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不幸中の幸いと言うべきか、鋭く研がれた小さなナイフは、ロイドの手の甲から入り、骨を綺麗に避けて刺さっていた。
簡単な治療を支援課のビルで受けるだけに留まったのは、気絶のその理由も、寝不足からくるものと判断された為だ。
「目が覚めたら栄養のあるものをしっかり摂っていただければ、全快は直ぐですよ。」
「ありがとうございます、リットン先生。」
「いやー、皆さんに先生って呼ばれると照れますね。じゃ、私はこれで。」
お辞儀をし、緊急で駆けつけた医師は、部屋を出た。安眠の妨げにならぬよう、関係者一同もその後に続く。
アロネの部屋のベッドに寝かされたロイドの寝息が、時計の秒針と静かなアンサンブルを奏でていた。その掌には包帯が巻かれている。
「それにしても俺達の役者っぷりも捨てたモンじゃないな。」
一階のリビングに降りたところで、ランディが愉快そうに言う。
今回の犯人を騙す形での捜査には、感づかれることが最も恐ろしいリスクだったが、彼らは見事それを乗り切った。
「これまでも色々似たようなことしてましたから、慣れてしまったのかもしれませんね。」
「ああ。それにしてもロイド、いつのまにキーアにまで仕込んでたんだかな。子供は正直者だからよ。やっこさんもそれで信じたんじゃあねえのか?」
「え、なあにランディ?」
「ほら、ロイドが夜な夜などこか行ってたってやつよ。迫真の演技だったぜ。」
「えんぎ…?でも、ロイドほんとうにどこかいってたよ?」
「おいおい。もう良いんだよキーア。全部終わったんだ。」
本当なのに、と顔を膨らませるキーアの頭を、ランディがかき混ぜながら笑う。
「それで、課長はいつロイドさんから説明を受けていたんですか。」
「ん?なんの話も聞いてねえよ。」
「え?」
「お前らが妙な遊びをしてたからそれに付き合ってやっただけだ。」
「本当に、それだけですか?」
「クク、俺をカヤの外に追い出してくれるとはやってくれるぜ。おかげで逮捕するときは遠慮なくいけたがな。」
そうして、彼はビルを後にし、捜査官の波に消えていった。
「部下が部下なら、上司も上司だな。」
「ドノバンさん…。」
「やっほー。ティオちゃん。」
「ロイドのやつはセルゲイをあえてハブることでリスクを背負ったんだろうよ。何かあれば警察全体の責任に発展しかねないからな。」
「そのわりに妙に落ち着いてましたよねえ。これも捜査官の勘のなせる業ってやつでしょうか。」
「フン。どうだろうな。」
レイモンドが首を傾げながら、突き進んでいくドノバンの後についていった。
ティオは後で腰掛けるツァイトの頭を撫でながら、小さなため息をつく。
このあと受ける煩雑な質問攻めを思い、その返答をあれこれとシミュレーションしていた。
その思考を遮るように、何度もロイドの掌の傷が思い浮かぶ。
(完全に、気を失っていたはず。)
彼女もランディと共に、即座に彼の元に駆けつけていた。
背を向けていたとはいえ、彼女の鋭敏な五感は、彼に意識が無かったことを告げている。
(それなのに…。)
エリィに届かなかったナイフ。
疑問を浮かべ、推理をすすめ、しかし彼女はその行き着く場所に足を踏み入れるのを拒否した。
(今更ですね。)
そしてその度に、嘲笑が漏れた。
「あ、皆様。ここにいらっしゃったのね。」
やがて二階でカウンセリングを受けていたアロネとエリィが降りてくる。
彼女達はメンバーを見つけると、その輪に加わった。
「おーう。その様子を見るにたいして必要じゃなかったんじゃないか。」
「ふふ、こう見えてもそれなりの厄介ごとには直面してきましたもの。」
そうして微笑むアロネだが、やはりその顔には陰りが見えた。
「皆様には、謝らないといけませんわ。あのお店で言ったことを…。」
「ああ、いいのいいの。気にしてねえよ。」
「当然の反応です。」
「そうですけども、わたくしの気が済みませんわ。本当に、ごめんなさい。」
アロネは顔をあげ、ひそめた眉もそのままに告げる。
「それで、皆様にお願いがありますの。」
振り返るアロネと、エリィの目が合った。
再び街に風が吹く。
わずか一日をして、噂の的に突きつけられた矛先は一部を除いて賞賛の声と変わり、連続窃盗犯、放火犯の完全な沈黙は、人々に安息を与えた。
一部を除いて、というのは、過程において生じた問題に対する批判であり、その責任を問うまでは発展しなかったものの、セルゲイは代表として叱責を受けることになる。
もっとも、彼の監督不行き届きは今に始まったわけでも無く、狐は苦々しげに髭を撫でるのだった。
爆弾騒ぎは朝日に溶けて消え、それが幻だったと錯覚させるほどに、クロスベルは日常へと戻っていった。
「え、じゃあ俺は丸一日寝ていたのか!?」
「そういうこふぉいなるな。」
お見舞いとして届いたリンゴをほおばりながら、ランディが言う。
彼らは皆ロイドが目を覚ましそうというキーアの嬉々とした叫び声に、アロエの部屋に集合していた。
「良かった、本当に良かったですわ。」
「あ、アロネ…エリィ。怪我は無いのか。」
「ええ。おかげさまで。」
「そうか。っつ…これは無事じゃ済まなかったのは、俺のほうだったみたいだな。」
ロイドが右手の包帯を見て苦笑する。
その仕草は、周囲に様々な表情の変化を与えた。
無論彼はそれに気付かない。抱きついてくるキーアを優しく左の腕で抱きかかえ、鼻先をこすりつけてくる無邪気な愛撫に身を任せていた。
「まあ安心しな。全部終わったよ。俺としては楽しかったぜ。またロイド作詞の一幕するときは遠慮なく言ってくれ。」
「…ランディさんの演技にはなにやら日ごろの鬱積が篭っていたように見えましたけど。」
「はーっはっは!さーてお兄さんがうまーい飯つくってやるよ!」
ランディがリンゴの芯をしゃぶりながら一階へ降りていく。
「今回は名目もあるのですから、今のうちに休んでおくと良いかと。それも、リーダーの仕事です。」
「あ、ああ。ありがとうティオ。」
彼女も部屋を後にした。
「その、二人とも…。」
「良いのです。ロイド様がご無事なら、それで。」
「そうよ。心配したんだから。」
眉間にしわをたくわえるロイドを慰め、二人は立ち上がる。
「私も、お茶をいれてくるわね。」
「わたくしも。ロイド様、どうか養生なさってください。」
「ああ。そうさせてもらうよ。」
「おやすみなさい、ロイド!」
残りの一同も部屋を去る。
「まいったな…ある程度自己管理はしていたつもりなんだけど。一日ごっそり寝て過ごすなんて。」
ふとベッドの下を見ると、ツァイトがうずくまって寝ていた。
「はは、一応守ってくれてる、のかな。」
返事は無く、その尾が左右に二度、振られただけだった。
***
――明日になれば貴方は、発ってしまう。
「ん…。」
――どうして?わたくしの事が…お嫌い?
「む…む。」
――お願い!どうかわたくしを…
「…んんんっ!?」
「ロイドさま。」
ロイドが目を開けると、眼前にアロネの姿がぼんやりと浮かんでいた。
ぼんやりとは一瞬の事で、直ぐにその鮮明な全様が飛び込んでくる。そのほとんどを濡れた磁気のように艶を帯びた肌の色が占めていた。
「アロネ?こ、これは一体…。」
「やはり、まだ充分の休息ではないのですね。わたくしがこうしてお待ちして、一時間目覚めないのですもの。」
ロイドを四肢で跨ぎ、はだけた前を隠そうともせず、アロネは彼を真っ直ぐに見つめていた。
状況の整理が出来ないままうろたえる様に、くすりと微笑む。
「変わってませんのね。思い出しますわ…。一年前もこうして貴方にお情けをと。」
「ああ…いや、それはともかく一時間も?いそいで服を。」
「ロイドさま、お願い。」
焦るように、アロネはロイドに抱きついた。
柔らかな重みが胸にかかり、ロイドの腕を止める。それは抱きつくというよりは、しがみつくといったほうが正しかった。
「どうか、わたくしを…抱いてくださいませ。」
この時、支援課のビルを、三階を中心に異様な緊張感が支配していた。
二階の部屋には、ランディがくつろぎ、一階ではツァイトがキーアの遊び相手をしていた。
セルゲイが居ないのはいつもの事だが、この雰囲気の異常さは、一階玄関から入っても感じ取ることが可能であろう。
事件を終え、アロネはお願いがあることを告げ、こう続けた。
「わたくしとロイド様に、二人でお話する時間を下さいまし。」
ランディ、キーア、そしてセルゲイからすれば、何故改めて今頃とも思えるものだったが、女性陣は流石にその意味を汲み取れないほど鈍感ではない。
エリィはもとより話しをつけてあったのだろうか。穏やかではないにしても承諾していた。
しかしあと一人の表情は、瞬間明らかに不満を浮かべたことは、誰にも悟られていない。
「アロネ…。」
「一年前のあの日からずっと、この気持ちに変わりはありません。愛しています、ロイドさま。」
見つめあう二人の影が、ベッドランプのほのかな灯りにより、しかし鮮明に壁に映し出される。
その距離は徐々に縮んでいった。
そのアロネの部屋の壁一つとなり、即ちティオの部屋に、愛を育もうとしている二人の部屋側に、ぴったりと背中をつけて座る来客が居た。
「…お疲れなら横になったらどうですか。エリィさん。」
顔を横に逸らし、耳を立てようとしていたエリィが、ハッと向き直る。
「い、いいえ、いいの。これでも十分楽だから。ごめんなさいね急に。なんだか話し相手が居ないと落ち着かなくて…。」
「…別に構いませんけど、お話をしていても落ち着かないみたいですね。」
エリィは先ほどから髪をなぶり足を摺り寄せ、それはまるで雨に踊る百合の花のようだった。
その姿に、ティオは確かな不快感を覚えていた。
彼女はロイドの掌の傷の意味を理解していないのではないか、だからこんな彼女らしからぬ行為に出ているのではないか。
いつしか疑惑は嫉妬を混じえ、怒りへと代わる。
深淵に渦をまきはじめたその怒りは、顔を出すのを待ち構えながら水面を揺らす。
「そんなに気になりますか。お隣さんが。」
「そういうわけではないけど…。」
「ご安心ください。ロイドさんはにぶちんもびっくりの、超一級のにぶにぶですから。それに二人の会話は聞き取れますから大事に至れば把握できます。
前の事件が解決したときの夜だって…」
「えっ…?」
ティオはしまったと口を塞ぐ。いつの間にか渦は表に至り、言葉として出ていた。
それが衝動的な感情であれば、ティオにはありえない失態だった。エリィのほうを見るのがためらわれ、彼女は顔を伏せ、続ける。
「…ですから、気にしなくても大丈夫です。盗み聞きが得意なのは、私一人で十分です。」
吐き捨てるように言い切る。
耳を塞ぎたくなるように頭が鳴り痛んだ。浮かぶのは、居場所が消えるであろう事に対する後悔、そして純粋な恐怖だった。
伏せた顔から、光の感触が消える。彼女は体をこわばらせ、歯を噛み締めた。
「……?」
頬に飛んでくるであろう衝撃は、まったく違う感触として彼女に届く。
「エリィ…さん?」
「ごめんね、ティオちゃん…ごめんなさい…。」
エリィが謝っている。それが何故なのかティオには理解できなかった。
おいたをしたのは自分であり、それは情事の盗聴という、世間ではおよそ許されないことであり、それを暴露した自分に待っている結果は、痛みのみのはずだった。
「どうして、謝るのですか?理解できません。」
「アロネが言ってたの。ティオちゃんが、ロイドの事を好きだって…。」
ティオの顔がみるみる朱に染まる。
「ち、違います。そんなこと、真に受けないで下さいっ。」
「私だって、根拠もなくこんなこと言わないわ。意識して気づかなっただけで、思い当たるフシは沢山あるもの。
だから今解かったの。ティオちゃんの気持ち。」
「なんでそう言い切れるんですか…。」
エリィは腕の中で、小さな体が震えるのを感じ取りながらも、続ける。
「ティオちゃんは、出会ったときからすごく可愛くて、素敵だったわ。でも、最近はその比じゃないもの。」
「…。」
「嬉しかったり、怒ったりしたときも、顔に良く出るようになったわ。さっきみたいに。
それが誰のせいなのか…考えないようにしてきたけど。」
自分の心のうちを見透かされることほど、気分の悪い事はない。
ティオは渦に飲まれたままの自分を意識しながらも、抑えられずには居なかった。
「それと、謝ることと何か関係があるんですか?。」
「私がティオちゃんだったら、耐えられない。ティオちゃんだって、あの日のロイドが普通じゃなかったことは、気づいていたでしょう?
私は舞い上がってしまっていたの。あなたの気持ちも考えないで…。」
「…そうだとしても、どうして…」
ティオがエリィの腕を押し戻し、真正面から見つめる。
「どうして、ロイドさんの事を信じてあげられないんですか?あの人は…あの人は本当にエリィさんの事が好きなんです!」
「ティオちゃん…。」
「そうじゃなければ…あのナイフだって…。」
エリィはまだこの週の疲れが抜け切っていない表情で、それでも精一杯に微笑む。
「解かってるの…ロイドが、守ってくれたことの意味。信じていない訳では、けっしてないけど、万が一ロイドがアロネさんと、その、そういう事になっても、止めるつもりはないわ。」
え、とティオが声にもならぬまま驚きの表情を浮かべる。
「だって、私にとってもそうなように、彼女にとって、大事な存在なんですもの。一年越しの想いを邪魔をする権利は、今の私には無いわ。」
「…。」
「でも、現実を受け入れるために、直接自分の耳で確かめたかったの。ただ、それだけ…。だからこんなこと…。
笑っちゃうくらいに、独りよがりだけど。」
「…エリィさん。」
その時ティオの耳に届いたのは、エリィの告白だけではなかった。
「…エリィさんなら…きっと、大丈夫です。」
「…どうしても、抱いていただけないのね。」
「ごめん。アロネ。君が嫌いなわけじゃないんだ。」
ロイドはアロネを抱きしめたまま、天井を見つめていた。
「昔言っていた、想い人が、見つかったからですの?」
「想い人…そんなことも言ったっけか。」
「ええ、おっしゃいましたわ。顔もわからない、声も思い出せない、と。」
ロイドは苦笑した。アロネを抱きしめたまま上体を起こし、彼女の肩を掴む。
「そうだな、見つかったのかもしれない。いや、見つかったんだな。」
「エリィさん…なのですわね。」
ロイドは頷くかわりに、僅かに視線を傾けた。
「わたくしは…貴方の心に彼女がいることも、勝ち目が無いことも存じてますわ。」
「…。」
「でも、二番目以降でも良いの。事故と想っていただいても構いませんわ。一度だけ、どうかわたくしに、貴方への想いを…。」
「尚更、出来ないよ。」
ロイドはアロネの髪をそっと撫でる。
「君みたいに綺麗な人を、事故扱いで抱くなんて。それに…エリィは、俺にとっての、一番じゃないんだ。唯一人、なんだ。」
「…」
「この先、もし俺が好きになる人が出来るとしたら、それはエリィの別の一面に対してだろうし、浮気するとしても、雰囲気が違う、髪型の違う、エリィが良いんだ。」
そこまで言いながら、ロイドはかすかに照れたように頬をかいた。
アロネはしばらく悲しそうな瞳を彼にむけていたが、やがて笑みに代わり、自らの腕を抱きすくめる。
「ふふふ、やっぱり、あなた様は、わたくしの真の理想のお方ですわ。」
(本当の意味で…だからこそ、届かない…。)
「でも、君は俺の大事な親友だ。そうだろう?」
「え?きゃっ…。」
「だからこうして、一緒に寝そべって、昔のことを話すのなら、誰にも咎められないはずだ。」
ロイドは自分の毛布をアロネにかけると、背に手をまわし、自分の隣に横たわらせる。
「これくらいしか、俺には思いつかないけど、だめかな?」
アロネは少女のように笑い、すこし目尻を拭き、彼の肩に頭を寄せた。
「…だから、ずっとロイドさんの傍にいてあげてください。」
「…。」
「私が好きなロイドさんは、きっと、『エリィさんの事を好きでいる』ロイドさんなんです。」
「ティオちゃん…。」
「支援課の皆も、ランディさんも、ツァイトも、キーアも、セルゲイさんも…皆好きです。
エリィさんのことも…大好きですから。」
エリィは泣き出しそうな顔で、たっぷりの羽毛を持つ親鳥のように、ティオを包み込む。
その腕の中、くすぐったそうに眉をひそめ、しかしその体のふるえはすでに止まり、ティオは、心地よい温もりに身を任せていた。
そして、いつかのウルスラでの出来事を思い出していた。
あの時、心の暗闇に灯った、近く、大きく広がる、血の巡る月の光。
そのパールグレイは、月の表面ではなく、エリィより美しく流れる、髪の輝きだった。