***  
 
「おお?」  
「これは…。」  
「ぴかぴかー。」  
 
ロイドとキーア、ランディの三人は、たまたま同じ時間に起き合わせ、一緒に一階へと降りてきていた。  
はじめは日光による錯覚かと思ったが、よくよく見ると部屋においてある家具、窓、壁にいたるまで、見事に磨き上げられている。  
手入れの方法も完璧で、クリームで保護された皮のソファは美しい光沢を放ち、壁紙は傷一つ付けられることなく油煙が拭き取られていた。  
気配を感じ取ったのか、キッチンからエプロンドレスを身につけたアロネが出て来る。  
 
「おはようございます、ロイド様。今朝は良い天気ですわね。」  
「おはよう、アロネ。」  
「アロネのお嬢さんが、コイツを?」  
「ええ。宿を提供してくださった、せめてものお礼ですわ。」  
 
その後ろから、ティオも顔を覗かせる。ロイドが彼女を見つけると、いきなり睨みつけられた。  
 
「お、おはよう、ティオ。な、何か?」  
「いえ…。おはようございます。朝食はもう出来てますので、座って待っててください。」  
「おう!キー坊、手あらってこようぜ。」  
「はーい。」  
 
セルゲイは既に出かけているようだった。テーブルに料理が並び終わる頃に、エリィが起きてくる。  
 
「よお、お嬢。珍しく遅いじゃねえか。」  
「おはよう、皆。」  
「エリィ、どうしたの?元気ない?」  
「ありがとキーアちゃん。ちょっと寝すぎちゃったみたい。」  
 
椅子から乗り出すキーアを、エリィが抱えるように優しく抱きしめる。そのままロイドの前に座るエリィに、彼は少し遅れて挨拶を送った。  
 
「おはよう、エリィ。」  
「…。」  
 
エリィは口を開き、何かを言いかけたが言葉には出ず、返事の変わりに小さく首を傾けた。その様子にロイドが再び声をかけようとしたとき、アロネの腕が横から絡まってくる。  
 
「ロイド様、今日のお仕事はいつまでかかるのかしら?」  
「え、いつまでっていうか、仕事の量にもよるけど夜までかかるかな。」  
「まあ。それなら、今のうちに沢山食べて、体力をつけませんと。」  
 
アロネがグラタンをすくって、ロイドへ差し出す。  
 
「ロイド様、あーん。」  
「ちょ、まってくれ。そんなこと出来るわけないだろう!?」  
「未来の予行練習ですわ。照れなくてもよろしいのですわよ?」  
「予行練習って、だから昨日も言ったけどそんなつもりは…」  
「ふふ、ロイド様ったら。お顔が真っ赤。」  
 
相変わらず会話のかみ合って無い二人を正面に、しかしエリィには覇気が無い。ティオがその姿に、いつかの彼女を見ていた。  
 
「ロイドおきゃくさまと、なにのれんしゅうしてるの?」  
「ああ、そいつはだな、前言ってたパパとママっていうやつの」  
「ランディさん舌に張り付くほどよく冷えたグラタン、食べたいですか?」  
「ああなんてこった!たったいま忘れちまったよ。悪いなキー坊。」  
「えー。」  
 
銀器が食器を打ち、紅茶を注ぐ、それら朝食の音に機械音が割り込んでくる。  
 
「っと。端末か。」  
「新規の支援要請が着たようです。」  
「そういえばまだ今朝は確認してなかったな。軽く見ておこう。」  
 
しぶるアロネを定位置に戻し、ロイドが端末まで移動した。ランディがパンをむしりながら椅子の背中に顎を乗せる。  
 
「どうだー、ロイド。今日の散歩コースは。」  
「ああ、今見て…。」  
 
言葉が途切れた。  
 
「ん、でっかいヤマでも来たか?」  
「いや、どうやら今日の帰りは相当遅くなりそうだ。緊急の要請が十件以上ある。」  
「十件!?おいおい、とうとう二桁かよ。」  
 
ランディとティオが席を立つ。続いて通信機も鳴り響いた。  
 
「はい、特務支援課捜査官、ロイド・バニングスです。ああ、フランか。」  
「こりゃたしかに遅くなるっつーか今日中におわんのか。」  
「朝見たときにもすでに多めでしたけど、まさかここまで追加されるなんて。」  
 
端末を囲む三人の中央で、ロイドが表情固く通信を続ける。案件を目で読みながら、何度も確認をしていた。  
 
「住宅街のヘイワース家で最後だ。そうか、うん。解かった、何とか当たってみるよ。またあとで連絡する。」  
「どういうこった。」  
「昨日の夜のうちに、クロスベル中で盗難や器物破損等の小犯罪が発生したようだ。」  
「こんなに一度に…。」  
「被害状況で派遣する人員を決めるためにも、捜査の前哨として、簡単な聞き込みに協力してほしいらしい。  
あまりゆっくりとはしていられないな。」  
 
ロイドが時計を確認すると、素早く手帳に被害のあった場所を書き込んでいく。  
すでに彼の顔つきは、今巷で噂の的となっている敏腕捜査官のそれとなっていた。  
 
(昨日の事も、怒ってはくれないのね、ロイド。ただ真っ直ぐ前だけ見てる…。)  
 
エリィは始終席についたまま、その姿を見つめる。こんな時、彼の頭の中が事件一色に染まることは、良く分かっていた。  
 
(…今は、悩んでなんかいられない。しっかりしないと、彼を支えないと。)  
 
エリィが姿勢を正し、食器を持つ手に力を込める。再び彼らが食卓を囲んだとき、長閑な雰囲気は消えていた。  
 
「朝食が済んだらすぐに出かけよう。他の仕事もあるから、なるべく夕方前には一通り回っておきたい。  
アロネは留守番をしててくれ。なるべく外出も控えて欲しい。」  
「わかりましたわ。ロイド様。」  
 
若輩ながらも堂々たる威風で頼まれ、アロネは快諾とともにその眼差しにため息を漏らす。  
無茶を言うのでは、と懸念したロイドも、その了承に彼女が現状を理解しているということに安堵した。今この街のどこかに、既に「彼」が居る可能性もある。  
一同は早々と朝食を済ませ、支度を終えると、玄関に集合した。  
 
「ツァイト、アロネのことを頼んだぞ。キーア、いい子で待っててくれ。」  
「ウォン。」  
「うん。いい子で待ってる!」  
「ロイド様、いってらっしゃいませ。」  
「ああ。行こう、皆。」  
「んじゃいってくらー。」  
 
見送りを背に、四人は中央通りへと出た。ロイドが辺りを見渡しながら、もう一度時計を見る。  
 
「分担を決めよう。ランディとティオは、被害のあった部屋や箇所をしらべてくれ。簡単な痕跡程度は伝えたいんだ。」  
「ほいきた。ティオすけ、マヌケな忘れ物ごっそりせしめてやろうぜ。」  
「了解しました。」  
「エリィは聞き込みに立ち会って欲しい。気が付いたことがあったら質問をどんどん追加してくれ。」  
「ええ。解かったわ。」  
 
過剰に力んだエリィの声に、ロイドはまるで気付くそぶりを見せず、しかし若干の間を置いて通りを東へと歩きだした。  
 
「この件数は只事じゃない。しっかり調べていこう。まずは東通りのアパルトメントからだ。」  
 
捜査は順調に進んでいった。  
ランディとティオは現場の怪しい箇所をざっと見て周り、靴跡などの痕跡を捜索し、聞き込みで得られた情報と照らし合わせながら要所を押さえていった。  
質問の内容は被害にあった金品、時間、前後で出入りした人間だったが、エリィも良く気付いた点を述べ、より精密な情報を得て行った。  
 
「二日連続でこの街の観光した気分だな。」  
 
途中ランディがこぼしたのも無理はない。  
調査は文字通りクロスベル中に及ぶことになり、終盤に近づいた頃にはすでに正午も半ばを過ぎていた。  
 
「こうしてみると…どれも被害自体はたいしたことがありませんね。」  
「窓が割られたりもしてたが、盗まれたものは衣類だの化粧品だの、日用品がほとんどだしな。これじゃまるでガキの悪戯だぜ。」  
「犯行時間の推移から大体このルートでぐるりと街を回ってるな。同一犯の可能性は高い。」  
 
手帳を覗き込みながら、四人はヘイワース家に到着した。  
 
「ここが最後だな。」  
「大丈夫かお嬢、ティオすけ。かなり歩き回ったけどよ。」  
「ええ、なんとか…。」  
「街道巡りよりは、いくらか楽です。」  
 
呼び鈴を鳴らすと、ほどなく覗き口が開いた。  
ロイド達の姿を一目確認すると、慌てたように鍵を開ける音が聞こえる。  
やがて迎えてくれたのは、この家の主人、ハロルドだった。  
 
「ようこそ、皆さん。さきほど警察の方から連絡があって、あなたたちが来てくださると聞いて、お待ちしてたんです。」  
「こんにちは、ハロルドさん。早速ですが、いくつかお聞きしても良いでしょうか?」  
「ええ、どうぞ!遠慮なく中へ入ってください。お茶も用意してありますからそちらで。」  
「えっと、じゃあ遠慮なく。」  
 
エリィとティオの疲れた表情をちらと見て、ロイドは甘えることにした。  
奥の客間に通され、それぞれ席につくと、ハロルドのかけた声に、ソフィアとコリンも二階から降りてくる。  
 
「ようこそ来てくださいました。」  
「こんにちわー。」  
「お邪魔してます。」  
 
二人はハロルドの隣に座った。  
聞けばこの家ではこじ開けられた鍵と窃盗のみの被害らしく、現場を聞き許可を得ると、ランディとティオは調査のために席を離れた。  
一通り質問が終わり、ロイドが手帳に書き込んでいく様子を、ソフィアがどこか落ち着かない様子で見ている。  
先日から散々似たような光景を目にしたせいもあってか、エリィは気になって仕方なかった。  
 
「あの、ソフィアさん。ロイドが、何か?」  
「え?」  
「いえ…なにか、彼を気になさっていた様ですので。」  
 
ロイドが顔をあげる。ソフィアがためらっていると、ハロルドが変わりに話しだした。  
 
「実は、家内が夜明け近くに起きてきた時、庭の柵を越えていく人影を見たというのです。」  
「人影ですか?」  
「ええ、茶髪の若い男だったそうです。その姿が、言いにくいのですが…。ロイドさんとそっくりだったと言うのです。」  
「え?」  
 
ロイドが思わず間の抜けた声を出す。エリィもまさか彼の名前が出るとは思わず、またハロルドが冗談を言うような人間ではないだけに、耳を疑う。  
 
「昨晩は良く晴れていたとはいえ夜ですから、髪の色も、顔の形もしっかり見たというわけでもなく、見間違いだとは思うのですが。  
 声をかけようか迷ったほどだと言うので。」  
「そ、そんなに。」  
「私も、意識がはっきりしていないのだと、自分に言い聞かせましたけども…。でもどうか誤解なさらないで。」  
「もちろん私たちはロイドさんを疑っているわけではありません。ただ、気にかかることは全てお話したほうが良いかと思って…。気を悪くしたのなら申し訳ない。」  
「いえ、むしろ助かります。少しでも情報は多いほうが良いですから。」  
「そういっていただけると。」  
 
やがて調査の終了したランディ達と合流し、彼らは玄関でハロルドと握手を交わしていた。  
 
「捜査のほう、頑張ってください。」  
「ええ、必ずご期待に副えます。」  
「ばいばい、おにいちゃんたち!」  
「…お邪魔しました。」  
 
敷地から通り道に出ると、ランディが最初に口を開く。  
 
「で、ロイド。正直なところどうだんだ。」  
「いや、俺が一番驚いたよ。まったく心当たりが…。」  
「んー。怪しいな。たしかにここの奥さんは美人だからよ。」  
「はぁ?」  
「しかし夜這いの相手は選んだほうがいいぜ。それこそもっと当たり障りのない相手にな。」  
「どうしてそうなるんだよ、ランディ!」  
 
噴き出すランディにロイドがつっかかる。彼らがこんな冗談を言い合えるようになったのも、やはりあのIBCの夜が大きなきっかけとなっている。  
このやりとりですら、今のエリィには眩しかった。  
 
「ランディさん。先日の腹いせをしたくなる気持ちはわかりますけど…冗談を言っている場合ではないです。」  
「はっはっは、やあ、悪い悪い。にしても変な話だな。ロイドを見かけたなんてよ。」  
「ロイドさんが犯人だとしたら目撃者を残すなんて事はしないと思いますが。」  
「いえてるな。密室トリックとか得意そうだ。」  
「あのなあ。一応信用してもらってるって思ってもいいのか、それは。」  
「当たり前よ、なあお嬢。」  
 
話を振られ、エリィが思惑を語る。  
 
「そうね。あの人達が嘘をつくとも思えないけど、見間違いだとしか…。」  
「はは。ありがとう、エリィ。」  
「べ、べつにお礼を言われる事でもないんじゃないかしら?」  
「いや、やっぱりこういう時、信じてもらえるってのは嬉しいもんだよ。特にエリィには、さ。」  
「え?」  
 
いつも通りな予想外の言葉にエリィがたじろぐ。  
 
「だってそうだろう?俺と、君の故郷なんだ。そんな大事な場所を穢すやつだなんて、思われたくないよ。」  
「ロイド…。」  
「おーおー。すっかり蚊帳の外だ。」  
「…ですね。」  
「ああいや。もちろん二人を別扱いしてるわけじゃないよ!」  
 
あわててロイドが手帳をしまい、中央へと向き直る。  
 
「とりあえず一度、報告に戻ろう。まだ残りの仕事もあるしな。」  
(相変わらずごまかすのがヘッタクソだな。)  
(露骨すぎます。)  
 
やがて本部からの人員の派遣により、被害のあった家庭の本格的な捜査が開始された。いたるところに捜査官がたむろし、街は騒然となる。  
ヘイワース家の証言も、どこから流れたのか一部で噂となるが、ロイド達はそれに気付くこともなく、市外にも及ぶ残りの支援要請を片付けていった。  
 
「ああ、ロイド様、皆さん。おかえりなさいまし。」  
「ただいま、アロネ。」  
「あー、帰ってきたぜ。」  
 
夕食時もとうに過ぎたころに、ようやく支援課に戻ると、テーブルに座っていたアロネがいそいそと駆け寄ってくる。  
 
「キーアちゃんはお部屋でねんねしてます。あの子、本当に可愛らしいのね。おかげで退屈しませんでしたわ。」  
「留守番ありがとう。ツァイトは屋上か。」  
「ええ。皆様、もう食事は済ませましたの?」  
「そういや喰う暇もなかったな。」  
「バスの最終便も近かったですしね。」  
「ちょうど良かった。簡単なものですけど用意しましたから、お持ちいたしますわね。」  
 
ほどなく暖かいスープとパンが食卓に並び、遅めの夕飯を取ると、それぞれの自由時間となった。  
流石に疲れたのか、エリィとティオは洗い物を済ませると早々に部屋へ戻り、ランディとロイドも稽古を取りやめる。  
分室のソファーで、二人はお互いの武器を交換し、手入れを始めた。  
これはお互いの武器の特性を知る為にと、ロイドが提案した事であり、毎日欠かさず行っている事だった。  
 
「改めて思うが、このトンファーってやつは万能だがリーチが短いな。ほとんど徒手空拳に近いんじゃねえか。」  
「そうだな。でも懐に入れば、それなりに格上の相手でもなんとかなるもんだよ。まあ、入るまでが大変なんだけどね。」  
 
お互いの得意武器を磨きながら、二人が会話を交わす。  
アロネはその様子を、先ほどロイドから強引に剥ぎ取った、上着のほつれを直しながら眺めていた。  
 
「フットワークの軽いお前にぴったりだな。調子が乗ってくるとたまにアホみたいなスピードになるのは、俺も初めて見るぜ。」  
「あれは、自分でも良く分からないけど、なんだろう。全身が燃えるように熱くなって、気が付くと周囲の時間がゆっくりに感じるんだ。ランニング・ハイに似てるのかもしれない。」  
「なるほどな。」  
 
ランディが手に取ったトンファーで構えをとり、縦に横に薙ぐと、半回転させて正面を突いた。  
 
「あまり無茶はするなよ、ロイド。」  
「え?」  
「お嬢がさらわれたときもそうだったが、あの時もなったんだろ。帰りの車の中じゃ死んだように眠ってたじゃねえか。」  
「確かにいつもはめまい程度だったんだけど、急に眠気が来たな。」  
「戦いのプロは、戦闘のオンとオフを自在に変えられるように訓練されてるもんだが、お前はまだ実戦経験も浅いんだ。その力は慣れるまで乱発するんじゃねえぞ。  
特に気分の高揚もなしに使ったら、それこそ意識不明になりかねねえ。」  
「そ、そんなに危険なものなのか?」  
「ああ。おそらくお前のそれは先天的な力なんだろうがな。使いこなせるまでじっくり慣れてくんだ。いいな。」  
 
研ぎ澄まされたナイフのようなランディの眼差しに、改めてその過去を垣間見る凄みを感じ取り、ロイドは無言で頷く。  
そのあまりに真剣な表情を、ランディはしばらく睨み、急に歯を見せ笑った。  
 
「ま、お兄さんの忠告はありがたく聞いておくもんだぜ?お前が今ぶったおれたら、最低でも十人ほど泣いちまうレディがいるんだからよ!」  
「まあ、皆に心配はかけさせたくはないし。せいぜい気をつけるよ。」  
 
背中を何度も叩かれ、態度のギャップに苦笑しながらロイドが応える。作業を終えたアロネが、その笑い声に誘われるようにこちらへきていた。  
 
「さ、出来ましたわ。ロイド様、ランディさん、楽しそうに何のお話をしてましたの?」  
「あー、野郎と野郎の野暮な話ってやつですよ!このあと歓楽街にでもくりださねえかっつー類の…」  
「まあ、ロイド様。わたくしというものがありながら。」  
「いや、してないからそんな話。」  
 
談笑の後、ランディはロイドからハルバードを受け取り、二階へとあがっていった。ロイドがトンファーをしまいながら、残ったアロネに問いかける。  
 
「…何をしてるんだ、アロネ。」  
「うふふ。やっと二人っきりになったんですもの。夫婦のスキンシップの一環ですわ。」  
「夫婦でもないしスキンシップもしないってば!」  
 
膝の上に乗っかってくるアロネをかわしながらロイドは続けた。  
 
「それよりも君に聞きたいことがあるんだ。シェバリエについてなんだけど。」  
「例の脱獄犯の事ですわね。」  
「ああ。プライド高いって言ってたけど、どういうことなんだ?」  
 
ロイドの本職の声色に、しだれかかるのを諦めアロネがその隣に座りなおす。  
 
「シェバリエというのは、私の家にいた時の名前ですわ。その姿ではおとなしくて掴みどころがなかったのですけど。  
隻眼の発破工員としては、ピデロという名前でしたけど、彼については色々と問題があったのを聞いてるのです。」  
「問題?」  
「ええ。それはもう、異常なほどに。」  
 
ピデロは火薬に関する知識が豊富で、優秀な工員だった。ただその言動がどれも鼻にかかるもので、仲間うちの評判はあまり良いものではなかったという。  
ある日彼のヘルメットに水袋がしこまれていて、それを被ったピデロは驚き悲鳴をあげた。その様子を他の作業員がせせら笑う中、彼は実行犯を聞きだす。  
名乗り上げた者につかみかかると、水瓶に頭を押し込み、あやうく溺死させるところだったという。  
 
「これはほんの一例に過ぎませんけど、どこか子供じみた面があったようですわね。  
自分の仕事に文句をつけられる事も嫌ってましたけど、相手にされた仕打ちをそのまま仕返さないと気がすまないようですわ。」  
「なるほど。」  
 
ロイドが顎に手を添える。なにかを探るように目を泳がせる彼に、しばしアロネも沈黙する。  
 
「わかった、ありがとう。参考になったよ。」  
「お役に立てて幸いですわ。それじゃあ…。」  
 
顔をあげたロイドに、アロネが唇を差し出した。  
 
「な、なんだい?」  
「ご褒美を下さいまし。」  
「ご褒美って…ちょっと待った!」  
 
そのまま迫ってくるアロネを止め、ロイドが席を立つ。  
 
「もう時間も時間だし、君の部屋まで送っていこう。それで勘弁してくれ。」  
「むー。腕を組んでくださるなら妥協しますわ。」  
「はは…ありがとう。」  
 
差し出された手を戸惑いながらも優しく引き、ロイドはアロネをエスコートする。  
女性の肌を何度も押し付けられては、ロイドの若さとしてはたまったものではないが、それよりも彼にはもっと重大な問題があった。  
 
「なあ、アロネ。一度真面目に話しておきたいんだ。」  
「なんですの?」  
「君が言う、結婚の事なんだけど…」  
 
三階に登ったところで、彼にしては精一杯の説得を開始するつもりだったが、場所が悪かった。窓の外を眺めていたエリィと出くわしてしまう。  
 
「え、エリィ!?」  
「ロイド…結婚って、何の話?」  
「いや、違うんだ。今はその、彼女だけに伝える事があって…。」  
「あら、わたくしだけに?じゃあ今からお部屋でたっぷりと聞かせて欲しいですわ。」  
「たっぷり聞かせるような話じゃないよ!」  
 
アロネは彼の慌てる姿を堪能し、満足したようにその腕から離れると、部屋のほうへと後ずさった。  
 
「ふふ、じゃあ今度是非、お聞かせ願いますわ。わたくし、お先に失礼いたしますわね。ありがとう、ロイド様。」  
「ああ、アロネも、いろいろありがとう。」  
「エリィさんも、おやすみなさい。」  
「おやすみなさい、アロネさん…。」  
 
エリィに挨拶を告げながら、その側を素通りするときに、アロネが小さくつぶやく。  
 
「あくまでフェアに、ですもの。今なら、二人きりになれますわよ?」  
 
彼女はそのまま、自分の部屋の扉を開き、もう一度こちらに手を振ると、その向こうへと姿を納めた。  
二人はしばらく黙りこむ。お互いの顔を見るのもためらうように、床や壁に視線を逃がしている。  
 
「なあ、エリィ…。」  
 
ロイドがおそるおそる声をかけると、エリィは返事をする変わりに、彼のほうへと頭を下げる。  
 
「ロイド、ごめんなさい。」  
「へ?」  
「昨日の、その、デザート…。」  
 
ぽつりとつぶやく言葉に、しかしロイドは顔を緩ませた。  
 
「や、そんなことか。まったく気にしてないよ。結構いけたしね。」  
「でも…。」  
「俺にも原因があったわけだしな。でもなきゃ、エリィがデザートを失敗するなんて、まず無いよ。」  
 
エリィは今日のロイドの言葉も思い出し、その胸に飛びつきそうになる。だが、何故かそれが出来ない空気が、彼にはあった。  
アロネとの会話の事もあったが、何処と無く彼の仕草が自分を避けている気がする。腕を組んだロイドを見るのは、滅多に無いことだった。  
 
「でも今日は大変だったな。あの数もさながら、まさか俺が目撃証言にあがるなんて。」  
「そうね…。」  
 
会話が続かない。エリィは言葉を紡ごうとすればするほど、絡まる鎖に心を縛られていき、そのもどかしさに張り裂けそうになった。  
だんだんと重い空気を吸うのも辛くなり、涙をうっすらと浮かべてしまう。  
 
「私、そろそろ寝るわね。ロイドも早く休んだほうがいいわ。」  
 
逃げるようにノブに手を掛ける。彼女は今一刻もはやく、この息苦しさから開放されたかった。  
 
「エリィ!」  
 
突然の叫び声に、扉を開く手が止まる。振り向き見た彼の顔も、眉間がしわくちゃになっていた。  
エリィは、こちらに手を伸ばしたまま、明らかに豹変した彼の態度に、思わず岩のように動けなくなる。  
 
「どうしたの?」  
「エリィ、俺は…」  
 
ロイドがエリィの両肩に手を置く。久しく無かった彼の接近に、エリィは反射的に身をすくめてしまう。  
 
「ろ、ロイド?」  
「俺は、君の…君の料理、楽しみにしてるから。」  
「え。」  
「いや、君が次の当番の時、楽しみにしてるよって意味で…。君の料理を。」  
 
やけに気合の入った剣幕のわりに、拍子抜けする事を言われ、しばしエリィはあっけにとられる。  
ロイドも頑張った顔もそのままに、困惑の色を浮かべていた。  
 
「ん…ロイド…えりなさぁい。」  
 
声とともに、突き当りの扉を開き、キーアが隙間から顔をのぞかせる。眠そうに目を擦りながら、裸の足音を立てて、おぼつかなく歩いてきた。  
慌てて二人してかけより、その身体を支えると、ロイドが彼女を抱き上げる。  
 
「起こしちゃったか、悪いな、キーア。」  
「ごめんね、キーアちゃん。」  
 
目をしょぼつかせるキーアを、彼はあやす。エリィもその乱れた寝巻きを調え、優しく髪をなでた。  
共にいつもの習慣故に自然と出た行動だったが、キーアを挟んだ姿に、エリィは以前セシルの暴想により三人が家族に仕立て上げられたのを思い出す。  
愁眉の彼女に、ロイドは目を合わせ狼狽し、キーアを抱えなおす。  
 
「じゃあ、俺はキーアと部屋に戻るよ。エリィも、おやすみ。」  
「うん…おやすみなさい、ロイド。」  
 
そうして彼は、まるで逃げるように二階へと退散していく。人気の無くなった廊下で、エリィはしばし呆けたように立ち尽くし、部屋へ入った。  
矛盾だらけの彼の言動に戸惑いながらも、彼女はロイドが肩に残した感触を両手に抱きしめる。  
 
(ロイド…本当は何を言うつもりだったの?)  
 
彼がとっさにあつらえたのであろう不自然な行動が、彼女の脳裏に鮮明に残っていた。苦悶ともとれる表情がどこか痛々しい。  
しかし彼女は、悲観に包まれながらも、どこか喜びを隠せずにいた。彼は、かつて自分を救いに来た時も、似たような表情をしていた。およそ想像のつかないほどに情けの無い顔である。  
ロイドの見せた弱みが、エリィに決心を思い出させる。彼女もまた、自分自身に誓っていたのだった。温もりから痛みまで、全てを与えてくれた人に対する、ひとつの決意を。  
 
開かれた瞳には、一等星の如き輝きがあった。  
 
 

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