった。  
 
「きゃあっ!ちょっと、ランディ!へんなとこ触らないで!」  
「へっへー!今日はありがとなミレイユー!」  
 
遠ざかる声を聞きながら、あとに残ったエリィがロイドの上着を肩にかけなおすと、ティオがその目の前にしゃがみこんだ。  
 
「ランディさんこそ…自分も相当な無茶をしておいて、よく言います。」  
「ティオちゃん。」  
「…凄く、心配しました。本当に…本当に無事でよかったです。」  
「ありがとう。貴方たちのおかげよ。」  
「エリィさん…。」  
 
甘えたがる仔猫のようにしがみついてくるティオを、エリィが優しく抱き留める。  
室内に様々な人が行き交い、黙々と作業は続いている。  
音の無い稲妻のように降り注いだ騒動は、穏やかに幕を引こうとしていた。  
 
***  
 
「まったく!勝手な行動は慎めと言ったはずだぞ!」  
 
ダドリー捜査官が、撤収準備を始めた警備隊、捜査一課の車両の前で、大声を張り上げる。  
 
「人質の確保及び室内の制圧に、協力するのはともかく単独で突っ込むとは!まったくセルゲイさんの子飼いは揃いも揃って今も昔も強引な連中ばかり…!」  
「まあまあダドリー捜査官。あんまり怒るとしわが残るぜ?」  
「そろそろ血圧も気になるお年頃ですし。」  
「私はまだ二十七だ!」  
 
ランディとティオに並び、ミレイユ以下警備隊数名を前に、ダドリーは眼鏡を直した。  
 
「無事だったから良かったようなものを、彼奴の兄の様な身内の犠牲は二度と御免被る!  
 今回は当事者が関係していたから黙認したが、今後このような危険な事件がおきたときは、今度こそおとなしく引っ込んでいろ!いいか!」  
「へいへい。」  
「相変わらず不器用ですね。」  
「ええい黙れ!全員乗車しろ。引き続き残党の捜索に移るぞ!」  
 
腕を振り回しながら、ダドリーが号令をかける。車両に一課の人員が次々と乗り込み、ガタガタと悪地に車体を揺らしながら、順番に出発していった。  
 
「しかし、こりゃとんでもない隠れ家だな。普通に探したら見つからないはずだわ。」  
「巨木をくりぬいて、中から建造物を作成…。カモフラージュも完璧です。」  
「そうね…『インビジブル』か。彼の機転が無かったら、大変な事になっていたかもね。」  
 
ランディ、ティオ、ミレイユが、占拠したアジトを改めて眺める。  
相当な年月を経た巨木の一角に扉があり、その周囲を大量に茂った草が囲んでいた。低い木々に囲まれ、街道から通る獣道にのこる車両の跡以外、人の気配を感じさせるものはない。  
 
「悪いな、帰りの足まで借してもらって。」  
「もともと安全が確保されるまで、私たちや警察が保護する対象だから、当然の手配よ。街に戻ったら、あとは警察本部が護衛をまわしてくれるから、それまでご一緒するわ。」  
 
ミレイユが、それにしても、と続ける。  
 
「エリィさん、本当に大丈夫?カウンセラーをつけるべきだと思うけど。」  
「あーそんなら心配いらねえよ。専門の特効薬があるんでね。」  
「とびっきりにぶちんでヘタレで甲斐性無しで向こう見ずですが。」  
「あは…そうみたいね。」  
 
三人が振り返ると、あわただしく警備隊の行き交う中、扉の開いた車両の座席に、ロイドとエリィの姿があった。  
 
「のんきなもんだよな。しかしなんでまた、あんな距離あけて寝てんだか。ロイドも肩くらい貨しゃいいのに。」  
「…一応、人目を気にしてるんじゃないですか。まあ、あれではまったく無意味ですが。」  
「ははっ。そうだな。」  
「ふふっ。」  
 
その車内では、二つの静かな寝息がリズムを刻んでいた。  
反対の窓にそれぞれの頭を預け、しかしその間には、しっかりと繋がれた二人の手があった。  
 
やがて押収されたメンバーリストから関係者が割り出され、「残党狩り」は行われる予定だったが、アジトの隠蔽性能を過信していたのか、制圧時に壊滅していたらしく、数時間であっけない結末を迎えることとなった。  
ロイドを呼び出した共和国議員も事情聴取を受けることとなり、再びクロスベルタイムズの政治面を賑わすであろう事は、想像に容易い。  
堅固な警備隊の護衛により、警察本部に無事到着したエリィが、身を清め、実家から届いた新調の服に身を包んだ頃、ヘンリー議長が来訪し、祖父と孫娘は堅い抱擁を交わした。  
議長の感謝を受け、手帳内容の報告を終えた後、特務支援課のビルへと四人が帰宅したころには、夜はすっかり更けていた。  
 
「おう、帰ったか。」  
「課長、戻ってたんスか。」  
「ああ。お前たちが戻る少し前に、本部から先に引き上げさせてもらった。」  
「エリィーーーっ!」  
 
課長と向き合って座っていたキーアがはじけるように立ち上がり、四人の方へ走り寄ってきた。  
 
「エリィ!よかったあ、おかえりなさいっ…!」  
「ただいま。キーアちゃん。」  
 
しゃがんだエリィに、キーアが飛びつく。セルゲイが四人の顔を見渡し、タバコに火をつけ、一服ついた。  
その足元で、相変わらずのツァイトがあくびをする。  
 
「ただいま戻りました、課長。」  
「…ただいまです。」  
「全員無事で何よりだ。念のため本部が、このビルに守衛をつけてくれた。今夜のところは安心だろう。  
 明日エリィは改めて本部に事情聴取に行くだろうが、他の三人は通常業務につけよ。」  
「うへえ、俺たちも聴取してもらいてえなあ。」  
「…まあ、わたしたちに関して報告することは先ほど済んでしまいましたし。」  
 
セルゲイが、こんなとき率先して全員を激励するロイドが、珍しく静かな事に気付く。  
 
「どうしたロイド。どこか怪我でもしたのか?」  
「あ、いえ。課長、ご心配をおかけしました。」  
 
深く頭をさげるロイドに、他の三人も自然とならう。  
 
「ああ。本当に上司泣かせな連中だな。」  
「それを課長が言いますかねえ。」  
「クク。さて、俺は先に寝るぞ。お前らもさっさと休めよ。」  
 
どすどすと二階に上る課長を見送ると、エリィの名を呼びながら抱きついていたキーアが、その腕の中で、うっつらうっつらと首をゆらす。  
 
「ははっ。緊張の糸が切れたってやつか。安心したんだろうな。」  
「もうこんな時間だものね。」  
「……。」  
 
ティオがキーアを見つめ、エリィの正面に立つ。  
 
「…今夜は…わたしがキーアと寝ます。構いませんか?」  
「え?」  
「うーむ。この顔見ると、流石のティオすけも辛抱できないか。」  
「…ロイドさん?」  
 
三人がロイドを見る。課長を見送ったまま固まっていたロイドが、はっと視線に気付き、振り返る。  
 
「あ、ああ?」  
「キーアを頂いてもいいですか。」  
「ああもちろん。キーアも喜ぶだろう。」  
 
どこか無理矢理な笑顔を、ティオはしばらく見つめ、ふう、とため息をつくと、改めてエリィに向き直った。  
 
「では、お先に失礼しますね。」  
「はい、じゃあキーアちゃんをお願いね。」  
「ありがとうございます…キーア、歩けますか?今夜はわたしと寝ましょう。」  
「んー…てぃおとぉ?」  
「はい。だめですか?」  
「ん…だめじゃなあい…てぃおとねるー…。」  
「おっし、俺もさっさと寝るかな。お疲れさん。」  
 
三人も階段へ消え、あとにロイドとエリィが残る。  
 
「…。」  
「…。」  
 
沈黙が流れる。エリィが言葉をかけようと、ロイドのほうを見ると、再び固まっていた。  
 
「ロイド、大丈夫?さっきから様子が変よ?」  
「…ん?そうかな…なんか、俺も疲れたみたいだ。」  
「そ、そうね、いろいろあったものね…。」  
「えっと、エリィも明日に備えて、早く休むといいよ。」  
「うん、ロイドも…。」  
 
ぎくしゃくとしながら、二人も部屋に向かう。  
 
「おやすみ、ロイド。」  
「ああ、おやすみ。エリィ。」  
 
二階に上ったところで挨拶をし、ロイドが部屋に入ったのを確認すると、エリィはしゅん、と肩を落とした。  
 
(あーあ、またおあずけかあ。)  
 
エリィは、自分がはしたない事を考えているのに気付き、一人赤面する。  
 
(わ、わたしったら、何を期待して…明日も長くなりそうだし、早く寝なくちゃ。)  
 
そのままぱたぱたと三階へ向かった。  
 
***  
 
ベッドに体を沈めたロイドが、ゴロゴロとその上を転がっていた。上に下に姿勢を変えては、そわそわとしている。  
 
「うーん、何か落ち着かないな…。」  
 
いつも一緒のキーアがいないのもそうかもしれないが、何か、彼の中に、もやもやとしたものが蔓延していた。  
 
「…エリィ。」  
 
そうつぶやきながら、しかし彼が思い出したのは、彼女のはだけた胸の記憶だった。  
みるからにふんわりと、下着に包まれたそれは、彼が知る、あらゆる質感の中で、最も柔らかそうなものであり、それを照れながら隠すエリィの姿まで思い返すと、もやもやが更に大きく膨れ上がった。  
 
(だぁぁぁっ!お、俺は一体何を考えて…!)  
 
跳ね起きると、顔を大きく左右に振った。呼吸が深くなっていることに気付き、胸を押さえる。  
 
「だめだ。これじゃとても眠れない…。とりあえず、屋上で風にでも当たろう。」  
 
ベッドから立ち上がり、部屋を出ようと扉を開けたときだった。  
 
「あ…。」  
「え?」  
 
そこには二人の少女が、眠そうな目をこちらに向けている。  
 
「ティオ、どうしたんだ?」  
「…いえ、ちょうどいいです。ロイドさん、今日はわたしの部屋で寝てください。」  
「へ?」  
 
ロイドがしばらく言葉の意味を汲み取れず、キーアとティオを交互に見る。  
 
「そのかわりわたしたちは、ロイドさんの部屋で休ませていただきます。」  
「ああ、つまり部屋を交換するわけか。」  
「だめですか?キーアが、どうしてもロイドさんのベッドじゃないと、眠れないらしく。」  
 
目をしょぼしょぼとさせ、キーアがロイドの名を、聞き取れないくらい小さな声で繰り返し呼んでいる。  
 
「えっと、俺は構わないけど。」  
「そうですか。ありがとうございます。では遠慮なく。キーア、こっちです。」  
 
すたすたとキーアをベッドに連れて行き、ティオが寝支度を始める。  
 
「お、おい?」  
「……なんですか。ロイドさんもご一緒したいんですか?」  
「いや違うけど!」  
「…じゃあ早く扉をしめてください。寝巻きに着替えるので。」  
 
ティオが服のボタンを外していく。  
 
「あ、お、おやすみ。」  
「おやすみなさい。ロイドさん。」  
 
あわてて扉を閉めると、ロイドがため息をついた。  
 
(な、何なんだ…。ティオ、またちょっと怒っていたけど。)  
 
中から彼女の着替える気配を感じ、その場を急いで退散した。  
 
(さすがに女の子の部屋を借りるわけにはいかないな。一階のソファで寝るとするか。)  
 
そう考えながら、とりあえず屋上へと足を運んだ。  
手すりにつかまりながら、重い足取りで三階にたどり着いたところで、声を掛けられる。  
 
「え、ロイド?」  
「エリィ、どうしたんだ?」  
 
ぱたん、とエリィの部屋の扉がしまる。どうやらいましがた出て来たところのようだ。  
 
「その、なんだか落ち着かないから、あ、貴方の…。」  
「ん?」  
「部屋に行って、その、改めてお礼を言おうかなと。」  
 
もじもじとする彼女の姿に、再びロイドの中の妙な感覚が蠢く。  
 
「う…。そ、そうか。」  
「ロイドは、どうしてここに?」  
「いや、どうやらここに来てぶり返した興奮が冷めないみたいで、屋上の風に当たろうかなと思って。」  
「あ、じゃあハーブティーを入れるわ。心が安らぐわよ。」  
「え、でも。」  
「それくらいさせて。ね、いいでしょ?」  
 
手を合わせ、首を傾げて聞いてくるエリィに、ロイドは困ったような笑みをこぼし、観念した。  
 
「じゃあせっかくだし、いただこうかな。」  
「ふふ。じゃあ、入って。」  
 
エリィの部屋に招待されると、清涼感のある香りと、女性特有の甘い匂いが、ロイドの鼻孔をくすぐる。ズキ…と、例の感覚を感じながら、ロイドは考えていた。  
 
(そういえばこの部屋に入るのは、あの日、イヤリングを渡して以来か。)  
 
てきぱきとお茶を淹れる彼女の後姿を見つめる。  
女性へのプレゼントなど、生涯初めての事だった。しどろもどろに彼女にイヤリングを突き出し、そのまま逃げるように部屋を出てしまったあとで、冷静になり、後悔した。  
 
(もう一言二言、かける言葉があっただろうに。)  
「おまたせ。どうしたの、そんな思いつめた顔して。」  
「いや、なんでもないんだ。ちょっとね。」  
「ふーん。私に言えないようなこと?」  
「そういう訳じゃ!」  
「ふふ、冗談よ、ごめんなさいからかって。はい、どうぞ。」  
 
エリィがロイドの前にハーブティーを置く。ふわ…と、彼女の髪がロイドの鼻先を撫で、彼は思わずエリィの腕を掴んだ。  
 
「きゃっ…ロイド?」  
「くっ…エリィ。」  
 
顔をしかめたロイドに、エリィがおもわず身をこわばらせる。  
 
「ごめん、その、イヤリング。」  
「え?」  
「き、気の利いた言葉を、かけてあげられなかった…。」  
 
搾り出すように彼の口から出た謝罪の言葉に、エリィは全身にいれた力が緩んだ。  
 
「ううん、いいの。私を心配して、渡してくれたんだってわかったし、凄く嬉しかったから。」  
「エリィ…。」  
「ありがとうロイド。私を、守ってくれて。」  
 
二人が見つめあう。席を立ったロイドが、彼女を抱きしめ、その髪を撫でる。  
 
「好きだ、エリィ。」  
「…私もよ、ロイド。あなたが好き、大好き…。」  
 
エリィは子をあやすような手櫛を感じながら、再び、やや早い彼の鼓動を聞いていた。  
ゆっくり顔を離した二人は、自然に瞳を閉じ、今度はそれを阻止するものは現れなかった。  
 
時が止まる。  
 
「――はぁっ。」  
 
永遠に思えた時間の後、やがて影は分かれ、二人の間をつうと銀が引き、ぷつりと切れた。  
頬を桃色に染め、開放された彼女が、熱っぽい目でロイドを見つめる。  
 
「続き、できたね。」  
「え、エリィ…。」  
「ロイド、当たってる…。」  
「…こ、これはその!…ぐっ…。」  
「くすっ。嬉しいな。やっとロイドに女の子として見てもらえた気がして……ロイド?」  
 
肩を震わせる彼を、エリィは最初、自分と同じ、緊張しているものだと思った。だが明らかに様子がおかしく、唇をわなつかせ、目の焦点もあっていない。  
 
「大丈夫?ひどい汗よ。」  
「いや、なんでもないんだ…。」  
「なんでもないこと、ないわよ。具合を悪くしてるんじゃ…」  
 
ここへ来て、エリィがセギンの話を思い出す。  
 
(まさかロイド、あの薬を…!)  
「今日、無理矢理付き合わされたバーで…似たような感覚になったんだ。いきなり女性に囲まれて、めまいがしたけど、その時は気合で何とかなったのに…!」  
「ロイド…。」  
「体が熱い…。今俺は、すごく、君が欲しい。でも、やっぱりダメだ。こんな、変な俺のまま、君を…。」  
 
錆びた鉄のように体をきしませ、エリィから離れたロイドが背を向ける。  
 
「き、今日のところは、帰るよ。ハハ、何やっても中途半端で…ごめん。」  
 
そのままふらふらと、机に置いた手で体を支えながら、部屋を出て行こうとする。不恰好な彼の背中を、今度はエリィが駆け寄り、抱きしめた。  
 
「え、エリィ?だめだ、今は…」  
「謝る必要なんかないわ。」  
 
エリィは、しっかりとした声で彼の言葉に反論する。  
 
「あのアジトで聞いたの。ロイドのことを、薬でたぶらかして、足止めをする計画…。」  
「…。」  
「私はあの時、怖かった。自分の状況よりも、あなたが誰かを抱きしめる姿を想像して、ずっと怖くて悲しかったの。  
でも、あなたは、誘惑をはねのけ、いつもみたいに真っ直ぐな心で、私を救いにきてくれた。そんなあなたを、変だなんて、ましてや中途半端だなんて、絶対に思わない。」  
「エリィ…。」  
「今の貴方も、他の誰でもない、ロイド・バニングスだわ。私がこんなに…理解できないくらい大好きな…。」  
 
悲痛な告白は続く。  
 
「お願い。今夜は、一緒に居て。私と…。」  
 
背中にしがみつき、必死に訴える彼女に、ロイドは額の汗が引いていくのを感じた。じんわりと広がるぬくもりが、ざわめく彼の心に、確かな安らぎを与えていく。  
彼女のほうを向き直ると、その肩に手を置いた。  
 
「ありがとう、エリィ。ちょっとだけ落ち着いたよ。」  
「ロイド…。」  
 
健気な笑顔に、ロイドの心の瘴気は塵となって消えた。だが、その肉体は、心とは裏腹に、彼女に向け欲望の矛先を向けている。  
 
「その、あなたが嫌なら、無理はしないで。でも…」  
「エリィ…。」  
「私、あなたがいつか言ったように、今のあなたの辛さを、分かち合いたい…。」  
 
そっとエリィが、ロイドの頬に口付ける。  
そして尚も心身の葛藤が続く彼の耳元で、その理性にとどめの一言をささやいた。  
 
「だから、私で…あなたを蝕む毒を…抜いて…。」  
 
 

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